石津の民話     目次へ 

第12話 「浜寺公園と坂口托平」
  諏訪の森の中央を三光川という小さな川が流れている。その河口から南へ行くと、高師の浜にも伽羅川という細い川が流れている。この川を境にして高石町と浜寺町とに別れている。伽羅川の北側に昔から真っ白に塗らーれた大きな四角い柱が立っていた。この四角な柱を誰いうとなく「白ん棒」と呼ばれていた。この白ん棒には謂(いわ)れがある。明治37、8年の日露戦争、日本海海戦のときロシア・バルチック艦隊を全滅させ、敵海軍の捕虜を全員日本本土に連れてきた。その時に浜寺公園内に捕虜収容所を造った。その時に南の伽羅川と北の三光川の境界の処に真っ白に塗られた白い棒の柱が建てられたのだった。白砂青松の海岸一帯の地区を総称して浜寺公園という、東洋一の松の名所として世間一般に知れわたっていた。浜寺公園の入り口のところに大きな石碑が建っている。

   おほもとの 高師の浜の 松が枝を
   まきてし  ぬれど 家はしのばゆ
                    万 葉 集
   沖津波 高師の浜の 浜松の
   名にこそ 君を 待ちわたりつれ
                    紀 貫之
   吾に聞く 高師の浜の あだ波は
   かけしや 袖の 濡れもこそすれ
                    一宮輝伊

 それぞれの人が、それぞれの時代に大昔から詠まれてきた高師の浜は、今も浜寺町民の誇りとする処である。その昔、南北朝の時代に三光法師という偉いお坊さんが、この地に来られて、広大な大雄寺という立派なお寺を建てられたのである。そのお坊さんの名に囲んで、その後はこの地を高師の浜寺というようになり、それを略して浜寺という地名が起こり、その公園も浜寺公園と名付けられた。諏訪ノ森の中央を流れる小川も、三光法師の名に因んで三光川と名ずけられた。

 此の由緒ある、浜寺公園の松林が伐採の危機にに晒(さら)された時があった。幕末の頃、世は明治時代の新政府が誕生と同時に廃藩置県・廃刀令などで同時に禄を取り上げられた士族の人達の為に、公園の松林を民間に払い下げられ伐採の憂きめをみるところだった。政府の考えでは松林を伐採して禄を取り上げられた土族の生活を守る為に、伐採した後を耕してこの浜寺で百姓をさせる積もりだったらしい。その時ちようど当地に視察に訪れていた維新の元勲の一人といわれる 時の内務卿・大久保利通が松林伐採の話を聞いて大変心痛されたそうで、その時に大久保利通の詠まれた詩が、惜松碑(せきしょうひ)として今にのこっている。

     音に聞く 高師の浜の 浜松も
     世の仇波は 逃れ ざりけり

と嘆かれたそうである。

 大久保利通が、自ら時の政府に申し入れられて松の伐採を停止せしめたのである。有名な千両松・羽衣の松など、数々の銘木や、数百年以上も経てきた大木が、大久保利通卿のお陰で残される事になったのである。

 浜寺公園の松に二度目の受難がきた。時は明治39年頃の事である。我が日本軍の大勝利のうちに、日露戦争の終結を迎えた。日本海海戦の時の海軍の捕虜を、日本本土に連れて釆た。その捕虜、約8千名を浜寺公園内に収容する事になったのである。宿舎を建築せよとの政府からの要望があった。これを聞いた浜寺町民が、一丸となって大反対の運動を起こしたのであった。中でも浜寺町役場で一職員として働いていた坂口托平という青年が、どんな事があっても浜寺公園の松林だけは後世に残しておくのが町民の使命だと、先頭に立って猛然と立ちあがったのだった。政府要人に向かって、明治初期に大久保利通が自ら進んで浜寺公園の松の伐採に反対され、そのお陰で松が益々栄えて、大阪府民の心の慰めとなっている事を順々と説き、陳情を繰り返し行なったので、とうとう政府もその熱意に打たれて、捕虜収容所建設を断念した。捕虜収容所建設を他の地に変更させた、この人、坂口托平氏はのちに、浜寺町の町長として長年にわたり町政発展のために努力されたことが町誌に書かれている。

 浜寺公園の松、三度目の受難は昭和20年8月15日の敗戦後である。マッカーサー将軍が日本に上陸してから、上級官の宿舎が建設された。今度は敗戦国なので連合国の命令とあれば、どうする事もできず、今まで守ってきた松も邪魔になる木は切り倒された。残念でならない。しかし、米軍が引き揚げてからは宿舎も取り払われ大阪府の管理で元の公園へと復活した。昔の何百年というような大きな木は無くなって海は埋め立てられ、白砂青松の景勝地で、東洋一といわれた面影は無いが、これからは府の管理の許で有名な公園にして戴く事を願ってやまない。
  
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