堺泉北臨海工業地帯は、1954(昭和29)年~1966(昭和41)年に堺市の沿岸部が、1961(昭和36)年~1972(昭和47)年に高石市(当初は高石町)および泉大津市の沿岸部が整備され、計1,711.4haが造成されました。
 
昭和39年の「浜寺公園変形大プール」
 埋め立てられてしまった海をイメージして作られた、変形大プールの賑わいの様子です。当時、プールがまだ珍しかったこともあり、プール開設翌年の、昭和39(1964)年には、当時「東洋一の規模」とうたわれたプールで楽しむため、約74万人の入場者数を記録しました。





昭和39年7月の「プール入場券売り場」
 プール券発売所前で、入場券を求める人たちの長蛇の列です。当初、陽射しを遮るための屋根は一つだけでしたが、行列が伸びるにつれて増設されていきました。




浜寺駅前の移り変わり
明治時代
 濱寺停車場と呼ばれていた頃の光景です。駅前に客待ちの人力車が見えます。大久保利通も、この人力車に乗って白砂青松の浜寺公園を訪れたのでしょうか。





昭和時代


海水浴客が引きあげて西日に照らされ
静寂さを取り戻す駅前通り





昭和39年7月5日の「浜寺公園駅前」
 昭和39(1964)年7月5日、浜寺公園プール開設の翌年の、浜寺公園駅前の様子です。当時「東洋一の規模」とうたわれたプールで楽しむために、多くの人々が押し寄せました。現在、浜寺公園駅前では再開発が進み、写真右側の「よしだ食堂」は、現在更地となっています。その他の商店も、移転・廃業が進み当時の面影は薄れつつあります。






平成29(2017)年の「浜寺公園駅前」
 この昔の面影をとどめない光景は、南海本線高架工事が進む、現在「平成29(2017)年」の浜寺公園駅前の様子です。正面の歴史的にも価値のある駅舎は、少し移動して保存されることになっています。  






昭和40年 当時の「浜寺ヘルスセンター」

 昭和36(1961)年7月に完成した「浜寺ヘルスセンター」です。現在のスーパー温泉のような入浴施設で、ビヤガーデンなども設けられていました。当初は海水浴客の利用を見込んだビーチハウスとして計画されましたが、泉北臨海工業地帯の造成計画により海水浴場が埋め立てられる事になったため計画変更を余儀なくされました。現在は「レストハウス浜寺」として営業しています。



現在のレストハウス


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