平成29(2017) 10月~平成29(2017) 11月

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平成29年11月30日(木)「まだまだ人生は旅の途上です」
 若き日の恋は、はにかみて
おもて赤らめ、荘子時の
四十歳の恋は、世の中に
かれこれ心配れども、
墓場に近き老いらくの
恋は、怖るる何ものもなし

 1948(昭和23)年11月30日、歌人の川田 順が弟子の大学教授夫人とともに家出しました。当時、川田は68歳で、3年前から続いていた教授夫人との恋の行く末を悲観して、死を覚悟しての行動でしたが、養子に連れ戻されました。その後2人は、紆余曲折の末に結婚したそうです。その後、川田が詠んだ「恋の重荷」序章の「墓場に近き老いらくの恋は恐るる何もなし」から「老いらくの恋」が当時の流行語になりました。それに因(ちな)んで、今日は「シルバーラブの日」に制定されているそうです。



最後の同窓会

 ところで、昼神温泉から帰った翌朝10時頃でしたが何気なくテレビをつけました。片岡鶴太郎が同窓生らしい数人に、1億円あるので、現実から逃げたいみんなへ、この金を使って皆で暮らそうと提案します。最初は乗る気ではなかった仲間たちも、現実から逃避し皆で楽しくハワイで暮らす案に賛成します。しかし、リーダー格の市村正親は現実に戻ろうと言います。「みんなで暮らしても楽しいのは最初だけ、そこにはまた新たな問題が生まれる。同窓会はいっときだから楽しい、それで良いのだ。また、集まれば良いんだ!」と、かつてのリーダーの言葉にみんなも納得します。ドラマの終わり近くだったようで、観たのはこれだけです。ただ「同窓会はいっときだから楽しい、それで良いのだ。また、集まれば良いんだ!」このセリフが印象に残りました。後で調べてみると、平成29年度文化庁芸術祭参加作品の「最後の同窓会」でした。ドラマは50年ぶりに再会した小学校の同級生たちが、人生最大の大冒険。わけあり人生を歩んできた大人たちが、それぞれの思いを乗せた「奇妙な同窓会」からはじまる、大人のための泣き笑いロードムービーだそうです。

 人は誰しも、現実からの逃避願望を持ち合わせているのかも知れません。特に飲んだ時など気が大きくなるからか、不毛とも思える議論でおかしな雰囲気になることがあります。そんな時、私は「家でゆっくりしていれば良いものを、わざわざ飲みに来ると言うことは少しでも楽しみたいからなんや。この店でたまたま居合わせた者同士、表現は悪いけれど上辺だけでも楽しめればそれで良いと思う」。コミュニケーションのとれていない人には言いませんが、これが私の口癖なのです。

 つまり格好良く言えば、たとえ長年の友であっても、初めて出会う人であっても二度と来ない人生のひと時を共に過ごすなら、楽しい時間だった、素敵な出会いだったと思えるように真心をもって接したいと思う「一期一会の精神」を大切にしたいわけです。人生とは刹那・刹那(せつな:瞬間)の連続ドラマのような気がします。その昔、河島英五が笑福亭鶴瓶に提供した曲「酔い語り」の中に、次のような一節があります。久野 勲



♪赤い顔して差し向けられた
一杯の酒はひと昔
まして1日はひとしずく
昔話を聞いてくれるかい
いやいや手間はとらせない
ほんのつかの間の酔い語り
平成29年11月29日(水)「たかが10メートル、されど~」
 この時期になると真っ赤に紅葉していた楓が、そのの役目を果たしてほとんどその葉を落として代わって黄色に黄葉した銀杏が誇らしげに佇んでいます。そして、その銀杏の葉も散り始めていました。一方、109年の長きにわたる役目を果たし終わった浜寺公園駅舎。毎日のように公園から眺めていましたが、今朝はいつもより随分大きく見えました。近づいてみて改めて、動くはずのない駅が10メートルも動いたんだと実感しました。感慨深げに見ていると、新聞やテレビで知ったらしく「今日は何時頃に動くんですか?」と見学に来ていた人に聞かれました。「昨日10メートル動かして、次に動かすのは12月1日ですよ」から始まって、持ち前のお節介やきを発揮して懇切丁寧に説明しておきました。

 ところで今、おぼつかない断片的な記憶をつなぎ合わせながら「昼神温泉旅行」をまとめています。しかし、忘年会間近となったこの時期、締め切り期日などないにもかかわらず少なからず焦っています。それは、忘年会ですべてを忘れ去る前に何とかしておかないと、勝手にそう思い込んでる次第なのです(笑)。それにつけても、小手先の小技を使いながら楽しんでいるので、なかなか2日目の編集に入ることが出来ません。南信州の夜は長いようですね(笑)。久野 勲
平成29年11月28日(火)「ついに動いた!浜寺公園駅舎」

 110年前に建てられ、国の登録有形文化財になっている南海本線・浜寺公園駅(堺市西区)の旧駅舎を解体せずに建物ごと移動させる曳家(ひきや)工事が今日28日始まりました。12月18日までに10メートルずつ3回に分けて移動させ、近くの広場に移します。

 南海電鉄によると、1907(明治40)年に完成した洋風木造の旧駅舎は、東京駅などを手掛けた建築家、辰野金吾の事務所の設計。駅周辺の高架化に伴って昨年1月に閉鎖されるまで、私鉄では国内最古の現役駅舎でした。工事は重さ約130トンの建物を補強した上で基礎から切り離し、高さ70センチまで持ち上げた状態で開始。この日は作業員の「スタート」の声とともに2台の油圧ジャッキに押され、駅舎はゆっくりと地面に敷かれたレールの上を進みました。駅舎は同駅周辺の高架化工事が完了する平成40年ごろに元の位置に戻し、新駅の玄関部分として活用する予定です。それまでは、広場で市民の交流スペースとして利用されます。



 今朝も今朝とて秋晴れの中、編集途中の「昼神温泉」のことをおぼつかない記憶を呼び起こしながら、浜寺公園一周のウォーキングになりました。主に還暦から古希までの10年間の同窓会を詳細に記録した「浜中九期生HP」内の「卒業旅行」にBGMとして「修学旅行」を流しています。誰も言ってくれないとはいえ、自分で言うのも何ですがピッタリ合っているのではないかと自負しています(笑)。しかしながら、今回はちょっと違うかな?いや、だいぶん違うなぁと思いました。そこで、歩きながら即興で替え歌「終活旅行」を作ってアップしてみました。ユーモアをまじえながら格調高く?編集してきたまとめですが、最後になって晩節ならぬ末節を汚してしまったかなとも思っています。気にしなくても笑って許してもらえれば、まぁいぃか!ただ今回の旅行で唯一予想が外れたのは、チョッピリ雪の姿はありましたが「昼神温泉冬景色」ではなかったことでした。とにかく、まとめは徒然なるままに日々進化していますので、ご用とお急ぎでない方は時々覗いて見てもらえれば幸いです。久野 勲
平成29年11月27日(月)「何かと気ぜわしい師走は間近」

 昼神温泉旅行での楽しい二日間を有り難うございました。最後には、バスでご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。早速、ホームページのご案内を有り難うございます。トムソーヤの洞窟探検のようで、ワクワクしますね。ゆっくりと楽しませて頂きます。先ずは取り急ぎお礼まで。松戸市 斉藤太敬夫


 昨日はお世話になりました。これからも、よろしくお願いいたします。ところで、パソコンのアドレスは今はもう使っていないのでご迷惑をお掛けいたしました。お気に入りに入っていますので覗かせていただきます。ありがとう御座いました。冨美代


 先日の電話でも言いましたが、昨日は訳の分からないことが起こり、何度も再起動やらでイライラしました。原因は、保存場所をちゃんと確かめなかったことが大きかったです。それでアドレスを聞かれたな、誰と誰かな。もう良かったのかな。山田さんはパソコン持ってるようですが、パソコンではメールしない(出来ない)らしいです。携帯のアドレスは書いてますね。×××@×××です。斉藤君とはパソコンでメールしています。藤井さんはパソコンでのやりとりが多いです。そんなところかな。混乱すると、何からするのかややこしくなってしまい困りますね。永田新吾


 永田君には帰ってからも何かとお世話になり、ありがとうございます。今後ともこれに懲りずよろしく!実は今回の旅行を機に、参加者でパソコンユーザーとの約束もあり、4人に次のようなメールを送りました。エラーの連発で、結局2人しか届きませんでした。当日、帰りに寄った「つつみ」でも、○○さんがHPで見られないページがあると言われていましたよ。とのことでした。なお今年になって、事情で一部HPアドレスを変更しています。問い合わせていただいた友人・知人の皆さんには、引き続いて閲覧願えるようにしています。

 ○○様
 久野です。昨日はお疲れさまでした。早速HPアドレスを送らせてもらいます。

 まず「昭和小のHP」です。

 その「リンク」に私の「石津小HP」があります。そこから入ってもらって、そこの上にある「戻る」をクリックすると、私の「QTのHP」に入ります。その中の「交友録」は毎日更新している「ブログ」です。「別館」→「秘密基地」でパスワードは「*****」です。第1の部屋の上の「変人会」をクリックで今回の「昼神温泉行き」に出ます。

 なお、第1の部屋の下に「浜中九期生」があります。また第3の部屋には、浜中九期生のコーナーがあります。さらに、暇な時にでも第2の部屋も訪ねてみて下さい。いろんな物が雑多に入っています。良かったら「お気に入り」に入れておいて下さい。

 ちなみに、面倒くさいPW等設けているのは「ある問題」に抵触の恐れを避けるためですので、ご了承下さい。以上です。今後ともよろしくお願い致します。もし上手く行かなかったら知らせて下さい。久野 勲



 昼神温泉旅行も終わりホッと一息ついたところで、相次いだ元同僚二人の喪中ハガキを受けて急きょ何人かで再会することにしました。一人は69歳の前川さんと、もう一人は私より一つ年上の権田さんでした。どちらも良き飲み仲間であり、歌仲間でもありました。先日、前川さんと同い年の山田さんから6年振りに電話をもらいました。積もる話もあることだし、一度再会しようと言うことになりました。そして善は急げで夕べ、同じ飲み仲間だった吉岡さんに電話をかけてみました。ちょうど、飲み会に出かけているとのことでした。「帰りは遅いですね」「今日は早くから出かけましたので、そんなに遅くならないと思います」「それでは遅くても結構ですので、帰られたら電話をくれるようお伝え下さい」と伝言しておきました。その間に山田さんに電話を入れて予定を聞いておきました。日付が変わりそうだったので、寝床に入っていると吉岡さんから電話が入りました。「実はカクカクシカジカで・・・」みなまで聞かず「よっしゃ、つつみで会おうか」と言うことで、急きょ日・時を決めました。折り返し『「飲み会の件」12月1日(金) 午後6時 堺東銀座商店街入口付近(駅の階段を降りて信号を渡った所)緊急連絡は、カラオケ居酒屋「つつみ」Tel072-228-3821です。吉川さんにも連絡しておきます。久野」とのメールを送信しておきました。昔の思い出が走馬灯のように駆け巡り、なかなか寝付けませんでした。今回は残念ながら図らずも、二人の友を偲ぶ再会になってしまいました。敢えて湿っぽくならずに「♪共に過ごした青春~今では笑い話さ~もしももしもやり直せるならば~も少しうまくやりたいね~」河島英五の「旧友再会」を歌ってみよう、そんな気持になっています。今年もまたいつもの事ながら、人生悲喜こもごもの内に過ぎ去ろうとしています。
久野 勲
平成29年11月26日(日)「スマホとパソコン両立できれば」
 昨日は名古屋で一応解散となり、残り9名で帰りの特急まで「徳川美術館」の見学しました。帰りの特急では3人が途中下車、残りの大阪組み6名は難波地下街で夕食後解散しました。私は高野線で辻さんを堺東まで送った後、仕上げにいつもの居酒屋に寄りました。お母ちゃんに「家へ着くまで旅行が続いていますよ」などと、バスガイドさんのようなことを言われホドホドにして日付が変わる前に帰宅しました。一夜明けて、今朝はまず「昼神温泉行き」に関するまとめは、記憶が残っている内に早速取りかかりました。そうこうしている内に永田君から4便に分けて写真が届きました。取りあえず唯一の集合写真を編集して別館(秘密基地)にアップしました。今後、思い出しながら、参加者からの投稿などを待って随時追加更新していくことにします。完成を待たずに、その都度小まめに更新アップしていきますので、時々覗いて見て下さい。

 私は今年になってから、突然のZAQホームページサービスサーバー(100MB)の廃止などで、やむなく一部HPアドレスを変更しています。問い合わせがあった場合は、引き続いて閲覧してもらえるようにお知らせしています。今回の旅行を機に何人かの人達にメールで知らせました。アドレスは前と変わっていないとのことで、アドレス帳から送りましたが次々とエラーが帰ってきました。念のためにメモをしてくれた人には届いているようです。私の電話が分かっていると思うので、届かなかったら連絡してくれるでしょう。とにかく我々の年代は圧倒的に携帯(スマホ)ユーザーが多いのでパソコンユーザーの私とは、残念ながらなかなか上手くかみ合わないようです。しかし、携帯類はチンプンカンプンなので自分で試すことは出来ませんが、以前からスマホで閲覧してくれている友人も居ますが・・・。久野 勲
平成29年11月25日(土)「サンサン会で南信州昼神温泉へ」
 今朝の目覚めは。昼神温泉の懐石と炉ばたの宿「吉弥」の一室でした。昨日は、予定より少し早い目に最寄りの諏訪ノ森駅に行きました。駅の時刻表を見ていると、この駅に到発着する電車の時刻が合っていません。朝からダイヤが乱れているようです。取りあえず予定の一つ前の電車に乗りました。堺駅で降りて待合室で待っていると、すぐに空港急行が来たので乗り込みました。難波まで信号待ちとかでノロノロ運転でした。それでも大きな遅れは無く、難波には永田君・藤井さん・久野が到着しました。急いで改札近くのコンビニで弁当を買っていると、そこへ高野線組みの辻さんが合流して近鉄難波駅へ直行しました。そこで吉田隆夫君・赤井君・山田さん、鶴橋で藤原君、上本町で吉田隆次君、大和八木で吉本君が合流して一路名古屋へ向かいました。ここに居るはずの大仲君は、残念ながら急用が出来てキャンセルとのこと。

 10人が揃い車内の一角に陣取った我々は、早速思い思いに買い込んできた弁当を広げて少し早めの昼食タイムに入りました。名古屋に着いてから食べるつもりで弁当を用意していなかった人には、急きょそれぞれが少しずつ持ち寄ってカラフルで友情の結晶のような弁当を作り上げました。ひとしきり腹が膨れると、本格的に積もる話にに花が咲き始めました。昭和小が幅を聴かせるこの会なので(笑)、まず永田君が管理する昭和小HPの話題が出ました。今年3月に永田君の元に見慣れない一通のメールが届いたそうです。しかもスペインからだったので、腰を抜かさんばかりに驚いたそうです。スペインで浜寺が恋しくなりネット検索をしていたら母校のHPがヒットしたそうです。それを機に昭和小同窓生達との交信が始まり旧交を温め合っているそうです。

 なかなか良い話です。それが事もあろうに石津小の私までお相伴にあずかっているそうです。昭和小HPの起ち上げから協力させてもらっている関係で、私の石津小HPと相互リンクを張っています。そんな関係から、私のサイトも閲覧してもらっているとのことでした。面白いとの評価をもらっているそうなので、驚くと同時に喜んでいます。以前から時に触れ耳に入ってくる、いわゆる「隠れファン」が少なからず居てくれるんだなぁと、改めてやり甲斐を感じています。

 昭和小は元より浜寺小の山田さんは浜中のテニス部で一緒だったようで、いち早く交信しているそうです。そして、スマホを操作しながら当時の写真を見せてあげるとのこと。一生懸命に探しているようですが、どこに隠れたのかなかなか出てきません。どうしたん無いんか?早うせな名古屋に着いてしまうで!周りからヤイノヤイノ浴びせられて、ますます眉間に皺を寄せながら焦るばかりです。みんなが忘当てにしないで待っていると、突然「出たぁ!」「お化けやあるまいし何が出たんや?」大きなため息をつきながら「写真が」。に一同大笑い。「どの人か分かる?」と言いながらスマホを回覧していますが、みんな顔をしかめながら覗き込んでいるものの「違う」を連発されています。私もチラッと横目で見ましたが、小さな画面に集合写真です。「これは分からんわ、拡大できへんのか?」と言うと「そうやなぁ」と言いながら、指で操作しているかと思えば拡大しすぎたようで「アッ消えた、出てこない!」また1からやり直しです。スマホはおろか携帯を一切使ったことの無い私が言うのも何ですが、我々の年代でも十中八九は持っているようです。しかし、その多くは携帯の役目をさせてもらえていない携帯が多いようです(笑)。ちなみに、名誉のために付け加えておきますが、そんな中で山田さんはよく利用している方だと思います。

 そしてこの歳になると、話題の定番は誰もが一つや二つや三つは経験しているという「病気」です。思わず「病気自慢合戦やなぁ」との声が出るほどです。その内に「久野君はどっこも悪いとこないんか?」いよいよ順番が来たようです。ひょんなことからステージ3の胃の進行ガンが見つかって、摘出手術を受けてから来月で6年になるんやけど、幸いなことに「転位なし」が続いている旨を自慢してしまいました(笑)。そして何の話題だったか山田さんと話し込んでいると、車掌さんが寄ってきて「そみません、もう少しお静かに願えませんか」とのこと。えっ、そんな大きな声だったかなぁと思わず顔を見合わせて驚きの表情です。そして人差し指を口に当てて「シーッ」。乗り合わせた人からクレームが出たんでしょうか。以前別の団体で福井旅行で寄った永平寺でお坊さんに「静かにしなさい!」と怒られたメンバーがいました、まさか状況が違うとは言え、自分が注意されるとは本当に驚きました。それから静かにしていると、やがて名古屋に到着です。ここで、高野君と斉藤君が合流して全員が揃いました。

 ここで遠来の斉藤君、高野君が合流して12名が勢揃いしたところで、昼神温泉への名鉄バスに乗り込みました。さすがに長野県です、目的地近くになると雪が降ってきて、道路脇にはすでに積もっていました。久野 勲
平成29年11月24日(金)「旅の思い出、昼神温泉冬景色」

 南信州の伊那谷で飯田市の隣に阿智村というところがあります。 戦国時代、武田信玄が京に上る途中に病のために亡くなった地でもあり、多くの武将が通ったことで知られています。ところで、この村には昼神温泉があり、多くの観光客で賑わっております。昼神という名は、日本書紀に記されている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の説話に由来しています。信州から美濃へは、今は中央自動車道の恵那山トンネル通過で容易に行けますが、昔は神坂峠越えという大変な難事でした。この険しく霧の多い山路をわけ入って、峠で日本武尊が食事をとっていたときです。荒ぶる山の神が、尊をくるしめようと、白い鹿となって立ちはだかりました。尊が噛んだにんにくを投げつけたところ、鹿の目にあたり鹿は倒れました。 その後この坂を越える者はにんにくを噛んで、人や牛馬に塗りつけて峠越えをする風習となったそうです。 ちなみに、にんにくは、古くは『蒜(ヒル)』といわれていたので、それを噛む習わしから『ヒルガミ』の地名となり『昼神』と伝承されるようになりました(阿智村史)。

 「昼神温泉」開湯は比較的新しく、1973(昭和48)年のトンネル工事の際に偶然温泉が湧出した事がはじまりです。「国鉄・中央(西)線」のトンネル工事でボーリングをしていた時に湧き出しました。その後、次々と源泉が開発され、現在まで第1号から第4号源泉まであります。源泉は集中管理されており、各温泉施設に配湯されています。歴史の浅い温泉ですが、実は戦国時代には武田信玄の隠し湯があったとの伝承も、江戸時代にこの地域に温泉が湧いていたとの記録もあります。久野 勲

平成29年11月23日(木)「暑さ寒さに自衛のための工夫」
 夏には、少しでも直射日光を避けるために朝1時間ほど早くウォーキングを始めるようにしています。これを「サマータイム」と称しています。そして、冬には少しでも強い陽射しを受けるように1時間ほど遅く出かけるようにしています。これを「ウインタータイム」と、いずれも自分勝手に称しています。

 本来、日本において「サマータイム(夏時間)」
は、太平洋戦争後の連合国軍占領期にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)指導下で公的に導入され、1948(昭和23)年4月28日に公布された夏時刻法に基づき、初めて実施されました。以後、毎年5月から9月まで夏時間が実施されることとなりましたが、残業増加や寝不足を引き起こすなどとして不評を呼び、1952年(昭和27)年4月27日の占領終了と同月28日の条約発効による日本の主権回復に先立ち、夏時刻法は昭和27年4月11日に廃止されました。日本で根付かなかった主な理由は、
  • 日本列島は東西に細長いため、東日本と西日本で日の出・日の入りの時刻に大きな差があり、全国一律にサマータイムを導入するには不適。
  • 日本は湿度が高く、日没後も蒸し暑いため、帰宅後の冷房需要が他国と比べて大きい(特に関東以西の地域ではそれが顕著)。
  • 日本の周辺国の多くはサマータイム制を導入していないので、欧米のサマータイムに合わせる必要性が薄い。

 その後、第1次小泉第2次改造内閣の小池百合子環境大臣が、2005(平成17)年に環境省の主導のもと、ネクタイや上着をなるべく着用せず(いわゆる「ノーネクタイ・ノージャケット」キャンペーン)、夏季に摂氏28度以上の室温に対応できる軽装の服装を着用するように呼びかけた。「クール・ビズ」という表現は、環境省の一般公募によって選ばれています。




 先日、永田君が来てくれた時の話です。結局行きつく話は、お互い「年々歳々物覚えが悪くなってくるなぁ」と相づちを打ち合っていたかと思うと「ところで久野君、昨日の晩ご飯を覚えているかな?」と来ました。「うむ、そんなこと急に言われても・・・分かった!生姜焼き定食や」。これには、ストーブで濡れた物を乾かしていた女房が「えっ?」。そこで、すかさず「昨日は、たまたま岡井君とやよい軒で食べたんで覚えているんや」と言うと、女房が「あ、そうや!」と頷(うなず)いていました。さらに「岡井君がホッケ定食を食べ、その後二人でデザートのチンチン電車でもらったどら焼きを食べたんや。腹いっぱいになった」。これで、この話は締めくくりました。

 堺東の「やよい軒」と言えば、2年前の5月のことです。堺市駅近くで、浜中九期生の同窓生・中島さんの演奏会があり、岡井・永田・久野の三人で行ってきました。終了後、時間が早かったので取りあえず徒歩で堺東へ出ました。途中、岡井君のリクエストで方違神社へ寄りました。そして「やよい軒」で夕食をとりました。メニューを見ながら永田君と「ホッケ」「サバ」も良いなぁと思案をしていました。結局、それぞれ違うのを注文して半分ずつ分け合いました。つまり「ホッケ・サバ定食」をいただきました。

 ところで先日岡井君から、人工ではなく生木のクリスマスツリーとして根鉢を含めた鉢底から葉頂点までの植物体の全長が史上最大だという「神戸港に富山県から運ばれたクリスマスツリーの高さ30mは、世界一の大きさで12月2日より点灯するようなので、これも予定に入ります」との報告を受けています。その木が選ばれたのは、巨木の里、富山県氷見市で見つかった推定樹齢150年、全長約30メートル、推定重量40トンの「あすなろの木」だそうです。毎年アメリカをはじめ世界中で報道される、あの有名な「ニューヨーク・ロックフェラーセンター」の巨大クリスマスツリーよりも大きな、世界一の高さとなる生木のクリスマスツリーです。

 単行本「木の名の由来 (東書選書)」によると、
そもそも、アスナロの木は古くはアスヒと呼ばれていた。ヒノキという言葉自体が平安時代以降のもので、それ以前は単純に「ヒ(桧)」と呼ばれていたのだが「アスヒ」という呼び名は明日桧と漢字を充てることが出来る。アスヒ、明日桧、明日は桧になろう、アスナロである。とのことです。久野 勲
平成29年11月22日(水)「パソコンとの長~いお付き合い」
 振り返れば、私の記念すべきPC第1号機は1989(平成元)年に購入したNECの「PC-9801RXⅡ」です。ちなみにWindows3.1以前の日本のパソコン市場はNECの独占でした。その後、日本IBMがソフトを工夫することで日本語表示機能のない海外製PCでも日本語が使えるMS-DOSを作りました。それがDOS/V機です。このお陰で、爆発的に一般家庭にPCが普及することになりました。そして私のDOS/V機第1号は、1996(平成8)年12月に購入したアメリカ・ゲートウエイ社の「GATEWAY2000」です。当時はご覧のように自分の顔を壁紙にして、しばらくの間両機を並べて併用していました(笑)。

NEC98     DOS/V

 以下に示すのは、年度別分類のOS(オペレーションシステム:PCを動かす ために基本ソフト)の推移です。私のPCにインストールしなかったのは「Windows Vista」と「Windows 8」のみです。しかし、これらの「Vista」と「8」も友人達のPCで一応は経験しています。

年 度 O S
  1992   Windows 3.1 
  1995   Windows 95 
   1996   Windows NT
  1998   Windows 98
  2000    Windows 2000
  2000   Windows Me
  2001   Windows XP
  2007    Windows Vista
  2009   Windows  7
  2012   Windows  8
  2015   Windows 10

 ところで話は変わりますが、今大相撲モンゴル場所?の最中ですが、ワケの分からない事件で世間を騒がせています。伏魔殿のような世界の中での出来事で私には関わりの無いことでござんすが(笑)、事件の発端に関してちょっと気になることが聞こえてきました。今のところ真偽のほどは不明ですが、モンゴルでは相手を侮辱する「最悪の言葉」が飛び出したとのことです。それが「ビスタ」だったとか。もともとビスタは、展望、眺望を意味するスペイン語だそうです。まぁいずれにしても、何があっても暴力はダメですね。

 <追伸>ここのところ、岡井・永田両君と話し込む機会があったので、当分ブログのネタには不自由しないだけの話題を提供してもらえました。しかし安心しないで、忘れ去らないうちにアップしなくては(笑)。久野 勲
平成29年11月21日(火)「ネット歴20年とはこれ如何に」

 昨日はビチャビチャのままで入ってしまい、申し訳ありませんでした。奥様にはいろいろお世話をかけ、帰りにはすっかり乾かしていただき、よろしくお伝え下さい。柿を持って行き、柿を食べてしまい何をしたことか。考えるに皮をむくのが面倒で、あまり食べないのだなと思いました。帰りにはカッパまでお借りし、至れり尽くせりですみません。ややこしい言い回しがあったのですが、24日は前の通りの時間でお願いします。これから精算の仕方を考えて書いたものにして、持って行くつもりです。まずはお礼まで。永田新吾



 
とりあえず、風邪の方が大丈夫だったようで何よりです。それでは24日には、よろしくお願いします。みんなで楽しく行きましょう。

 なお、昨日の情報によると西日本では11月20日、強い寒気の影響で山間部の一部で雪が降りました。大阪と奈良府県境にある金剛山(標高1125メートル)では、今季初めて山頂付近がうっすらと雪に覆われました。大阪府千早赤阪村によると、山頂付近の気温は午前4時ごろに零下1・8度を記録しました。午前中に雪が降り始め、午後0時半に約1センチの積雪を確認しました。初冠雪は昨年より26日早いそうです。久野



 ところで、今日は「インターネット記念日」だそうです。1969(昭和44)年11月21日、インターネットの元型であるARPAネットの公開実験が、カルフォルニア大学ロサンゼルス校・スタンフォード研究所・カルフォルニア大学サンタバーバラ校・ユタ大学の4か所を結んで開始されたそうです。ちなみに、私個人の「インターネット記念日」は1998(平成10)年7月1日です。当時の石津小学校同窓会新聞「かいらんばん」110号を紐解いて見ると次のように掲載しています。つまり、インターネット歴20年目と言うことのようで、改めて「驚き桃の木山椒の木」です(笑)。

 たち上がりましたか?ハイ立ち上がっています。誰ですか自分で立ち上がっているのは、そうではなくパソコンのスイッチを入れて画面を起ち上げるんですよ。先生、マウスが言うことを聞きません。そんな風にマウスを指で包み込むように持っては浮き上がっています、ちゃんと下に着けて使って下さい。年配の人たちを対象にしたパソコン・ワープロ教室では、こんな「笑うに笑えないような笑い話」が日常茶飯事のようにありました。

 世はまさにインターネット時代だといわれています。パソコンショップで「すみません、インターネット一つ下さい」というお客さんがいるそうです。まさに猫も杓子も‥・といったところでしょうか。そんな中、遅まきながらも、急にインターネットに興味が芽生え、5月末、日本橋でモデム・マニュアル・モジュラープラグ付電話線を買い求めてきました。ネットワークの仲介役をしてくれる、いわゆるプロパイザー(接続業者)には、リーガロイヤルホテル堺の九階で開設している「サクラ・ネットワーク」を選びました。いよいよ、7月1日から、わが家の「かいらんばん」編集室から世界へ羽ばたく?ことになりそうです。



 さて先日の続きになります。主夫としての顔も持ち合わせ二足の草鞋を履く岡井君の言うことなので、テッキリ「佃煮」の事だと思いました。ところが、よく聞いてみると「マツゲにつくダニ」のことでした。最近話題になっているそうで、ご覧のような顕微鏡で見た「マツゲダニ」で体長は0.1mm~0.4mmと小さいため肉眼で見ることはできません。20歳~50歳代では約5割、さらに60歳を超えると約7割の人が、まつ毛にダニが寄生していると言われています。主な症状で多いのは、目が赤く炎症を起こして「目がショボショボする、かゆい」「(目の)見え方が悪くなる、視力が落ちたような気がする」。放っておくと、まつ毛が抜け落ちて、まつ毛本来の目を保護する機能を果たせなくなるという。まつ毛は、ホコリや汗など目に入る異物を防ぐ役目を果たしています。私も含めて多くの人は、普段からまつ毛を清潔になど考えたことも無かった
と思います。でもこれからは症状が出たら目医者さんに診てもらった方が良いかも知れませんね。久野 勲


 <参考>私は時折り、子供の頃に聞きおよんだ「驚き桃の木山椒の木」など、諺ともダジャレともつかない言葉を使っています。どうやら、これらは本来の言葉の後に、調子を合わせたり、語呂を合わせたりした言葉を付け足したもので 「付け足し言葉」と言うそうです。あるサイトによると次のような言葉があるようです。

おっと がってん しょうちのす  おっと合点承知之 
おどろき もものき さんしょのき 驚き桃の木山椒の木
あたりき しゃりきよ くるまひき あたりき車力よ車曳き
なにが なんきん とうなす かぼちゃ 何がなんきん唐茄子かぼちゃ
おそれいりやの きしぼじん 恐れ入谷の鬼子母神
ありがたいなら いもむしゃくじら 蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨
こまり いりまめ さんしょみそ 困り煎り豆山椒味噌
なにか ようか ここのか とおか 何か用か九日十日
けっこうけだらけ ねこはいだらけ 結構毛だらけ猫灰だらけ
こまったこうやく はりばがねえ 困った膏薬貼り場がねえ
とんでも はっぷん あるいて じゅっぷん とんでも八分歩いて十分
うそをつきじの ごもんぜき 嘘を築地の御門跡
平成29年11月20日(月)「風邪を引いたらえらいこっちゃ」
 以前「たそがれ清兵衛」など山本周五郎原作の時代劇で共通点として、山形県庄内地方の「・・・がんす(ございます)」という方言を挙げました。さらに南下して、長野県では未だに「・・・ダニ(そうですよ)」という方言が使われているそうです。もちろん、わが石津にも、いわゆる石津言葉(方言)があります。全国津々浦々、それぞれの土地に根付いた独特の古き良き言い回しがあります。いつの頃からか、その多くは標準語化の波に飲み込まれ時代の流れと共に忘れ去られて行く運命にあります。

 国立国語研究所によると、そんなグローバル化(社会的・経済的に地域を越えて世界規模で結びつきが深まる)が進む中、世界中の少数言語が消滅の危機に瀕しています。2009年2月のユネスコの発表によると、日本語方言の中では沖縄県のほぼ全域の方言、鹿児島県の奄美方言、東京都の八丈方言が危険な状態にあるとされています。これらの危機方言は、他の方言ではすでに失われてしまった古代日本語の特徴や、他の方言とは異なる言語システムを有している場合が多く、一地域の方言研究だけでなく,歴史言語学、一般言語学の面でも高い価値を持っています。また、これらの方言では、小さな集落ごとに方言が違っている場合が多く、バリエーションがどのように形成されたか、という点でも注目されます。とのことです。



 ところで昨夜は、堺東で遠来の友と時を忘れ世間話に興じました。時折り「あ、又や、名前が出てこない」と必死に思い出そうとするものの出てこない。しばらくして別の話題の時に、突然「あっ、今頃思い出した」。もちろん私も例外では無く、最近富に物忘れが多くなりました。いろんな場で「これ面白いな、いただこう」と思っていても朝起きると、夢と同じで忘れてしまっていることなどよくあります。だから、箸袋などにメモしておいてもらうようにしています。昨夜は岡井君がメモしてくれていました。まぁ、そこんところはボチボチ小出しにブログことにします(笑)。



 一夜明けると「寒ぅ~」で目が覚めました。この分では長野はシバレルやろうなぁと思いながら、手袋を忘れずに出かけました。30分も歩くと体が温まってきました。今日は今年一番の寒さだと思いましたが、帰りには雪では無く小雨が落ちてきました。そして、帰り着くと次のようなメールが届いていました。



  昨日は電話をいただいた時に、うろたえたことを言ってすみませんでした。実は、淡路島の洲本へ行くのに、いつものようにYahooの路線で調べていたのですが、いつものように簡単に出てこなく、高速バスを自分で調べながら、何とかいくつかの時間割を出している最中でした。それで頭が混乱していて、岡井君の声や久野君の声が、こんがらがりました。いつも頭はこんがらがっていますけど(笑)。申し訳ありませんでした。遠方から見学に来るとはさすがは岡井君ですね。ところで、今日午後3時前かな在宅ですか(見ないかな)ジョーシンへ行きたいので、ついでに車(自転車)を伸ばそうかな。運動のためもありです。永田新吾


しっかり見ました。今日は居ますが、屋根なしの車で雨は大丈夫かな。
 実は夕べ、岡井君と話し込んでいる時に「ところで永田君はどうしているんかな」「そう言えば、ここしばらく音沙汰が無いなぁ。旅行前に風邪でも引いたのかな」そんなヤリトリの後、安否確認を兼ねて岡井君が電話をかけました(笑)。しばらく話していて私に変わりました。「どうしたん、最近音沙汰が無いけど」「いろいろ旅行のことで調べたりして」「まだ調べることがあるんかいな」「うん、他の会の幹事も頼まれたりして」「ところで長野行きは、当日の時間は前に聞いた通りでいいの」「え、行けるようになったん?」「えっ、行けるようにって?」「前に、都合で行けないと聞いていたから」「えっ、キャンセルの連絡しかなぁ?ちょっと待ってくれよ、俺は久野やで」「えっ、ごめん岡井君と間違えた」こんなヤリトリがあったわけです。三者三様、それぞれ似た者同士のようでした(笑)。

 そして、あいにく2時過ぎになって雨が降り出しました。これじゃぁダメだ、来れないでしょう。しかし、ヒョッとしたら電車の可能性もあるかも。しばらくしてピン・ポ~ン、まさかと思って出てみるとそのまさかでした。永田君が自転車の横でずぶ濡れになって立っていました。羽衣の辺りで降り出してきて、帰るに帰れず来てしまったとのこと。とにかく大事な時に風邪でも引いたら大変です。遠慮するのを無理矢理身ぐるみを剥いで、私のジャージを着てもらいました。女房も総出でストーブで乾かしました。落ち着いたところで時間も忘れ、いろんな話をしているうちに気がつけば5時近くになっていました。雨も上がり衣類もほぼ乾いたようです。日の暮れるのが早くなったもので「ありがとう。それじゃまた金曜日よろしく」「こちらこそ、気をつけて」夕暮れ迫る中元気に帰路につきました。久野 勲

平成29年11月19日(日)「やはり日頃の行いが大切ですね」

 「19日の件」 岡井・久野様  
 今Qちゃんのブログを見ましたが、明日浜寺公園に来ていただくのなら、13時からスタート、子供たちのメインイベントは13時半前からです。また、会場が狭く13時頃来ていただいても中に入れない(透明の壁を通じて外から見えない訳でもありませんが、多数の観客を予想しています)可能性もあります。後半の小中学生の音楽・演芸会を楽しんでいだくのなら14時でも結構ですが・・・。よろしくお願いします。濱野



おっと合点承知の助!
とにかく行ってみよう




 濱野君から時間的なアドバイスもらいました。今から出かけます。おかい



  今朝は昨日とは打って変わって、やや風は冷たいものの好天に恵まれました。濱野君の日頃の行いが功を奏したようです。寒さも思ったほどでは無く、さすがの冬将軍様も少し足どりが鈍ったようです。いつも約束の時間より1時間ほど早い目に行くという岡井君。遠方からとは言え早い出発のようです。それにしても8時前とは、懐かしい地元なので寄り道しながらなんでしょうか。なお昨日の箏(そう)の項で、画像の追加と説明の一部を訂正しています。

 そして、午後から会場に向かいました。1時頃に到着しましたが大変な人出でした。岡井君の姿は見えませんでしたが、何とか入場することが出来ました。来賓の竹山市長、南海電鉄の偉いさんは達はさておき、正面に廻って主催者である濱野清士連合会会長が挨拶しているところを1枚写してきました。濱ちゃんの勇姿を見届ければ、それで今日の私の役目は終わりです。

 外に出て遠来の友である岡井君を見つけました。とにかくチンチン電車に乗りたいとのリクエストを受けて、とりあえず乗り込みました。車内で私が堺市民の特典である「お出かけカード」を見せながら、これで終点まで行っても100円やと自慢しました。岡井君も負けじと神戸市民の特典カードを見せながら、これ使えるかな?そんなもん使えるわけ無いがなと大笑いしていました。すると岡井君の横に座った見知らぬご婦人が「神戸の方ですか」と話しかけてきました。横で聞いているとその人は3つほど年上で、昭和小学校出身だとのこと。いきなり先輩、と言うことになり話が弾んでいました。その人は石津で降りましたが、降りる時に「これどうぞ食べて下さい」とか言って何か置いて行きました。それは大きなどら焼き二つでした。取りあえず大小路で降りて堺東に向かいました。2時過ぎでしたが「腹減ったな」と言うことで中途半端な時間でしたが、以前にも入ったことのある銀座商店街の「やよい軒」で2時間ほど世間話をしながら定食を食べました。そして、同じ並びにある何とか言う店に入って、1時間ほど駄弁りながらコーヒタイムとシャレ込みました。この間に、いろんなブログネタを仕入れましたが、また後日にとっておきます。その後酒は飲まない、その代わり歌はうたわないという難儀な岡井君を見送った後、いつもの店へ向かいました(笑)。
久野 勲
平成29年11月18日(土)「過ぎゆく秋を惜しむかのように」
 夕べのことですが、神戸特派員から次のようなメールが届いていました。



ご無沙汰しています。11月に入り動き出しています。

11月10日

大の字の火床です    弘法大師が(まつ)られている(ほこら)
   
 会社のOB4名で紅葉見学をかねて京都東山へ哲学の道から大文字山へ登ってきました。凄い道のりに何度かギブアップ後輩に助けられ何とか頂上へ天気のいい日は大阪阿倍野ハルカスまで見えるようで最高の気分でした。15000歩で膝が笑いだしていました。

11月12日
 諏訪山で菊展と尺八、箏(そう)、三味線演奏会参加です、父が昔「都山流」の名前をもらい、宮城道雄さんと演奏をしたと聞いていました。その写真も沢山あり、宮城さん作曲の都踊の曲も中にありました。その舞台が目の前にあったので感激に熱いものが出てきました。この曲を演奏される9人の尺八の奏者と箏の音に感動する2時間でした。

 15日、USJに朝から家族4人で雨の中久しぶりに出かけてきました。この日は14000歩、まだまだ元気ですよ。

 19日
、ところで、先日のブログにご紹介の「濱野さん、駅舎が動く」を拝見しました。2時に浜寺公園に見学に行こうと思っています。

12月 2日
 
 今日(11/17)、神戸港に富山県から運ばれたクリスマスツリーの高さ30mは、世界一の大きさで12月2日より点灯するようなので、これも予定に入ります。おかい



 ご無沙汰しています。ところで、演奏会の写真を見ると「琴」かなと思いましたが「箏(そう)」だったんですか。同じ物なのかと思って調べてみました。私たちが一般的にコトと聞いて想像する楽器は「琴」ではなく、実は「箏」なんだそうです。「琴」と「箏」は、まったく違う楽器だとか。まさに「似て非なる物」なんでしょうか。ところで、お父様は尺八奏者をされていたんですか。演奏会は、さぞ感慨深かったでしょうね。YouTubeに「都踊り」の映像があったので送ります。

兎にも角にも、いつもの事ながら凄まじいばかりの行動力には参りました。何を食べたら、そんな元気になるんでしょうか(笑)。ところで、写真を見ると「琴」かなと思いましたが、そうではなく「箏」だったんですか。同じ物なのかと思って調べてみました。私たちが一般的にコトと聞いて想像する楽器は「琴」ではなく、実は「箏」なんだそうです。「琴」と「箏」は、まったく違う楽器だとか。まさに「似て非なる物」なんでしょうか。弦を指などで押さえて音階を変えるのが琴。張った弦をそのまま弾く(1弦に対して1音)のが箏。和琴は本来「箏」であるが、慣例に従って「琴」と表記する。結局、今イチよく分かりませんでした。河島英五の「てんびんばかり」を引用すると「♪何も解らない~何も解らない~何も解らないで僕はいる~」ですね。なお19日は、私も行く予定をしているので再会できるでしょう。


こんばんわ、早速「都踊り」ありがとうございます。今聞きながら行動をしています。”箏そうなんですね”。私も同じと思っていました。琴は弦を指で押さえますが、筝は琴柱(ことじ)を音階調節に利用しますね。母のは、当時象牙で作られていたようです。流派は山田流と生田流がある事は子供のころ聞いたことがあります。弦の数もいろいろあるようですね。山田流は爪が丸く、生田は角爪で45度にかまえて引くようです。母が生田流でした。昔の人は花嫁道具の一つだったのでしょうね。腕白でしたので、此のつるで弓を作り遊びました。父は都山流らしく母の兄は琴子流(きんこ)二人とも婦人科医です、趣味です。虚無僧流もあるようですね。口に当てる角度が違うようです。尺一、二など沢山長さを変へ音程が変わるようで、お弟子がいて父が他界したとき借用書を書き数本持ち帰られたようで、今あると高価なようだと知り合いの方が言っていたことを思い出しました。探偵ナイトスクープに出せそうですね(笑)。再会楽しみにしています。おかい



 このように久しぶりに、夕べは静かな秋の夜長を遅くまでメールの交信で楽しみました。そして一夜明けて、今日は朝から冷たい雨が降っていました。午前中は昨日のことを思い出しながら、ブログをまとめていました。昼食後、今にも落ちてきそうな空模様でしたが雨が上がったようなので急きょウォーキングに出かけました。さすがに人影は疎(まば)らでした。そんな中、水路では関空沖のシラス漁でも終えたのか小さな漁船が、大きな波紋を残しながら浜寺大橋をくぐり石津漁港へ帰っていきました。こうして見ると黄昏時のようですが、1時頃の様子です。ところでこの時期になると、いよいよ明日は北の方から招かれざる鍋将軍ならぬ「冬将軍」がやって来るとの予報が出ています。何かと大事な時期に、風邪など引かないように要注意ですね。
久野 勲
平成29年11月17日(金)「それにつけても物悲しい黄昏時」
 夕べ、2020年の東京五輪へ向けたスタートアップの位置付けとされている、日本・韓国・台湾の三ヶ国共同の国際野球大会「アジアプロ野球チャンピオンシップ2017」の日本(侍ジャパン)―韓国戦(東京ドーム)の中継を観ていました。ちなみに、優勝すると2000万円、準優勝でも500万円の賞金が出ます。目的は賞金より若手選手の技術向上、国際試合の経験が主眼となっているため賞金はおまけ程度ということでしょう。なお、WBCの賞金が3億~4億円とも言われているため、その規模の違いを感じます。

 夕べは稲葉ジャパンの初陣です。参加資格は、
24歳以下またはプロ入り3年以内の若手選手が条件となっています。また、オーバーエイジ枠として上記の条件に関係なく選手を登録することができ、最大3名まで選出することが出来ます。試合は9回表まで3ー4で負けていました。9回裏に1点返し延長戦に突入です。ところが10回表に3点を追加され4-7、万事休すです。これで諦めてパソコンに戻りました。そして今日の朝刊を見ると、10回の裏にスリーランホームランが出るなど4点追加でサヨナラ勝ちだったようです。まさに「勝負は下駄を履くまで分からない」とはよく言ったものです。



 井口清兵衛は病弱の妻奈美の世話のため、下城の合図と共に同僚との付き合いも断ってそそくさと帰宅します。昼間は介護疲れで居眠りをすることもあることから、夕方になると元気になるという意味で、誰がつけたか「たそがれ清兵衛」と陰口をたたかれていました。これは、山田洋次監督・藤沢周平原作の時代劇三部作と言われている「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」「武士の一分」の一作品です。共通点は、いわゆる派手でカッコ良い「チャンバラ映画」ではなく、東北地方などの下級武士のリアルな日常が舞台で「~がんす」という方言がよく出てきます。いずれの作品も、なかなか見応えがありました。

 地味な時代劇と言えば「夫婦旅日記・さらば浪人」というテレビドラマがあります。山本周五郎原作「雨あがる」のシリーズ物(全25話)で、ちょうどウォーキングから帰った頃に始まるのでよく観ています。あらすじは、越後長岡藩の剣術指南役・三沢伊兵衛(藤田まこと)は、剣の腕は一流だが生来のお人好しで不器用な性格です。ある時、親友を庇って藩の上層部と対立してしまった為に、脱藩して浪人になってしまいました。一人息子の小太郎を妻の両親にあずけて、伊兵衛は妻のたよ(中村玉緒)と共に仕官の口を求めて旅に出ます。そして、行く先々で持ち前の正義感や善意から様々な事件に巻き込まれ、ことごとくすんでの所で仕官を逃してしまいます。



 ところで「たそがれる【黄昏る】」という言葉の意味については、次のようにいろいろあるようです。

1.物思いにふけること
2.光り輝いていること
3.日が暮れて薄暗くなること
4.ぼーっとしていること

 一般的には「どこかをを眺めながら、ぼ~っと物思いにふけっている」。つまり、1と2を連想する人が多いようです。しかし、正しくは「日が暮れて薄暗くなる」「盛りを過ぎて衰える」だそうです。そして、そもそも「黄昏」とは、昔は「たそかれ」という言葉だったそうで、江戸時代以降に「たそがれ」と読むようになったそうです。夕方に薄暗くなった際に、人の顔が見分けにくくなり「誰だあれは」という意味で「誰そ彼(たそかれ)」と言ったことが語源になっているそうです。

 ところで「たそがれ」と言えば、先日次のようなツイートが話題になったようです。

長男が出張先のウトロで写した画像
黄昏てる?ヒグマ
このあと飛びこんだらしい

何を思うヒグマよ

2017年11月4日


  そこは、北海道の斜里郡斜里町にあるウトロという場所。いくら北海道とはいえ、欄干に手をかけて黄昏ているヒグマは珍しいのではないでしょうか。この画像には9千以上のRT(リツイート:ツイートを再投稿すること)、1万以上のいいね!が付いています。とのことです。久野 勲

平成29年11月16日(木)「夕陽に向かい(たたず)む浜寺公園駅舎」

 早速アップしていただき、有難うございました。本人の知らないうちに眠そうな顔が出ているのにはまいりました。濱野



 夕べ、早速濱野君からメールをもらいました。気を良くして、念のために確認をしました。あれっ、おかしい部分が見つかりました。実は「曳家記念行事」と「浜寺公園駅舎ものがたり」は、昨日の当ブログと「秘密基地」内の「第3の部屋」の「濱ちゃん物語シリーズ」との二つのサイトにアップしました。それが混線してしまったようです。何とか「濱ちゃん物語シリーズ」で修復しておきました。



 さらに夕べのことですが、階下から「山田さんからお電話ですよ」とのこと。「山田さん?どの山田さんやろ?」「もしもし久野ですが」「今晩は、貝塚の山田です。お久し振りです」「おー山田さんか、久しぶりやな。どうしてんや」。ブログを紐解いてみると、元同僚の山田さんと最後に会ったのは平成23年11月26日、天王寺のアポロビルで元同僚7人での会合でした。私はその直後の12月12日に入院しています。実は山田さんは、先日訃報が届いた元同僚とは69で同じ歳だったそうです。3人でよく飲み歩いたことなど、つい積もる話が長くなってしまいました。秋の夜長とは言え話は尽きず、とにかく一度堺東で会って旧交を温め合おうと言うことになりました。善は急げで気の変わらないうちに、急きょ私が幹事役になり何人かに召集令状を出すことにしました(笑)。





 ところで、浜寺公園駅舎は毎日のように公園の方から眺めています。昨日、濱野君からの知らせを受けて改めて今日近くへ寄って見学してきました。遠目ではほとんど変化がないように思っていましたが、驚くなかれいつの間にやらジャッキアップされていました。ご覧のような、夕陽に照らされて佇む「浜寺公園駅舎」を写してきました。久野 勲
平成29年11月15日(水)「頼もしい地域で頑張る同窓生」
 曳家工事にあわせて、浜寺公園駅前にて11月19日(日)13:00(雨天決行)より「記念行事」を計画しました。あわせて「駅舎ものがたり」を作成しました。ご笑読いただければ幸いです。濱野清士



 今日、浜寺昭和校区自治連合会の封筒に入った「曳家記念行事」「浜寺公園駅舎ものがたり」の資料が届きました。何かと多忙な濱野君が、わざわざ届けてくれたようです。ありがとうございます。改めて、別館の「秘密基地」→「第3の部屋」の方で紹介させていただきます。
 

 ちなみに、濱野君は「浜寺昭和校区自治連合会」でも元気に頑張っているようです。そんな様子を、こっそりネットで垣間見させてもらいました。何とか忙中閑を見つけて「歌を忘れたカナリア」になる前に、以前のようにまた誘いがかかるのを首を長くして待っています(笑)。



 ところで今日は、午後から(かね)て予約してあったインフルエンザ予防接種に行ってきました。日増しに寒さが厳しくなっていき、いよいよ冬本番という季節になってきました。あたたかい鍋などが美味しくなる季節ですが、一方で風邪やインフルエンザなど、体調管理により一層気を遣わなければならない時期に差し掛かかってきました。特に冬の時期に気を付けたいのが「インフルエンザ」です。乳幼児や年配の我々など免疫力が弱い人は劇症化し、脳症や、最悪の場合死に至るため決して軽視できない病気のひとつです。しかし、今年のインフルエンザワクチン供給が不足しているようです。私の行く医院は予約をしていない場合キャンセル待ちになっています。久野 勲

平成29年11月14日(火)「今さら聞けない多くの事柄」
 夕べは「つつみ」で、久しぶりにキーちゃんとクウちゃんのカップルに会いました。早くから来ていたようで、しばらくして「それではお先に、また会いましょう」とか言って帰っていきました。11月も中旬になると、堺東界隈では早くも忘年会モードになっているようです。その後しばらくお母ちゃんと世間話をしていると、8時頃に今度は以前女だてらに(失礼)河島英五ファンだということで意気投合した高島屋のカミちゃんといつも一緒の二人連れが入ってきました。この人たちとも久しぶりの再会でした。やはり、楽しい時間は速く流れるようです。彼女たちを見送った後、この日のラストソングは長野旅行を前にして奥飛騨温泉の若女将を思い浮かべながらの「奥飛騨慕情」でした。



 喪中につき・・・。今日は、京田辺市に住む元同僚の訃報を知らす悲しい便りでした。若い頃によく飲み歩くなど人一倍元気な人でしたが、今では年賀状だけの付き合いになっていました。先月、古希を前に69歳で永眠されたそうです。いずれそのうちに・・・そんな思いで謹んで冥福をお祈りしました。

 ところで、日常の会話の中で不確かな覚え方を表す意味で「うる覚え」という言葉を時折り使うことがあります。加齢とともに「今さら聞けない」ことが増える一方です。従って、簡単に調べられるパソコンでの検索が便利です。そこで、この言葉はどういう意味なのかと調べてみようと思って「うるおぼえ」と打ち込むと「うろおぼえ(疎覚え・空覚え)の誤り」と表示されました。さらに、空洞を意味する「うろ」が、文字や音の似た「うる」に置き換わって生じたといわれている。とありました。今さら冷や汗が出ることも無く、恐らく気付かないままこの類いの言葉をいっぱい使っているんだろうと、のんきに開き直っている今日この頃です(笑)。久野 勲
平成29年11月13日(月)「山の彼方の空遠くに幸が住む?」
 お~寒うっ、今朝はまた1歩季節が前に進んだようです。吐く息が少し白くなりました。そろそろ手袋が恋しくなってきました。やはり、この調子では十日後に迫った信州には本格的な寒さがやって来ていることでしょう。ありがたいことに、鍋奉行ならぬ「旅奉行」の世話役さんの方では、乗車券・特急券の手配など着々と準備万端怠りなしで進められているようです。ちなみに、私はもっぱら「待ち奉行」で恩恵をこうむっています。別に頼まれてはいませんが、できれば趣味でまとめの記録でもと思っています。しかし、今回はニコイチで名コンビのカメラマンが都合により不参加なのでどうなるかは分かりません。


 ところで旅行の楽しみと言えば、温泉であり、料理であり、宴会ですね。しかしそれ以上に、陽が傾きかけた山間を走るバスの窓から遙か遠くに今夜初めて訪ねるホテルが見えてきた時の気分が最高ですね。何ごとも「始まるまでが一番楽しい」のかも知れません。次第に近づくホテルを眺めながら、着いたらまず温泉で疲れを癒やし、部屋で少し寛(くつろ)いで、案内されて宴会場へ・・・想像たくましく、ワクワクしながら今や遅しと到着を待ちます。そして、そのシナリオ通りに事が運んで行きます。宴会・二次会も終わり部屋に戻ると、柔らかな布団が夢の続きに誘(いざな)ってくれます。やがて夢も鼻提灯も破れ、大自然の静けさの中で目が覚めます(笑)。
久野 勲
平成29年11月12日(日)「ありがとう、良~い言葉です」

 こんばんは。今、大きい孫が来ています。年賀状のプリントを依頼したことを話して見てもらいました。おばあちゃん、こんな手間のかかる事 ようやってくれはったなです。知らない事とはいえ、本当にお世話をかけました。あらためてありがとうです。かとう


 私の趣味なので一向に苦になりません。こちらの方こそありがとう。役に立てて喜んでもらえるのが、何よりのやり甲斐になっています。敢えてここでは公表しませんが、それにしてもちゃんと来年の干支が入っていて加藤さんの良いアイディアですね。ちなみに、言うのも聞くのも「ありがとう」は気持ちの良い言葉ですね。



 ところで、先日の11月9日が「世界ギネス記録の日」だったそうです。当日、この日を祝して世界各国でギネス世界記録への挑戦が行われたそうです。ちなみに日本では、神奈川県横浜市「こどもの国」にて行われた「まわすことのできた最大のフラフープ」で、挑戦したのは山田祐也さんです。彼は、かつて本記録の記録保持者で4.93m(2006年)をマークしていました。しかし、その後、アメリカのアシュリタ・ファーマンさんによって、5.04m(2010年)の記録で更新されてしまっていたのです。そして、今回の挑戦です。この日行われた記録挑戦で達したのは、5.14mで、見事ギネス世界記録に認定されたとのことです。

 この、地球上のあらゆる世界一を探求し、認定して登録する「ギネス世界記録」。今年4月29日にも日本の学生が開発したロボットが、世界相手に世界一の快挙を成し遂げています。その快挙はズバリ「1分間に縄跳びを飛んだ回数」です。男性2人が縄を回すと、可愛らしいペンギン形ロボット『じゃんぺん』は高速でピョンピョンと1分間飛び続けた結果、106回のジャンプを達成してギネス世界記録に認定されました。顔色一つ変えずに飛び続ける健気な姿に、思わず笑いながら「がんばれっ!」とエール(声援)を送ってしまいました(笑)。久野 勲

平成29年11月11日(土)「久しぶりにPCに熱中しました」
 今朝、ウォーキングから帰るなり女房が「メールを見ようと思ってスイッチを入れたところ起動しなくなってしまった」とのこと。見慣れない画面になっていて、どうも簡単に修復できません。再起動でF2キーを押してBIOS画面を表示すると日付が合っていないので、これは電池切れだと思いました。すぐに蓋を開けてボタン電池を交換しました。そして再びBIOS画面で日付を正しく合わせ直しました。これでOKで再起動してみました。あれっ、何一つ変わっていません。う~む、これはただ事では無い!

 取りあえず自分の部屋に戻って、着替えてから本格的な調査に取りかかりました。あぁでもない、こうでもないと昼ごろまでかかって分かったことは、どうやら「ハードディスク」が壊れているようです。そもそも、このパソコンは4~5年前にパソコン工房で買ったものです。元を正せばNEC製で、OSが「WindowsXP」を「7」にアップしてリカバリーCD付きで20000円弱(本体のみ)で購入しました。ハードディスクを外してみると80GBでした。今はTB(テラバイト:1000GB)の時代なので、そんな小容量のハードディスクは無いでしょう。

 取りあえず午後からパソコン工房へ行ってみることにしました。まずは中古パソコンを物色しましたが良いのがありました。FUJITSUーFMVDK3Fで、OSがWindows10Home、メモリ4GB(Max14GB)、HDD250GBで、今のPCに比べれば雲泥の差です。あれこれ時間をかけた末、これに決めました。家にある、Office2010をインストールして、ネット設定、メール設定やらで気がつけば10時を回っていました。急いで当ブログを仕上げました。その動作の速さには女房も驚いていました。まぁ、しばらく使って見ないと何とも言えませんが、25000円だったので今のところは掘り出し物だったかなと思っています。久野 勲
平成29年11月10日(金)「トイレの日、しばし亡き友を偲ぶ」
 「11(いい)10(ト)イレ」ということで、日本トイレ協会が1986(昭和61)年に「トイレの日」に制定したそうです。同協会は、この日に「トイレシンポジウム」を開催し、公衆トイレを対象とした「グッドトイレ10賞」や「トイレレポートコンクール」の表彰などを行っているそうです。ところでトイレと言えば、今でこそ洋式だの水洗だの、やれウォシュレトなどが当たり前の時代になっていますが、洋式のトイレが一般に普及したのは、昭和40年代からであって、それまでは和式と小便器に分かれてくみ取り式になっていました。水洗トイレについても、昭和40年代から普及しています。

 私が小学生の頃は、ご覧のような昼なお薄暗い、見るからに何か出てきそうな便所でした(笑)。当時はいわゆる「トイレの花子さん」は無かったのですが、下からニュッと青白い手が出てくる、などと恐い話が流行っていました。昼間はまだ良いんですが、担任の先生が宿直の時などよく遊びに行きました。夜になると決まって先生が恐い話をした後で、キモ試しとか言って職員室から一番遠い南西の隅の便所に行かされます。人一倍怖がりだった私は、いつも友達のベルトをつかんだまま目をつむってついて行きました。そんな時に悪いヤツがおって、急に大声で「わぁっ!」とか叫んで驚かせたり、先回りしてギィ~ギィ~ギィ~と不気味な音をたててトイレの戸を開けたりします。そんな時には、思わず腰を抜かしてチビリそうになりました(笑)。

石津小学校HPの表紙

 ちなみに、この画像は股野の奥さんが描いてくれた小学校の南西の隅の校舎の絵です。ここに例の便所が描かれています。何を隠そう、当時のおどかし役はもっぱら股ったんの役目でした。今日のトイレの日をキッカケに股ったん亡き後の今、しばし遠き昭和の懐かしい思い出として振り返っています。



 またトイレと言えば、兵庫県川西市出身のシンガーソングライター「植村花菜」が2010(平成22)年に歌った「トイレの神様」が大ヒットしました。そして、その年の紅白歌合戦出場をはじめ数々の賞を独占しました。


 さらにお婆ちゃんと言えば、くだらないテレビCMが多くウンザリしている今日この頃ですが、珍しくAmazonのCMを観てなかなか良く出来ているなぁと感心しています。バイクに縁のない私ですが、このCMは微笑ましく観ています。 久野 勲

平成29年11月 9日(木)「今のところは順風満帆かな?」

 こんにちは。イラストのプリント届きました。早速年賀状にと手続きしてきました。ありがとうございます。ところで、近鉄の地下売り場が私の遊び場です。このイラストの事の顛末に、お菓子売り場のお姉さんたちいわく「かとうさんの周り、豊かなお友達がいっぱいでいいですね」。笑って過ごせる楽しい時間でした。お世話をかけました。感謝です。ちょっとのお菓子、近鉄より送りました。ご笑納ください。かとう



 喜んでもらえたようで何よりです。趣味がお役に立てて良かったです。感謝の気持ちだけで十分なのに、その上気遣いまでいただいたりしてかえって恐縮しています。出来ないこと以外は何でも出来る自信がありますので(笑)、今後とも何なりと遠慮無く連絡してみて下さい。久野



 今日は文字通り「119番の日」です。サイト「みんなの扉を開くカギ」によると、もともとは大正時代からあった通報制度。当初は112番でした。ただし、掛け間違いが多発したことで、昭和2年に「119番」へと変更されました。なぜ最後が「9」なのか?これについては「1」を3回も回したりするなど掛け違いが多かったので、落ち着いて最後の1つを回せるように、そして「119」という番号が使われていなかったので「119」になったそうです。

 ちなみに「110番」の場合は、110番は昭和23年から始まった制度ですが、当初は1110番のような地域もあって全国的にバラバラでした。これが昭和29年の新警察法によって110番に統一されたそうです。その理由は「国民に覚えやすい番号とすること」「誤報が少ないように番号を3桁にすること」「ストッパーまでの距離が短い1を多くすること」だったそうです。



 ところで先日のことですが、7時過ぎに「つつみ」のドアを開けると奥の席の人が立ち上がりました。そして「あら、お久し振りです。こちらへどうぞ」と言ってくれたので、遠慮無く横に座りました。今年も終わりに近づきましたが何度かすれ違っていたようで、今年初めての出会いでした。去年の忘年会には事情でがあって来れなかったので1年以上ぶりの再会でした。今日は5時頃に来ていたので、誰か来れば帰りますと言うことだったそうです。幸か不幸かそれが私だったので、飲み直しになってしまいました。ジュンちゃんは、今年の忘年会には参加できるとのことでした。久しぶりだったので大いに盛り上がって、日頃は滅多にやらない「デュエット」で4曲も歌ってしまいました。時間の経つのが早く気がつけば11時を過ぎていたので、ちゃんとタクシー乗り場までエスコートをしました。


 このポスターは先週のことですが、初めての客と「この店はツケいけるか」「いいえツケはお断りしています」「どこにも書いてないな」こんな会話があったようです。そこで急きょ作ってきたわけです。縦書きと横書きがありましたが、ジュンちゃんが「これが良いですね」と言ったので、多分これが採用されるでしょう。久野 勲
平成29年11月 8日(水)「今日は、レントゲンの日です」
 1895(明治28)年11月8日にドイツの物理学者レントゲンが発見したX線は、身体を傷つけることなく身体の中を見ることができるというものでした。X線は服などは透過し、骨などは透過しにくいため、レントゲン写真が生まれました。この偉大なる発見によって、現在に至るまで世界各国の多くの人々の生命が護られています。



 2011(平成23)年5月、米軍特殊部隊により射殺されたウサマ・ビンラディン。ところで、2013(平成25)年6月に米国家安全保障局(NSA)が極秘に大量の個人情報を収集していたことを、米中央情報局(CIA)元職員のエドワード・スノーデン氏が告発した「スノーデン事件」の衝撃が世界中に広がりました。そして、スノーデン氏自らがリーク元であることを、顔と実名を出して公開。英ガーディアン紙がWebサイトにインタビュー動画をアップしました。さらに今年の2月に、アメリカNBCニュースはエドワード・スノーデン容疑者について、亡命先のロシアがアメリカへの身柄引き渡しを検討していると報じています。

 そのスノーデン氏によると、ビン・ラディンはバハマに匿われており、CIAから支給される給与によって贅沢な暮らしをしていると言います。「CIAはいくつかのフロント企業や組織を通して、バハマの首都ナッソーの銀行口座に毎月10万ドル以上を送金しています。今は確かではないけれど、2013年の時点で、ビン・ラディンは5人の妻と多数の子供と共にバハマの別荘で静かに暮らしていました」スノーデン氏はCIAからビン・ラディンに給与が支払われていることを示す書類を持っていると言います。

 真偽のほどはともかく、何か都市伝説のような話ですが「ロケットニュース24」によると、2011年に、米軍特殊部隊が射殺した際に米軍が押収したウサマ・ビンラディンのパソコンに保存されていた資料を、先日CIAが新たに公開したそうです。その中には、鍵針編みのチュートリアル動画や人気ゲーム『ファイナルファンタジー』やアニメなどなど。どうやら、パソコンには意外なファイルが収められていたようです。
久野 勲
平成29年11月 7日(火)「今日から冬が始まりました」
 一年を24に分けて季節を表す二十四節気の一つが立冬です。立冬は、立春、立夏、立秋と並んで季節の大きな節目を示します。例年、11月7日頃が立冬となり、冬が始まります。二十四節気では立冬の次は11月23日の小雪(しょうせつ)」です。ちなみに、11月7日は「鍋の日」だそうです。これには、毎年「立冬」になることが多いということと、11(いい)7(な)べという語呂合わせによる2つの由来があるそうです。語呂合わせはよくあるパターンですが、立冬と鍋の関係は?つまり、今日から冬が始まるので「寒い冬=鍋の季節」と言うことだそうです。



 サイト「三人寄れば」によると、これから忙しくなる「鍋奉行」には歴とした由来があるそうです。鍋奉行には2つのタイプがあり、1つは全工程を全て自分で仕切ってしまう人。もう1つは口うるさく指示を出す人だそうです。とかく、頼まれもしないのに勝手に鍋奉行を買って出て、犬じゃあるまいし「おあずけ」をくらう連中にとっては、とかくありがた迷惑な存在かも知れません。やはり、食事ぐらいは自分のペースで食べたいものですね(笑)。

 江戸時代の初期は、鍋は貴重な道具でした。そこで大切な鍋をきちんと管理するために設けられた役職が鍋奉行なのですね。鍋を守るという仕事を名目に強い権限が与えられていたそうです。 しかし、月日が経つにつれ、鍋は貴重品ではなくなってきました。生産技術の進歩が原因です。鍋奉行という役職の有り難みが薄れ、次第に名誉職になってしまったようです。いずれにしても、これからが鍋を囲んで心身共に暖まる絶好のシーズン到来と言ったところでしょうか。久野 勲

鍋料理の際に使われる呼称
鍋 将 軍    奉行よりも厳しい仕切り役
アク代官   ただ、アクをすくい取る役
待ち奉行   ただ、ひたすらに食べる役
平成29年11月 6日(月)「てなこと言われてその気になって」
 今年もそんな時期になり、同窓生から早々に喪中ハガキが届きました。かと思えばある同窓生からは、以前私が合成編集したご本人から届いた自画像(似顔絵)入りのイラストが気に入ったようで「ぜひ年賀状に使いたい」との連絡をもらいました。いつもお願いしている人のパソコンが不調で諦めかけましたが「そうだ、大御所さんにお願いしてみよう」と思いつき、厚かましいことですが・・・とのことでした。大御所なんて煽てられれば、木にも登る思いで「分かりました、やってみましょう!」と二つ返事で引き受けました(笑)。HP用に加工した画像だったので、少し手を加え再編集しプリントアウトして送っておきました。まぁ、冗談は顔だけにしておくとして、やはり頼まれて何とか応えられている内が花ですね。ちなみに、カウントダウンも大詰めとなり、走り続けて27年目に入った石津小学校同窓会新聞「かいらんばん」も、いよいよ498号の編集に取りかかりはじめました。



 ところで、交叉点は歩行者・自転車・車などが頻繁に行き交い、交通事故の多発場所になっています。実際に日本損害保険協会の調べでは、平成28年中の交通事故の約55%は交叉点および交差点付近で発生しているそうです。これは日本だけではなく、諸外国でも同じだそうです。アイスランドのイーサフィヨルズゥルに今年9月、工夫を凝らしたペイントによる目の錯覚で、浮かんでいるように見える3D横断歩道が設置されました。横断歩道は、交差点に進入するクルマから見ると白い四角柱が7本道路上に浮かんでいるように見えるデザインです。

 これを見たドライバーが驚いてスピードを落とし、周囲をよく見ながら注意深く交差点を通過することを狙ったものです。あくまで、交差点に進入するクルマが対象です。このため交差点の反対側や上側、あるいは歩行者目線から見ると立体的には見えず、そのトリックはバレてしまうようです。しかし、交差点での事故を防止するには、交差点に進入するクルマのドライバーに横断歩道の存在を気づかせるのが重要で、他の方向から立体的に見えないのは大きな問題ではなさそうです。確かにこの交叉点は事故が減っているそうです。しかし一度体験すれば慣れてしまうとか、慌ててブレーキを踏んだりハンドルを切って他の事故につながるのではないか。などの懸念も出ているようです。久野 勲
平成29年11月 5日(日)「思い立ったが吉日・善は急げ」
  今日も天気が良く、名だたる名所の紅葉には遠く及びませんが、ご覧のように浜寺公園のカエデも行く秋を惜しむかのようにかなり色づいてきていました。そして午後からは「思い立ったが吉日」とばかりに風呂場掃除に取りかかりました。女房の入院をきっかけに、日々の浴槽掃除は私の日課になっています。今日は少し早めでしたが、この時期の年に一度の我が家の風物詩でもある、洗剤やタワシなどを使って天井から床までの浴室全体の大掃除でした。カビ取りの洗剤の刺激臭に、目をショボつかせながらも何とか済ませました。

浴室大掃除の重点項目
浴槽の汚れや水垢
壁や天井などのカビの汚れ
蛇口などの水栓金具の汚れ
鏡の曇り取りや水垢落とし
イスや洗面器などの小物の汚れや水垢
排水溝



 ところで、今朝「サンデーモーニング」を観ていましたが、レギュラーのジャーナリスト・岸井成格(しげただ)氏(73)が帽子姿で出演していました。実は先週もそうでしたが、話し方はいつもと変わらなかったようなので「あれっ」と思っていました。今日ネットで調べてみると、冒頭で司会者と本人から簡単な説明があったとのこと。「がん再発」だったそうです。2007年秋にステージ4の大腸がんが判明し、治療に専念して翌年春には復帰したそうです。そして、無事「5年生存期間」を通過し、ついに「10年生存期間」に到達しようとしていた矢先の「大腸がん再発」だったそうです。やはり「ガン」とは、一筋や二筋縄ではいかない厄介な代物のようです。久野 勲
平成29年11月 4日(土)「イタズラ犯を捕らえてみれば」
 地球内外に存在する様々な生物、自然、超常現象などを毎日紹介する情報系サイトである「カラパイア」によると、アメリカ、ジョージア州、スネルビル。アトランタの東方、40km程の場所に位置するこの長閑(のど)な町で、不可解な事件が人々の頭を悩ませていました。何者かが、駐車中の車のサイドミラーを次々と割っていったのです。こんな悪質なイラズラは一体誰が?何のために?その被害の報告は24件以上ににぼり警察はパトロールを強化しました。

 当初「BBガンを持った悪ガキのいたずら」と考えられていました。しかし車のミラーを割っていたのは、北アメリカに生息するキツツキの一種、エボシクマゲラだったそうです。エボシクマゲラは縄張り意識が強く、ミラーに移った自分の姿をライバルと勘違いし、攻撃していたのだそうです。厄介なことにエボシクマゲラはアメリカの「渡り鳥保護条約法」で保護されているそうそうです。そのため駆除して解決、という訳にはいきません。そこで、住民は効果的な解決策を考え出しました。それはサイドミラーにビニール袋をかぶせておくという、いたってシンプルな解決法でした。身の毛もよだつような凶悪事件報道が相次ぐ昨今、一瞬でも何とも言いようのない忌まわしい現実を忘れさせてくれるような、時にはこんな話題も・・・。久野 勲
平成29年11月 3日(金)「北越戦争と阪神タイガース」




 おはようございます。暖かい日が続き過ごしやすいです。10月のある日の1日です。早朝9階からの外は霧で何も見えません。2時間後にやっと晴れました。秋になると、近くの御陵から大きなスズメ蜂がマンションの周りを数匹ぐるぐる回りに来ます。いちじくの鉢植えを置いている部屋があるそうです。いつもは素通りするのに、この日は我が家のバルコニーに寄り道しました。招かれざる客で、仕方なく狙い撃ちです。夕日を写メして疲れたなぁ~の1日でした。かとう



 蜂の一刺しは命取りになる可能性があります。即撃退が正解ですね。蜂と言えば、以前浜寺公園で恐い思いをしたことがあります。ブログで確認してみたところ、8年前に次のように書いています。
この日もクマバチが飛び交っていました。しかし昨日ほど恐い思いはしませんでした。それは、ネットでよく調べてみると《クマバチは黒色で大型のこわそうなハチです。しかし、実際はとてもおとなしいハチです。よくクマンバチとまちがえられますが、これはスズメバチの俗称です。クマバチ春にオスは見晴らしのよい尾根や広場で空中停止飛行をしてなわばりを張ります。こうしてなわばりを張っているのはすべてオスで、さわっても刺すことはありません》とのことだったからです。とはいっても、こいつがそばに来ると刺さないと分かっていても恐怖を感じるものです。(画像はクマバチ)久野



 ところで、こんな句があります。「八十里こしぬけ武士の越す峠」。これは、幕末の頃に越後(新潟県)の小藩である「長岡藩」の家老・河井継(つぎ)之助の詠んだ句です。この人物は幕末時に官軍にも賊軍にも属さず、圧倒的な武力をもって自主独立をしようとした長岡藩家老で、司馬遼太郎の「峠」で紹介されその名を広く知られるようになりました。ー中略ー 話せば長くなりますので「百聞は一見にしかず」と言いますので、興味のある方は次のYouTubeの映像をご覧下さい。


 「八十里こしぬけ武士の越す峠」この句を詠んだ後、自らの最期を悟った継之助は、家臣に火葬を指示した翌日、談笑した後に危篤状態となり亡くなっています。享年42。志半ばで倒れた継之助の意思は、意外なところに引き継がれているようです。継之助は、ずっと付き従っていた一人の青年、外山脩造(幼名:寅太)に次のように言いました。「寅や、おみしゃんを武士にしてやろうと思ったが、もうやめた。これからは商人の時代。おみしゃんは、商人になりやい」。この外山は遺言を胸に商人となって大成功を収め、何と「アサヒビール」や「阪神タイガース」の生みの親となったそうです。

 明治38年(1905)4月12日に阪神電鉄の一番電車が走った。このとき阪神電鉄初代社長の外山脩造は、創設の無理がたたって病気になり、自宅で祝賀の花火の音を聞いていた。「寅や、頑張ったね」どこかで恩師である河井継之助の声が聞こえたような気がした。ところで阪神タイガースの誕生は、阪神電鉄創立の30年後の昭和10年(1935)である。チームのニックネームは阪神電鉄の社内公募により、阪神工業地帯とよく似た工業都市であるデトロイトをフランチャイズとする、デトロイト・タイガースからとったとされている。でも選考の過程で、偉大な初代阪神電鉄社長の幼名・寅太の「虎」が応募者と選考委員の頭をよぎったと思う。慈眼寺の会談が成功しておれば、継之助は日本の企業の歴史に名を残したはずである。大正5年(1916)、継之助の分身である脩造は74歳で人生を閉じる。このとき脩造の中に生き続けた継之助はすでに89歳になっていた。(サイト阪神タイガース生みの親『外山脩造』より)
久野 勲
平成29年11月 2日(木)「バリアフリー対応容器でした」
 私はウォーキングの前に、パンと牛乳で朝食を済ませて出かけています。牛乳は冷蔵庫から紙パック入りを取り出しています。いつもは注ぎ口が開いていますが、以前開いていなかったことがあり開け口を間違えて難儀したことがあります。今朝はパックに少しだけ残っていたようで、注ぐとすぐに無くなってしまいました。予備に寝かしてあるパックを開けようとして、上の方に半円形の小さな切り欠きが目にとまりました。念のために空にしたパックを見ると切り欠きがありません。

 疑問に思うと調べたくなる性分なので、ウォーキングから帰るなり調べてみました。バリアフリー社会実現への取組が進展するなか、農林水産省で平成5~7年度の3カ年、視覚障害者の食品へのアクセス改善を図るための実態把握・改善手法の検討が行われました。この実態調査の中で「飲み物容器に関する不便さ調査」が発表され、紙パック飲料への不便さが一番多く、紙パック飲料では牛乳と他の飲料との区別を望む声が76.8%と際だって高い回答が得られたそうです。それを受けて、目の不自由な人や高齢者の為に設けられたものだそうです。この小さな切り込み一つで「牛乳」であること、開け口は、この反対側であることが分かるのだそうです。あくまで任意表書なのですが、現在では全国の牛乳メーカーの半数以上がこのマークを採用しているとのことです。

 ただし、マークをつけていいのは500ミリリットルと1リットルの、牛からしぼった生乳を使った「牛乳」だけという決まりがあるそうです。したがって、低脂肪乳などの加工乳にはついていないそうです。今のところは知る人ぞ知るで、まだまだ一般的には浸透していないようですね。



 ところで、1934(昭和 9)年の今日11月2日)に、 ベーブ・ルースら米大リーグ(メジャーリーグ)・野球選抜チームが来日したそうです。結果は16戦全勝で圧倒しました。その翌1935(昭和10)年に、日本初のプロ野球チームとなる「大日本東京野球倶楽部」(読売巨人軍の前身)が誕生しています。

 そしてその後、ベーブ・ルースが1934年の日本遠征の際にかぶった野球帽が、2014年のオークションにかけられ30万3277ドル(約3600万円)という信じられないような額で落札されました。大リーグ選抜チームの帽子で、紺色の地に「US」のロゴが入っています。スポーツ関連グッズを専門に扱う競売業者「グレー・フランネル・オークションズ」によれば、これは1カ月間にわたる日本遠征でベーブルースがかぶった唯一の帽子とみられています。ちなみに、2008年にベーブルースがヤンキース時代に着用していた帽子が別のオークションにかけられており、それは32万8000ドル(約3900万円)で落札されているそうです。とにかく野球の本場でも、いくつか桁の外れたスーパースターだったようですね。久野 勲

平成29年11月 1日(水)「静けさ破る秋の夜長のひと時に」
 「わが人生に悔いなし」誰やろこの歌たったのは?カラオケ画面に「当店のベスト20」が映し出されますが、私が時折り歌っている曲が入っていました。夕べ「つつみ」で歌う前の会話です。「まだちょっと早いかな、と言いながら歌ってくれました」「誰が」「小猿さんです」。う~む、ちょっとどころか半世紀ほど早いなぁ(笑)。先日の小猿一家の話題に花を咲かせていると、見知らぬ人が「いいですか?」と言いながらドアを開けました。「まだ17ですが息子と一緒ですが」「17歳ではお酒は出せませんが」「お茶かジュースでいいです」。それでもお母ちゃんが躊躇していたようですが、時間も早いことだし「それなら良いでしょう」とお母ちゃんに声をかけました。そこで、外に待たせていた息子さんを呼び入れました。

 親父さんは昔、何度か「つつみ」へ来たことがあるとのこと。お母ちゃんにすれば、当時はあまり良い印象では無かったようです。お茶を飲みながら息子さんが「六甲おろし」を歌いはじめました。52歳になるという親父さんは百舌鳥のふとん太鼓の担ぎ手で、盛り上がった肩を見せてくれたりしました。息子さんは続けてアカペラで「石山の秋の月 月に群雲、花に風 風の便りは 淡の島縞の財布に五両十両 ゴロゴロ鳴るのはなんじゃいな地震、雷、あと夕立 ベーラベーラベラショッショ」と、親父さんに似て大のふとん太鼓ファンとのことで見事に2番まで歌ってくれました。

 この親父さんは、今は百舌鳥のふとん太鼓を担いでいますが、以前は上石津の「浜石ふとん太鼓」に所属していましたとのこと。上石津と言えば浜中同級生の大仲の地元です。十数年前になりますが大仲に誘われて、上石津の「盆踊り」や「ふとん太鼓」を観に行ったことがあります。当時、大仲から「太鼓小屋が火事になってやっとふとん太鼓の修復が終わた」との話を聞いて「試し担ぎ」を観に行ったことがありました。こんな「ふとん太鼓」の話題がキッカケとなって、話がはずみました。大仲のこともよく知っているようです。大仲とは今月の長野旅行で一緒になるので、その○○さんの話を出してみようと思っています。

 ところで、私の同窓生で阪神淡路大震災の時に「俺は年老いて行くし、寝たきりの17歳のになる娘はだんだん大きくなって担ぎ上げることが出来なくなってしもうた。とっさに覆い被さって倒れてきたタンスから護ることが出来た」。また、ある同窓生からは「ダウン症で生まれた、この子をおいて先に死ねません」。こんな哀しい言葉を聞いた時のことを思い浮かべていました。そして、この日の親父さんは、帰り際に「3年後に、この息子が20歳になります。その誕生日の○月○日に一緒にここに来ますので、良かったら又この4人でお会いできればうれしいです」と初対面の私に言ってくれました。一応、お母ちゃんに「2020年○月○日」をメモしてもらいました。そして、一人去り二人去りやがて誰も居なくなってラストソングは「♪思い出だけが~こころを巡る~遠き昭和のまぶしい時代」で締めくくって帰ってきました。親父との縁が薄かった私が垣間見た「父性愛」でした。親父さんは三年後に「♪お前が二十歳になったら~酒場で二人で飲みたいものだ~ぶっかき氷に焼酎入れて~つまみはスルメかエイのヒレ~」と歌うのかも、そんな気がしました。




 一夜明けて、今朝も穏やかな天気でした。無風の日でも滅多に観ることが出来ない「逆さ浜寺大橋」が観られ、何か良いことがありそうなそんな気がしました。久野 勲
平成29年10月31日(火)「100年以上走り続けるチン電」
 先日の阪堺線深夜工事は、あの日だけのことでは無くほんの序章だったようです。今日、阪堺電気軌道株式会社から「沿線の皆様へ、夜間の起動作業についてお願い」が届きました。それによると、船尾ー浜寺駅前間で11月7日から15日間にわたり23:00から翌朝の5:00までとのことです。もともと阪堺線の始発駅は、日本中の誰もが知る通天閣のお膝元にある恵美須町駅です。そこから終点の浜寺駅前まで14kmを40分くらいかけて走るので、平均時速21km/hという超スロー走行です。普通は、難波から浜寺公園駅まで南海本線で行くのでしょう。実際、南海で行けば20分くらいで着いてしまいます。チン電沿線で生まれ育ってきた私には、何かと気忙しい日々の中でタマにチン電に揺られるとホッと心が和みます。



 ところで、子供の頃によく歌った「茶つみ」という童謡があります。そこに「夏も近づく八十八夜」という歌詞があります。八十八夜とは立春から数えて88日目、つまり5/15~/2日のことです。このころ「チャの木」から新芽が出はじめます。この頃に摘んだお茶は一番茶で一番美味しいと言われるお茶になります。その後9月頃にかけて茶摘みが行われ二番茶、三番茶となるそうです。番茶とは、番傘、おばんざい(御番菜)などの言葉に使われるように「番」には「普段の」「日常的な」という意味があるので、高級品ではない日常的に飲まれるお茶という意味で名づけられたそうです。

 私たちが日頃から親しんでいる日本茶には「玉露」「煎茶」「白折」「ほうじ茶」「番茶」などがあります。ちなみに、コーヒー・紅茶などほとんど飲まない私が昔から慣れ親しんでいるのは、ランクこそ最下級になるようですが「番茶」です。「鬼も十八番茶も出花」こんな諺にも使われるくらい、番茶は庶民的なお茶なのですね。それが証拠に、茶工場にて茶葉・粉・くきを選別せず、少しだけ形を揃えて荒茶風に仕立てたお茶です。火入れは店内の小型火入れ機で行っているため、手間も掛けていないぶんお得に販売をしています。とのことで、お徳用の「まかない番茶」が売り出されています。


 ところで、お茶を日本に広めた人は栄西(えいさい・ようさい)禅師といわれています。彼は、1191(建久2)年、宋(中国)から茶の種子と製法を持ち帰りました。それが10月31日だとされています。そして、茶の種子を庭に蒔き、茶の製法を伝え「茶は養生の仙薬なり・・・」で始まる「喫茶養生紀」を著しています。栄西は日本に茶生産を広めるため、またその薬効を知らせるために、1211(承元5)年『喫茶養生記』を著します。この書物は上下二巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記されているそうです。久野 勲
平成29年10月30日(月)「例年通り、今日木枯らし1号が」
 恐らく今年最後の接近となると思われる台風22号が足早に去って行きました。10月末ともなると風は冷たく、公園のカエデも随分色づいてきました。ふと足もとを見ると、自分の影が驚くほど長く延びていたので1枚写してきました。ところで例年この時期になると、秋から初冬にかけて吹く文字通り、木々の葉を散らして木を吹き枯らす強く冷たい風「木枯らし1号」がやって来ます。と思っていた矢先に「今日木枯らし1号が吹いた」と気象庁から発表されました。さて今日も今日とて朝はワールドシリーズ「ドジャース 対 アストロズ」、夜は日本シリーズ「広島 対 横浜」と、日米それぞれでチャンピオンを目指して熱い戦いが繰り広げられています。



 ところで今日は、島崎藤村ゆかりの宿である長野県小諸市の中棚(なかだな)荘が制定した「初恋の日」だそうです。1896(明治29)年、島崎藤村が『文学界』46号に『こひぐさ』の一編として初恋の詩を発表しました。この日には毎年、初恋をテーマとした「初恋はがき大賞」等のイベントを行っているそうです。信州が生んだ文豪、島崎藤村。幼少時、ふる里木曽街道妻籠宿での幼なじみ、林ゆうさんとの淡い恋心を詠んだのは、藤村26才の時だと言われています。


 男女を問わず、誰もが何度か経験するとされる淡い「初恋」。レモンの味とかカルピスの味がするとか言われています。幸か不幸か、初恋の人と結婚したという人もいるようです。しかし、その当時はともかく、振り返ってみると「過ぎし日のほろ苦い想い出」になっていることが多いようです。その昔、そんな想いを綴った「青春のころ」という、まぼろしの名曲?が世に出たことがありました。久野 勲
平成29年10月29日(日)「まるで小猿一家の貸し切り状態」

 こんにちは(^o^)小猿です。昨日、兄2人と道場の先輩2人と「つつみ」に行って来ました(^o^)ママもお元気で良かったです(^o^)

 



 ありがとう、何かと忙しい時に早速顔を出してくれたようですね。ところで、お母ちゃんに「見覚えありますが、どちら様でしたか?」って言われへんかったかなぁ(笑)。お母ちゃんの弟さん夫妻も加わったようで、近年希に見るような大賑わいだったんですね。まさに「♪盆と正月一緒に来たよなテンテコ周りの忙しさ~」のようで、お母ちゃんの満面の笑みが、その場の楽しそうな雰囲気を惜しげもなく物語っています。何とも微笑ましい「おさるの親孝行」ってな感じですね(笑)。来週、イヤ今週かな、週活で行った時の話題が楽しみです。



 ところで今朝はウォーキングの際には降っていませんでしたが、その後9時半に「大雨警報が出ました」との防災放送が入りました。台風22号はややスピードを上げ、今日昼過ぎには近畿、夜には関東の南の海上に進む見込みだそうです。なお、午後4時には大雨警報が解除され、開設中の各避難所も閉鎖されたとのことでした。久野 勲
平成29年10月28日(土)「歴史の教科書に書かれなかった」
 あの「蜂の一刺し」が一世を風靡したのは、今から36年前の1981(昭和56)年10月28日のことでした。当時東京地裁で行われたロッキード裁判丸紅ルート公判で、元田中角栄首相の秘書官・榎本敏夫被告の前夫人・榎本三恵子さんが初めて検察側証人として出廷しました。証言では榎本被告が5億円の受領を認める発言をしていたことが証明されました。同時に榎本被告が秘書官当時の書類なども焼却し、証拠隠滅を図っていたことも判明しました。いわゆる世に言う「ロッキード事件」とは、1976(昭和51)年2月にアメリカの航空機製造会社のロッキード社から日本側に30億円以上のお金が渡ったことが発覚したことから始まります。

 当時、ロッキード社は破産寸前の状態にまで追い込まれていたようです。ベトナム戦争の終結などにより赤字経営が続いていました。そこでロッキード社としては飛行機を売り込み、なんとかこの赤字状態から抜け出したかったわけです。しかし、ロッキード社はアメリカの会社。日本に売り込みたくても橋渡ししてくれるパイプが必要なんですね。そのパイプ役をしていた会社が丸紅です。丸紅は「飛行機を売りたいなら、いっそのこと政治献金を」とロッキード社に持ちかけます。そして、ロッキード社から預かった5億円を田中角栄首相に渡したとされています。しかし、ロッキード社から日本に渡ったお金は30億円以上です。残りの金はどこにいったのか?21億円という巨額の政界工作資金を受け取ったとされているのが、右翼運動家で「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた児玉誉士夫という人物でした。戦後最大の疑獄事件であるロッキード事件でも関係者として国会に召喚されたが、この証人喚問で政商(政治権力者と結託して受注することを主とする企業家)
小佐野賢治が繰り返した答弁「記憶にございません」は当時の流行語となりました。まさに「元祖・記憶にございません」ですね。

 




 今朝はあいにくの雨模様でした。そこで、改めて「NHKスペシャル・未解決事件・ロッキード事件実録ドラマ化 ・ 三部作」を観てみることにしました。見始めると、なかなか見応えのあるドラマでした。思わず3時間あまり一気に観てしまいました。当時の関係者の一人は、この事件について「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」と書いています。これは、人に害を与える化け物の総称です。また、私欲のために悪だくみをする者のたとえでもあります。「魑魅」は山林の気から生じる山の化け物。「魍魎」は山川の気から生じる水の化け物。を表しています。久野 勲
平成29年10月27日(金)「夜明けか晩なのかどっちなの」
昼神温泉冬景色

 楽しみにしている「長野一泊旅行」は、いよいよ1ヶ月を切りました。ありがたいことに、世話人さんたちが着々と綿密なる準備を進めてくれているようです。今回は10数名の参加になると聞いています。これから寒い季節に向かうので、せいぜい風邪など引かないように気をつけなければと思っています。


 ところで「♪かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ」「かごめ」を「籠女=妊婦」、「かごの中の鳥」を「お腹の中にいる子供」と解釈する説があるという。この説では、家督争いに巻き込まれた結果、ある夜明けの晩に誰かに後ろから突き飛ばされ、籠女は流産してしまうというストーリーが成り立つという。子供の頃に、わけも分からず歌いながら遊んでいた「わらべ歌」は、実は恐い物語が隠されていた。誰かがこじつけた、いわゆる都市伝説なのでしょうがよく話題に上る話です。


 ところで、夜明けの晩とは夜が明ける前のことなんでしょうか?だとすれば、今日の夜明けの晩に何か耳鳴りがするような気がして目が覚めてしまいました。時計を見ると12時半でした。しばらく耳を澄ませていると、何かを叩くような音が聞こえました。こんな夜中に、階下で女房が何かゴソゴソやっているのか、近所で誰かが暴れているのかなと思いました。電気を点けないで、ベッド横の窓をそっと開けてみました。3軒おいて阪堺線の線路がありますが、その当たりが明るく時折り人影が映りました。耳鳴りと思ったのは発電機の音だったようで、どうやら人迷惑な線路工事をしていたようです。

 通常線路工事は終電から始発までに実施することが多いようです。しかし、こと阪堺線の場合は違います。運転間隔が長いのと、のんびり走行なので大抵は日中に行っています。25年間も住んでいますが、こんな事は初めてです。私が知らないだけで、地域には通知があったんだろうと思いました。その後も音が気になって、なかなか寝付かれませんでした。朝方女房に聞くと「工事のことは知らなかったし珍しいことやね」とのことでした。やや寝不足気味で、ウォーキングの時にその辺りを通ってみましたが工事をしたような形跡は見かけませんでした。もちろん、安全確保のためには線路工事は必要不可欠です。その上で特に夜間の場合には、それなりに前もって近隣地域に「お知らせ」が必要ではないでしょぅか。久野 勲

平成29年10月26日(木)「今では唯一のホームグランド」
 夕べは恒例の「週活」で堺東へ出かけました。忘年会の日程を、私に合わせてもらったので気になっていました。以前は二日に分けてせなあかんなぁ、そんな状況でしたが今ではメンバーが集まりにくくなっているようです。9時半になっていましたが、去年参加してくれた先輩のゴローさんに、約1年振りになりますが電話をかけてみました。ちょうど晩酌中だったようで、久しぶりに電話で旧交を温め合いました。忘年会には喜んで参加しますとの返事をもらいました。ゴローさんは、初めて「つつみ」を紹介してくれた人で、居酒屋「ふく」のマスター、カラオケ居酒屋「つつみ」のお母ちゃん達とは同い年で「花の14年トリオ?」でした。昔から同僚として良き飲み仲間として付き合ってもらっています。まぁ当たり前のことですが、この歳になるといつでも好きな時に誘える友人が居なくなっていることに気がつき愕然としています。そして、以前のように夜中に「もしもし○○で~す。今何してはんですか」「おー○○さんか、俺は今寝てるんや。エエ加減に帰って寝なあかんで、それじゃお休み」こんな電話がかかることも無くなってしまいました。紛れもなく、これが現実なんだ!まさに「♪元気でいるか~変わりはないか~遠き昭和の~まぶしい時代~」を懐かしく振り返ってみたりして。やがて年が明ければ晴れて後期高齢者の仲間入りとは、いつの間にかそんな年ごろになってしまいました(笑)。




 「小春日和の穏やかな日でした」一夜明けて今朝は、そんな清々しい天気でした。浜寺水路での1枚は上手くとらえられず、単なるピンポケのような感じになっています。しかし実際には春霞がかかったような、ほんわかした雰囲気の景色でした。この時期にしては珍しく、帰り着くと久しぶりに着替えないといけないほど汗ばんでいました。もしかしたら、夕べのアルコール分だったのかも知れませんね(笑)。久野 勲
平成29年10月25日(水)「とにかく足が地に着かないのは」
 今日は「民間航空記念日」になっています。日本は戦後、一切の軍事技術の開発保有を禁止され、民間の飛行機の保有・飛行も禁じられていました。昭和26 (1951)年に航空産業再開の動きが出て日本航空が設立されましたが、日本の航空機所有も、日本人による飛行機操縦も許されなかったため、日本航空はアメリカのノースウェスト社と提携し、飛行機もパイロットも同社から借りて運用することになりましたが乗客は36名だったそうです。なお、この時に就航した「もく星号」は、翌年4月に謎の墜落事故を起こしています。


 ところで自慢じゃありませんが、この歳になっても飛行機は怖い。出来れば乗りたくないと思っています。第一、プロペラもついていないあんな重たい物体が空を飛ぶなんて信用できません。思い起こせば、そんな私が初めて飛行機に乗ったのは齢44歳の時です。あるグループの沖縄旅行の際、幹事の一員として仕方なく同行しました。そのグループは年に一度旅行をしていますが、バスで出発するときなど決まって「○○様ご一行ご出棺~」などと叫ぶ悪趣味のヤツがいます。まさかと思っていましたが、離陸の時に私の隣で「ご出棺~」とやりよりました。えらいヤツと隣り合わせたものだ。そして、私の方を見て「オイお前、顔色悪いぞ」と言います。私はさりげなく「そうか」と応えたものの、内心「なにがご出棺~じゃバカッ!飛行機でそんな事いうたらシャレになるか!」と叫んだものです。 


 そんなことを知ってか知らずか、更にたたみかけててきました。「こないだ東京まで乗ったときなぁ、横に座った年寄りが数珠出して拝みよってなぁ」。やかましいわっ!俺も拝みたい心境なんじゃ!と叫んでやりました、心の中で。そうこうしているうちに、水平飛行に入りました。しかし、話しには聞いていましたが突然何の前触れもなくガタガタガタときました。まるで、おんぼろバスが田舎道を走るような激しい震動に度肝を抜かれ、反射的に座席の下へ潜り込みそうになりました。これが今から30年前の恐怖の飛行機デビューでした。ちなみに事もあろうに、このグループには「坊さん」「花屋さん」「粗供養屋さん」たち、つまり世に言う「終活三点セット」が勢揃いしていました。誰一人犠牲になることも無く30数年間も無事続けてこられたのが奇跡的だったと言っても、決して過言ではないでしょう。

 しかし、よくよく考えてみれば花札ではススキに月の札(山に月ではありません)は、通称「○○」と言って高得点の20点札だそうです。そして幸いなことに、このグループには同級生の住職が二人も居ます。そこで誰が言ったか、生臭いかどうかはともかくとして○○が二人も居たら、こいつぁ~なかなか「二重○○で縁起が良い!」のだそうです。なるほど結局、そのお陰で運が良かったのかも知れませんね(笑)。久野 勲
平成29年10月24日(火)「浜寺と三光国師とのつながり」
堺市立浜寺中学校・校歌
そびえてたてる金剛の
気高きすがた朝夕に
仰ぎて学ぶ三光の
丘光ありいそしめば
丘光ありわが母校


 4年ほど前にも触れていますが、私の家から100歩ほど南へ行った所に5歩で渡りきってしまうほどの名も無き小さな橋があります。その下を流れているのが三光川です。この川の名は「三光国師」から名付けられたそうです。三光国師は、会津出身の僧・覚明(かくみょう)といい、比叡山で禅を修め、応長元(1311)年、元(中国)に渡りました。帰国後、仕えた後村上天皇から三光国師の号を授かり、堺・高師の浜に大雄寺を建てました。「高師の浜の寺」が「浜寺」となり、今の地名となったそうです。三光川という小川もあり、三光橋、三光会館など三光国師を偲ばせる名称も多く残されてます。また、浜寺中学校卒業生全体の「三光会」という同窓会組織もあるようです。さらに、我々が浜中在学当時に、応援歌だったんでしょうか「♪三光ヶ丘の陽を受けて~青春の意気天をつく、普段の力見せばやと~行け浜中の健児たち~」メロディも覚えています。中百舌鳥競技場でしたか?陸上部で同じ7組の南条君(右から二人目)が出場した学校対抗戦に全員で応援に行って、この歌をうたった記憶があります。

 ちなみに、堺市教育センターHP内の「堺市立浜寺中学校」によると、
三光会とは浜寺中学校卒業生の同窓会の名称です。申し出がない限りほとんど方が、卒業と同時に入会をされています。さて浜寺中学校は今年(2017年)、記念すべき開校70周年を迎えます。この機会に各学年の同窓会や、クラス会などを催していただければ、開校70周年の記念になると考えています。開催の予定がある場合はこのホームページへの掲載が可能ですので、浜寺中の教務主任までお知らせください。と掲載されていました。われ熟熟(つらつら・つくづく)思うに、長年にわたり歴史ある浜寺中学校の同窓会「三光会」の存在を、退会の申し出などした覚えの無い私も含めてどれだけの卒業生が認識しているんでしょうか?久野 勲
平成29年10月23日(月)「超大型台風21号が残した爪痕」

 おはようございます。そちら被害大丈夫ですか。浅香山のあたり水につかったとTVニュースで見ています。お見舞い申し上げます。こちらは、幸い被害もなく夜明けを迎えることができました。これから台風が通過するところの被害が少ないことを願うのみです。神戸特派員


 早速のお見舞い、ありがとうございます。昔(中学生時代)一度、すぐ近くの小さな三光川が溢れたことがあります。その時は床下まで浸水しました。しかし、石津川は何度も護岸工事や浚渫工事が行われて、昨夜のように決壊の恐れが出て避難騒ぎになったのは初めてのことでした。一時は緊張しましたが、お陰さまで何事も無く通過してくれたようです。それにしても、一級河川の大和川が溢れたとのニュースには驚きました。

 大和川は大阪湾に注ぐ幹川流路延長68km、流域面積1,070 km2の一級河川です。その流域は、奈良県、大阪府の両府県にまたがり、21市15町 2村からなり、大阪市、堺市、柏原市、奈良市、橿原市などの主要都市を有しています。ちなみに、今日雪陵会館へ顔を出しましたが、いつになく全体が静まりかえっていました。聞くところによると、大和川横のJR阪和線「浅香駅」が冠水し電車が不通になったために臨時休校になったようです。阪和線を利用しないので、阪和沿線だったことはウッカリしていました。


 「ハナちゃん初優勝」ハナちゃんの試合のYouTubu動画2本です。

  *2017.10.22 丸岡 花 1回戦判定勝ち
  *2017.10.22 丸岡 花 決勝戦合せ一本勝ち 優勝

 ハナちゃんは、自分の戦い方・勝ち方が段々とわかってきてるみたいで、この試合はめちゃくちゃ良かったです(^o^)小猿


 初芝を本拠地としていた「小猿道場」。好きな石津でも道場を開きたいとの希望を持っていました。そこで、石津の有力者「股野 稔」「井野 勉」「楠 昭乗」君たちに相談し、2009年4月に「浜寺石津校区地域会館」で「小猿道場キックボクシング教室」を開校することになり現在に至っています。当時小猿が配ったチラシを見た姪(姉の子)が、私の名前が出ていたので電話を掛けてきました。早速、学生時代に空手をやっていた姪は息子「ノブト」を入校させました。いつしか、妹の「ハナ」も兄と一緒に小猿道場に通うことになりました。今では母子3人で練習しているそうです。

 そんなハナちゃんも小学4年生になり親のDNAを受け継ぎ、小猿先生の良き指導を得て兄と共に頭角を現してきたようです。今日、小猿先生の送ってくれた映像を見せてもらいました。兄の方は中学生になり一段と逞しくなってきましたと聞いていましたが、ハナちゃんもしばらく見ないうちに逞しくなって大会で優勝するまでに成長していたので驚いた次第です。久野 勲

平成29年10月22日(日)「被害の無いことを祈りつつ」
 昨夜は当ブログでも紹介した手前もあり、11時頃から1時間ほど部屋の灯りを消して、ハワイ上空からの「オリオン座流星群」特別番組を見ていました。満天の星空でしたが、見えたのは5~6個でした。他の流星群に比べると流れるスピードが「三大流星群」などに比べると速く、星に願いをかけるのが難しいそうです。いつもの事ですが、つい期待が大きすぎるためなのでしょうか少なからず物足りなさを感じました。

三大流星群
しぶんぎ座流星群  1月 1日 ~ 1月 7日ごろ
ペルセウス座流星群  7月14日 ~ 8月24日ごろ
ふたご座流星群 12月 5日 ~12月20日ごろ
   
それでは口直しならぬ、目直しとばかりに
You Tube から映像を拝借しました

2017/10/18に公開映像

 昨夜は久しぶりに星空が広がり10月21日に極大日を迎えるオリオン座流星群の流れ星をいくつか見ることが出来ました。オリオン座流星群以外の流れ星もいくつか写っています。流れ星の流れる部分は再生速度を落としてあります。移動する光跡は飛行機か人工衛星です。今年のオリオン座流星群は非常に条件が良いので天気が良ければたくさんの流れ星が見れそうです。



 今朝は早々に防災無線放送の「当地区に大雨警報が出ました。今後の気象情報に注意して下さい」に目が覚めました。時計を見ると3時半でした。もう一度寝直しです(笑)。その後、12時半には「大雨洪水波浪警報」に変わりました。ますます近畿地方に接近しているようです。そんな超大型で非常に強い台風21号接近の中、期日前投票が多いにせよ投票率の低下が懸念されます。しかし誰の思いも同じのようで、今日午前中の投票会場は長蛇の列とまではいきませんが、結構な混み具合でした。

 今後も出来る限り日本列島に被害が及ばないことを祈りたいものです。その上で今夜のテレビ番組は、6時から「女城主直虎」、7時から村田諒太戦をはじめトリプル「プロボクシング世界タイトル戦」。そして「選挙速報」などが白押しで楽しみです。ちなみに、最近あまり聞かれなくなりましたが「目白押し」とは《メジロが樹上に押し合うように並んでとまるところから》多人数が込み合って並ぶこと。また、物事が集中してあることを意味します。久野 勲



10月22日午後9時半現在
携帯への連絡・防災無線放送によると

 石津川の水位上昇につき、周辺地域に近くの小学校への避難準備情報が出ました。なお、避難勧告が出る可能性もあるために、今後の情報に注意するようにとのこと。

平成29年10月21日(土)「台風接近の中、観えれば良いね」
 日本でも、冬の星座として有名なオリオン座。オリオンは、ギリシャの海の神、ポセイドンの子どもです。だから、オリオンは、海の上でも、陸の上でも、同じように歩くことができました。あまけにとても背が高く、海の底を歩いていても、頭が海からでるほどでした。それに、とても力が強く、太いこん棒を持って、陸の上を歩き、トラもライオンも、簡単に倒すことができました。そのため、ギリシャ一番の猟師になったのです。

 そうしているうちに、オリオンは、だんだんと自分の力を鼻にかけるようになりました。オリオンは『自分よりも強いものはいない』と、力を自慢するようになりました。そんなオリオンの態度を見た女神ヘーラは、オリオンをこらしめてやろうと、オリオンの足元に、大さそりを放しました。さすがのオリオンも、さそりの毒には勝てず、死んでしまいました。その後、オリオンもさそりも、星座としてそらに上げられましたが、今でもオリオンはさそりを苦手としていて、さそり座が東の空に上りはじめると、すごすごと西の空にしずんでいくのだそうです。



 ウェザーニュースによると、北海道と東北では観測のチャンスがあるそう。ピークは、今日20時頃。雲がなく人工的な明かりのない場所で、広く空を見渡せば、もしかしたら見られるかもしれませんね。今年は月がほぼ新月で、月明かりの影響がなく、流星群のピーク時間も遅すぎない絶好のタイミングだったのに、あぁ~それなのに、それなのに。『流星電波観測国際プロジェクト』によると、次にオリオン座流星群の観測条件が「好条件」となるのは、2025年のことだそうです。しかし、東北以南にお住まいの皆さんも絶望することはありません! ウェザーニュースがYouTubeなどで中継を行っています。それも世界屈指の美しい星空を誇るハワイから。21日のハワイのお天気は、晴れところにより曇り!降水確率10%だそうです。快晴とまではいかないようですが、少なくとも晴れ間は出るもよう。これは期待してもいいんじゃないでしょうか?今夜はギリシャ神話でも思い浮かべながら星に願いをかけてみるのも、また一興かも知れませんね。久野 勲

平成29年10月20日(金)「行きはよいよい帰りは・・・」
 先日の「つつみ」での話によると、警察から連絡があり先月の飲み逃げ犯が捕まったそうです。「つつみ」での犯行も自供したとのことでしたが、特に大きな被害が無かったので「被害届」は出さなかったそうです。常習犯だったとのことで、取りあえずは良かったですが手放しで安心はできません。しかし、まぁ少しはこの界隈も落ち着いてくれれば良いんですがと笑っていました。



 ところで今朝は雨の合間を縫って、いつもより1時間ほど遅く出かけました。念のために傘を持参しましたが、何とか使わずに済みした。折り返し地点を過ぎてしばらくすると、何処からとも無く「ペッタン・ペッタン」というかすかな音が聞こえたように思いました。餅つきにはまだ早いのになぁと思っていると、その音が次第に大きくなりました。耳を澄ますまでも無く、音源は明らかに自分の足もとからでした。あれっ、立ち止まって右の足裏を見ると履き慣れた愛用のナイキシューズが、ご覧のように無惨にも大きく口を開けているではありませんか。仕方なく、ウォーキングを始めて2度目となる途中リタイアせざるを得なくなってしまいました。1度目は、梅雨時のことで急に大雨に見舞われた時でした。傘がまったく役に立たず、今日と同じように浜寺駅前から一駅ですがチンチン電車に揺られて帰ってきました。今日は電車で帰りなさいと言うことだったのか、ただ単に歩き方に問題があっただけなのでしょうか、いずれにしてもこんなハプニングは初めてのことでした。久野 勲
平成29年10月19日(木)「中国版ドッキリカメラなの?」
 「恐い物見たさ」と言う心理は世界共通なのでしょうか。ちなみに、私の恐い物は「幽霊」の類いです。もちろん一口に恐い物と言っても、人それぞれ個人差があります。そんな中に、私のように高い所が苦手な「高所恐怖症」や、ウナギではあるまいし狭い所が苦手な「閉所恐怖症」などの人もいるようです。ところで、中国湖南省の張家界にある峡谷に8月20日にオープンした「世界最長」とされるガラスのつり橋が人気を呼んでいるそうです。人気を呼びすぎて、10日あまりで営業を停止したとのことです。その理由は、1日当たりの訪問客は8000人に限定していましたが、実際にはこの10倍程度に膨れあがっていたそうです。まるで日曜日の心斎橋筋のような混みようですね。

 その後再開されたようですが、今度は事もあろうに歩くたびに次々とガラスの床にひび割れが生じると言う、まさに驚愕の事態が生じたそうです。本来なら、すわっ!大惨事になるところですが、これがその映像です。


 しかし、何としたことでしょうか?中国の国民は高所平気症なのでしょうか、ハラハラしながら映像を観ていると、みんなひび割れの上を平気で歩いています。果たして、その真相やいかに。実はこのヒビは特殊効果だそうです。床にはセンサーが仕込まれており、人が渡るとそれを感知して床にヒビの映像を走らせていたそうです。それにしても、高所恐怖症や心臓の弱い人は要注意ですね。久野 勲
平成29年10月18日(水)「インフルエンザ流行に備えて」
 早速夕べは寒さを物ともせず、善は急げとばかりに誤嚥性肺炎予防に堺東のカラオケ居酒屋「つつみ」まで出かけてきました(笑)。そして、ちょうどこの時期にはピッタリの河島英五の「晩秋」を歌ってきました。もちろん出で立ちは、寒さに備えて完全に冬支度でした。取りあえず、忘年会の日程も調整してきました。少しばかり気が早いようですが、これで何とか年末の計画も立ち安心して師走を迎えられそうです。

 寒さと言えば、鍋物が恋しくなる季節になりました。なお、毎年インフルエンザが流行するのは12月下旬頃から翌年の3月にかけてだそうです。予防接種は、受けてから効果が現れるまでに約2週間かかり、その効果は約5か月間持続するとのことです。インフルエンザが流行する時期と、予防接種の効果が現れるまでを逆算して考えると、11月から、遅くても12月中旬頃までには予防接種を受けておくとよいそうです。予防接種をすると、かかり難かったり、かかっても症状が重くなるのを防ぐ効果があるそうなので、今年も受けようと思っています。




 ところで、私たちが中学校を卒業した1958(昭和33)年は「ロカビリー」とか「フラフープ」が大流行した時代でした。1950年代の後半に一世を風靡したフラフープが10月18日、日本で初めて発売されたと言うことで、今日は「フラフープの日」だそうです。輪を身体で回す遊びです。当時の価格は1本270円(子供用は200円)とリーズナブルな価格で、1ヶ月で約80万本を販売したそうです。私は使いませんでしたが、当時女の子の間では遊び道具として流行っていたようです。しかし、もともとアメリカでは若い女性用のエクササイズグッズとして作られたようです。その後、子供のおもちゃとしてだけでなく、ご婦人方のダイエット用としても広く人気を得たようです。久野 勲
平成29年10月17日(火)「誤嚥(ごえん)性肺炎予防のカラオケ」
 今朝も冷たい雨が降り続いていました。秋雨前線の停滞とやらで、秋の長雨が続いていてここ数日は引きこもり状態です。日本列島上空の秋雨前線は、列島南にある太平洋高気圧(夏の高気圧)が強いため南下できずに停滞しているそうです。予報では午後から前線が南下しはめるとのこと。上手く行けば午後から三日ぶりとなるウォーキングンに出かけられるかも知れません。取りあえず午前中は「新吾動物記」の画像の確認を始めることにします。

 午後からは天気予報通りの展開になりました。どうやら雨が上がったようなので昼食後、折りたたみ傘持参で出かけました。外に出ると、早くも冬支度を考えなければいけないほど、この秋一番の寒さでした。しばらく手先が痒くなりました。手先が痒くなるのは、寒くなると血行が悪くなるようでよくある症状です。体が温まってくるまでですが、やはり秋は短いように感じました。まさに晩秋と言った風情でした。




 「♪月はおぼろに東山~霞む夜毎のかがり火に~夢もいざよう紅桜~しのぶ思いを振袖に~祇園恋しや~だらりの帯よ~」。思い起こせば、私のカラオケでのデビュー曲は「祇園小唄」でした。今から40ほど前になるでしょうか、三十路半ばの遅いデビューでした。そこは、同僚たちと時々通っていた職場近くのお好み焼き屋さんでした。それがある日「カラオケが入りましたよ」とのこと。別に待っていたわけでありませんが、テッキリ新たなお好み焼きのことかと思いました。物珍しくのぞき込むと、カラオケ機械とやらに、何やら8トラとか言うテープを入れると伴奏付きで歌詞の書いた本を見ながら、しかもマイクで歌が歌えるらしい。ぜひ試しに歌ってみて下さいとのこと。

 まず、他の店で何度か歌ったことがあるという軍歌好きの先輩のゴローさんが挑戦しました。カセットを見ていましたが、まだカセットが揃っていなくて軍歌が無いらしい。しかも、一発頭出しとやらの操作が分からないので、1曲目から順番に歌って下さいとのこと。その都度歌に合わせて本を開くのが大変でした。私にとっては知らない歌ばかりでしたが、何曲目でしたか「祇園小唄」があったので、慌てて本を開いて途中からになりましたが歌ったのが記念すべきデビュー曲だったわけです。ちなみに、1994(平成6)年10月17日に全国カラオケ事業者協会が設立され、同協会が「カラオケ文化の日」として制定し、カラオケの普及に力を入れているそうです。ちなみに「カラオケの日」は別にあるそうです。

 カラオケと言えば、先日小猿が電話をくれた時に「風邪でも引いて張るんですか?」と聞かれました。イヤ、そうじゃないんやと答えると「歌い過ぎですか?」ときました。イヤ逆や、日頃はほとんど喋ることは無いからか、週に一度のカラオケも最初の1、2曲は声が出にくくなっているんや。小猿の出した結論は「ブログに出ていた浜寺水路のカラオケオジサンの横で並んで歌わなあきませんね。それと週に一度のカラオケでは少なすぎますね」でした。カラオケオジサンの横はイヤなので、せめて誤嚥性肺炎予防のためにもウォーキングの際に近くに誰も居ないことを確かめて歩きながら発声練習をしなければと思っています。もちろんマイクは持ちませんが(笑)。久野 勲
平成29年10月16日(月)「徳川幕府、女歌舞伎禁止の令」
 1607(慶長12)年2月20日、「出雲の阿国」が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露しました。これを記念して2月20日が「歌舞伎の日」に制定されているそうです。また中学校の教科書(社会科)には、確かこのような画像と共に次のように掲載されていたように記憶しています。1603(慶長8)年、京都四条河原で出雲の阿国がかぶき踊りを始めたのが歌舞伎の発祥とされています。四条河原では、それ以後女歌舞伎が評判となりました。

 中学校で習いましたが、その後歌舞伎には興味が無く観に行ったことはありません。ただ、歌舞伎に関係なく歌舞伎役者ががテレビに出たり、映画に出たりしているのを見たことはあります。しかし、いわゆるタレントや俳優として、多くの女性が出演していますが、歌舞伎の女優さんは見かけません。別に気にもなりませんでしたが、ネットニュースによると歌舞伎俳優の市川海老蔵が自身のブログで女性は歌舞伎俳優になれないということを踏まえての発言として「長女と歌舞伎で共演したい」との願いを打ち明けた。と出ていました。

 もともと女性が始めた歌舞伎なのに、なぜ女人禁制になっているのでしょう?徳川家康が江戸に幕府を開いた1603(慶長87)年、出雲大社の巫女(みこ)と称する「出雲の阿国(おくに)」という踊り子が京の都に出現します。特に人気の演目は、「傾き者」の男性を女性の阿国が扮して踊った「かぶき踊り」でした。当時の世相をいち早く反映させて演目に取り入れ、若い女性が男性を演じるというアイデアが大当たりしました。阿国人気に便乗し、遊女らによる女一座が次々できました。女性によって演じられたかぶき踊りは「女歌舞伎」と呼ばれるようになり、大ブームが起こります。関西での成功を手に、阿国は江戸へ向かいました。阿国のかぶき踊りは、江戸でも評判となり、大成功を収めます。しかし、阿国を真似てできた遊女一座の女歌舞伎の中には、裸踊りまがいの際どい演目を行なうものもでてきました。また、この人気の影響で遊女を巡ったトラブルや淫らな事件が多発し、徳川幕府は武家社会の風俗を乱すとして、1629(寛永6)年「女歌舞伎禁止令」を出さざるを得なかったようです。その後、晩年に謎の多い阿国は故郷である出雲の杵築(きつき:島根県出雲市大社町)に戻り出家したと言い伝えられています。
久野 勲
平成29年10月15日(日)「如何ともし難い脳内CPU劣化」
 上野彦馬【天保9年8月27日(1838年10月15日生)】は、幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)です。日本における最初期の写真家で、明治10年に政府の要請で西南の役に従軍するなど日本最初の戦場カメラマンとしても知られています。文久2(1862)年、彦馬は写真術の修行の後、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業しました。ちなみに、これは日本における最初期の写真館であり、彦馬は日本における最初期の職業写真師とされています。同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影し貴重な資料として後世に伝えています。創業当時の撮影料は銀二分。決して安くはなありませんでしたが、通訳や商人たちが続々と訪れたそうです。軌道に乗った写真営業は前途洋々で、長崎県庁の役人の平均年収が120円程度という時代に、15000円の収入だったそうですから、それはそれは裕福な生活を送っていたと思われます。


 改めて考えてみるまでも無く、土佐の下級武士で、しかも一介の脱藩浪人となった坂本龍馬が、なぜ時代を動かせて歴史に名を残すほどの偉大な活躍ができたのでしょうか、まっこと不思議なことぜよ~(笑)。一説によると龍馬が、世界的な秘密結社であり世界統一政府と世界統一宗教の樹立をめざす「フリーメイスン」のメンバーだったのでは、との都市伝説も囁かれるほどの謎多き人物だったようです。そうでも無ければ、到底理解出来ないほどの人物でもあったようです。



 ここのところ、当ブログは少々幕末に拘りすぎたようです。これを機に以前から気になっていた別館の「坂本龍馬」「維新の群像」の画像が入れ替わっているのを修正することにしました。やはり、かなりの数の画像が入れ替わっていました。これは、元々一台のパソコンで複数のサイトを編集していたためです。それぞれのサイトに同じファイル名の画像が存在していて、お互いに混線してしまっています。気がつき次第、ファイル名を変えてアップをし直してはいます。しかしながら長年続けていると、たまり溜まって数万の画像を使っているので、私自身の脳内PCUの劣化が着々と進んでいる中なかなか思うように事が運ばないのが現状です(笑)。久野 勲
平成29年10月14日(土)「今年は大政奉還150周年記念」
 今朝、いつものようにウォーキングに出かける前に、パンを食べながら広げた朝刊に大きく「大政奉還表明、出席者が克明に記録」との見出しが出ていました。つまり、第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が、家康以来265年間続いた徳川政権を朝廷(天皇)に奉還(お返し申し上げる)するという、誰もが知る歴史的出来事に関する新たな資料が発見されたようです。非常に興味のある話なので、とりあえず帰ってからゆっくり読むことにしました。

 慶応3(1867)年10月13日に、慶喜が京都二条城で大政奉還の意向を各藩の重臣を集めて伝えた際に、越後新発田藩の京都留守居役だった寺田喜三郎が克明に記録していたそうです。「大政」とは天下の政(まつりごと)の意で、15代将軍・徳川慶喜が、ちょうど今から150年前となる慶応3(1867)年10月14日に政権を明治天皇に奉還し、翌15日に朝廷がそれを勅許しています。ちなみに10月13日、慶喜は在京の10万石以上40藩の重臣50余名を召集し「大政奉還」の是非について諮問します。このとき多くの諸藩重臣は確答を避けて退出し、残った薩摩の小松帯刀(たてわき)、土佐の後藤象二郎・福岡孝弟らが速やかに「大政奉還」をすべきことを進言します。もちろん、この場には薩摩藩の下級武士である西郷や大久保もは元より、討幕派の急先鋒である長州藩からは誰一人参加していません。なお、徳川慶喜が二条城で大政奉還を表明した約1カ月後の慶応3(1867)年11月15日の夜、幕府に代わる新体制づくりに奔走した土佐藩脱藩浪人・坂本龍馬が河原町蛸薬師の醤油(しょうゆ)屋「近江屋」で何者かに襲撃され、31歳の短い一生を終えました。

 ちなみに、上級武士出身の小松帯刀は、28歳の若さで薩摩藩の家老に抜擢されました。政治も無礼講ということで、下級武士だった西郷隆盛や大久保利通が活躍できる場を提供し、2人と殿様とのパイプ役も果たしました。親友である坂本龍馬が考えた明治新政府の人事構想では、西郷、大久保らを差し置いて一番に名前が挙がるほどの人物だったようです。
しかし、明治維新後、小松の病状は回復せず、主治医のボールドウィンは、日本の医療技術では治療に限界があるとして小松に渡欧を勧めています。小松は少しの運動でも激しい胸痛を訴えるなどしており、薩摩藩家老、久武右衛門の書簡にも、御肺病とある為にその死因は肺結核だと考えられています。西郷や大久保を超えるほどの才能を持っていた小松は、肺病という当時は不治の病に身体を蝕まれ、35歳という若さで、この世を去ってしまいました。


 なお、京都では、昨日「大政奉還150周年記念幕末サミット」が開催され今日10月13日(金曜日)~10月22日(日曜日)までの10日間、午後6時~午後9時まで二条城ライトアップが実施されるそうです。久野 勲
平成29年10月13日(金)「わが国最大規模のお引っ越し」
 「天皇はんは、東京へおいでやして、まだお帰りやないんどすえ~」「天皇さんは、なかなか京都にお戻りやおへんなぁ~」。未だに京都の古い人たちの間では、このような思いを受け継いでいるとか聞いたことがあります。「ちょっと江戸まで出かけてきます」と言われたのかどうか知る由もありませんが、明治天皇が江戸に到着したのが1868(明治元)年10月13日のことだったそうです。天皇は9月20日に京都を出発してから、約1ヶ月かかったことになります。これが事実上の遷都(せんと:都を移す)になったようです。もちろん、京都の関係者は不満だったようです。

 実は遷都の候補地は東京だけでは無く、維新三傑(木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通)の一人である大久保利通らは「軍事的」「外交的」な理由から「大阪遷都」を考えていたようです。新政府を京都に樹立したものの、そもそも新政府の中心となった大久保利通らは無位無官の下級藩士で大事な会議にも出席できませんでした。また岩倉具視らも下級公家だった為、朝廷内での発言は弱いものでした。そこで、新しい国造りを目指す新政府にとって、古いしがらみやしきたりがある京都の公家たちから天皇を引き離す必要があり、その為には遷都が不可欠な事でした。大久保は『大坂遷都建白書』の中で「因循の腐臭を一新しなければならない」と書いてあります。しかし、これには公家達の根強い反発があり、断念せざるを得なかったようです。結局、候補地だった大坂には「大坂行幸(ぎょうこう:天皇の外出)」を行い、改めて今回9月の「東京行幸」となったようです。警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3300人にも及んだそうで、約1ヶ月も掛けたのは道中民衆に天皇の権威を誇示する目的もあったそうです。

 大久保利通と言えば、明治6年夏の夕方に、当時大坂府知事だった税所篤と内務卿であった大久保利通は高師の濱を見るため訪れます。この濱の石に腰をかけて、四方の景色を見渡すほど松の林が伐採されていたのを見て「この濱の姿はなぜか」と大久保は税所に訪ねます。当時、既に2639本あった松が、1791本はすでに伐採され、残り848本になっていたそうです。大久保は、乱伐されたその姿を見て、いかに士族授産のためとはいえ、有名な千年の勝地が一朝して虚しく廃滅してしまうことを嘆きます。そして「
音にきく高師の浜の浜松も世のあだ波はのがれざりけり」という一首を詠みました。税所は直ぐに伐採の停止を命じ、その後、税所はこの浜寺を公園にするため、太政官に申し出て、同年12月に許可されました。その後、明治31年「大久保右府詠歌碑開式」が行われ、ご覧のような「惜松碑」が立てられました。久野 勲
平成29年10月12日(木)「つい季節外れの話題になりました」
 世の中には不思議な事があるようです。例えば、同級生から聞いた話ですが、ある日いつものように、団地の4階のベランダで洗濯物を干していたそうです。フト気配を感じて振り返ると、亡くなったお父さんがニコニコしていたそうです。思わず「どこから来たん」と聞くと、下に停まっている軽トラを指さしたそうです。「えっ、あれに乗って来たんか」と言って振り向くと居なくなっていたとのこと。その人は子供の頃から霊感が強く、夜中に足音が聞こえたり幽霊を見たことがあると言っていました。その他にも、友人・知人から信じられないような話を何度も聞いたことがあります。その都度、幸い私には霊感が無くて良かったと、つくづくそう思いました。

 そんな私が体験した不思議な出来事と言えば、10代の頃誰も居ないはずの2階で足音が聞こえたことがありました。兄貴が「誰や!」と声を出して階段を上ると同時に、私が外に出て窓を見張ることになりました。窓が開いたのでビックリしましたが、それは兄貴でした。それと、今の家に引っ越してから何度も「金縛り」に襲われたことです。しかしその後建て替えてから20数年になりますが、一度も襲われたことはありません。

 なぜ今、季節外れの恐い話題なのでしょう。今日も今日とていろんなニュースをチェックしていましたが「【心霊映像】カメラは見ていた! 午前3時に学校で起きたポルターガイスト(ドイツ語:家の中で、物を動かしたり大きな音を立てたりする霊)現象が不気味すぎてヤバい!」こんな見出しが目にとまりました。つい「恐い物見たさ」から興味をそそられました。今回ご紹介するのは海外発の心霊映像です。YouTube ですでに600万回近くも再生されているとのことです。
この動画が撮影されたのは、アイルランドのコークにある「Deerpark CBS」という学校だそうです。カメラが心霊現象をとらえた時刻は午前3時。もちろん校舎内に人はおらず、シーンと静まり返った様子を確認できます。だが次の瞬間!(突然大きな音がします)


 そんな恐い動画を観ている時に、いきなり電話が鳴ったのでビックリしました。子供の頃から、お経の本に出ていた「役行者」や、よく「天狗」・「龍」が夢に出てきたとか、とにかく霊感の強い小猿でした。用件は取りあえず「小猿忘年会」の案内でした。何かと多忙を極める中、毎日当サイトには目を通してくれているようです。久しぶりだったので、お互い積もる話に花が咲きました。そこで、改めて再構築した際に「小猿」のページが消えて無くなっていることに気がつきました。小猿自身は以前のを「お気に入り」に入れていたのか何も言っていませんでしたが、急いで復活させました。いろいろ画像が化けているなどの不具合が見つかったので、追々修正しておくことにします。
小猿画伯三部作
役行者 天狗
 

 ちなみに、小猿と話をしていて驚いたのは弱冠30代で、早くも「吾亦紅」状態になってきましたと笑っていました。「♪髪に白髪が混じりはじめても~俺死ぬまであなたの子供~」。何かと慣れない気苦労が多いようで、髪の毛や髭に白いモノが混じり始めているそうです。久野 勲
平成29年10月11日(水)「まさに福が舞い込む福神漬け」
 そもそも福神漬けの起こりは、明治時代にさかのぼります。明治18(1885)年、東京は上野の漬物屋「山田屋」(現在の酒悦)が、福神漬け始まりの地とされているそうです。店主・野田清右衛門が10年の歳月をかけ、福神漬けを開発したとのこと。大根茄子カブシソレンコンなた豆の7種類の野菜を漬け込んだ漬物です。東京上野の近くには不忍池という有名な池がありますが、そこには七福神の一人、弁財天が祭られています。そこにヒントを得て、当時の流行作家・梅亭金鵞(きんが)が「福神漬け」と名付けたそうです。ちなみに、日本人にとってカレーのお供には「福神漬け」「ラッキヨ」がよく合ったようです。当時の人は、コレだけあれば他にご飯のおかずはいらないので出費が減り、貯金ができるというものです。「まるで七福神が家に訪れたようだ」と喜んでいたそうです。


 なお、カレーのお供に「福神漬け」と「らっきょう」の二者択一アンケートを実施したところ、68対32で「福神漬け」の方が多いという結果だったそうです。年代では50代以上だけは両方に差がありませんでしたが、それ以外は年代や性別・未既婚にかかわらず、すべて「福神漬け」の方が多いという同じ結果だったそうです。言うなれば、カレーの名脇役と言ったところでしょうか。もちろん、なかなか甲乙付けがたく両方食卓に並ぶ家庭も多いことでしょう。久野 勲
平成29年10月10日(火)「あわてずいそがずボチボチと」
 今日10月10日と言えば、1964(昭和39)年10月10日、日本で始めてとなる五輪大会「東京オリンピック」の開会式が行われました。なお、同時期に日本にとって初のパラリンピック参加となった「東京パラリンピック(11月8〜14日)」が開催されています。 これを記念して1966年から国民の祝日に関する法律に基づき10月10日が体育の日に制定されました。 その由来から「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」ことを趣旨として制定された祝日です。しかし、2000(平成12)年以降はハッピーマンデ―制度によって、10月10日の固定から第2月曜日に変更になっています。ちなみに、ハッピーマンデ―とは、週の間にある祝日を月曜に移動させることで、土曜・日曜・月曜と三連休になるようにするもので、体育の日の他にも成人の日、海の日、敬老の日などが該当し、全部が4つの祝日がこの制度によって毎年日付が変わっています。

 ところで、10月10日と言えば「toto(サッカーくじ)」「トト(魚)」「転倒」「銭湯」など、いろいろな読み方ができるようです。中でも我々高齢者にとっては「転倒」は死活問題になることもあります。「転倒」→「骨折」→「寝たきり」と言う最悪なパターンには要注意です。1mmもあれば、つまづくには十分な段差になります。しかし、だからといって転倒を恐がるあまり一日中テレビの前に座り込んで、体を動かさないようになってしまうのが一番いけないことです。体を動かさないと、ますます老化が進んでしまいます。閉じこもっていないで外に出て軽く散歩をするなど、無理をしない程度の適度な運動をすることが大切です。久野 勲
平成29年10月 9日(月)「遠き昭和の貧しかった時代」
 この時期は、いろんな風に表現されています。そんな中、夏の暑さで落ちた体力も回復し、いろんな食材の収穫期でもあることから「食欲の秋」と言われています。ちなみに、我々が生まれたのは終戦直前で育ち盛りの子供時代には食べ物は少なく、その上質素で好き嫌いなんて贅沢なことは言えば罰が当たるとか、米粒を食べ残すと目がつぶれるなどと言われた時代でした。さらに兄弟が多く遠慮なんかしていると何も口に入らない、そんな時代でもありました。我々の年代に早食いが多いのは、そのためなんでしょうか。

 そんな体験からだと思いますが、いわゆるゲテモノは別として一般的な食べ物では、大豆を腐らせた納豆以外ほとんど嫌いな食べ物はありません。ちなみに、日本三大珍味と言われているのは、ウニ・からすみ・このわたですが、私はいずれも苦手にしています。なお、世界三大珍味とされている、トリュフ・キャビア・フォアグラにいたっては、食べたことはありませんが食べてみたいとも思いません。




 ところで、今日のYahooニュースによると、岐阜県郡上市高鷲町の「花の駅ひるがの高原コキアパーク」では、ご覧のような群生した「コキア」が真っ赤に色づき紅葉のピークを迎えているそうです。この植物は和名をホウキグサといい、昔はこの茎を乾燥させてほうきを作っていたそうです。実は、ほうき草を加工した「とんぶり」は、別名「畑のキャビア」と呼ばれているそうです。直径1~2mmの小さな緑色の実は、魚の卵に似てプリプリした歯触りは、まさに畑のキャビアの名にピッタリだとか。久野 勲
平成29年10月 8日(日)「秋晴れの中、和やかにBBQ」
 三連休の中日となった今日は、久しぶりの爽やかな秋晴れに恵まれました。浜寺公園では多くの家族連れや若者たちのグループなどが大勢集い、バーベキューパーティーにはつき物の立ち上る煙の中で大層な賑わいを見せていました。それらを横目で見ながら歩いていましたが、中にはバーベキューが焼き上げるのを今や遅しと待ちかねて、宴会を始める若者のグループもいました。



 ところで、今日は108(いれば)の日に制定されているそうです。ちなみに、野生の動物たちは歯を失うことは致命的で、物が食べられなくなり生きて行くことが出来ません。でもわれわれ人間は大丈夫です。食べ物を工夫して歯が無くても食べられる食物の調理法を開発するとともに、入れ歯を発明して不足するまたは完全に失った歯を補うことを考え出しました。入れ歯の歴史は5000年近くあるとも言われています。しかし、歯が無くなって困っていたのは数千年前の人達も同じだったようで、どうやら「紀元前」から入れ歯というのはあったようです。ちなみに、地中海周辺の古代フェニキアのシドン(現在のレバノン・サイダ市)では紀元前5世紀頃の墓から、下の前歯を金の針金で固定したものが発掘されました。「エトルリア人の金製のブリッジ」のように、現在のブリッジに似た形のものも見つかっているそうです。

   



 ところで、私が10代最後の頃だったでしょうかテレビで「耳の穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わしたろうか!」なんて、ガラの悪いタンカが流行っていました。白木みのると凸凹コンビを組んで「てなもんや三度笠」でお茶の間を賑わせていました。その中で、藤田まことが「泉州は信太の生まれ、あんかけの時次郎」と名乗っていました。ちなみに、私は入れ歯などはしていなくて一応自分の歯を保っています。ただ、時次郎にやられたわけではありませんが、外見では見えない奥歯はほとんど原形を留めていません。日常生活に支障が無いようなのと、あの耳元でうなりを上げるグラインダーの音が苦手なのでそのままにしています(笑)。久野 勲
平成29年10月 7日(土)「神戸上空に相次ぐ不可思議な雲」

 神戸新聞(デジタル版)によると、先日4日の夕方神戸上空に、ご覧のようなまるで手塚治虫の「火の鳥」のような雲が出現したそうです。夕方時点で1万近い「いいね」が寄せられ、リツイートも6千を突破。「うちからも見えました」「こちらは大阪中之島からの写真です」「娘がJRの中から見たそうです」「写真撮り忘れた」など目撃談が相次ぎました。中には「×」字状になる過程を組み写真でアップする粋な計らいの人もいたそうです。「#イマソラ」というハッシュタグも存在しており、普段から空を見上げて楽しんでいる人の多さがうかがえるとのことです。 

 <参考>「ハッシュタグ」とは、ツイッターなどのソーシャルメディアにおいて、特定のテーマについての投稿を検索して一覧表示するための機能です。さらに「#イマソラ」とは、今撮った空の写真を投稿する時につけるハッシュタグです。

  さらにネットの「livedoorニュース」によると、ご覧の画像は今年6月に投稿者が兵庫県宝塚市で偶然見かけた、漫画家・手塚治虫氏の「火の鳥」を思わせるような幻想的な雲を撮影したものだそうです。画像を見ると非常に美しく神秘的で、偶然の産物とは思えないようなクオリティー(質)に驚かされてしまいます。ちなみに、宝塚市は手塚治虫氏が育った場所だそうですが、そんな場所でこの雲が発生したということは何か不思議な縁を感じずにはいられません。とのことでした。

 なお「手塚治虫記念館」は、兵庫県宝塚市で約20年間を過ごした手塚治虫氏の生涯を称えて(出生地は大阪府豊中市)、没後5年にあたる1994(平成6)年に青少年への夢を育ませる場として宝塚市に設立されているそうです。「自然への愛と生命の尊さ」を基本テーマとし、運営は宝塚市が行っているとのことです。久野 勲

平成29年10月 6日(金)「ケ(こ)=<个>→<箇>→<個>」
 重たい上に字が小さくて読みづらい(笑)そんな広辞苑によると、か【箇・个・ケ】(「ケ」の字は「个」からか)物を数えるのに用いる語。個。→こ(個・箇)と出ています。昔はよく見かけましたが、町の八百屋さんや果物屋さんには「1ヶ98円」などと書かれた値札を見かけることが少なくなりました。子供心に何の疑いも無く「いっけ」と読んでいました。しかし、これは「いっけ」ではなく(いっこ)が正しいそうです。この場合の「ケ」は、カタカナの「ケ」とはまったく無関係だそうです。そこで広辞苑で調べてみたわけです。つまり、この「ケ」は「箇」という字の古い形からきたようです。今は漢字で「1個」と書きますが、この「個」は「箇」の俗字で、かつては「箇」の別字体として「个」という字があったそうです。この「个」の字を崩すと「ケ」に似ていたために、カタカナの「ケ」に間違われたようです。



 ところで、私は6年ほど前に年末・年始を挟んで1ヶ月半入院したことがあります。この入院中、辛かったことの中に「夜寝られない」ということがありました。最初の頃の主な日課は、イヤホーンを当ててベッドでラジオを聞くことでした。ついウトウトとして眠ってしまうので、夜寝られないのは当然のことでした。夜寝られないから昼寝する、そんな悪循環の繰り返しでした。その頃、誰かに聞いたことがある「羊が一匹、羊が二匹。羊が三匹~」と数えてみたことがあります。30匹ぐらいまで来ると、逆に目が冴えてしまったりで往生したものです。手術後、主治医から「出来るだけ運動をするように」と言われていたので、女房にスニーカーを持ってきてもらって、点滴の台車を押しながら本格的に病院内を歩き回ることにしました。それからは徐々に夜眠れるようになりました。
 その後、随分経ってからのことですが、実は「羊を数える呪文」は日本人には効果が無いことが分かりました。それは日本ではなくイギリスが発生の地であり、ここに羊である理由があったようです。日本語では「羊が一匹。羊が二匹」と数えますが、英語では「one sheep、 two sheep、 three sheep」と数えていくそうです。眠れなかった人が自分に向かって「sleep sleep(眠れ、眠れ)」とつぶやいていたのが始まりだったそうです。眠くなってくるとsheep(羊)に変化していったとのことです。また、羊飼いが羊を数えているうちに眠くなったのが始まりという説もあるそうです。それを早う言うてくれよ!久野 勲
平成29年10月 5日(木)「大新聞の誤報が国家的大損失に」

 こんばんは、先日サンフランシスコに慰安婦像を設置したニュース見ました。翌日、ある団体の車が神戸の領事館に40台ほど集結した現場を偶然みました。久しぶり、その団体の演説を聞いていましたが、気持ちが少し落ち着きました。先ほど0時半のニュースで、大阪市がサンフランシスコと姉妹都市の約束をやめるとの大阪市長の会見を見て、これまた拍手です。黙つていたら、どこまでするのかわからない国。日本はもっと行動を起こし、言うべきだと強く感じるのは私だけでしょうか。神戸特派員



 記事によると、大阪市の姉妹都市である米サンフランシスコ市で中国系の民間団体が慰安婦像と碑文を設置した市営公園について、吉村洋文大阪市長は4日、サ市に寄贈を受けないよう求める公開書簡を9月29日付で送り、返信を受け取ったと発表しました。これを受けて、吉村市長は4日「サ市として像と碑文を受け入れるのなら姉妹都市を解消する」と改めて表明。「リー市長の思いは像と碑文を市有地に設置しても姉妹都市の関係を続けていこうという趣旨かもしれないが、僕の中ではありえない」と強調しています。

 かいつまんで振り返ってみる時、そもそも従軍慰安婦問題は1991(平成3)年8月11日付の朝日新聞(大阪本社版)に「日中戦争や第2次大戦の際『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』 のうち、1人がソウル市内に生存していたことがわかり『韓国挺身隊問題対策協議会』が聞き取り作業を始めた」という記事が掲載されたのが始まりだったようです。

 当時、多くの日本人はこの記事の元になった、韓国出身の文筆家「吉田清治氏が言う『奴隷狩り』のような強制連行が本当にあったのなら、補償や謝罪を求めるのも一理ある」と考えていたそうです。その後「吉田清治の『奴隷狩り』」は、朝日新聞が1982(昭和57)年以降繰り返し報じ、2014(平成26)年8月5日に掲載した自社の慰安婦報道の「検証」記事で、ようやく虚偽と認めた嘘話だったとのことです。

 そして、産経ニュース(ネット版)によると、
今年5月、朝鮮半島で女性を強制連行したと偽証した吉田清治氏(故人)の長男が、父親が韓国内に建てた「謝罪碑」の碑文の説明も虚偽だとして、関係者を通じて碑文を書き直していたことが11日、分かった。長男は「父が発信し続けた虚偽によって日韓両国民が不必要な対立をすることにこれ以上、耐えられない」と説明している。長男は、ジャーナリスト、大高未貴氏の新著『父の謝罪碑を撤去します』(産経新聞出版、6月2日発売予定)で、経緯などについて詳細に語った。とのことです。誤報に基づく風評被害にしてはあまりにも影響が大きすぎて、腹立たしさを通り越して恐ろしささえ感じます。



 話題は変わって、国語辞典によると、次のように出ています。
 仲秋:秋の三ヶ月(旧暦の七・八・九)の中。つまり、旧暦八月の別称。
 中秋:旧暦八月十五日。

 つまり、中秋の名月とは、旧暦で8月15日で秋の真ん中の日の月のことを指すそうです。ただ、十五夜という表現は、そのまま残っているようです。

「旧暦」と「新暦」の月のズレ  
季 節 旧 暦 新 暦
1・2・3 3・4・5
4・5・6 6・7・8
7・8・9 9・10・11
10・11・12 12・1・2

 「♪うさぎ うさぎ なに見てはねる 十五夜お月さま見ては~ねる~」これは昔から伝わる「童謡うさぎ」の一節です。意外なことに、この歌は作詞・作曲者不詳だそうです。童謡と言えば、私の母親の実家は和歌山県伊都郡かつらぎ町大谷村で紀ノ川のすぐ近くでした。そんな関係で童謡「ふるさと」では、ウサギ美味しではなく、小鮒つりし紀ノ川~と歌っていました。

 ところで、今年は昨日が中秋の名月でした。今朝のネットニュースに、ご覧のような岡山城と中秋の名月の見事なツーショットが大きく掲載されていました。よく見ると鳥が二羽飛んでいます。カラス城にカラスが、これぞスリーショットだと一人で色めき立ちました(笑)。しかし、私の勘違いで烏城(からすじょう、うじょう)と呼ばれているのは、松本城だったようです。

岡山城  うじょう
松本城  からすじょう

 カラスが、姿の似ている鵜の真似をして水に入って溺れてしまうという意味から、自分の能力、身の程を顧みないで人の真似をする者のことのたとえ。また、そのような真似をして失敗する者のことを「鵜の真似をする烏」と言います。確かに烏と鵜は黒い所が似ています。しかし、私の勘違いというのは「烏」という字です。音では「う」で、訓では「からす」と読みます。そもそも、これが勘違いの元なのです。なお、写真の鳥ですがカラスにしては大きすぎるようです。歌にもあるように、夕焼け空に鳶(とび・とんび)がくるりと輪を描いているのかも知れません。久野 勲
平成29年10月 4日(水)「いつもと変わらないことが幸せ」
  10月の声を聞くと、早速「忘年会」が話題に上りました。私にとっては、胃の三分の二を摘出手術後5年経過した昨年末の検診で「異常なし」の結果が出ました。その際、担当の先生から「念のため半年後と1年後に、もう一度検査をしましょうか」と言われ、お願いしました。半年後となった6月にも、幸い「異常なし」でした。うまくいけば、恐らくこの12月が最後の検診になると思います。恒例の「忘年会」については、検査日を含め2~3日前を除けばOKとの返事をしておきました。

 ところで、広辞苑によると「その年の苦労を忘れるために年末に催す宴会」とあります。であれば、一日や二日で忘れることは不可能でしょう。一方、特に職場では人それぞれ、常日頃から年上や年下などという見えない制約に縛られて窮屈な生活を強いられています。そこで、せめて年末ぐらいは、お互いに年のことは忘れて無礼講で楽しく飲もう。それが、年忘れ=忘年会だと言う説もあるようです。

 まぁいずれにしても1年分の溜まったものを払い落とすわけですので、年末の夜になるとつい飲み過ぎて悪酔いする人が続出し、あちこちで大トラが徘徊するのも仕方が無いことなのかも知れません。ちなみに、昔からお酒のことを女房詞(ことば)で「笹」とも言われています。笹薮にいる虎は、笹(酒)にはつきものというわけで、酔っぱらい=トラになったようです。景気の良かった時代ほどではありませんが、今でも時折り見かけることがあります。久野 勲


 <参考>「女房詞」とは、室町時代初期ごろから宮中に仕えていた女房たちが使っていた一種の隠語のようなものです。主に食べ物や体に関することに用いたそうですが、頭に「お」を付けて表現する言葉が多く、現在でも一般的に定着している言葉があります。例えば「おでん」「おかず」「おかか」「おこわ」「おじや」「おはぎ」「おひや」など。
平成29年10月 3日(火)「まさに食欲の秋&芸術の秋」

 我が家では食後のデザートに、ちょっとしたミックスフルーツが出てきます。バナナ、ぶどう、リンゴ、キュウイ、カキなど数種類が小さな器に少量ずつ盛られています。そして、それらが少しずつ季節の果物に入れ替わっていきます。その都度、居ながらにして季節の移ろいを感じることになります。そろそろ冬の果物のミカンが出てくる頃になりました。昔は指が黄色くなるほどよく食べたものです。

 ところで、昔から日本人は手先が器用だと言われています。私は外国の人とは付き合いがないので、比べてみることは出来ません。しかし、その通りだと思います。それは、小さい頃から箸を使ったり、折り紙、そろばんなどを教えてもらう機会が多かったからかも知れません。それにも増して、勤勉で忍耐強いなどの国民性が大いに影響しているように思います。

 そして今、あらゆるジャンルで日本人の手先の器用さが世界的に評価されているようです。そんな中でネットでは、ミカンを使った芸術的な作品が話題を呼んでいます。どこにでもあるような普通のカッターで、ほんの2~3分でご覧のようなハトを切り絵のように仕上げてしまいます。このアーティストは、2006(平成18)年からミカンの皮で作品を作り始めたという牧師の岡田好弘さんだそうです。そもそものきっかけは、ミカンを食べた時にむいた皮が、たまたまサソリのような形になっていたからなのだそうです。久野 勲

平成29年10月 2日(月)「如何ともし難いネットの影響」
 英語で激怒、暴力、非道な行為などを「アウトレイジ」と言うそうです。昨夜テレビで、北野武監督・脚本・製作総指揮・主演映画「アウトレイジ」が上映されていました。この映画のキャッチコピーは「全員悪人」「下剋上、生き残りゲーム」で、過激なバイオレンスシーンや拷問シーンが数多く含まれるため、映倫で「R15+」指定を受けています。

 観ましたが、まさに息もつかせぬ過激なドンパチシーンの連続でした。昔のヤクザ映画は、素手で殴り合うシーンが多く、喧嘩の前に「どっからでも、かかってこい」とばかりに、お決まりの指を折って相手を威嚇するポーズが観られました。今はそんなポーズは観られなくなってしまいました。私も真似をしたことがありますが鳴りませんでした。ただ、時折り首の関節を鳴らすことがあります。調べたところ、関節が鳴る原因は現在最も有力だと考えられているのは、関節の中を潤滑油の役目の液体が移動する時に出る気泡の破裂音だという説だそうです。ちなみに、整骨院の話では、あまりポキポキ鳴らさない方が良いそうです。

 ちなみに、一般財団法人「映画倫理機構(映倫)」のHPによると、
映画倫理機構(映倫)は表現の自由を護り、青少年の健全な育成を目的として映画界が自主的に設立した第三者機関です。映倫は映画が観客や社会に与える影響の大きさを自覚し、法や社会倫理に反し、とりわけ未成年者の観覧につき問題を生じうる映画については社会通念と映画倫理諸規程に従って、自主的に審査しております。また映画製作者が外部からの干渉を排除して自由に製作できる環境を作るとともに、観客の見る自由を保障し、さらに、次世代を担う未成年者がその成長に際し対応を誤ることのないよう配慮しています。とのことです。しかし、残念ながらネット界では規制が及ばず「その限りにあらず」というのが現状のようです。久野 勲
平成29年10月 1日(日)「長年の酷使で目・耳・歯にガタ」

 今日10月1日は1990(平成2)年に国連総会によって設けられた「国際高齢者デー」に制定されています。世界中の団体やコミュニティが会議の開催、声明の発表、祝賀行事などの活動を行っています。ところが、日本では今イチ浸透していないのが現状です。それは、10月1日の国際高齢者の日よりも長い伝統を持つ「高齢者の日」が重視されているからです。

 日本においては、以前から9月の15日を「高齢者の日」と定めて同日から21日までを「老人週間」としており、そして9月第3月曜日を国民の祝日で休日となる「敬老の日」と定めています。これらが国連高齢者の日とあまりに近いために10月1日にとりたてて国際高齢者の日として行事が行われることが少なくなっています。さすが、現在の世界一長寿の国・日本ですね。


 そして今日は「衣替え」でもああります。この風習は、そもそも中国の宮廷で旧暦の4月1日と10月1日に夏服と冬服を入れ替えていたことから始まった習慣のようです。日本へは平安時代頃に伝わり、室町時代から江戸時代にかけて四季に合わせて式服を替える習慣が定着したそうです。伝来した当初は中国にならって貴族社会だけの習慣で、年に2回、夏装束と冬装束に替えるだけでしたが、江戸時代の武家社会では年に4回になり、期間も着るものもそれぞれ次のように細かく定められていたそうです。

4月1日から5月4日までが(あわせ)という裏地付きの着物
5月5日から8月末までは帷子(かたびら)という裏地なしの単衣(ひとえ)仕立ての着物
9月1日から9月8日までの1週間程、また袷を着用
9月9日から3月末までは綿入れの着物

 そして、明治維新で新暦が採用されると、夏服は6月1日~9月30日、冬服が10月1日~5月31日となりました。学校や官公庁、制服のある会社などは現在もこの日をめどに衣替えが行われています。


 ところでつい先日のことですが、テレビからとんでもない会話が聞こえてきました。「棺桶に入っていましたか?」「ええ、お陰さまで入っていて良かったです」。えっ、思わず我が耳を疑ってしまいました。疑って正解でした。それは保険関係のCMで「ガン保険に入っていましたか?」と聞きそこ間違えてしまったようです(笑)。紛らわしい、ちょっと似てますよね。ちなみに今では死語になっているようですが、子供の頃は都合の悪い話しをされているときに、よく「今日は耳日曜日や」と言ったものです。城山三郎の「毎日が日曜日」ではないですが、特に次のような言葉には気をつけましょうね(笑)。久野 勲

六根清浄 ロックオン症状
 消毒液  ショートケーキ
 神のみぞ知る  カニの味噌汁
 料理の鉄人  よう似た別人
 エコロジー  エロジジイ
 多摩ニュータウンです  たまに歌うんです
 九死に一生を得る  急死に一生終える
 北習志野  汚らしいの

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