平成24(2012) 9月〜平成24(2012)10月

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 平成24年10月31日(水)「朝と夜の間に」
 何年ぐらい前になるでしょうか「夜と朝の間に」という歌がありました。普通、夜と朝の間は寝ているものです。ところで、ジョギングでは息が切れて出来ませんが、いつものウオーキングではいろんな話しをしながら歩くわけです。話が弾めば弾むほど歩いている時間が短く感じます。昨日の朝のウオーキング時に相棒のべーやんが、石津太神社の関係で、予定の書き込めるカレンダーや、氏子さんたちの名前を入れた各種の表や書類を作っているが、どうもうまく行かなくて困っているとのことでした。そこで、午後からノートパソコンを持ってきて、我が家でミニ講習会をすることになりました。彼のノートは、以前からメンテナンス(正常な状態を維持できるように手入れすること)を頼まれていたので勝手は分かっています。ただ、「Excel」「Word」については、私も使っていますが、2010は機能が増えた分使いにくいですね。慣れでしょうか、2007の方が数段使いやすいように思います。そこを何とか時間をかけながら二つの課題に取りかかりました。何分、夜のウオ−キングがあるので途中で終わってしまいました。そして、今日の朝と昼の間に何とかすべく、朝のウオーキングの後、私が彼の家へ行って完璧に仕上げました。もちろん、久しぶりに彼のノートのメンテナンスもしておきました。彼のノートのOSは私の苦手なVISTAでセキュリティの関係だと思いますが、少しばかり手こずりました。ネットで、「8」へのアップグレードが3300円で出来るそうなので、一考の余地があるのではないかと思いました。

 その後、一旦家へ帰って夕食を済ませて一息ついていると、ピンポ〜ンと夜の訪問者です。べーやんは、二日にわたるミニ講習会で思っていたことが上手く出来て良かったと大層喜んでくれました。そして、歩きながら「今夜は本能寺がありますね」と、確かにそう聞こえました。「本能寺?信長の?」「いえ、陰陽師の映画です」「ほぉ、何時から?」「9時からです」「それなら、帰って一風呂浴びてゆっくり観れるな」。陰陽師とは、先日アップしておいた「岡ちゃん散歩C」に登場していました。と言うことで、ブログの更新は少し遅れるかも知れませんが「陰陽師」を観ることにしました。

 ところで、メンテナンスと言えば、これからメンテナンスをと思いながら、出来なかった一台のパソコンがあります。それは、同級生のサトちゃん(酒井サト子)のパソコンでした。彼女は、私が平成3年にはじめて20年間続けてきたた、小学校の同窓会新聞「かいらんばん」の良き理解者の一人で、親身になって発送作業など手伝ってくれました。晩年は積極的に原稿を書いてくれました。そして、私の影響を受けてパソコンを買って、何とかワープロで原稿を打つまでになっていました。そして、お互いにこれからが楽しみだと言い合っていた矢先の平成20年2月10日に、再発した病に斃れ皆なの願いも空しく帰らぬ人となってしまいました。そこで、当時私は急きょサトちゃんの追悼の意味で「軌跡」と題して石津小学校のサイトに掲載しました。
久野 勲
 平成24年10月30日(火)「初恋談義」
 河島英五が歌った「野風増」に、「♪惚れて振られた昔のことを、思い出しては苦笑い」と言う詩があります。この歌を聴いて誰しもが味わった経験のある、甘酸っぽくもほろ苦い「初恋」・「片思い」という、大切な青春の1ページを思い出される人も多いことでしょう。

 初恋と言えば、まず「石川啄木」を連想します。

             
砂山の砂に 砂に腹這い
             初恋のいたみを
             遠くおもい出ずる日
             初恋のいたみを 遠く遠く
             ああ ああ おもい出ずる日


 これは、同窓生の中島慈子さんをはじめとして、多くのソプラノ歌手が歌われているようです。ちなみに、啄木が初恋の人堀合セツ(節子)と逢ったのは、岩手県立盛岡中学校二年の時で、当時啄木は十三歳でした。啄木が短歌に本格的に取り組み始めたのは十五歳の時でしたが、その頃からセツとの恋愛も急速に進展を見せたと言います。その後啄木は上京しましたが、セツとの恋愛も続きました。そして遂に、明治38年(1905)に友人の主催で結婚式を挙げることになったのですが、途中行方不明となり、花婿不在のまま披露宴が行われた、と言うエピソードが残されています。
    

 そして、「島崎藤村」でしょうか。

             
まだあげ初めし前髪の
             林檎のもとに見えしとき
             前にさしたる花櫛の
             花ある君と思ひけり
             やさしく白き手をのべて
             林檎をわれにあたへしは
             薄紅の秋の実に
             人こひ初めしはじめなり


 この歌は、舟木一夫・小林 旭が歌っていて、カラオケでも時々お耳にかかることがあります。ちなみに、1896(明治29)年の今日10月30日に、島崎藤村が『文学界』46号に『こひぐさ』の一編として初恋の詩を発表しました。このために、今日は「初恋の日」として制定されているそうです。
    

 次が、46歳でこの世を去った「村下孝蔵」です。

  
        五月雨は緑色 悲しくさせたよ一人の午後は
  恋をして淋しくて 届かぬ思いを暖めていた
  好きだよと言えずに初恋は
  ふりこ細工の心
  放課後の校庭を走る君がいた
  遠くで僕はいつでも 君を探してた
  浅い夢だから 胸を離れない


 これは、私のレパートリーに入っていて、時々歌っています。
    

 さ〜て、お立ち会い、どん尻に控えしは 「これ」です。随分前のことですが、当時同僚で飲み仲間で、しかもミュージシャンでもあった「ほりうちさん」が曲をつけてくれました。私が歌いやすいようにと、スローバラード調に仕上げてくれました。
久野 勲
 平成24年10月29日(月)「冬来たりなば」
 今や日課となっているウオーキングの際には、いつもチンチン電車の浜寺公園駅の構内を通り抜けます。昨日までは気がつきませんでしたが、構内に貼ってある大きなポスターが目につきました。それには、10月末から11月はじめにかけて催されるという「堺文化財特別公開×へぅげもの」つまり、この二つがコラボレーションするという意味の活字が大きく出ていました。「へぅげもの」?聞いたこともない言葉なので調べてみました。「へぅげる」とは(ひょうげる)と読みます。また「剽げる」とも書き「ふざける」「おどける」という意味だそうです。そして、山田芳裕氏による漫画のタイトルになっていて、講談社刊『モーニング』にて隔号連載中だそうです。さらに、第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、第14回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞作だとのことです。その上に、2011年(平成23年)春には、NHK・BSプレミアムにてアニメ化されたとのことです。この「へうげもの」の出典としては、九州博多の豪商神谷宗湛が著した茶会記『宗湛日記』に、慶長4年(1599年)2月8日に古田織部の茶会に招かれたときの様子が「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」(瀬戸茶碗ひずみ候なり。ひょうげものなり)と、記されているそうです。う〜む、私としたことがマンガ嫌いとはいえ、これはかなり遅れてるなぁ!

 そして、この物語というのは、戦国時代にこんな武将がいたとは知りませんでしたが武勲ではなく茶の湯で信長・秀吉・家康に仕えて成功をおさめたという「古田織部」の物語だそうです。そこで、古田織部とはどのような人物だったのか調べたところ「YouTube」に、三部作として公開されていました。そこには、まさかの意外な人物が出演していたので驚きました。

 ところで、夕刊によると大阪管区気象台では「今日、冬の訪れを告げる北寄りの風<木枯らし1号>が吹いた」との発表がありました。朝のウオーキング中に、一緒に歩いていたべーやんが帽子を飛ばされました。彼は「ちょっと浅めに被っていたから」と言っていましたが、あれが<木枯らし1号>だったようです。去年より4日遅かったそうです。そして、夜のウオーキングの時に歩きながら、東の空に輝く月の左下のかなり低い位置を見て「あれ止まってるな」というと、べーやんも「僕もそう思って、さっきから気になってるんですよ」とのこと。明らかに飛行機ではないし、星にしては明るすぎるオレンジ色の物体が。3枚デジカメのシャッターを切りましたが、何も写っていませんでした。ネットで、今の時期の月と金星の位置関係を調べましたが分かりませんでした。あれは星だったと思います。念のため、明晩もう一度見てみることにします。二人とも最近歩きすぎて、ちょっとばかりおかしくなったのかな(笑)?
久野 勲
 平成24年10月28日(日)「性善説よ、いずこに!」
 編集長さま、昨日は同窓会の打ち合わせごくろうさまでしたた。飲み過ぎてはいませんか?昨日はいいお天気でしたね、朝6時から3キロ歩いてきました。久野さんも同じ時間にあるいてられると思い、空を見上げて、UFOが来ないかと思いながら歩いていましたよ(笑)。帰りシャワーを浴びて三宮に買い物と映画観賞です。情報お送りします。ご存知でしょうが見てください。
 
 <追伸> 先日より、XP画面にたびたびモバイルサ−ビス終了の知らせで手続きしていましたら、昨日から携帯とつながり大変です。ビッグローブからの案内がくるわくるは、携帯より写真を自分のCPに送り込むと、自分の携帯に入り大変ですね、連絡が入りいいなと思っていましたが、今は閉口しています。写真の大きいのを送ると携帯がどうなるかわかりませんね。おかい



 いつもお気遣い、ありがとうございます。お酒は、ほどほどに楽しんでいます。それはそれとして、とうとう畏れ多くも編集長まにされてしまったようです。煽(おだ)てに乗っかって、木に登らないように気をつけたいと思っています(笑)。ところで、シルベスター・スタローン(ロッキ−)、ジェイソン・ステイサム(トランスポーター)。大好きな俳優です。ブルース・ウィリス(ダイハ−ド、アルマゲドン)つるつるになりましたね。アーノルド・シュワルツェネッガー(ご存知シュワちゃん)。エリック・ロバ−ツ(007の悪役)。ほとんどが格闘家やメダル授与者らしくすごい迫力だったそうです。こんな、主演級がズラリと勢揃いした凄い映画「エクスペンタブルズ2」を観てきたとのこと。気分転換には最高だったそうです。劇場を出る時には、さぞかし、眼光鋭く肩を怒らせていたことでしょう(笑)。

 ところで、右のクネクネしたものは何だかお分かりでしょうか。これは速記法で「おはようございます」と書いているそうです。1882(明治15)年10月28日に田鎖綱紀(たくりこうき)氏が、自ら考案した日本初の速記法の講習会を開催しました。そして、この講習会からプロの速記者が輩出されたため、日本速記協会が「速記記念日」に制定したそうです。ちなみに、当時の人々は田鎖氏のことを「電筆将軍」と呼んでいたそうです。



  今日の朝刊に、26日付けの米ニューヨークタイムズの記事として「中国・温首相の母親妻、弟、長男ら親族が、計27億ドル(2150億円)相当を蓄財した」と伝えています。権力を悪用した蓄財、外国ではよくある話で、政権を去った後起訴されて有罪になる権力者が後を絶たないようです。韓国は歴代大統領は、その地位を降りたとたん逮捕というケースが多いようです。そして今、イタリアのベルルスコーニ前首相は、脱税事件で禁固4年の判決を受けて、控訴する意向だと伝えられています。中国では、この記事が伝えられた26日から27日現在、このサイトに接続できない状態が続いているそうです。中国と言えば、日本を抜いて世界第二位の経済大国になったとされています。一説では「張りぼて」だと言われていますが、どでかい航空母艦を所有するなど、年々軍事費の割合が高くなっているとのことです。この国は、何かにつけて日本を目の敵にしています。

 ところで、ODA(政府開発援助)という制度があります。政府または政府の実施機関によって、開発途上国または国際機関に供与されるもので、開発途上国の経済・社会の発展や福祉の向上に役立つために行う資金・技術提供による公的資金を用いた協力のことです。ちなみに、あるサイトによると「日本の中国に対するODAは、2005年度までに3兆3千億円に達しているそうです。その他を合わせると、4兆円に達すると云われております。今でも、年間1400億円程度の血税が、中国にプレゼントされています。『ODAで中国に援助したお金の多くが軍事費に使われたという話』とありますが、大局的に見ればそうなるかも知れません。しかし、ODAの援助金の多くは、鉄道・道路等の建設に使われ、その工事を日本の商社・ゼネコンが請け負っているようです。俗に云う「ヒモ付き予算」になっているようですです。上記の事由により戦後賠償でも、純粋な経済援助でもない様に感じられます。有人宇宙ロケットを飛ばし、原油を大量に消費しながら、北朝鮮の最大援助国でもある中国が【発展途上国】であるというODAの予算執行は、不可解極りありません」。と述べています。なるほど、一党独裁の国では、このような情報が一般国民に正確に伝えられているのかどうかが、極めて疑問に感じるところです。また、国際的に人道支援を積極的に展開している組織もたくさんあるようですが、これらの物資等が本当に困っている人たちに行き渡っているのかどうかも、疑問視せざるを得ないような不幸な状況も取り沙汰されています。結局、こんな事や、あんな事がこうじて、身近で困っている人に対して「見て見ぬ振り」をせざるを得ない、つまり、親切を仇で返されてしまうという口実にもなっているのでは、そんな気がしてなりません。やはり、正しい教育の大切さでしょうか。もちろん、教育とは5年先、10年先、あるいはもっと先になってその効果が表れてくるものです。今こそ、一刻も早い英知を結集しての抜本的教育改革が叫ばれています。
久野 勲
 平成24年10月27日(土)「大阪のシンガーソングライターが」
 今日午前中に「浜中九期生・同窓会」の「式次第」の原稿をお願いしていた中尾君、司会・進行の股野君と私が会って、最終的な打ち合わせをしました。別に私が出ることはなかったんですが、場所が石津の喫茶店と言うことで「ヒマやったら出てけえへんか」と言われていたので、ヒマやから出て行ったというわけです。その時に股野君からリストアップを頼まれた遠来(近畿以遠)の出席者を調べてみましたが11名でした。そして、井野総代長と役員の押部さんが、残っている秋祭りの後片付けをすると聞いていたので、午後から石津太神社へ行ってみました。行ったついでに、神社のパソコンの調整などをした後三人で総代長宅へ行って「石津太神社ホームページ」の更新をしました。三人で、ああでもない、こうでもないと意見を出し合っているうちに更新が出来ていくわけです。とくに午後からは小春日和のようなポカポカ陽気でした。いったい、木枯らし1号はどこへ行ってしまったんでしょうか。さらに、今日の最後の仕上げは、このトリオでの夜のウオーキングとなりました。そして、月あかりの中、夜の公園のあずま家で30分ほど話しこんでいました。体が冷えてきたので、早々に帰路につきました。

 桑名正博が、100日以上の闘病の末59歳で長い旅に出てしまいました。大阪のを代表するシンガーソングライターが、また一人この世を去りました。若かりし頃の「乾杯トークソング」という番組で歌う彼の代表曲「月のあかり」という代表作があります。「乾杯トークソング」といえば、10年前にこんな事がありました。ふり返れば、これが河島英五との出会いになりました。
久野 勲
 平成24年10月26日(金)「今のところ、アッシには」
 ちょうど今頃を詠んだ歌でしょうか、正岡子規の有名な「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という句があります。我が家でも最近食後のデザートに、よく柿が出ます。いつも何気なく食べていますが「柿食へば」これは、誰にでも簡単にアレンジできそうな句ですが、正岡子規が詠んだことに意義があるんでしょう。ものの本によれば、柿は子規が最も好んだ食物だったようです。それを旅先で食べていると、法隆寺の鐘が聞こえてきた。季節は秋、恐らく鐘の音は澄んだ空気を伝わって聞こえてきたのでしょう。なんともほのかな旅情を感じさせる句です。子規が奈良を訪れたのは、松山での漱石との共同生活を打ち切って東京へ戻る途中のことだったそうです。大病の後であるし、また脊椎カリエスのために腰が痛み始めた頃だったので、子規の健康状態は悪かったそうですが、奈良を訪れることは年来の念願だったとのことです。1895(明治28)年の今日、10月26日に、俳人正岡子規が、この句を詠んだということで全国果樹研究連合会が、今日を「柿の日」に制定したそうです。

 【同窓会速報】 ここに来て返信も途絶えて、ワンちゃんの同窓会ではありませんが、101名の出席で確定しそうです。あとは11月はじめに予定している、地元・石津での最終打ち合わせを残すのみとなりました。これで何とか一段落して、ホッと一息ついているところです。

 ところで、最近「タブレット」という言葉を、よく耳にします。これは、平板状の外形を備えタッチパネル式などの表示/入力部を持った携帯可能なパーソナルコンピュータのことです。今、世界中で使われているパソコンのOS(オペレーションシステム:基本ソフト)では、マイクロソフト社のWindwsが、94%のシェアーを占めているそうです。しかし、市場調査会社の米「IDC」によると、2012年のタブレット端末の出荷台数シェアをOS別に見ると、米Appleの「jos」が62.5%。これに対して、米Googleの「Android」は36.5%。その他に、Windwsなどが甘んじているようです。

 そんな状況の中で、今日「Widws8」が発売されたようです。マイクロソフト社によると「ウィンドウズ8は、パソコンとタブレットの良いところを兼ね備えています。見て、聞いてもらえれば、ウィンドウズ8がパソコンの既成概念を打ち砕くことを納得してもらえるでしょう。仕事でも遊びでも完璧に動作し、あなたの世界とともに生き生きと機能します」とのことです。ニューヨークのイベントで、マイクロソフトはウィンドウズ8を26日に世界140の国と地域で発売すると発表した。37の言語版があり、世界各地で現地時間の午前0時1分から、ダウンロードと店頭での販売が始まるそうです。ちなみに、前回のWindows7 へのアップグレードは、Professional ならアップグレード版2万7090円、HomePremiumでも1万6590円していたこと、本数限定のキャンペーンでも約8000円から1万5000円していたことを考えると、Widws8 Proへのアップグレードは、39.99ドル (約3200円)と相当に安くなっているようです。

 しか〜し、このように紹介はしているものの、タブレット?タッチパネル?携帯用PC?・・・そんなものは、時代おくれの男になりたい(とっくになってる)アッシにとっては、木枯らし紋次郎の名セリフがピッタリでゴザンス(笑)。今のところは。

 <追伸> 「♪暮れなずむ町の〜」西の空にUFOを見た!?今日は都合で、いつもより2時間早い5時に夜のウオーキングに出かけました。浜寺公園の水路と並行して北へ歩いていました。きれいな夕焼けだったので見ていると、見かけない明かりが二つ現れました。飛行機ではなさそうです。二人で立ち止まって10分ほど見ていましたが全然動きません。あれっ、突然二つとも消えてしまいました。写真はその時に写しました。両端の二つの明かりがそうです。「UFO違うか?」と、思わず顔を見合わせました。久野 勲
 平成24年10月25日(木)「絵ごころ」
 昨日の、今イチ話がかみ合いにくかったeo光のサポート係との長いヤリトリで、概ねその仕組みが分かりました。そして、井上さんの困っている件について適切なアドバイスが出来ました。今朝、井上さんからのお礼の電話が入りました。eo光は契約すると家の中に専用ケーブルが引かれモデムが取り付けられるようです。これは私が契約しているケーブルテレビを同じです。その家の中に固定されたモデムに、複数台のパソコンに分配するルーターを接続して、ルーターとパソコンをLANケーブルでつなぐ。井上さんは10年前に、誰かに頼んでこの契約をしてもらっていたようです。ところが、説明を聞いていなかったらしく、これを使わずにどこでもネットが出来るという「eモバイル」を契約し、カードを購入し、それをノートパソコンに差し込んで使っていたようです。我が家へはノートパソコンと全然使っていないルーターを持参しました。結局、とりあえず、家の中でインターネットが出来ればいいということなので、帰ったらルーターをモデムにつないでルーターから付属のケーブルでパソコンにつなげばネットが出来るはずです。というアドバイスになりましたが、それで何とかうまくいったようです。

 ところで、人は誰かに何かを伝えたい時には、いろんな手段を考えるものす。それは「言葉」であったり「手話」「文書」「絵画」「歌」など千差万別です。それと身近なところに「川柳」というのもあります。「川柳」と言っても、サラリーマン川柳などいろいろあります。「年老いてトイレとあの世近くなり」これには思わずうなづいてしまったりして。さて、この程「核兵器のない世界」をテーマに国連などが今年初めて行った少年少女の絵画コンテストで、米ニュージャージー州在住の日本人高校生・庄司はるかさんが、13〜17歳の部の最優秀賞を受賞したそうです。国連によると、このコンテストは年齢別に3部門で行われ、92カ国から約6600点の応募があったそうです。まったく絵心のない私にとっては、絵を描く人は尊敬に値します。我が浜中九期生の中に、私が知る範囲でも「表谷美亜子さん」「濱野清士くん」「中尾良生くん」という三名の画伯がいます。そして、若い小猿画伯もいます。私などはエッセイとも言えないような短い文章を書いていますが、それに自分で描いた絵を挿絵として使えたらどんなに楽しい事でしょうか。残念ながら、それも夢のまた夢に過ぎません。

 ここ数日というものは夜のウオーキングの際に、暗い所を選んでべーやんと二人寝転んで、しばしの間夜空を見上げています。最盛期を過ぎたと言われている、オリオン座流星群をひと目見たいとの思いからです。しかし、いっこうに流れてくれませんでした。昨日、それではと思い帰宅してから30分ほどアラスカ上空のオーロラをとらえているライブカメラを観ていました。三個ほど流れましたが、これがその一つを取り込んだ画像です。右上で縦に流れています。右下の明るいのは、多分金星ではないかと思います。
久野 勲
 平成24年10月24日(水)「芸術の秋!」

 今朝はウオーキングを終えた後、着替えもせずにある場所を訪ねることにしました。そこは、出かける前に見た朝刊の「浮世絵670点ネット鑑賞」という記事に出ていたプーシキンという聞き慣れない美術館です。そこで、ウィキペディア調べたところ、プーシキン美術館(正式名称:国立A.S.プーシキン造形美術館)は、ロシア、モスクワにある美術館です。モスクワの救世主ハリストス大聖堂の北、ヴォルホンカ通りをはさんだ場所にあり、ヨーロッパ最大の美術館です。収蔵品の数は約10万点で、エルミタージュ美術館(ロシア国立美術館)に次ぐ世界第2位だそうです。ちなみに、エルミタージュとは「隠遁者/世捨て人」の部屋という意味だそうです。

 記事にサイトのアドレスが出ていたので、早速訪ねてみました。そこには役者絵や美人画、風景画など江戸から明治初期の浮世絵が、約2000点保存されているそうです。これらは帝政ロシアの海軍将校、セルゲイ・キタエフが19世紀末に日本に寄港する度に買い集めたという作品が中心で、欧州最大のコレクションだと言われています。これらの浮世絵は通常美術館の保管庫にあり、特別展を除いて鑑賞できなかったすです。これらのデジタル化は高画質の撮影技術を持つロシア企業が担当し、日本たばこ産業の海外子会社JTインターナショナルが資金提供して、ネット公開が出来たとのことでした。こと芸術にかけては、まるで無頓着な私ですが、まさに芸術の秋に相応しいビッグなニュースだと思いました。



 ところで今日は午後から、以前ボランティア先の「ユーアイハウス」で知り合った井上さんが、ノートパソコンをバイクに乗せて訪ねてくれました。体調がすぐれず半年以上もパソコンを開けておらず、ネットがつながらないということでした。契約が切れているのか、以前使っていたeo64のカードが使えない状態でした。一緒に持ってきた「インターネット環境設定通知書」は10年前の書類でした。問合せのため、そこに書かれている番号に電話をしましたが「現在使われておりません」とのことでした。そこで、ネットでフリーダイヤルを探してかけてみました。3回ほどたらい回しをされて、やっとそれらしい部署につながりました。当初の「eo64エア」の契約が切れているとのことだったので「eモバイル」の契約について尋ねてみました。井上さん自身よく理解していないので、私が代わって応対しました。私自身「eo」のことは分からないし、彼女の自宅での状況など分かりません。電話口の人の話では戸外でネットが出来る「eモバイル」には「ハイブリッド」「3G」「ワイマックス」の3種類があって・・・云々、こちらからの質問などで30分以上かかったでしょうか。あまりのややこしさに整理する意味で聞き返したりすると「ご本人に代わって下さい」と言います。「本人さんが、よく分からないと言うことでなの、僕が応対しているんですよ。その僕が理解しづらいような説明をして、そんなことでいいんですか?」思わす声を荒げる場面もありました。そして、話はだいたい分かりました。後は本人さんと相談します、と礼も言わずに電話を切りました。3種類それぞれのメリット・デメリットなどを尋ねましたが、割合専門的なことまで応えてくれました。多分向こうは面倒くさくなったんでしょうか(笑)。なるほど、ほとんどの場合は向こうの勧める契約を結ぶことになるんだろうと思いました。そう言えば「♪一人ぐらいはこういうバカが居なきゃ世間の目が覚めぬ」という歌がありましたね(笑)。

 <追伸> この上に、何とか「男の料理・Part1」をアップしました。久野 勲    
 平成24年10月23日(火)「秋の夜長を有効活用」
 久野編集長

 「岡ちゃん散歩」すごいのが出来ましたね、ありがとうございます。見違えるようです。取材班ガンバって来ますよ(笑)。なにかご迷惑で、おこがましく思っています。出してもらわずに没でもいいですよ、久野さんに見てもらえるだけで最高ですので。

 19日は4番霊場 慶明寺(修羅道)に行きました。夕日を眺めてきました。歴史を感じる場所です。所在地を探すのも楽しい一時ですね、20日は、午前中内科に行き妻やばあちゃんの投薬をいただき、午後から早速上天気ですので、少し足をのばし神出田井の6番霊場までゆきました。西光寺(天上界)です。175号線は道が狭くトラックの往来でこわごわでした。帰りに農家の直売の奥さんと親しくなり、いろいろレシピの話などしてきました。土曜・日曜だけ開けているようです。こんど野菜の苗の世話にもなる約束をしています。早速帰りまとめ料理をしました。今日は男の料理(ただ今編集中)です。簡単にできますので、久野さんも作ってみてください。西光寺は花の寺とも書かれていました。境内の花です。おかい



 こんなメールをもらい、あれっ、いつの間に編集長にと驚きました。岡井さんには以前から「自分史」をまとめたり「ブログ」を始めたらどうですか、と勧めていましたが、ここに来て、そんな楽しみが分かってもらえたようです。大変喜ばしいことです。彼は、「興味のない人に無理に見ていていただくのもと思ったりしていますが」などと気遣っているようでしたので「原稿ありがとうございます。お陰で、どのように編集しようか考えるのもまた楽しみになっています。ところでご心配の件ですが、興味の無い人は見ないので、全然そんな事を気にすることはありません。思いのままに書きまくってください」とハッパをかけておきました。「男の料理」シリーズも楽しみです。久野



 先日、夕方明石川の上流にぶらりと出かけ帰りに、多井畑というところで、コイン精米機なる小屋を見つけました。丁度、車で農家の奥さんらしい人が、その機械を利用するらしく大きな袋を重そうに運び込んでいます。精米機には五分突き7分などと書かれておりボタンを押すと精米がスタートするらしく、聞くと10キロ100円だそうで大変ありがたいとおっしゃっていました。無人機ですが、これは営利目的ではできませんね。自分の所で苗を植えてそれをいただく、素晴らしいですね。こんな機械が沢山この近辺にあるようです。お米の販売もあるようです。田舎ならではの風景をかいま見ました。こんな田舎で機械がいたずらされないのは、流石日本ならではの感じがしました。写真中央は、山間の畑焼きの煙がたなびき、周りが薄暗く写真が取れるどうか心配でしたが、なんとか取れていました。写真右は「どんぐりやま」と言う名前が付いていました。沢山横の道までどんぐりが落ちていました。形から見ると、昔の円墳ではの感じですね。おかい



 今日にも「木枯らし1号」がやって来るのでは、との予報が出ていましたがどこかで道草でもしているのか、少し遅れるようです。近畿でも六甲山小学校では「薪ストーブの火入れ式」が行われ、一足先に冬支度がはじまったそうです。我が家においてもいよいよホーム炬燵が出ました。こちらの火入れ式は、もう少し先になりそうです。ところで、今日は久しぶりに「Flash画面」の編集に取りかかりました。昔取った杵柄とはいえ少々手こずってしまいました。しかし、後は音を入れるなど最終的な詰めの段階に入っています。これも、脳の活性化に役立っているでしょう。それは「男の料理シリーズ」Part1です。明日にでもアップできる運びになりました。自分で言うのも何ですが、なかなか良い出来映えではないかと思ています。乞うご期待!世間では、こう言うのを典型的な「自画自賛」というようです(笑)。久野 勲、
 平成24年10月22日(月)「受けてニコニコ予防接種」
 小猿はどうしてるんかなと思って携帯にかけてみました。忙しいのか出られない状態のようでした。しばらくして彼からかかってきました。「もしもし小猿です」と言うその声は祭り直後の声と同じでした。「まだ祭りの後遺症かいな」「いえ、風邪引いてますねん」とは言いませんでしたが、今日から風邪の症状が出はじめているとのことでした。「サルでも風邪引くんかない」とは、さすがに辛そうだったので言えませんでした。「それじゃ、また元気になったら連絡してくれよ、お大事に」別に用事があったわけではないので、風邪見舞いのような形になりました。風邪と言えば、私は今まで受けたことはありませんが健康に自信がもてない今年は、是非ともインフルエンザの予防接種を受けておきたいと思っています。

 ところで一昨日になりますが、石津太神社の井野総代長と、神社役員の押部さんと連れだってチンチン電車に揺られて「堺まつり」の前夜祭に行ってきました。ちなみに、私だけが堺市発行の「お出かけ応援カード」を持っていたので運賃が200円のところ100円で済みました(笑)。半額割引はゴトビのみです。場所は堺市民会館横の広い駐車場でした。それぞれ装いを凝らした11台の布団太鼓が横一列に勢揃いをしていました。なかなかの圧巻でした。堺でこれだけの布団太鼓が一堂に揃うのは珍しいことだそうです。この11台が、順に駐車場内をデモンストレーションをしていくわけです。我が石津代表の川向かいの布団太鼓は10番目でした。5番目を見た辺りで、途中で中抜けをして堺東で腹ごしらえをしました。戻ると、ちょうど川向かいの出番でした。私には、みんな同じように見えましたが、井野さんや押部さんの説明聞きながら見ていると、それぞれが細かい所まで独自の工夫を凝らしているのがよく分かりました。見終わった後、折角ここまで北野だからということで、もう一度堺東へ出て「つつみ」に寄りました。案の定赤い顔をした北野さんがニコニコしながら出迎えてくれました。まさに河島英五の歌う「一徹者」の歌詞「♪いつもの居酒屋へ下駄を鳴らせば、馴染みの顔ぶれ笑顔が並んでる」さながら、のっけから楽しい雰囲気でした。先客組と、我々の間には最初かなりの温度差が感じられましたが、すぐに追いつき大いに盛り上がりました。2時間ほど楽しんでいましたが、名残は尽きず宴たけなわでしたが日付が変わったところで、お先に失礼して500円タクシーで帰路につきました。ちなみに、どこまで乗っても500円タクシーではありませんよ(笑)。

 <追伸> 神社と言えば、開設から1年経って初めて「
石津太神社(いわつたじんじゃ)」の掲示板に書き込みました。久野 勲
 平成24年10月21日(日)「隠れ三成ファンなのかな?」
 同窓会関係では、つい先日、つまり土壇場になって私がまさに病むに病まれず当番幹事の一員として復帰せざるを得なくなってしまいました。そのために、同じ当番幹事の股野君・釜中君には当然のことながら、石津以外の大仲君・中尾君・永田君たちには過度な負担をお願いすることになってしまいました。とくに、この三名の人たちとは日頃から十分なコミュニケーションが取れているとは言え、快く引き受けてもらって申し訳なく感謝しています。自分の体調さえ万全なら、もっと気分良く役目をを果たせられると思うと歯がゆい思いでいっぱいです。もちろん頼むからには口先だけではなく、できる限りのフォローはさせてもらっています。

 そんな中、昨日、とくに過度な負担を強いることになって気になっている中尾君が、わざわざ我が家を訪ねてくれました。かねてから頼んでおいた資料等の中間報告としてたくさんの印刷物を持って打ち合わせのために足を運んでくれました。そして、私がネットで毎日のように更新している同窓会関係のページをチェックしてくれていて、彼ならではのきめの細かい助言をしてくれました。「細かいことですまんけど」と気を遣いながらの指摘は本当にありがたく、私自身ビックリするほど大量の変換ミスがあり、彼のお陰で大きな恥は回避されそうです。彼も経験上言っていましたが、やはり自分で書いたものは、なかなか自分では校正出来ません。彼は、私と同じタイプで表に出ることなく、いわゆる実務者タイプで縁の下の力持ちになりきって全体を支えています。そう言えば、濱野君が私を元気づけるために「世の中には愚痴を言わず黙々と仕事をこなす人がいますが、我々の同窓会の幹事さんにも約2名います」と言っていましたが、そういう人がもう一人います。その人は、やはり過度な負担をお願いしている永田君です。この三人はタイプは似ていていますが「愚痴こそ我が命」をモットーとしている私は彼らとは少し違うと思っていました。もちろん彼らも何らかのストレス解消法を身につけているはずだと思いますが。

 あれはいつだったか、私が「幕末の三賢人」のことを書いたことがありました。当時それになぞらえて、どこからともなく浜中九期生の「三変人」という声が、割合身近なところから聞こえてきました。昨日、その真相が判明しました。中尾君といろんな話しをしている中で、その話題になりました。すると彼はおもむろに「実は、あれは僕が言い出したんやけど気ぃ悪うしたか」と白状しました(笑)。それを受けて私も言いました「いいや、当たってるがな。永田君も納得しているようやし」言い得て妙やなと言うことで大笑いになりました。そんな話をしながら、私はある思いを巡らせていました。同窓会組織を上下関係になぞらえることは相応しくありませんが、思い巡らす程度なら許されるでしょう。かつての豊臣政権下には「五大老」「五奉行」という強大な組織があり、これが豊臣政権を支えていました。さしずめ、我々の同窓会に例えれば、徳川家康を筆頭とする「五大老」が歴代幹事長で、石田三成を筆頭とする「五奉行」に当たるのが我々なのでしょう。もちろん、秀吉役には担任の先生になってもらいましょうか。戦国時代では、やがて天下分け目の関ヶ原の合戦が勃発します。私はかねてから、西軍の大きな敗因は淀君の教育ママにあったと思っています。三成らの再三の要精にも関わらず、事実上の総大将である秀頼を幼少とういことで出陣させず、名目上の総大将となった毛利輝元の庇護下に置かれていました。何らかの形で秀頼を出陣させていれば、家康と行動を共にしていた豊臣恩顧の加藤清正・福島正則をはじめ多くの大名たちは、東軍の先鋒として西軍と戦うなど家康の術中にはまることはなかったでしょう。さらに第二の敗因は、家康に対して、本来出るべきではなかった三成が、病むに病まれずとはいえ表舞台に登場してしまったことだと思います。それによって、所詮寄せ集めだったとは言え、東軍より遙かに多い兵力を持ちながら敗れてしまいました。三成、いや西軍の不幸は豊臣政権下にあって、三成は仲間である多くの武将たちに嫌われていたことにあるようです。それにしても、当時400万石とも500万石とも言われていた大大名に対して、20万石そこそこの小大名が「土壇場での小早川秀秋の裏切りさえなければ」というところまでよく戦ったと思います。ちなみに、画像は三成の旗印で「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味だとされています。それと、戦場で着けていたというカッコ良い兜です。

 さらに言えば、その後かさにかかって大坂城を落とそうとする家康との戦いが始まります。大坂夏の陣で敗れ夏の陣が最後の戦いになりました。この時は九度山に隠棲していた真田幸村が、秀頼からの強い要請で大阪城に入ります。赤揃えで六文銭の旗印を立てて勇猛果敢に戦ったそうです。それでも多勢に無勢で苦しい戦いを強いられました。そんな中で、幸村はたまらず秀頼の出陣を要請しました。この時は成長した秀頼は側近に出陣の用意をすべく甲冑の用意を命じたそうです。しかし、この時も淀君は強く押しとどめたと伝えられています。結局、幸村は秀頼の出陣を待たず城外ににわか作りで真田丸なる形ばかりの出城を作って立てこもりました。やがて、茶臼山に陣取る家康めがけて突進し、あわや一騎打ちに近い所まで追い込み肉薄したそうです。しかし、惜しくも一歩及ばず鉄砲隊の集中砲火を浴びて壮絶な戦死を遂げてしまいました。後日談として家康は「あの時ばかりは、真田の勢いに家臣どもは散り散りバラバラになって、一時はワシもこれまでかと覚悟を決めた」と述懐したと伝えられています。



 ところで話は変わりますが、今朝6時半頃に「逆さ富士」が現れていました。画像取り込みキーを押しかけましたが、もう少し待てばもっと鮮明な画像がと思いました。そして、サケの姿が見えなくなっていた千歳川にカメラを切り替えてみました。水は濁っていましたが、サケの姿が見えました。サケは産卵が終わると、すぐに息絶えて川下に流されながら自然に還って行きます。と言うことは、まだ産卵が終わっていないようです。そこで再び、画面下のウインドウに並べてある富士山をクリックしてみると、あっちゃぁ湖面が揺れて逆さ富士が崩れていました。今日もまたキーを押すチャンスを逸してしまいました。今日はウオーキングの定休日なので、画像取り込みについて少し詳しく説明することにします。

 画像を取り込む場合は、まずキーボードで「printScreen」というキーをクリックします。このキーは、キーボードによっては「PrtSc」となっていて、挿入(Insert)や削除(Delete)キーの横にあります。このキーをクリックすると、今表示されている画面が自動的にクリップボードに一時的に保存されます。それを読み込むわけです。私の場合はいつも使っている画像ソフトに「貼り付け」て、必要な部分だけを使うようにしています。

 そして今、画像ソフトがなかっても出来る方法を試してみました。上手くいきましたので、紹介しておきます。前述のクリップボードから読み込む方法です。画像取り込みキーをクリックして、Woedを起動します。その画面上で、右クリック「貼り付け」(「Ctrl」キーを押しながら「V」キーをクリックでも可)で、Wordに取り込みたい画面全体が表示されます。次に、必要場部分だけを取り出す方法です。今のWord画面では画像編集が出来ません。その画面を一度保存します。「ファイル」→「名前をつけて保存」。そこで、適当なファイル名をつけます。次が大事です。「ファイル名」の下の「ファイルの種類」を「Word文書」から、下の方にある「PDF」に替えて「保存」します。する、AdobeReaderの画面が表示されます。そして、その画面の上にある「選択」をクリックして、マウスで必要な部分を選択します。その選択した画面上にマウスを持って行くと、右上に四角いアイコン(画像をクリップボードに保存)が出来るので、それをクリックします。そしてその画像を読み込みたいソフト、例えばWordを起動して右クリックで「貼り付け」ます。これでKO、ではなくOKです。ちょっとややこしいかも知れませんが、興味のある方は途中でKOされないように注意しながら、とりあえず一度試してみて下さい。おっと、こうしている間にも、今お昼の12時前ですが千歳川では、ご覧のようにたくさんのサケたちが集結しています。

 いやぁ取り留めも無い話で、今日はとんでもない所まで話が飛んで行ってしまいました。昨日のことで書き残したことがありますが、また今度にします。ブログをはじめて10年になりますが、多分今日が一番長くなったと思います。ミスや余計なことまで書いてしまったかも知れませんが、これを観てくれているのは、一部の同窓生とか、ごく身近な友人に限られているので気を許して、無防備で好きなことを書いています。まぁいいか!キジも撃たれれば、すぐに削除する覚悟は出来ています。10年も続けていると、かなり打たれ強くなってきているようです(笑)。しかし、最近の初歩的な変換ミスなどの多さには、我ながら「書かなければいけない、もう書けないと」という時が、足音もなく近づいて来ているのではないかとの不安はあります。しかし、それと戦いながら性懲りも無く今後も書き続けていくことになりそうです。その上で、ミスなど気がつかれ次第、遠慮無くご一報いただければ幸いです。それがまた、話のきっかけになったりして。これつまり「転んでも、ただでは起きない」というガメツイやり方なんでしょうか(笑)。
久野 勲
 平成24年10月20日(土)「愚痴知らずとは、なかなか」

 昨夜「今晩は (^^) 私、今とても不愉快な気分です」で、はじまる広島在住の同級生からメールが届きました。ニコニコ顔の絵文字が出ていましたが、しまった!また何かヘマをやってしまったかと思ってドキッとしました。私は日頃から、時々調子に乗って、と言うか調子に乗りすぎてしまうことがあります。もとより、悪気があってのことではありませんが、それによって人に不愉快な思いをさせたり、誤解をされたりしていることがあると思っています。それが分かった時点で、謝るべきところは素直に謝罪しています。そんなことがいつも気になっています。しかし、気にしていれば何も発信出来なくなります。そうなれば「キジも鳴かずば・・・」に屈服してしまうような気持ちになります。反省はすれども後悔はしない、今後とも、そんな気持ちで細心の注意を払いながら続けていきたいと思っています。

 幸い(笑)今回のメールは「久野さんは今の政治をどのよう思われますか?」と続いていたので、あぁ、俺のことではなかったんだとホッと胸を撫で下ろしました。そこで、私の意見を述べるところから、次のような返信がはじまりました。「すみません、つい愚痴っぽくなってしまって。○○さんのが移ったのかも?少しは酔いが覚めましたか?僕はいつも≪愚痴こそ我が命≫といっています。これである程度ストレスが発散するように思います。明日は友達と堺まつりに行ってきます。それではまた大いに愚痴をこぼし合いましょう(笑)久野」。それに対して今日「お疲れ様で〜す。昨夜は失礼しました。私がお酒を飲んだことお見通しでしたね(^^);今の教育、政治、私も久野さんの意見に同感です。今日は堺祭りに行かれるようですね(^^)私の住んでいるところでは盆踊りや秋祭りはありますが、堺のような華やかさはありません。お盆や秋祭りのころになると、堺のことを懐かしく思い出します。私も明日は、町内会のグランドゴルフ大会にお嫁ちゃんと参加します(^^)」。との返信がありました。地元の友人も言っていましたが、グランドゴルフとは、ゲートボールよりも確かに耳障りが良いようですね。明日も天気が良さそうですし、ゲート、ではなく「グランドゴルフ」で大いに頑張ってください。遠方から応援しています。遠方からと言えば、随分前のことですが、堺に居ながら広島の彼女の背中をそっと押したことがあります。もちろん、夢やテレパシーではありません。もちろん私は、俗に言う霊能力者ではありません。その事を書いた記憶はありますが、いずれ見つかるかも知れませんが、今はどこに書いたのか覚えていません。最近、こういうことが多くなりました。

 <追伸>「岡ちゃん散歩Vアップしました」久野 勲

 平成24年10月19日(金)「綿帽子をかぶって冬支度」
 二日続きの冷たい雨の後、今日は快晴の気持ちよい朝を迎えました。ウオーキングに出かける前に、富士山をチェックしましたが雲がかかっていて見えませんでした。そこへ、ピンポ〜ン〜とチャイムが鳴りました。時計を見ると8時少し前でした。べーやんや、すでに着替えていたのでパソコンをそのままにして出かけました。快晴で爽やかな秋風の中、小鳥のさえずりなど聴きながら、緑の公園を歩いていると気持ちが良いものです。あぁ、皆んな生きてるんやなぁ、などとごく当たり前のことに感動してみたりしました。いろんな話しをしながら二人で歩いていると、ジャネーの法則(加齢とともに時間の経過を速く感じる)に当てはまるのでしょうか、まさにあっと言う間に公園を一周したように感じます。そこで、話の合間に時々カラオケで歌っている、河島英五の「生きてりゃいさ」を口ずさんでいました。

        
 ♪きみが悲しみに 心を閉ざしたとき
          思い出してほしい歌がある
          人を信じれず 眠れない夜にも
          きっと忘れないでほしい
          生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
          そうさ 生きてりゃいいのさ
          喜びも悲しみも 立ちどまりはしない
          めぐり めぐって行くのさ
          手の掌を合わせよう ほら温りが
          君の胸に届くだろう


 そして帰宅して、そのままにして置いたパソコンに目をやると、おー!ご覧のような頭に綿帽子をかぶった富士山が映し出されていました。欲を出して「逆さ富士」のチャンスを待ちたい気持ちがありましたが、雲がかからないうちにと思いながら急いで取り込みました。

 ところで、映画「エマニエル夫人」(1974年)で一世を
風靡(ふうび)した、オランダの女優・シルビア・クリステルさんが脳卒中を起こし、アムステルダムの病院に入院中であることは、この項で今年の7月4日に「今に見える」というタイトルで掲載していました。そして、昨日60歳という若さで、その場所は明らかにされていませんが就寝中に亡くなったそうです。咽頭がんの治療を受けた後、脳卒中を起こし危険な状態が続いていたとのことです。もちろん、ご冥福を祈るほどの付き合いはありませんが、思えば、我々の青春時代の1ページに残る存在の女優さんでした。

 <追伸> 近いうちに「岡ちゃん散歩V」を掲載する予定です。「近日中公開!乞うご期待!」。ちなみに、このフレーズ(言いまわし)は、どうぞ期待して待っていて下さいという意味です。その昔、映画館に行くと映画がはじまる前に必ず、次回公開する映画の予告編を上映しました。その予告編の最後には必ず大きく出ていましたね。
久野 勲

 
 平成24年10月18日(木)「人の生と死に思う」
 今はあまり見かけなくなりましたが、婚礼の際に花嫁は文金高島田に結った髪に「角隠し」をしたものです。これは、かつて女性は嫉妬に狂うと鬼になると言われていたため、鬼になることを防ぐための一種の「まじない」とされていたようです。今日の朝刊に、連日のように世間を震撼させている猟奇的な殺人事件で「尼崎の鬼女」の見出しが出ていました。鬼女とは、女性の姿をしている鬼であり、心が鬼のようにむごい女性のことを指します。普通、鬼女とは若い女性を指し、年配の場合は鬼婆と言うようです。私の子供の頃、近所にしょっちゅう怒られる恐いおばちゃんがいました。そのおばちゃん見ては「あっ、鬼婆や!」と言って、よく追いかけられました。どこで覚えたのか定かではありませんが「鬼婆」という言葉はよく使っていました。今話題になっている事件の容疑者は私と同年代なので、まさしく「鬼婆」なのでしょうか。逮捕され護送される時の姿が写されていましたが、覆われたフードから不気味な片方の目だけが見えました。いったい何人殺めているんでしょうか。覆いを外せば「口裂け女」のような顔が現れるんでしょうか、そんな寒気を感じました。

  我が子を手にかける、ここ数年そんな哀し過ぎるむごい事件が多く起こっています。ただ、人知れず闇から闇へ葬り去られているという現実があります。罪なきたくさん胎児たちは日の目を見ることもできません。どのような事情があるにせよ、我が子を手にかけるようなことは決して許されません。親であれば誰しも、出来ることなら我が子が、その人生を全(まっと)うするのを見届けたいと願うものです。その願いは、たとえ我が子が成人になっていても変わることはありません。その昔、一休禅師は、ある時信者の一人から「和尚さま、家の宝にしたいと思いますので、何かめでたい言葉を書いてくださいませんでしょうか」と頼まれました。「喜んで書きましょう」と気軽に引き受けた一休さんは、さらさらと『親死 子死 孫死』と達筆に書いて渡しました。それを見た信者は、かんかんになって「私は、何かめでたい言葉をといってお願いしたのに、死・死・死とは何事ですか」と怒りをぶちまけ、まさにその紙をやぶり捨てようとした時に、一休禅師は静かに「ほほう、それでは何か、お前のところでは 『孫死 子死 親死』の方がめでたいのかな」と言ったと伝えられています。「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と 詠んだと言われている 一休禅師らしいエピソードです。また、こんな言葉も遺しています。「世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」。

 人は誰しも、生まれる時と死ぬ時は独りぼっちです。死に至っては、たとえ順序通りだったとしても、とくに肉親・身内との永遠の別れは、何ものにも代えがたく哀しく辛いものです。これこそ人生の最大の試練なのでしょうか。親は誰しも我が子の幸せを願うものです。シンガーソングライターの松山千春が、そんな心情を「生命(いのち)」という曲でしみじみと歌っています。世間では、松山千春と言えば突っ張りと毒舌で知られているようですが、この曲を聴く限り心根はやさしい人なんだろうと思いました。「♪この子の人生を見届けられるなら、最後まで見守ってあげたいと思うね」ちなみに、この曲は「YouTube」で配信されています。
久野 勲
 平成24年10月17日(水)「まさかの達成!」
 昨日、今日17日には必ず「くす玉」を割りますと、石橋を叩いても渡らないほどの慎重なタイプの私が、一見大見得を切ったかのように書きました。しかし、ちゃんと逃げ道には「秘策」を用意していました。それは、「広瀬先生+99名」でした。これで「くす玉」を割るつもりでした。9期生・9クラス・99名、おまけに9野とは、これいかに(笑)。

 ところで、今朝早く石津の幹事仲間である、釜中くんから「2組の芝さんから出席の連絡があった」との電話がありました。芝さんといえば、石津小学校の幹事として、また「浜中9期生」でも、毎回クラス幹事として積極的に協力してくれていました。今回は都合により、ギリギリまで出席のための調整を続けてくれていました。その結果、顔を出すだけになるかも分かりませんが出席させていただきます、とのことでした。さぁこれで、奇しくも同窓会(11月17日)の、ちょうど1ヶ月前の今日、小賢しい秘策ではなく堂々と「くす玉」を割ることが出来ました。

 きっと、たかがそれしきの事で何を大げさな、と思われることでしょう。しかし、艱難辛苦を乗り越えて(笑)多くの皆さんの温かい協力を得ながら何とかここまでたどり着いた我々当番幹事にとっては、感無量と言ったところです。当日出席いただく広瀬先生はじめ100名もの同窓生の皆さんに、少しでも不愉快な思いをさせることなく「出席して良かったな」と思ってもらえるように、私も幹事の端くれとして、また自称「浜中九期生のスポークスマン」として、さらに引き続いて幹事全員と共に最後まで努力を続けていきたいと思っています。我が「浜中九期生・同窓会」は、10年前の「祝・還暦」と銘打った12年ぶりの同窓会で再生したように思っています。当時の大仲康暉幹事長が、当番幹事を中心に校区やクラスを越えた幹事集団の協力体制をより強固な組織として確立しました。彼は「浜中九期生」にとっての功労者です。それによって、以後の当番幹事は確実に運営しやすくなりました。そんな大仲は、優しくて、世話好きで、話好きで、物知りで、頼り甲斐のある男です。電話や会った時も、いつも話が長くなります。「困った時の大仲頼み」で、なかなか重宝しています(笑)。

 夕食後、食べ終わるのを待っていたかのように電話がかかりました。階下から私の部屋にある子機に「井上ケイコさんから、お電話ですよ」との女房の声です。受話器を取る前に「井上ケイコさん?」に心当たりがありません。今は同窓会関係で、時々同窓生からのメールや電話が入るので、同窓生だろうと思いながら「もしもし、久野です」・「もしもし、先生ですかご無沙汰しています、井上でございます」「あぁどうも、こちらこそ」とは応えたものの、先生?まだ誰だか分かりません。しばらく話を聞いている内に、やっと分かりました。「ユーアイの井上さんですか「はい、そうです」。今から10年ほど前になりますが、私が3年ばかりボランティアをしていた時に知り合った、私と同年配の井上千恵子さんでした。私の病気のことを知り、うれしいことにお見舞いの電話をかけてくれました。体調が思わしくなく、2年前に「ユーアイ」を辞めて、今は「ユーアイ」と関係のある「福祉法人」でボランティアをされているそうです。長くパソコンを開けていないそうでした。気分転換に少しずつパソコンに触れるように言っておきました。そして井上さんのアドレスを探して、久しぶりにメールを打つことを約束しました。当時、井上さんとはたくさんの思い出が残っています。
久野 勲
 平成24年10月16日(火)「崇高な自然の営み」
 鮭の遡上すごいですね、彼らはウグイたちのこんな多い中で産卵をするのでしょうか?卵がほとんど食べられてしまわないか心配です。アマゴ釣りによくイクラを餌につかっていました。そのとき外道でウグイの大きいものがつれていたのですぐ食べられるのでは。逆にウグイも鮭の餌になるのか興味がありますね。産卵の場所がもつと上流の浅い場所だと思いますが、ここが産卵場所なら、瞬間も見ることができ楽しみですね。鮭の中に体が白く傷をしているのが見かけられますが、互いにメスを捕るので争いのあとではないかと思います、まもなく産卵でしょうか。おかい



 サケの産卵についてですが、サケが追っ払うんでしょうか、たしかその時にはウグイが姿を消すのだと思います。サケの傷は、争いのあとと、浅瀬・小さな堰などを必死の思いで遡上する時の傷もあるのではないかと思います。なお、昨年はこの場所で産卵活動が見られたように記憶しています。ただし、私の記憶が正しければの話ですが。こんなヤリトリの間にも、次第にサケの行動が活発になっているようです。そして、ウグイの姿が見えなくなりました(11時)。いよいよかも知れません。

 ところで、今日返信が一通届きました。すわっ、とばかり「くす玉」の紐に手をかけて引っ張りかけましたが、欠席通知でした。しかし、明日は必ず前祝いをかねて割ります。その算段というか、秘策?は出来上がっています。間違いなく明日は、そのエックスデーになるでしょう。
久野 勲
 平成24年10月15日(月)「目標まで、あと一歩」
 【同窓会速報】今日現在で、出席者が99名になりました。一応目標を100名参加に置いていました。その時のために、お金のかからない、ささやかな「くす玉」を用意しています。その暁には、サイト上にアップしますので、浜中九期生のインターネッター(こんな表現あるのかな?)は、期待せずに楽しみにしておいてください。

 秋ですね。誰が何と言っても、間違いなく秋ですね。この季節が一番凌ぎやすいとされています。暑い夏と寒い冬に挟まれていて、我々高齢者にとっては一息つける季節です。秋ですね。誰が何と言っても、間違いなく秋ですね。この季節が一番凌ぎやすいとされています。暑い夏と寒い冬に挟まれていて、我々高齢者にとっては一息つける季節です。秋と言えば、先日久しぶりに河島英五の「晩秋」を熱唱しました。「♪この国が一番美しい 燃える秋が訪れる 空の遠い遠い所から 懐かしい唄が聞こえてきそうだ 縁側で繕い物しながら口ずさむ母の唄か 下校時間告げるチャイムと共に流れたメロディか 悲しみに心奪われ 生きる力無くした時にも 季節は美しく巡り来て 優しく響く」。歌い終わると同時に店内は、われんばかりの拍手喝采の坩堝(るつぼ)と化しました。まさに、感謝感激雨あられと言ったところでした。もっとも、その時に店に居たのは、濱ちゃん・北野さん・お母ちゃんだけでした。不景気なんですねぇ。

 今日は5時に目覚めました。ヤンキ−ス、タイガ−スの二試合目を見るためです、先日は、イチロ−の活躍で延長までになり惜しくも敗退したが、今日はリベンジをと早起きしています。その前に、いつものように、久野さんのブログ拝見しました。すばらしいものを作成していただき驚いています。ありがとうございます。ところで、奈良のTEN TENカフェ閉店ですか、せっかくご紹介していただいたのに残念ですね、2回伺いました。前回はお客さんも満席状態でした。命日に遠くから来られているのか、店の前にオ−トバイも止められており、ひょっとして歌に出てくる人ではないかとキョロキョロしていました。奥さんとも親しくお話も出来たのは、久野さんの御蔭と思っています。人生いたるところで、出会いと別れがありますが、なにごとも説極的にゆきたいですね。昨日も秋を満喫してきました。面白いものを見つけています。また見ていただきご評価ください。この姿、何かおのが姿を見ている感じです。おかい
 平成24年10月14日(日)「神の手の持ち主?」
 何回目になるでしょうか。「濱ちゃんVS久ちゃん」の対決(笑)は、大げさに言ってみれば「星野哲郎VS河島英五」の代理戦争のようなものです。気が向けば、どちらからともなくメールで誘い合って旧交を温め合っています。あれは何回目でしたか、二人で20数曲歌ったことがありました。昨夜もそれに近かったようです。う〜む、それにしても昨夜からず〜っと忘れようとして思い出せない(笑)ことが、まるで、酒樽の底によどんでいるニゴリのように頭の片隅に残っています。それは飲みはじめて、あまり時間が経っていない時でした。私が時々ブログに書いている「愚痴こそ我が命」あれは良い言葉やね、と濱ちゃんが言ってくれました。人は生きている以上、好むと好まざるに関わらず何らかのストレスに見まわれると言う宿命を科せられているようです。そして、それを避けて通ることが出来ません。また横着して、それを貯めこむと大変なことになってしまいます。だから人それぞれ、いろんな手段を考えて小まめにストレス発散を心がけるわけです。何か悩み事があれば、その悩みの外側に居る人に話すことによって幾分軽減されることがあります。私は立場上、人の話を聞かせてもらう事があります。それがまた私自身のストレスになったりすることもあるわけです。だから私はストレス発散の一つとして「愚痴こそ我が命」を実践しています。特にブログの場合は、たとえ誰も見てくれなくても書くことに意義があると思っています。飲みながら濱ちゃんが「愚痴こそ我が命」になぞらえて面白いことを言いました。言いながら自分でも感心したらしく「久ちゃん、これで明日のブログのネタができたやろ」とのこと。確かにヒット作だったので「よっしゃ、それいただきや」と 私も同感でした。しかし、明日になれば忘れてしまうでと言いながら、他の話題に移りました。そこで急きょマスターに、書くものを貸してもらいました。そのペンを手にとって、さて書こうとしますが出てきません。そこで、濱ちゃんに、さっきのあれブログに使えるといった言葉をもう一回言ってくれよと聞き直しました。彼は、え〜っと「愚痴よさらば」ではなかったし・・・。それは、ヘミングウエイやがな。結局、二人揃って明日どころか、ほんの5〜10ふん前のことすら思い出せないと言う体たらくでした。もちろん朝になっても思い出すことはありません。

 
そうこうしている内に、岡井くんから≪栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」の「十三里」知りませんでした。ちょうど昨晩はサツマイモのトン汁でした。川越のいもが美味しいのですか?私はサツマイモは金時いも、なると金時が美味しいと思っていました。いもは、あさがおの花のような花が咲きます、先日隣のご主人が市役所を退職され畑をたのしまれ、収穫したとヨウサイとゆう中国野菜をいただき、ソウセイジで塩コショウ、の油いためで美味しく、少しぬめり感とサクサクした茎の食感いいですよ、庭に植える予定をしています。同じ朝顔科の種類なので覚えていました。久野さん興味のある話毎日楽しみに開けています。

 濱野君、お元気そうな、お姿なによりです、昔を思い出します。彼の家の前が私の知り合いのおうちです。何度か小学校のころお伺いして、その時に会ってお世話になり、彼の気使い、やさしさが良くわかります。人間関係も紆余曲折で落ち着くところに落ち着くのではと思います。病は気からとも申し、一番健康に良くないのは、ストレスが問題なようですのでケセラセラで楽にお願いします。近ければ、仲間に入れていただきたい心境ですね。ご期待に添えるように料理に精進しますね。昨日のイワシの生姜煮は、格別でした。なべ底に昆布を細く切り敷き詰め生姜と煮るとなべ底にこびりつかず味もよく、こぶも食べれ美味しいかったです。まな板もサランラップを引くとくさい臭いもつかずいい感じで料理が出来ました。そのまま包み臓物もすてると衛生的ですね。こんなの常識でしょうが、最近やってみていろいろ楽しんでいます。ではまた おかい


 ところで、昨日の幹事会で少し強引に進めた件が気になっていました。それは中尾君に振った「コメント集」のまとめでした。コメント集は一応私の方で打ち込んでネットに配信していますが、それをコピーして使ってもらえれば、少しでも彼の負担減になります。ところが昨日の話では、私が以前調整したデスクトップが壊れてしまったので買い換えるとのことでした。さらに、これも私が調整しましたが、同窓会で借りる予定のノートパソコンまでおかしくなったそうです。気になっていたので、電話をして午後から中尾くん宅を訪ねました。まずデスクトップの診断に取りかかりました。そこで、買い換えまで決意したパソコンを、物の見事に一瞬にして直して進ぜました、もちろんノートの方も。もし、その場で彼が見てなかったら、きっと私を神の手を持つ達人と尊敬したに違いありません。その真相とは、私はまずおもむろに、モニターのスイッチを入れてみました。なるほど何度押してみても、ウンともスンともいいません。私は彼に言いました、こういう時は消去法で一つ一つ原因を突き止めていきます。まずケーブルを確かめてみるべきです。彼は、それはちゃんとなっています。私はパソコンの裏側に束ねてあるケーブルを取り出して調べてみました。するとコンセントとの間にあるアダプターに入るプラグが少し傾いていました。結局、これを真っ直ぐに差し込んでやると、あっけなく直りました。ノートの方も、無線LANの子機をセットすると、これも又あっけなくつながってしまいました。さぁネットにつながったので、私の打ち込んだコメント集がコピーできるかどうかです。これもうまくいきました。これで一件落着とばかり意気揚々と引き上げてきました。

 そして、帰宅してメールを開けると「
昨日は楽しい時間を有難うございました。忘れかけていたカラオケ、歌っているうちに徐々に思い出し、久しぶりに燃えました。ところで「グチこそわが命」の人に対し、世の中には愚痴を言わず黙々と仕事をこなす人がいますが、我々の同窓会の幹事さんにも約2名います。「グチよさらば」の前に名付けたのは「グチ知らず」でしたっけ。以上」とのメールが届いていました。さすが濱ちゃんです、思い出したようですが、本当にそうだったのかなぁ?

 <追伸>  今日の中尾君の話では、河島英五の奥さんが経営している奈良町にたたずむ「TENTENカフェ」が、今年7月に立ち寄ったところ「当店は2012年7月22日(日)を持ちまして、閉店致します。長らくのご愛顧、誠にありがとうございました」との、閉店する旨の張り紙が出ていたとのことでした。あぁ、もう一度訪ねてみたかったのに。もうあの「酒と泪と男とぜんざい」が食べられなくなってしまったと思うと寂しい限りです。「♪泣いて〜泣いて〜ひとり泣いて〜」。
久野 勲
 平成24年10月13日(土)「こんなエエ声だったかな?」
 昔はピーピーガーガ−のスピーカーではなく「いしやーきいもー、おいもー」という、いつもの声が聞こえてくると老いも若きも石焼き芋屋さんのリヤカーを取り囲んだものです。新聞紙(しんぶんがみ)に包んでもらった熱々の芋を、帰り着くまで待ちきれずにフーフーしながら頬張りました。当時、新聞紙は尾籠な話は置いとくとして(笑)あらゆる物の包装紙として重宝されていました。そして、ダイオキシンなど話題になっていなかった時代なので、寒い時期にはしょっちゅう落ち葉を集めてはたき火をしていました。その中に芋を入れて焼くわけです。しかし、なぜか石焼き芋の方がおいしかったと言う記憶が今も残っています。ところで、「栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」の「十三里」という諺があるそうです。この「十三里」とはサツマイモの異名で、江戸から十三里(約52q)離れたところにある川越のサツマイモがおいしかったことから生まれた言葉だそうです。そこから、埼玉県川越市の市民グループ「川越いも友の会」がサツマイモが旬でもある、今日10月の13日を「サツマイモの日」に制定したとのことです。

 ところで、今日の会議は出席者の協力を得て、予定通り2時間で終えることが出来ました。まさにホッとしました。終わってホッと一息ついているところに、この日、次回幹事長に私が半ば強引に指名した格好になった濱野君が近づいてきたので、文句の一つでも言われるのかなと思いました。ところが、耳元で今夜行けるかとのことでした。もちろん、私に異論があるわけはなし二つ返事でOKです。すると彼は「6時にいつもの所で」と言い残して別れました。約束通り彼と6時に堺東で待ち合わせて旧交を温めるべく一軒目の店に向かいました。私が入院時、毎日更新していたブログが、何日も滞っていたので、家へ電話をくれ永田君と一緒に見舞いに来てくれました。それは今年の1月のことで、まさか年内に彼と飲んで歌えるとは想像も出来ませんでした。それが今日実現したわけです。彼は何度も、今日は久野の快気祝いやと言ってくれましたが、私はその都度、それはまだ早すぎる、快気祝いは5年後やと言いながらも、彼の気遣いに感謝しました。「遠くの親戚より近くの他人」という諺がありますが、今回ばかりは逆だと思いました。しかし飲むほどに酔うほどに彼に「久野は毎年のように、辞めるとか何とか言うてるな」と、痛い所を突かれました。私はそれに応えて「そうや、その通りや濱野の言う通りや。俺は毎年ストレスがたまるんや。だからその都度癇癪を起こしてるんや」と言いました。彼はなるほどそれで時々ブログに出てくる「愚痴こそ我が命」か、けだし名言やなと言ってくれました。そこで、私の数少ないストレス解消法を理解してくれたようです。そこで、二人の間では今や恒例になっている、二次会の「つつみ」に寄りました。ご覧のような感じで11時まで二人で快く飲んで歌って、楽しいひと時を過ごして帰路につきました。彼の何気ない心遣いが、身にしみたひと時でした。そして「岡ちゃんシリーズ」に加えて「濱ちゃんシリーズ」が、近日中に実現するかも知れません。と軽くプレッシャーをかけておこう。久野 勲
 平成24年10月12日(金)「・・・こそ浮かぶ瀬もあれ」
 今日、ある同窓生の奥様より訃報が届きました。今回4人目となる悲しい知らせでした。ここに謹んでご冥福をお祈り致します。

  昨夜は久しぶりに本格的な雨になりました。6時頃「今日は雨なので、やめときましょうか」との、べーやんから電話がありました。「うん、そうやなぁ。また明日やな」「ええそうですね、明日は8時に行きます」「えっ、8時?エラい遅いな」「朝8時では遅いですか」「朝かいな。大丈夫か、起きれるんか」「はい、頑張ってみます」とのことでした。そして一夜明けると、今朝は夕べと打ってかわって爽やかな秋晴れになりました。「♪8時ちょうどのあずさ2号」ではないですが、べーやんがやってきました。目覚ましの世話にならず、7時半に目が覚めたそうです。

 思えば「私の弟のように付き合っていきたいと思っています」と井野総代長に、押部さんを紹介されたのが1年前のことでした。定年を2年残して退職して家に籠もっていた彼を、井野さんが石津太神社に来て手伝ってくれるよう誘ったそうです。それからは、神社の役員として総代長の右腕として、いや、まだ左腕くらいかな(笑)頑張っています。私との付き合いはじめは、やはりパソコンでした。ノートPCを持っているものの、ほとんど使っていないようでした。そこで、井野さんと示し合わせて何度かベーやん宅を急襲して(笑)、半ば無理矢理にパソコンを調べて使えるように設定し直したりしました。これがまた、悪評高き(笑)WindowsVISTAだったので手こずりましたが、得意の「結果オーライ」で何とか格好をつけることが出来ました。押しかけていって、ごめんなさいでは格好がつかないところでした。

 そして、彼とは家が近いこともあって私が行ったり、彼がノートPC持参で来てくれたりして、私とも徐々に打ち解けていくようになりました。そんな折に、私が入院することになってしまいました。彼が見舞いに来てくれた時に、病人のくせに「べーやん、ちょっとダイエットせなあかんな。俺が退院したら迎えに行くから一緒にウオーキングを始めよう」と言っていました。ところが、退院してからは、時たまウオーキングを試みていましたが長続きしませんでした。べーやんに言ったことを忘れていたわけではありませんが、どうも精神的にもそんな気持ちになれないでいました。そんな中で、先日べーやんが「夜の訪問者」として来てくれました。人付き合いの苦手だった彼ですが、今では歩きながら「先生とこんなに話を出来るとは思ってもいませんでした。これも、ふさぎ込んでいる時に総代長が引っ張ってくれたお陰です」と言っています。これで、夜も眠れるようになりました。苦手だった朝も起きられるようになりました。体調も徐々に良くなってきていると実感しています。今朝も、別れ際に「今日も気持ちよく歩けました。夜にまた来ます」「大丈夫か、先は長いで無理すんなよ」「はい、ダメだと思ったら電話します」とのことで、元気よく帰って行きました。<以前から気になっていますが、時々自分のことを先生と書いています。これは私の言葉では無く、友人たちがそう言ってくれますので勝手に変えるわけにはいかず、そのまま使わせてもらっています。お見苦しいかも知れませんが、私のニックネームのように使われていますので、悪しからず>。

 河島英五が「どんまいどんまい」という曲で、次のように歌っていたのを思い出します。「
♪ へばっちゃだめだぜ 先はまだ長い 42.195キロだぜ 走れ 走れ ゴールに向かって たどり着いたら 泣けてくるだろう どんまいどんまい くよくよするなよ くよくよするなよ くよくよするなよ よくある事じゃないか」。歌と言えば、以前私のブログに対して濱ちゃんから「彼岸が過ぎ、少ししのぎやすくなってきたようです。暑中見舞い以来、2ヶ月ぶりのメールですが、ブログで写真入りでお誘い・ラブコールをいただき恐縮です。実は、7月から交通科学博物館関係のプロジェクトを手伝っており、町内会関係の行事も増えて、以前とは少し違った毎日を送っております。10月の幹事会の頃、一度ご相談したいと思います」とのメールをもらっていました。もう6年になりますが、彼が幹事長の時に一緒に幹事をして以来、ある時はメル友として、またある時は飲み仲間として、さらにある時は歌の好敵手としてお付き合い願っています。明日、約束通り次回の歌合戦(笑)について相談出来るメドがついてホッとしています。彼は相変わらず忙しそうですが、年内に実現できればと思っています。今では、彼と過ごす一時も日頃の喧噪を忘れ憩いのひと時になっています。

 同窓会と言えば、いちばん最初は10年前に初代・大仲幹事長と組みました。そして、二代目の濱野幹事長と組んでくれと言われました。「俺はお前(大仲)やから引き受けたんや。濱野とは話しもしたことが無いし、昭和同士で組むのがいち番やりやすいやろう」と言うことで断りました。しかし、執拗に頼まれたので仕方なく引き受けることにしました。しかし、二人には一応噛みついておきました。大仲には「濱野に、久野がすべてやるから名前だけで良いと言うたんやろ」、濱野には「大仲から、久野がすべてやるから名前だけで良いと言われたんやろう」と。二人は「
そんなことはない」と否定しましたが、当たらずと言えども遠からずだったと思っています。さらに3年前つまり前回ですが、石塚から「俺、濱野から幹事長を頼むと言われたんやけど、久野お前も一緒にやってくれるな」との電話がありました。その際、実は大仲とも濱野とも意見の違うところがあったんや。コウコウシカジカで・・・ と手短に話をしました。すると彼は「俺は大仲や濱野のすることは理解できるで。それは企業でよくあるトップダウン方式や」と言いました。私は即座に「企業と同窓会を一緒にするな。そう言う考えなら、俺は石塚には協力できん。悪いけど浜寺の誰かに頼んでくれ」と断りました。もちろん、同窓会へも欠席の返信を出しました。ところが、同窓会直前になって大仲が動き出しました。「同窓会で集まるから、お前も来てくれよ」とのこと。「俺は幹事と違うで」と言いましたが「まぁ、そう言わんとちょっとだけでも顔を出してくれよ、迎えに行くから」とのことでした。リーガロイヤルへ行ってみると、石塚幹事長はじめ、当初からのメンバー7、8人が集まっていました。私も意見を求められましたが「俺は幹事ではないし、石塚に同窓会も欠席の返信を出してるよ」と応えました。すると、石塚は事もあろうに「あれは出席と見なした」と言い出しました。結局、同窓会には出席しました。だから10年前から続けてきた「浜中九期生」も途切れること無く更新できました。

 そして、3年が経ち今回大きな区切りの古希を迎えました。この記念すべき同窓会に石津校区が幹事を任されました。ある意味、幹事としての私の集大成とも言うべきまとめであり締めくくりの同窓会だと、自分自身で位置づけています。まさに、いよいよ本番です。楠幹事長を中心として石津の幹事は言うに及ばず、各クラスの幹事さんたちの全面的な協力を得て、何としてでも成功させなければいけないと思っています。大げさ過ぎるかも知れませんが、そうでなければ、この10年にわたって私自身今まで関わってきたことが水泡に消えてしまう、そんな気がしています。オフィシャルサイトとしてのHPが無くなった今、同窓会の記録に名が残ることはありません。しかし、それが私自身納得のライフスタイルなのです。「名を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」あれっ、身を捨ててこそ、だったかな(笑)?久野 勲
 平成24年10月11日(木)「秋の夜長の戯(ざ)れ言」
 とりあえず年内は完全休養に入ろうと決心し、そのつもりでいました。ところが、私を取り巻く今の情勢はやすらぎを与えてくれないようです。つい一昨日までは、絶対に許せない・譲れないと決めていた決心が、昨日脆くも崩れてしまいました。それは、石津の幹事仲間からの一本の電話でした。やむなく、この13日の会議においてまさに図らずも私の代わりをする羽目になってしまった彼は腹をくくって電話をくれました。かなり長い時間、私のサイトからの資料の取り込み方、会議の進め方など熱心に聞いてくれました。「俺がその気になったのは、お前がネットでいろんな資料を提供してくれて道筋をつけてくれているからや」と言ってくれました。私も「これは石津の同窓会やないからな。浜中九期生9クラス全体の幹事を任されてるんやからな変なこと出来へんな」「うん、東京や福岡からわざわざ来てくれる人も居てるし、ちょっとでも不愉快な思いさえたらあかんしな」だから、自信が無いけどやらなあかんと思うてるんや」彼と話をしていて悲壮感のようなものが伝わってきました。そこで「議案書作ってんか」と聞くと「いやまだやねん。当日口頭でしようと思ってるんや」「30人もの各クラス幹事に集まってもらうのに。それはあかんで。記録上からも議案書は必要やで」しばし沈黙のあと「わかった、早急に議案書は俺が作る」と言ったものの、明後日の幹事会は同窓会当日のことをすべて決めなければならない大事な会議です。本来なら何人か集まって打ち合わせをしながら作るべきものです。しかし、もう時間がないので私が作る事にしました。そして今日、朝から議案書作成のため、出来るだけスムーズに議事進行するために、大仲と会って打ち合わせたり、何人かの人に電話をかけて根回ししたり結構忙しい思いをしました。打ち合わせを兼ねて、都合で13日は出席できないという大仲と会って忌憚の無い話し合いが出来たのが良かったと思っています。議案書を作る限りは、必然的に提案者にならざるを得ません。「よし、13日に俺が行って提案する」と言うことになってしまいました。一旦切れた気持ちは、そう簡単に元には戻りません。しかし、それが誰からであったとしても、頼りにされている内が華だと思います。冷静になると、小っちゃいことに拘っている自分が、つくづく恥ずかしくなってきました。石津以外でも、一声かければお互い快く協力し合える当初からの幹事仲間が何人も居ることだし心丈夫です。こうなれば、まぁケセラセラでやってみます。これぞ、得意の「愚痴こそ我が命」(笑)かも。ところで、未だに私自身同窓会は欠席で、すでにコメントまで掲載しています。横浜の島田さんが、飲んでよく言ってました。「まぁいイカ!」と。ついでにこの際、欠席も皆んなが知らないうちに、こっそり取り消してしまおうか。

 う〜む、どうなんでしょうか。私は何度か経験したことがありますが「誰が悪いというわけでは無いのに、どうも物事が思うように運ばない」と言うような不可思議なことがあるようです。こうなると手の施しようがありません。じっと頭(こうべ)を垂れて、通り過ぎるのを待つしかないのかも知れません。神のイタズラとでも言うんでしょうか。そうとでも思わない限り、なかなか納得出来ない現象です。こんなことで右往左往していれば、まさに神の思う壺にはまってしまうのではないかとさえ思ってしまいます。別に神を侮辱しているつもりはありませんので、悪しからず。
久野 勲
 平成24年10月10日(水)「頑張る同窓生」
 豊中市曽根にある【家庭料理・百菜】住宅街の中にひっそりと佇んでいますが、地元では人気のお店とのことです。おまかせコースにしましたが、どれも美味しくて写メ撮り忘れたくらい夢中になりました。おかみさんが70歳とは思えないパワー溢れる方で、お店も今年で15周年を迎えられました。素敵なおかみさんの料理を食べたらモリモリ元気になりました。梅雨時のどんよりした気持ちが一気に晴れ晴れした時間でした。あるブログに、こんな書き込みがありました。

 あれぇ?ちょっと待てよ、どこかで・・・先日届いた「浜中九期生」同窓会の返信ハガキに書いてあったコメントを見直してみました。「豊中で店名が百菜」「15周年」そして「おかみさんが70才」と、ことごとく符合します。これは間違いないでしょう。これは、3組の井澤(沖野)景代さんのお店だと思います。私は井澤さんとは、多分同じクラスのなったことも、話をしたことも無いと思います。コメントに≪
お料理の楽しさ、人様とお会い出来る幸福でいっぱいですが、最近疲れも出ます。つくづく年齢を感じて参ります。毎日を感謝して、もう少し。店名は「百菜」です≫と書かれていたのが、なぜか印象的に残っています。私は大阪に住んでいながら、豊中という町へは一度も行ったことがありませんが、機会があれば一度訪ねてみたいと思いました。9組の鳴神君のお店もそうですが「ひっそりたたずむ」という雰囲気というか響きが良いですね。あれもこれも歳のせいでしょうか。

 ところで、つい先日も、あるメル友と人間関係のことで意見交換をしました。結局「相手のあることは難しい」と言うことになりました。ただ、この歳になってまで自分の心を偽(いつわ)って、例えば◯○のためになどと、自分を犠牲にして良い子になる事はしたくありません。やはり、加齢とともに頑固になっていくようです。とはいうものの、今私が直面している現実は、例えはらわたが煮えくりかえる様な思いがあっても、なかなか投げ出すわにはいかないようです(苦笑)。お前ら、病人の俺を殺す気か!と小さく叫んでいます。そして、何の因果か分かりませんが、とうとう土壇場に来て重い足を引きずりながら、撤退したはずの第一線へ出かけて行く羽目になってしまいました。

 頑固と言えば、地方によっては「へんこ」と言って尊敬されているかどうか知りませんがそういう風に呼ばれているそうです。そう言えば私の身近に、誰がつけたか自他ともに許す「へんこ同盟」とか「へんこ同好会」とかいうグループがあると聞いたことがあります。その会長というのが私の身近な人でした。その人は、コテコテのへんこだそうです(笑)。なるほど、その人のメールアドレスにhenkoと言う文字が入っています。これは本人ではなく、家族の人に登録さられたそうです。いわゆる、家族公認で天下御免のへんこだそうです(笑)。それが数年前、事もあろうに畏れ多くも畏(かしこ)くも会長直々に、その「へんこ同盟」とやらへの加入を勧められたことがありました。もちろん、丁重にお断りしました。しかし、ここに来て入会費は無料だそうなので、せめて丁稚見習いとして入会を考えてみる必要があるのかも知れません。こんな事を書けば、早速入会申込用紙を持ってこられるかも知れませんね(笑)。

 <追伸> 今、18:40アラスカ上空に、きれいなオーロラが現れています。それでは、健康促進のために7時から、べーやんと夜のウオーキングに出かけます。久野 勲 
 平成24年10月 9日(火)「恐いのはウイルス?それとも」
 つい最近、大阪市への殺人予告、伊勢神宮への爆破予告と相次いでネットによる犯罪が起こりました。そして、二件とも配信したパソコンが特定されて、当然その所有者が容疑者として逮捕されました。よくあるネットによる愉快犯が逮捕されて一件落着。と思っていましたが、すぐに二人は釈放されてしまいました。思わず、なんでやねん!と声に出してしまいました。そして、記事を詳しく読んでみて納得しました。

 その記事によると、当初「容疑者」とされた二人の男性は、一転して無実の「被害者」だった可能性が強まり、感染判明後、相次ぎ釈放されました。大阪府警と三重県警は同一人物の第三者がウイルスを作成し、2人のPCを乗っ取って書き込んだ疑いがあるとみて、感染経路などを調べるとともに不正指令電磁的記録作成や同供用容疑を視野に捜査しています。二人は当初から一貫して「覚えがない」と否認。その後の捜査で、2人のPCからそれぞれ新種のウイルスが検出されました。捜査関係者によると、いずれのウイルスも遠隔操作でPCを完全に乗っ取ることができる同一の不正なプログラムだったと判明しました。書き込み後にプログラムが自動削除される機能も備えていたといいます。そこで、検察当局は第三者が関与した疑いが強いと判断。二人の男性はいずれも9月21日に釈放されました。

 このウイルスは、画像ソフトをダウンロードした際に入ってきた可能性が高いということです。私も無料という気安さから、よくフリーソフトなるものをダウンロードしています。セキュリティーソフトをインストールしていてもウイルスは、いつもその
脆弱(ぜいじゃく)な箇所を探しながら、侵入の機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っています。今後は、さらに「むやみにダウンロードをしない」「送信者に覚えのないメールは開けない」「大事なデータは小まめにバックアップする」特に、この三点を心がけていきたいと思っています。

 ちなみに、今日の夕刊に続報が出ていました。逮捕された大阪の男性は7月中旬、ノートパソコンに買い換え無料ソフトを数本ダウンロードしたそうです。その数日後に問題のメールが送られてきたとのことです。男性は逮捕されるまでに、10回ほど府警に任意で事情聴取されたそうです。「第三者がメールしたに違いない」「脅迫文の書き込み自体知らない」と無実を訴えたが逮捕されました。さらに府警や大阪地検から「IPアドレスという確証がある」「認めたら罪が軽くなる」と持ちかけられたそうです。ウイルスの侵入そのものも恐いことですが、警察や検察の対応も恐いですね。やはりこれも、思い込みが先行した捜査なんでしょうか。こんな現状では、なかなか冤罪はなくならない、そんな怖さを感じました。

 恐いと言えば、秋祭りも終わったので小猿に電話をしてみました。「小猿愛用の帽子は、どうしたんや」「
それが、この前ご一緒した時にどこがで無くしてしまいました」「俺はどこにあるか知ってるで」「え、ほんとですか」「お前本当に覚えてないんか」「ええ、あの時はグデングデンになってしまったんで」「そうは見えへんかったけどなぁ。つつみに置いてあったで。帽子の中に井野のツーやんから預かった熊野音頭のDVDを入れてあるから取りに行けよ」「わかりました。ところで、先生は今度いつ行きはるんですか」「別に決めてないから、お前が行く日をメールで知らせてくれたら付き合うよ」とのヤリトリでした。もし酔っ払った小猿が千鳥足で歩いていて、誰かとぶつかって相手が手を出してきた時を想像すると、おぉ〜恐わっ!シルバーバック(ボスゴリラ)でも呼ばない限り止めようが無いでしょう。

 ちなみに、小猿にはシルバーバックの異名を持つ後藤龍治という大先輩がいます。後藤選手は、かのK−1の魔裟斗選手とグローブを交えたほどの猛者です。しかし、たとえ酔いお酒で酔っていても小猿が暴れることは120%とは言いませんが、99.9%はありませんので、そんな心配は限りなく皆無に近いでしょう。画像は私が6年前にイタズラ心で編集したツーショットです。当時小猿は、
あの写真は、僕の大先輩の後藤龍治さんが、タイトルを取った時の祝勝会の写真なんです(^O^)大好きな写真を、さらに大好きな写真にしていただいてありがとうございます☆頂いた写真は僕の部屋に大切に飾らせていただいています(^O^) 押忍☆と喜んでくれました。久野 勲 
 平成24年10月 8日(月)「日本一の山」
今朝7時に富士市から観た「富士山」です

 先日、べーやんと夜のウオーキングで臨海スポーツセンターの前を通りかかった時に「ここが、あのフィギュアスケートの高橋大輔選手が子供の頃から練習していた所や」と説明していました。しかし、耐震構造に問題が見つかったために、その改装工事費用3億円の捻出のめどが立たず存続が危ぶまれています。そんな中で、今日の朝刊に「1億3000万円、匿名寄付」との見出しが目につきました。ほぉ、すごいなぁと思いながら記事に目を通しました。サブタイトルに「メダリスト育ったリンク守りたい・・・とありました。これで、工事費の募金を進める支援の会に、総額1億4300万の募金が集まったそうです。かねてから大阪府の松井知事が「工事費の半額が集まれば、残りは大阪府が負担する」と明言しているので、これで存続の道が開ける見通しがついたとのことでした。私はフィギュアスケートのファンではありませんが、数少ない大衆的なスポーツセンターが残るということは良いことだと思います。

 ところで話はコロッと変わりますが、以前「あのねのね」というコミックソングを歌う二人組がいました。今でもいますが(笑)。その一人である原田伸郎が語っています。「あのねのね」の全盛期には、バックバンドといして「ギターの河島英五」「キーボードの小室哲哉」などが参加していたそうです。当時、英五は前座で「酒と泪と男と女」を歌っていたとのことです。原田が、エエ曲やね「あのねのね」にくれへんかと言ったところ、英五は困っていたそうです。即答を避け、後日丁重に断りに来たと言っています。ある日、3人で全国ツアーをしている時、電車内で英五が詩が出来ましたと言って手帳に書いて持ってきたそうです。それを見て、即座に「エエ詩や、これに曲をつけて今夜のステージでやろう」といって、即興的に出来上がったのが「青春旅情」だったそうです。後に、英五自身も歌っています。ちなみに、こんな詩です「♪汽車にゆられ、一日のいくらかを過す毎日が続いています。北から南へ、東へ西へあちこちの街の人と人との、心と心をつなぐかけ橋になれたら良いと思います。雨の日も風の日もゆれる汽車の中で、想い出と見知らぬ夢との間を行ったり来たり」。特に、人と人とのコミュニケーションを大切にしたという、河島英五らしい詩だと思いました。
久野 勲
 平成24年10月 7日(日)「我が思いは、我れのみぞ知る」
 昨日が「浜中九期生」同窓会の出欠の締め切り日でした。出席予定は87名です。これで一応、幹事としての私の役目は終わることになります。思えば、7月1日の第1回幹事会の直後から、ここ3ヶ月というものは日増しにつのるストレスに悩まされ続けました。それから逃れるために、時たま行く同窓会とは関係の無い仲間達と飲んでの歓談やカラオケに行っています。しかし、それは私の1番嫌いな飲み方です。やはりそれでは抗しきれず、最近はよくライブ・カメラで「富士山二景」を眺めて心を癒すようにしています。それと、ウオーキングと徒然なるままにブログを書くことである程度ストレスの軽減に努めるなど、あらゆる手段を講じています。体調は悪くなかったんですが、つのるストレスは9ヶ月前に摘出手術で小っちゃくなった胃に、予想外の負担がかかっているように感じています。

 健康な人には、大げさだと思われるかも知れませんが「人は何とでも言わば言え、我がなすことは我が思いは我れのみぞ知る」という、今は畏れ多くも坂本龍馬の心境です。命を縮めるようなことは避けて、もう少しばかり元気で生きていたい。これもまた苦渋の決断でしょうか、10月1日に楠幹事長宛に
「都合により、10月13日の幹事会、および、それ以後の行事にはすべて欠席します。出席者等の資料については、すべてネットに掲載しています。毎日最新情報を更新しています。それを印刷するなりして使って下さい。ネットの見方は釜中君に伝えてあります。なお、コメント集についても、ネットに掲載しています。欠席理由は、強いて言えば「体調不良」のためです。以上 久野 勲」とのFAXを送っています。

 一方、そんな事ばかりではありません。今回の「浜中九期生」同窓会の件をきっかけにして、広島在住で石津小学校の同級生で、しかも浜中でも同級生だった友人からうれしいメールが届きました。秋の夜長にコーク杯を飲みながらメールを打つという女性ですが、なかなか趣のある頼もしい(笑)同級生です。また一人メル友が増えるかも知れません。それでは紹介しましょう。

 
お疲れ様で〜す。久野さん、お酒は程々に^^。私の主人もお酒が大好きな人でした。お酒を控えていれば、もっと長生きできたかも・・・かくいう私も今、コークハイを飲みながらメールしています(笑)久野さんのホームページ拝見して、いろいろ懐かしく思い出しました。同時にこのようなホームページを作成できる久野さんを尊敬します、素晴らしいです(拍手)
 
 PCは私の宝物です。中でもユーチューブ、政治、音楽、世界の出来事等々。先日、ヤギを救った子豚にとても感動して涙が出ました。最近自分の子供を(理由はともあれ)自らの手で殺すという残念なニュースが多すぎますね、子供のいじめ問題や若者が事故や事件で命を落とすことは心痛の極みです。自分たちの孫が成人したとき、この世はどうなっているのか心配です(老婆心)まだまだ言いたいことがありますが、次の機会に・・・ごめんなさいね、私少し酔っているみたい K.K



 広島在住の同級生◯◯さん、パソコン続けていてよかったですね。僕は今、何人かのメル友とよく交信していますが、そのほとんどが昭和小学校の出身者です。肝心の石津は誰もいないので寂しい思いをしていました。以前は、何人かの人たち交信したことがありますが、短い期間で残年ながら今は完全に途絶えてしまいました。◯◯さんがメル友に返り咲いてくれて、これからが楽しみです。メル友の輪を拡げていけたらいいですね。
 
 ホームページは趣味で、早くから手がけていました。まだまだ拙いHPですが、ほめていただき、ありがとうございます。秋の夜長をコークハイを飲みながらとは、また趣がありますね。早速「ヤギを救った豚」の動画を観ました。多くの人に観てもらいたいですね。◯◯さんからのメールとともに、明日の「ブログもどき」に掲載しようと思っていますが、いいですか?
 
 ところで、昔は考えられなかった様な事件が、日常茶飯事の様に起こっています。これらの諸悪の根源は教育にあると思っています。恐ろしいことに、人々はそれに慣れっこになってしまって「またか」ぐらいにしか思わなくなってきているようです。そんなこと、あんなことを織り交ぜながら、徒然なるままに毎日ブログを更新しています。またコークハイでも飲みながら、ゆっくりご覧下さい。ただし、飲み過ぎない様にほどほどに。昨日5日から石津の秋祭りが始まっていますが、今日は外は今あいにく冷たい雨が降っています。それではまた。久野 勲 
 平成24年10月 6日(土)「苦い思い出・苦渋の決断」
 おはようございます。朝晩だいぶ涼しくなりましたね。ぼちぼち歩こうとするのですが膝がいたくなり、それと手術後の跡がまた出ている感じで運動は控えていますので、食べるばかりで体重オ−バ−の感じです。久野さんは歩かれているようですね。朝晩冷え込みますのでお体ご注意ください。最近「男の料理」にはまり、楽しく作っています。昨日も栗ご飯や、カボチャス−プなどつくり、写真など取り、結構美味しいと家族が喜んでくれていますので、なにか買い出しをと今日も考えています。10/4は「いわしの日」でしたね、いわしを生姜であまがらく煮つけると美味しいですよね。ぼちぼちお腹がすいてきましたので失礼します。それから、さんまのお腹の中にうろこがあるようですよ?見てください。次回へ

  うどんげって?ご苦労様です、いつもありがとうございます。同窓会でお会いするのを楽しみにしています。久野さんのブログ楽しみにしています。この中で優曇華の花と言う話が出ましたので書いてみました。仏教では優曇華の花が咲くと、如来が現れるという伝説があるそうです。一方、昆虫の卵であるとする説もある。「優曇華の花は、実は昆虫の卵である」として花の存在を否定する報道が多かったようです。私が小学生の時、我が家の古いみずや(食器棚)の端に小さな半透明な、きのこのようなものを見つけました。その上に神棚がありました。ばあちゃんがそれは珍しいものやといい母も呼び、これは優曇華の花と教えてくれました。この時、ウスバカゲロウの卵ときいていましたが、調べるとクサカゲロウの卵とでていました。カゲロウの羽は、少しみどりがかった透明で山などに行くと渓流でみかけます。カゲロウの寿命は、そのとき数時間から1日と聞いていましたので、はかない一生だと思っていました。花では月下美人のようなものですね。昔は逆にこの花が咲くと家にフジが入ると嫌われていたようです。ふじという言葉を認識できていないので、辞書で調べてみると、いろんな意味に捉えられているようですね。

         ふじ  不時(思いがけない時、不意)

          不治(病気がなおらな)不治の病

          不二、(二つとないこと)

          不次(異例、破格なこと)

          扶持(そばにいてたすけささえる)

 物知りの久野さんは、どの意味に思われますか教えてください。感じとして良い意味に感じませんが、ふじが入るは、全体的によくない意味ですよね。おばあさん(母の母)も昔、女子学校の教壇に立っていたようで物知りでした。岡井宏之



 いつも、面白いというかタメになる情報を送っていただきまして、ありがとうございます。ともすれば殺風景になりがちな当サイトに、彩りを添えていただき「感謝・感激・雨あられ」と言ったところです。他の方達も続いてくれれば、さらに充実したサイトになると期待しています。ところで「みずや」とは、今の若い人たちには分からないでしょうが、我々にはとても懐かしい響きがあります。食べ残したものがあれば、よく母親から「それ水屋へ入れとき」と言われたものです。元来、水屋とは、茶室に付随する点前や茶事のための準備をしたり、片付けをしたり、器物を納める場所だそうです。しかし、我々の呼んでいた「水屋」とは、確か四角い箱形で開きの戸にはハエなどの進入を防ぐ網が張ってあって、食べ物などを一時仕舞っておく物だったと思っていました。今思えば、言葉の使い方を間違えていたのかも知れませんね。ところで、私は決して物知りではありませんが「ふじ」と言えば、真っ先に富士山を連想しますが、そういう人は多いと思います。ただ、形容詞的に使われる場合は、おっしゃる様に「良くない意味」に使われているようですね。

 思い起こせば、今から16年前になりますが、平成8年に小学校の恩師との手紙にヤリトリの中で末尾に「不二」と書かれていたことがありました。この年の正月に、恩師から「・・・貴君達が計画されている同窓会なるものを知りました。一瞬一抹のわびしさを感じずにはおれませんでした。とりわけ貴君のお人柄には絶大の信頼をいだいていただけに失意の念を圧えることはできませんでした。独走する一部の輩と善悪の是非を論ずる気にはなりませんが、同じ教職につく者として、貴君にその気持ちがおありであるなら、貴君が今尚気づかずの侵して居られる三つの誤った点を指摘し話をしてみたいと思いますので、ご都合の良い日に一人でご来駕くだされば幸いでございます。・・・不二」との、お手紙を受け取りました。ご丁寧な文面ですが、私に対する呼び出し状でした。

 実はこれを受け取る数日前のことですが、ある同級生に誘われて先生のお宅へ寄せてもらいました。その時に、同窓会や私の主催している同窓会新聞「かいらんばん」について、誹謗中傷に近い事柄で批判されました。私にとっては身に覚えのない事なので、一つ一つ説明させてもらおうとすると「そんなに久野に、いちいち反論されたら話できんな」と言われました。最後まで黙って聞かされるという、まさに針のむしろに座っているようでした。結局、問答無用の一方的に批判されるという屈辱的な仕打ちを受けたまま、二度とこのお宅を訪ねることはないと思いつつ帰りました。ご病気のせいでしょうか、私達がいろんな事を教えていただいていた頃の先生とは明らかに違っていました。私達のことを良く思っていない誰かが、先生にいわゆる告げ口をしたとの噂を耳にしましたが、真相は分かりません。以前の先生なら双方を呼び出して「お前ら、いったいどうなってんだ」と、それぞれの言い分を聞いてくれたはずです。それがごく常識的な解決方法です。

 私はそのお手紙を受け取った日、躊躇すること無く次の様なお返事を書きました。「・・・私自身、歳のせいでしょうか昔の様な素直さが失せてしまったようです。更に、どこでどう誰がボタンを掛け違えてしまったのか、追求して絡まった糸を解きほぐそうとする気力さえも・・・。このような情けない身であってみれば、今現在先生のご教授をお受けする資格がないような気さえしています。ただ、事ここに至ったことにつきましては、もとより他意はございません。もし無意識のうちに先生のご勘気に触れる様なことをしたのであれば、その点幾重にもお詫び致します。その上で先生の言われる「独走する一部の輩」達と行動を共にしたいと考えています。勝手な言い分ばかりで申し訳ございません。もしお許しいただけるようでしたら、いずれ気持ちの整理がつき次第お伺いさせていただきたいと思っています。・・・」。これは明らかに恩師に対する失礼極まりない決裂文です。返事はすぐに書きましたが、イザ投函する時には躊躇しました。要するに、この場合の「不二」とは、これが最後通告だということだったようです。これで、他の同級生を押しのけるような格好で、私は先生から悪者の代表という不名誉なレッテルを貼られてしまいました。しかし、一切後悔はしていません。この二文字には、そんな苦い思い出があります。
久野 勲


 平成24年10月 5日(金)「今日はレモンの日」
 上の富士山の画像を編集している時に、べーやんから電話がかかってきました。「お早うございます。すんません、今起きたとこなんです。今日はお休みさせてもらいます」とのことでした。朝が弱いと聞いていましたが、その通りだったようです。今朝のことは彼が言い出したことなので、心配はないと思います。祭りに行った時にでも様子を見てきます。そんなわけで、今日は久しぶりに一人で出かけました。これで、弘法大師が宿るとされている金剛杖でも持っていれば、お遍路さんのように「同行二人(どうぎょうににん)」となるところでした。

 さて、いよいよ今日から石津太神社の「秋祭り」が三日間にわたって実施されます。神社役員のベ-やんとしては、夜は忙しくなると言うことで、今日は「朝の訪問者」になって9時頃に現れました。土・日はウオーキングをお休みするそうです。私と歩きはじめて4日目ですが、彼は、ここ一週間続けているそうです。今や完全に彼のペース乗せられたれた感があります。心やさしい彼のことです、気を遣って、私のペースに合わせて歩いてくれますので、このまま長く続きそうな気がしています。あの、我々が心やさしい男と認めている小猿をして「押部さんて、本当にやさしい方ですね」と言わしめるほどの人物です。やさしさにかけては、誰にもヒケはとらないでしょう。ただ、強いて言えば、多少やさし過ぎるところが玉にきずと言えるのかも知れません。 

 今日は「レモンの日」だそうです。詩人高村光太郎の妻、智恵子は昭和6年に精神に変調をきたします。昭和7年に服毒自殺未遂を起こし、その後病状が悪化し、昭和10年2月にゼームス坂病院に入院。そして、1938(昭和13)年10月5日、7年にわたる闘病生活の末52才で亡くなりました。死因は粟粒性肺結核だったそうです。亡くなる数時間前にレモンをかじる姿をうたった「そんなにもあなたはレモンを待っていた・・・私の手からとつた一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」という「智恵子抄」の「レモン哀歌」にちなんでいます。

レモン哀歌
                   高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう

              「智恵子抄」より 
 平成24年10月 4日(木)「締め切り迫る!」
 「浜中九期生」同窓会の参加者は、昨日現在で70名になりました。なお、締め切りは10月6日となっていますので、今なお考え中の方はそろそろ(出席に◯をつけて)投函してください。思えば図らずも私自身、よく理解出来ないまま幹事から撤退せざるを得なくなって、楽しみにしていた同窓会への出席も断念することになりました。原因については、私の不徳の致すところだったのかどうか?その辺の顛末については、いずれきっちり総括してみたいと思っています。もちろん、出欠の集計等、私の最低限の役割については、自分で決めたことでもあり、ネット上で今しばらく続けていくつもりです。せめて、それらが今後の幹事会等への資料として活用してもらえると思っています。今はただ、陰ながら盛会を祈っています。陰とは言っても、まさか「草葉の陰」ではありませんので念のため(笑)。強いて言えば、まさに、いつぞやの女性外務大臣の言葉ではありませんが「一生懸命やっているんですがね」と言いたい心境でしょうか(笑)。

 ところで、同窓生と言えば数年前から何度ともなく和歌山県の九度山を訪ねています。平成21年に、九度山から独立して高野山に一人住まいをするという息子さんを訪ねました。用件は、パソコンの設置とインターネット等の設定でした。その帰りに同窓生の車の中で、珍しい所を紹介するということで車を止めました。そこは、日本で最後の仇討ちの場所となった所でした。当時「高野の決闘」と言うタイトルで書いています。仇討ちと言えば、昔よく映画で見たことがあります。仇を討つ敵を何年も何十年も探し求めて、運よく巡り会った時に「敵を探して幾十年、神のご加護か仏の導き。ここで逢うたが百年目、盲亀の浮木・優曇華の華。いざ尋常に勝負、勝負!」という口上を述べて立ち会いに臨みます。もちろん、成功するとは限りません。返り討ちにあうという、悲惨な例も数多くあったそうです。当時はこの口上の意味が、まったく分かりませんでした。「盲亀の浮木」とは、目の見えなくなった老海亀が百年に一度浮き上がってきた時に、偶然穴の空いた浮き木の穴に首を突っ込むという寓話から出来た言葉で「優曇華(うどんげ)の華」とは、仏教経典で、3000年に一度花が咲くという伝説上の植物であると言うことを知ったのは、随分後になってからのことでした。ちなみに、日本三大仇討ちとしては、1.蘇我物語『曾我兄弟の仇討ち』2.荒木又右衛門「鍵屋ノ辻」3.赤穂浪士「吉良邸討ち入り」があげられます。

 秋の夜長、徒然なるままにこんな事を書いていると、まさに呼応するかの様に、九度山から「
こんばんは。お久しぶりですね。お身体の調子はいかがですか。もうお酒は飲めますか。お酒がなければ人生そんなに楽しくありませんよ。一刻も早いご回復を願っております。実は質問なんですが新しいパソコンを上に持ってきました。そして、そのWindows7を以前使っておりましたプリンター(EPSON PM−A850)に接続したいのですが、プリンターの追加という項目にもなく、インストールできません。何か方法をご存知でしたらお教えいただけますか。大祐」というメールが飛び込んできました。ここしばらく会っていませんが、鳴神大祐君も何かと頑張っているようなので安心しました。久野 勲
 平成24年10月 3日(水)「けつがんとは?」
 「けつがん」とは聞き慣れない言葉です。どうやら、お尻のガン(笑)のことではないようです。漢字では「頁岩」(シェール)と書くそうです。これが今後、日本のエネルギーに革命をもたらすかも知れない重要な資源なのです。日本は、長年にわたって中東諸国等から高価な石油を買い続けていますが、場合に寄れば自家製の安価なオイルが手に入るようになるかも知れません。頁岩とは、泥土が水底に積み重なって固まったもので、板状にうすくはがれやすい泥岩のことです。この頁岩の中にシェールオイルが含まれているそうです。ところで、今日の夕刊に「シェールオイル採取成功」との見出しが大きく出ていました。秋田県由利本荘市で、国内で初めてとなる地下1800mに眠るシェールオイルの採取に成功したと報じています。このシェールオイルは、新たなエネルギー資源として世界的に注目を集めています。また、以前から秋田県内に分布していることは分かっていたものの、コスト面で採算が取れるかどうか未知数だったため、採取は行われていなかったそうです。今回採取に成功した石油開発大手の「石油資源開発」では商業化に向けた第一歩になると話しているとのことです。

 さて話は変わりますが、夜の訪問者と夜のウオーキングを初めて今日が三日目です。三日坊主どころか今日は浜寺水路の向こう側を歩く、いわゆる元気な頃の私の本コースを歩いてみました。久しぶりの本コースだったので、さすがに疲れました。しばし、明石大橋近くのベンチの腰を下ろして休憩にしました。そこへべーやんの携帯がけたたましく鳴り出しました。しばらく話をしていたかと思うと、私に携帯をさし出して代われといいます。恐る恐る「もしもし」というと「いつもお世話になってます、仁です」とのこと。「あぁ仁のママかいな」「そうです。ヒマですねん、また来てちょうだい」「また行きます」。ちなみに「仁」とは、時々顔を出す石津のカラオケ居酒屋さんです。私の場合は簡単に終わりましたが、べーやんの場合は「またと言わんと、今日来てちょうだい」と言われたそうです。仁のママとべーやんは同級生の仲です。べーやんが行く気なら一緒に行くつもりでしたが、さすがに今日は疲れたらしく行くとは言いませんでした。少し前までは、スナックとかメンバーズなどから、しきりに「おヒマなら来てよね」コールに追われていた友達がいましたが、今は我々が行くような、安あがりで大衆的な居酒屋までもが客足が遠のいているようです。まだまだ、不景気の風が吹き荒れているようです。久野 勲 
 平成24年10月 2日(火)「知らんかっとったなぁ」
 昨日、突然わが家を訪れた「夜の訪問者」の出現で、今後堺東には雨の日にしか現れないということで「雨の訪問者」になってしまうかも知れません。こうなれば、まさに往年のハリウッドスター「チャールズ・ブロンソン」の世界です。「オーマンダム!」と、一時期、男性用化粧品のCMで一世を風靡した、あの野性味あふれる武論尊(マンガ名)を懐かしく思い出しました。ブロンソンと言えば、街のチンピラに妻を殺され、娘を廃人にされた平凡な男の復讐を描いた「狼よさらば」は見応えがありました。しかし、どうひいき目に見てもただの平凡なおっさんには見えませんでしたが(笑)。夜の町を一人さまよいながら、次々とチンピラを撃ち殺していく主人公が次第に街の英雄視されていく様子は、警察組織の無能力ぶりと大衆のいい加減さを痛烈に皮肉っている作品でした。ブロンソンお得意の、大げさなアクションシーンもなく、物静かな、それでいて妻子の復習のためだけに、冷淡かつ大胆にも次々と犯人のチンピラたちを撃ち殺して行く姿がとても印象的でした。

 ところで「日中経済情報週刊」というメディアの中に、人民網日本語版(現住所日本)という部門があるそうです。中国で発生した重大ニュースのほか、中国の経済、社会、科学教育、文化、観光などの分野にわたる情報を全面的に提供する、日本国内での中国情報のメインリソースの一つだそうです。人民網日本語版は、朝日新聞の「asahi.com」、日経BP社の「日経BPネット」、日経QUICK、みずほ銀行などとニュース提携を結んでいるとのことです。その記事の中に「南中国海問題、今年は更に複雑に。日比越の思惑」という見出しがありました。要するに、南シナ海での領土問題を抱えるフィリピンとベトナムの首脳が「中国は日本に対して挑発行為をとるべきではない」と中国をけん制したというニュースでした。その内容もさることながら「越」とはベトナムのこととは知りませんでした。

 そこで、例によってフリー百科事典「ウィキペディア」で調べてみると、外国の日本語(漢字)表示で知らない国がたくさんあるのには、今さらながら改めて驚いているような次第です。ちなみに、列挙してみると、@「尼」、A「柬」、B「叙」、C「星、新」、D「土」、E「馬」、F「約」、G「老」、H「緬」、I「泰」とアジアだけでもご覧の通りです。世界中で数え上げればキリがありません。クイズのようになって恐縮ですが、次のようになっています。@インドネシア、Aカンボジア、Bシリア、Cシンガポール、Dトルコ、Eマレーシア、Fヨルダン、Gラオス、Hミャンマー、Iタイ。

 <追伸> この、5(金)6(土)7(日)は、
石津太(いわつた)神社の秋祭りです。かなり前から、本番に備えて布団太鼓のお囃子を練習している音が聞こえていました。堺近辺では、今年は同じ日程で実施する地区が多いそうです。小猿の地元でも同じ日の実施で、早くから青年部として忙しく走り回っているそうです。そんなわけで、今年は石津に行けませんと残念そうに語っていました。久野 勲
 平成24年10月 1日(月)「ころもがえ」

 台風一過、今朝は気持ちの良い見事な秋空が、見渡す限りに広がっていますす。そこで、昨日紹介した河口湖からの富士山のライブカメラを覗く、ではなく(笑)訪ねてみました。するとカメラの向こうには、その悠然たる美しい全景を惜しげもなくさらけ出している、そんな感じで観ることが出来ました。いずれバッチリ「逆さ富士」をキャプチャー(画像取り込み)して紹介したいと思っています。あぁ〜秋やなぁ、久しぶりに気持ちの良い朝を迎えました。そして、すぐ近くの小学校からは、運動会の練習でもしているんでしょうか、子供たちの元気な歌声が、爽やかな秋風に乗って聞こえてきます。今日は何か良いことがありそうな、そんな予感がしました。しかし男心と秋の空?とはよく言ったものです。ウオーキングで帰りつく頃には、青空はなくなっていました。ちなみに、河島英五は「晩秋」という曲の中で「♪この国が一番美しい、燃える秋が訪れる。空の遠い遠い所から懐かしい唄が聞こえてきそうだ。縁側で繕い物しながら口ずさむ母の唄か、下校時間告げるチャイムと共に流れたメロディーか。悲しみに心奪われ、生きる力無くした時にも、季節は美しく巡り来て。やさしくしく響く」と表現しています。

 ところで今日10月1日は、珍しく19もの記念日に指定されています。中には、「醤」の文字に、十二支で10月を表す「酉」の字が含まれることから「醤油の日」だとか。また、磁石が+(N極)と−(S極)から成り立つことにちなんで、そのプラス記号とマイナス記号を漢数字の十と一に見立て「磁石の日」だとか、同じような意味で「土地の日」というような、面白いというかバカバカしいような記念日もあるようです。一般的には、10月1日と言えば「ころもがえ」の日とされています。気候に合わせて、衣服を冬服に替える日です。平安時代から始った習慣で、当時は中国の風習にならって4月1日および10月1日に夏服と冬服を着替えると定め、これを「更衣」と言ったそうです。しかし、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名も更衣といい、後に天皇の寝所に奉仕する女官で女御に次ぐ者を指すようになったので、民間では更衣とは言わず「衣替え」と言うようになったそうです。江戸時代ごろから、衣替えは6月1日と10月1日に行うようになり、明治以降の官庁・企業等もそれに従ったということです。今も官公庁や役所でのクールビズ(省エネを目的とした軽装化)は、衣替えに合わせてか9月30日までとなっているようです。

 <追伸> ちょうどこれを打ち込んでいる時、午後7時頃ですがピンポ〜ンとチャイムが鳴りました。階下から女房が「お父さん、お友達が来られましたよ」とのこと。いつもは誰々さんと名前を言いますが、お友達って誰やろう?と思いながら降りて行くと、玄関先に立っていたのはべーやん(押部さん)でした。その姿は、まさにウオーキングの出で立ちでした。ウオーキングの帰りにでも寄ってくれたのかなと思いましたが、これから出かけるので誘いに来ましたとのことでした。待たすほどもなく、急いで着替えて夜のウオーキングに出かけました。コースは、今朝歩いてきたばかりの浜寺公園一周コースでした。これからも、雨が降らない限り毎日迎えにきますとのありがた〜いお言葉に「家に居ればいつでも付き合うよ」というと、すかさず「堺東の方へ逃げないで下さいよ」と五寸釘を打たれてしまいました。

 そもそも、彼の誘いには断れない理由があります。私が入院中に見舞いに来てくれた彼に、病人のくせに俺が退院したら誘いに行くから一緒に歩こうとダイエットを勧めていました。しかし、退院して8ヶ月が経ちますが、未だに実現していません。10月に入って涼しくなったので、そろそろ声をかけようかなと思っていた矢先のことでした。そんな負い目があるので、むげに断るわけにはいきません。かくなる上は、朝のウオーキングをセーブして夜のウオーキングに備えたいと思っています。ちなみに、今日のこの日を記念して地元・石津の居酒屋で、井野総代長を呼び出して3人で祝杯?をあげました。もちろん、1軒だけでおいときました(笑)。
久野 勲

 平成24年 9月30日(日)「わが心の故郷」 
 今まで知りませんでしたが、和歌山県那智勝浦町には、日本一遠くから富士山の見える場所があるそうです。熊野那智大社から、小口(新宮市熊野川町)に至る熊野参詣道(中辺路大雲取越)の西に位置する色川富士見峠で、2001年9月には、ご覧のような322.9Km 離れた富士山の写真が撮影されたそうです。また、近くにある那智三峯のひとつ、妙法山には東屋などが整備された「妙法山富士見台」があり富士山までの間に雲がでていない空気の澄んだ日には、熊野灘のはるかかなたに富士山を望むことができるそうです。ちなみに、それまでは奈良県の大台ヶ原が富士山の見える南限の地だといわれていました。しかし、いにしえの熊野詣の際に熊野古道から「富士山が見えた」との言い伝えがあり、地元の山師の間でも「妙法山から富士山が見える」と言い伝えられていたそうです。

 富士山と言えば、日本人の心の故郷とでも言うんでしょうか、不思議なもので遠くから眺めているだけで心がやすらぎます。そんな富士山を、たくさんのライブカメラがその美しい姿を配信しています。その中でも私のお気に入りは、河口湖から眺めた富士山です。もちろん天候によって左右されますが、天気の良い日には運が良ければ「逆さ富士」が拝めるかも知れません。また、居ながらにしてご来光が拝めるという富士山頂の山小屋からのライブカメラも設置されています。いずれの映像も、人の私生活を覗く悪趣味は持ち合わせていませんが(笑)、私がよく訪ねている「USTREAM」(ユーストリーム:無料動画配信サイト)です。特にこの季節は、空気が澄んでいて、より一層きれいに見えるでしょう。興味のある方は、画面右下の矢印をクリックしてフルスクリーンでご覧になってみてはいかがでしょうか。

 ところで今日は、午後から大型台風17号の接近で緊張しましたが、幸い近畿地方には大きな被害もなく通過したようです。今(午後6時半)防災放送で、大阪に発令されていた警報がすべて解除された旨の発表が聞こえてきました。しかし、安心ばかりはしておれません。報道によると、今後は東海地方に上陸して、列島縦断の可能性があるとのことです。かなり勢力が衰えたとは言え、特に収穫間近の農作物への影響が懸念されてます。今となっては、極力被害の出ないことを祈るのみです。久野 勲
 平成24年 9月29日(土)「海底の芸術家!」

 地上え?ナスカの地上絵って神秘的ですね。ハチドリ、星、蜘蛛、渦巻き、花、サギ、オウム、トカゲ、木、手、コンドル、サル、犬、宇宙飛行士。さまざまな地上絵が検索ででてきます。先日テレビで、ある写真が紹介され興味を持ち携帯に取り込んだのがこの写真です。なんだかわかりますか。ごらんになられた方もありますがご紹介します。実はフグ(魚)の産卵場所でした。このフグは新種で名前がわかりませんでしたが、一匹のフグが時間をかけて、ひれや、しっぽをつかい見事に作り上げる記録映像がでていました。これはえいぞ!笑。肝心の魚は動き回りピンボケですので、この写真だけになりました。なぜこんなことをするかでは、この溝により潮の流れをせき止め自ら噛み砕いた貝殻のあいだに卵をせき止める役目があるようで、この溝は30本ありその近くに32本のものがあれば、メスたちはそっちに行くらしく家の出来具合でも評価をされているようです。この世界のオスたちも、すごい努力をしていました。メスが産卵した卵を孵化するまで守り抜くのもオスたちの役目です。世の中の男性諸氏!残された人生ガンバって行きましょうね。岡井宏之



 昨日、同窓生の岡井さんが得意の親父ギャグを散りばめながら、このようなメールを送ってくれました。何を隠そう、このお方は知る人ぞ知る(知らない人はまったく知らない)畏れ多くも勿体なくも(笑)実は私の親父ギャグの師匠なのです。たまには、笑点のように座布団を三枚いただくことがあります。しかし、こちらの方でも、まだまだ修行が足りないようです(笑)。ところで、海底のミステリーサークルは初めて見ました。制作者がフグだけに、皿に盛りつけた「テッサ」のようにも見えますね。馬車馬のように一生懸命に働いているのには、妙に共感が持てますね。

 これは、海外サイトで話題となっていた「日本の海底に眠るミステリーサークル」だそうです。発見されたのは鹿児島県・奄美大島で、水深25メートルの白砂の上に直径2メートルほどの美しい円形の模様が浮かび上がっており、外側は、2重の山で囲まれ、中央から放射状にたくさんの溝が刻まれている。まさに、円形の美しい幾何学模様になっています。思えばその昔、今イチパットしなかったようですが「砂に書いたラブレター」という歌がありました。歌っていたのが・・・、私の記憶に間違いなければ、確かパット・ブーンでした。お後がよろしいようで。ちなみに師匠に代わって、その映像(画像)を探し出しました。これで、ご褒美に三枚もらえるかも?
久野 勲
 平成24年 9月28日(金)「いつまで対峙(たいじ)出来るのか?」
 1979(昭和54)年の今日、日本電気(NEC)がパーソナルコンピューターPC−8000シリーズを発売し、パソコンブームの火付け役となりました。その後に発売された9800シリーズ、いわゆる「キューハチ」は、その快進撃により市場の6割を確保していました。当時は、とにかく、いわゆる「DOS/V機」が」登場するまでは独占販売状態でした。図らずも、この6割の快進撃に、不肖私めもか、その片棒を担ぐ羽目になってしまったようです。それが私の初代機「NECー9801RX2」です。携帯・スマホとまではいきませんが、今やパソコンも一家に一台から、一人一台の時代になりつつあるようです。そして、中には一人で数台という剛の者もいるようです(笑)。

 ところで「浜中九期生」同窓会の返信とともに「近況報告」等のコメントが相次いで、私の手元に届いて来ています。これぞ役得とでも言うんでしょうか、真っ先に目にしています。返信ハガキの中の狭いスペースですが、いろんな事が書かれています。読みながら「みんな、それぞれ頑張ってるんやなぁ」と感心させられます。その生き様は一言や二言では言い尽くすことは出来ません。人生70年近く生きていると当然のことながら、お互いにいろんな経験を積んできています。まさに「人生いろいろ、人それぞれ」と言ったところでしょうか。同じ時代を生き、数年間を同じ釜のめしを食べた同窓生同士です。出来ればいつまでも、いろんな機会を作ってお互いの無事を確認し合いたいものです。そんな思いがあって、今回の同窓会をきっかけに、今はプライベートサイトにしていますが再び「浜中九期生」のHPを公開することにしました。私自身、いつまでパソコンと向かい合っていられるかは心許ない限りですがすでに何人かの同窓生たちとは交信を続けています。より多くの同窓生の情報交換の中継場所にでもなれば幸いです。とりあえずは、このコメント集を 同窓生たちに知らせることになります。以前、この役目を中尾君に依頼し、快く引き受けてもらいました。しかし、ここに来て、なお体調が良いのでHPへの掲載と並行して、私がまとめることにしました。中尾君には、その旨をメールで知らせました。
久野 勲
 平成24年 9月27日(木)「病気に負けず、ガンバロー!」
 先日、退院してから3度目となる腹部と胸部のCTスキャン検査を受けました。転移の検査です。入院前・入院中・退院時を通じて何度か家族を呼ぶように言われて、担当医から説明を聞く機会がありました。その都度、どういうことを言われるのか最悪の事態を覚悟して緊張しました。そして、その都度何とか最悪の事態だけは免れることができてきたようです。退隠時の説明では「手術はうまくいき、術後の経過もほぼ順調です。今のところ、CT検査でも転移は認められません。再発の確率は25%です。念のため抗ガン治療を実施すれば、さらに10%減らすことができます。再発の確率は0%になる事はありません。一応5年間再発がなければ治ったということになります」とのことでした。

 そして退院後は、ほとんど副作用の出ない程度の軽い抗ガン剤治療(飲み薬)を続けています。それと並行して、数ヶ月に一度の割合でCTスキャン検査を受けています。その3度目の結果が、今日の午後に判明します。とくに胃ガンの場合は、胃を摘出すれば治ります。ただし、その大前提は「転移がなければ」のひと言に尽きます。私の場合も、いつ何時という場合も想定できますので、検査の結果を言いわたされる時には、いつも大いに緊張することになります。いつまでこの状態を続けられるのか分かりませんが、とりあえず趣味を生かして好きなことをしながら一日一日を有意義に過ごしていこうと思っています。

 今日は午後から、堺市立病院の外科外来の待合で緊張しながら診察を待っていました。そこへ、ちょうど私のすぐ前の席に年老いた母親と娘さんらしい二人連れが座りました。二人の会話は聞くとはなしに聞こえてきます。どうやら患者は娘さんで、胃の病気のようでした。母親は、やさしく娘さんの肩に手をやりながら言葉をかけていました。娘さんは、それを一つ一つうなづきながら聞いていました。そんな光景を見ながら、いつしか私がいなくなった後の家族の姿と重ね合わせていました。そして、前に座る娘さんの背中に「お母さんより先に死んではダメだよ。頑張るんだよ」と、心の中でつぶやいていました。後ろ姿だけで顔も合わせてはいませんが、感情移入とでも言うんでしょうか、そんな事を考えていると、そろそろ名前を呼ばれそうなのに涙がこぼれそうで困りました。加齢とともに涙腺の方も、かなり緩くなってきているようです。ところで私の診察結果ですが、何とか今回も異常なしということでホッと胸をなで下ろしているところです。
久野 勲
 平成24年 9月26日(水)「大根おろしにサンマ」
 「あはれ秋風よ(こころ)あらば伝へてよ・・・男ありて今日の夕餉(ゆうげ)にひとりさんまを(くら)ひて思ひにふけると」。これは、あの、さんま苦いか塩っぱいかで有名な佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の書き出しです。いよいよ、秋ならではの庶民の味覚・サンマの季節がやって来ました。家々では、この時期になると表に出て競うようにカンテキ(七輪)でサンマを焼いたものです。ちなみに「カンテキ」とは「癇癖(かんぺき)」の「おこりっぽい性質」を、火が熾り(おこり)やすい、にかけた言葉がなまったものだそうです。そう言えば、怒りやすいおっさんのことを「カンテキ親父」と言いました。思えば夕暮れ時、遊び疲れて帰り道サンマを焼く臭いに誘われて、駆け足で家路を急ぎました。それは、まさに映画「三丁目の夕日」の世界でした。この懐かしい、臭いを届けられないのが残念です。

 以前、居酒屋「ふく」のマスターが、広くもない店でサンマをガスコンロで焼いたことがあります。まるで狸のあぶり出し状態になり、居合わせた客は悲鳴もろとも一斉に表に逃げ出したことがありました。マスターにすれば、サンマの臭いで客寄せをと目論んだようですが、ものの見事に失敗してしまいました。その後は煙の出ない焼き方に変えましたが、やはり何か物足りない感は否めませんでした。昔はカンテキを囲んで煙の攻撃に耐え涙を流しながらサンマに食らいついたものです。

 私も例外ではなく、もちろんサンマが大好きです。しかし、難儀なことに食べ方が下手くそなので困ってしまいます。どうしても食べた後が、皿の上で乱雑に散らばってしまいます。ところが友人の中には、ご覧のように私と正反対で憎たらしいほど(笑)きれいに食べる、几帳面を絵に描いて額にあげたような人がいます。時には、頭も尻尾も何も残っていない時もあったりしてビックリすることもあります。こんな人の口にかかれば、サンマも、きっと安らかに成仏できるでことしょう。この人と一緒の時は、サンマを注文しないことにしています。そんなわけで、私はどちらかというと食べやすい「サイラ(サンマの開き)」の方が好きです。ちなみに、成仏と言えばイワシでも、こんなことがありました。久野 勲
 平成24年 9月25日(火)「本音と建前の狭間(はざま)
 今日は、生活情報紙『リビング新聞』が2009年に制定した「主婦休みの日」だそうです。日頃、家事を主に担当してくれている主婦がリフレッシュをする日です。読者のアンケートにより1月25日・5月25日・9月25日を「主婦休みの日」としています。たった三日間とは、なんたることをサンタルチヤでしょうか。しかし、年寄りを敬うべき「敬老の日」が、1年に一日しかないことだし、まぁいいか。日数より、一人一人の気持ちの持ち方次第です。昔は「年男(としおとこ)」と言う風習があったようです。これは、正月を中心とした家族行事の主役を務める男性をさします。特に正月に限っては、一家の行事すべてを年男が取り仕切りを行い、正月が近づいた暮れの大掃除をはじめ、正月の飾りつけ、元旦の水汲み、年神の供物をととのえたり、御節料理の準備など一切を取り仕切りました。これらの風習は、一部の旧家などで見られるのみで、現在ではほとんど見られなくなってしまいました。

 ところで、定年退職後思わぬ大病を患った私は、今さらながら主婦のありがたさを思い知らされています。外では言えないので「内弁慶」よろしく、せめて家の中だけでもとばかり偉そうなことを言っています。イヤ、言わせてもらっています。正直、女房がいなかったら何も出来ない、いわゆる「女房依存症」の重症患者である私にとっては、口にこそ出しませんが、女房とは「孫悟空を手の平の上に乗せている三蔵法師」のような存在だと思っています。もちろん「主婦休みの日」は大賛成です。かのさだまさしが「関白宣言」で「俺より先に寝てはいけない」「俺より後に起きてもいけない」「めしは上手く作れ」「いつもきれいでいろ」などと偉そうなことを並べたてています。しかし結局、最期に本音をもらしています。

         ♪  子供が育って 年をとったら
           俺より先に 死んではいけない
           例えば わずか一日でもいい
           俺より早く 逝ってはいけない
           何もいらない 俺の手を握り
           涙のしずく ふたつ以上こぼせ
           お前のお陰で いい人生だったと
           俺が言うから 必ず言うから
           忘れてくれるな 俺の愛する女は
           愛する女は生涯 お前ひとり
           忘れてくれるな 俺の愛する女は
           愛する女は生涯 お前ただ一人

 幸いなことに、平均寿命では女性の方が10年ほど長生きすると言う統計が出ています。これで何とか、年老いて路頭に迷うような無様な格好だけはさらさなくても済みそうです。女房は、私がいつもパソコンの前に座っているのは知っていますが、こんな事を書いているとは知りません。私が旅立った後、私のパソコンを開いて初めて「お父さんは、こんなこと書いていたんやなぁ」と知ることになるでしょう。そして遅まきながらも、少しは見直してくれるかも知れません。先日「いごっそう」の子孫かどうか分かりませんが、高知出身の佐野さんと堺東でバッタリ出会いました。1年ぶりになるでしょうか。久しぶりに旧交を温めました。いろんな話しをしましたが、結局、所詮男はロマンチックで、寂しがり屋だけども、土佐の「はちきんさん」、つまり龍馬の乙女姉さんに代表されるように、女性は偉大で、現実的で、強い!ということで、あっさり話はまとまりました。ちなみに、土佐の「いごっそう」とは「快男児」「酒豪」「頑固で気骨のある男」と言う意味だそうです。
久野 勲
 平成24年 9月24日(月)「青い目の二代目」
 いつの間にか大相撲モンゴル場所が終わったようで、めっきり秋らしくなってきました。さて、今日も今日とて、ネットでパソコン情報を検索していたら涙が出るほど懐かしい画像を見つけました。そもそも私が最初にパソコンを購入したのは平成元年のことです。当時はパソコンで日本語を利用するにはハードウェアに日本語機能を内蔵したNECのPC−9800シリーズ(及びその互換機)を使うしか仕方のなかった時代です。従って、私の一号機は「PC−9801RXU」でした。当時純正のプリンターとセットで36万円もしたものです。その後、すぐにソフトウエアレベルで日本語をサポートすることと、Windowsがパソコン用OS(オペレーションシステム:パソコンを起動させるための基本ソフト)の標準となったこともあり、NEC以外の日本の各メーカーが、いわゆる「DOS/V機」を販売するようになりました。そこで、私が平成8年に買い換えた最初のDOS/V機は「Gateway2000」(CPU:Pentium200MHz・メモリ:64MB・ハードディスク:20MB・CDドライブ)、それに(OS:Windows95)でした。当時はしばらくの間、初代の「PC−98機」と並べて併用していました。ちなみに今は、何代目になるんえしょうか?「XP」と「7」を並べて併用しています。

 ところで、Gateway社製を選んだ理由は、比較的安価だったからです。社長がアメリカの牧場主で、ロゴマークは白と黒の乳牛をイメージしていました。当時、メモリーを64MBから、せめて128に増設しようと思い問い合わせてみると、純正メモリーは1MB=1000円だと言われビックリしました。当時パソコンショップで、64MBが3,000円ぐらいだったと思います。もちろん、ノーブラ(ノーブランド)商品で何の保証もありませんでした。今でこそ一割負担で交換してくれますが、当時は買って相性が悪ければ、それでハイお終いでした。何度泣かされたことでしょう。他の部品もそうですが、まさに「安物買いの銭失い」状態でした。それでも、純正に比べれば格段に安いものでした。それからというものは、パソコンショップに入り浸り状態で夜も寝ずに、改造改造に明け暮れる不健康極まりない日々が続きました。もし、あの状態がもう少し続いていたら、完全に押しも押されもしないオタッキーになっていたことでしょう(笑)。今はもちろん当時のGateway機は跡形もありません。しかし、つい去年までは使い慣れた当時のキーボードを使っていました。何台目になりますか、それもまた長年叩き過ぎたために、つぶれてしまいました。ところがまだ、購入時についてきたご覧のようなクッションが残っていて今だに愛用しています。それとマスコットの乳牛もいます。これらを見る度に「♪雨に破れかけた〜街角のポスター」のように、過ぎ去った昔の思い出が鮮やかによみがえってきます。いずれにしても、この「Gateway2000」が、私のパソコン人生の原点だと言っても過言ではないと思っています。

 ちなみに、Gateway社は、1985年に設立されたアメリカのパソコンメーカーです。日本法人は1995年から2001年まで日本ゲートウェイ株式会社、再上陸は買収したイーマシーンズ株式会社として2004年12月に行い、2005年には同社の社名をゲートウェイ株式会社に変更しました。2008年末までエイサー(台湾)の子会社。2009年1月にエイサーはゲートウェイを吸収し、ブランド名のみゲートウェイは残っているそうです。一時は、日本ゲートウェイと「デルコンピュータ」の熾烈(しれつ)な価格競争が、日本のパソコン市場の価格低下に与えた影響は大きかったため、私を含めた多くのパソコンユーザーが、その撤退を惜しみました。実際日本ゲートウェイの撤退後、日本ゲートウェイの顧客が大量にライバルの特にデルコンピュータに大きく移動したため、DELLは大きく収益とシェアを伸ばすことになりました。なお「安物買いの・・・」の私も使った事のある「SOTEC」も価格競争に参入していましたが、今は「ONKYO」ブランドに統合されてSOTECブランドは完全に消滅してしまいました。久野 勲
 平成24年 9月23日(日)「昔の友には〜」
 私は今、中学校の同総会を2ヶ月後に控えて、幹事の一員として粛々と準備に当たっています。閑があると思われているからでしょうか?昔からこういう役目がよく回ってきます。もっとも、閑があるだけでは、やってられませんが。人はよく「俺は忙しいから出来ない」といいます。私には「閑なお前がやれば良い」と聞こえて、しばしばムッとすることがあります。これはある意味、私の嫌いな言葉の一つです。それなのに何故引き受けるのでしょうか?趣味を生かせるので苦にならない、つまり好きなのと、人の役に立ちたいと思う気持ちからつい引き受けてしまいます。もっとも、好きだけでは、やってられませんが。もしかして便利屋のように、体よく利用されているだけかも知れませんが(笑)。それでも、自分が納得出来ているうちは、黙々と続けるでしょう。しかし、何をするにもストレスというものがついて回ります。私は紙面などでよく「愚痴こそ我が命」と書いています。イヤなことなどがあれば、誰かに聞いてもらうだけである程度気が晴れるということがあります。だから時々、それとなく愚痴っぽいことを書くことがあります。

 そんな中で、思い起こせば10年前の幹事会において、ちょっとした問題が持ち上がりそれが同総会そのものの存亡に関わるような事態になったようです。今思えば仕組まれた(笑)のかも知れませんが、それまで顔を出したことの無い幹事会に、私が何故か半ば強引に連れ込まれてしまいました(笑)。その幹事会の場で、私と同じクラスの大仲が幹事長を引き受けるということで問題が一応一件落着になりました。そこで、大仲から「久野よ、俺と一緒にやってくれ」と言葉少なに頼まれました。私は幹事長を引き受けた大仲の意気に感じて、二つ返事でOKしました。いわば幹事長と書記長(仮称)というコンビで、もちろん、クラスの枠を超えた多くの幹事さん達と一緒になって、12年ぶりとなる祝還暦と銘打った同総会を成功させることが出来ました。私は、あの時に大仲が幹事長を引き受けなかったら、今の浜中九期生の同総会はなかったと思っています。そういう意味で今でも大仲には一目をおいています。私も私なりに、この同総会への強い思い入れを持っています。

 私の考えでは、幹事長は細々したことに首を突っ込まずにデンと構えていて、イザという時に判断を下し、会全体に責任を負う。というのが役目だと思います。一方書記長(仮称)は、会議における具体的な提案と、決まったことを実行に移す段取り等を考えるのが役目だと思っています。つまり、ナンバーツーというか、縁の下の力持ち的な存在だと思っています。自分で言うのも何ですが、私にピッタリだと思っています。例えば、会議で幹事長が表に出て具体的な提案をすれば、出席者だけではなく補佐役の書記長までもが意見を出しにくくなってしまいます。企業のようなトップダウン方式は、同総会では馴染みません。うまく運営するためには、適材適所が必要不可欠だと思います。

 ところで先日、同窓生から、何故か私の生き方に関連して「男の美学」についての文書が届けられました。読ませてもらいましたが、どちらかというと「男の美学」と言うより「男のこだわり」についての話だと思いました。そこで私の柄にも無い「男の美学」というよりも、私自身が自分の定位置だと思っている、ナンバーツー的存在にこだわって「男のB学」についてそれとなく前段で述べさせてもらったような次第です。まさに「♪昔の友にはやさしくて〜変わらぬ友と信じつつ〜あれこれ仕事もあるくせに〜自分のことは後にする〜」つまり、これを歌うと大向こうから、おひねりこそ飛んできたことは一度もありませんが(笑)「お前のテーマソングや」などと声がかかるという、典型的な時代おくれ的人間なのでしょう。こんな事を書いていると、久しぶりにまた同窓生の濱ちゃんと恒例の歌合戦を再開したくなってきました。
久野 勲
 平成24年 9月22日(土)「彼岸の中日・秋分の日」
 昨年末、志願したわけではありませんが、図らずも三途の川を渡りかけてしまいました。幸か不幸か、途中で閻魔様に追い返されてしまいました。私はてっきり、現世での修行が足りないからだと思っていました。しかし、ある人によると、久野は年金の中でかなりの飲み代が自由になる、優雅な老後を送っていると思われているようです。それは、まさに「とんでも八分(歩いて10分)」(笑)です。だから、飲み代が過ぎて三途の川の渡し賃が不足していたので、渡してもらえなかったと言うことなのでしょうか?ひと言いいわけをさせてもらえれば「♪飲んで〜飲んで〜飲まれて〜飲んで〜飲んで〜飲みつぶれて眠るまで〜飲んで〜」と言うのは、あくまでも歌の世界でのことです。今は、飲みに行くのは月に2、3、4回ぐらいで、しかも立ち飲み屋さん・カラオケ居酒屋さんなど、ご高齢者御用達風の店(笑)に限られています。決して、年金の無駄使いはしていないつもりです。ブログなどで大げさに書いたりすることがあるので、誤解されいる面があるようです。また、飲む時は一軒にしておいた方が良いですよ、との忠告もしてくれています。同級生ならではの温かい心遣いとありがたく感謝しています。

 ところで、こちらの現世を「
此岸(しがん)」と言い、中国語では「娑婆」と書き、世間の事を俗に「しゃば」というのは、ここから来ているそうです。そして、死後に行くあの世を「彼岸」と言うそうです。彼岸は人々が欲や煩悩から解放された極楽浄土と言い、素晴らしい世界だそうです。その間に三途の川があるそうです。九死に一生を得た人が「きれいなお花畑を見た」と語ることがあるそうです。私はそこまで行かなかったようです。それにしても、「三途の川」が秋田県(左)と群馬県に実在するとは知りませんでした。

 なお「彼岸会(ひがんえ)」は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のことです。また、この期間に行われる仏事のことを指します。暦の上では最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」なお、地方によっては最後の日を「はしりくち」という地方もあるそうです。俗に、中日に先祖に感謝し残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修めるためとされています。つまり彼岸とは、迷いの世界である此(こ)の岸から悟りの世界である彼(か)の岸へ到るという到彼岸(とうひがん)から名づけられた行事で、彼岸会(ひがんえ)といわれます。お釈迦さまは自分も他の人もともに幸福になる到彼岸として、次の6つの教えを示されたそうです。

・布施(ふせ)=物質であっても心であっても、人に喜びを分け与えること。

・持戒(じかい)=規律を守り、節制ある生活を行うこと。

・精進(しょうじん)=目的に向かってたゆまず努力すること。   

・禅定(ぜんじょう)=常に平静な心を持ち続けること。   

・忍辱(にんにく)=心を動かさずに耐えしのぶこと。

・智恵(ちえ)=人生の真実を見きわめ、迷いを去って無上 (真に悟る)の境地にいたること。久野 勲

 平成24年 9月21日(金)「我が人生に悔いは・・・
 今日、ある製品の発売を知らせるメール便が届いていました。それは「iphone5」という、とくに若者たちの間で流行っているアイテム(道具)のことだそうです。携帯電話も持たない、時代おくれの「あっしには関わりのねぇことでござんす」が、一応話のネタにと思って調べてみました。iphoneとは、携帯電話の機能に加えタッチパネルで操作し、インターネットや電子メールの送受信等が行える携帯情報端末としての機能を持ち合わせた。既存のタッチパネルの多くは同時に一箇所のみでしか操作を行えなかったが、iphoneではマルチタッチと呼ばれる、複数の指を同時に操ることで画面の拡大縮小などバリエーションに富んだ操作が可能となった。とのことでした。初代は2007年にアメリカ発売されたそうです。日本で発売されたのは2008年で「iphone3」だったそうです。

 当時「サルでもできるiphone」(笑)というキャッチコピーがあったかどうか忘れましたが「こんなん出ました」といって小猿が見せてくれました。電話と言うよりも、超小型パソコンのような感じがしました。そう言えば、先日会った時に、今度「iphone5」が発売されますと言っていました。別に小猿のことではありませんが、昔は「初物食いの銭失い」とか「あわてる◯◯はもらいが少ない」と言ったものです。初物食いと言えば、あの画期的な出来事だった「Windows95」の発売当時、我先にと大挙して初物食いさん(別名オタッキー?)たちが行列を作ったのが、つい昨日のことのように思い出されます。ちなみに、来月「Windows8」が発売されるそうです。先日も、「XP」の次を考えている井野総代長と話をしました。我々の年代で「8」を使いこなせるかという不安とともに、不評だったVISTAのこともあり半年ばかり様子を見た方が良さそうです。それより、今こそ「7」の方がお買い得ではないか、「Windows7」を最終の伴侶と決めた私としては、そんな気がしています。

 ところで、携帯電話も持たない、ましてやMacユーザーもない私の元に、なぜアップル社から「iphone5」発売を知らせるメールが入ったのか不思議に思いました。まさか迷惑メールの手法を使って辺り構わず無作為に一斉配信をと思いましたが、天下のアップル社がそんな事をするわけがありません。最近使っていませんが、以前ウオーキングの友として愛用していた「ipod」がアップル社の製品でした。プレゼントだったのでうっかりしていましたが、これに音楽をダウンロードするために必要な「iTunes」をダウンロードした時にメールアドレスを知らせていました。ちなみに(アイチューンズ)とは、アップルが開発及び配布している、メディアプレーヤー(動画および音楽の再生・管理ソフト)のことです。時代おくれついでに巷でよく耳にする「スマホ」とは何ぞや?と思ったら、スマートホンのことだそうで直訳すれば賢い電話のことだそうです。つまり、タッチパネルで操作する携帯電話全般を指すそうで「スマホ=iphone」だそうです。昔は「聞くは一時の恥」といいましたが、長生きはするもんです。今はフリー百科事典「ウィキペディア」という強い味方のおかげで、黙ってさえいれば恥をかかなくても済むという結構な時代になりました。これで、学生時代にしなかった勉強を遅まきながら今頃になってやり始めている次第です。もしも学生時代に、パソコンとウィキペディアに出会っていれば、今頃はもっと違った生き方をしているかも知れませんね(笑)。でも、今のところ我が人生に悔いはありません。



 今日は「世界アルツハイマーデー」だそうです。1994(平成6)年9月21日、国際アルツハイマー病協会(ADI)の国際会議で、患者やその家族への支援を進めること等を謳(うた)った宣言が採択されました。アルツハイマー病及び関連の諸障害に関する世界的普及を図るとともに、地球規模での理解と把握につとめ、患者と家族への支援を推進するための努力と働きかけを行う日です。日本では、1980(昭和55)年、任意団体「呆け老人をかかえる家族の会」として京都で発足しました。1994(平成6)年、社団法人となり、2006(平成18)年「認知症の人と家族の会」に名称を変更しました。認知症に関心のある方ならば、どなたでも入会可能で、全国各地に支部を持ち、会員数約1万人となっています。国際名は「日本アルツハイマー病協会」で、2004年には、66カ国から4千人以上の方の参加を得て、京都で国際会議を開催しました。

 認知症と言えば、1972(昭和47)年に有吉佐和子著の「恍惚の人」が新潮社から出版されました。翌、1973年には森繁久彌主演で映画化され、たびたび舞台化されており、1990年には日本テレビで、1999年にはテレビ東京で、2006年10月には三國連太郎主演でテレビドラマが放映されました。当時は衝撃的な内容でしたが、ちょっとボンヤリしていると「恍惚の人や」などと言われたり流行語にもなりました。しかし、それにしても「呆け老人をかかえる家族の会」とは、こんなひどい名称がまかり通っていたんですね。今では想像も出来ません。
久野 勲
 平成24年 9月20日(木)「随分凌ぎやすくなりました」
 私は、長年にわたって趣味で複数のHPを管理したり、他の複数のHPにも関わりを持っています。管理するに当たっては、一見無頓着のように見えるかも知れませんが、一応プライバシーには気を遣っているつもりです。大ざっぱに言えば、掲載するに当たっては、住所・電話番号等本人を特定出来るような情報は出さないようにしています。実は、私が直接管理しているあるサイトでプライバシーに抵触すると言われたことがあります。それは例えば、維持会費、つまりカンパをいただいた方の氏名を掲載した場合とか、あるグループ活動の報告を送ってもらった際、同封されていた写真を掲載した場合などです。要するに、名前が出るだけでも困る、写真が出るだけでも困る、そんなケースに直面し難しいなぁと痛感したことがあります。しかし、そんな事を気にしていると何も出来ない事になってしまいます。

 とくに同窓会関係での私のモットーは、出来るだけ多くの同窓生たちの近況・活躍などをHPを通じて紹介して共有したいというところにあります。もちろん、私に届いた便りについては何でもかんでも掲載するようなことはしていません。掲載に当たっては、不十分かも知れませんが、私なりに取捨選択をしているつもりです。しかし一部では久野に言うたら皆んなに筒抜けになるなどと言われていることも耳にしています。自分が納得出来るようなクレームが付けば、いつでもお詫びして削除しますし場合によっては、いつでもサイトそのものも閉鎖する覚悟は出来ています。そうなるまでは、今まで通りマイペースで続けていこうと思っています。いずれ「書かなければいけない、もう書けないと」という時期が来るまでは。これまでは、同窓生の4、5人は観てくれているかなと思っていましたが、今回同窓会の返信などを見せてもらっていると、残念ながらその足跡は残してもらえていませんが、あれっ、両手でも足りないくらいの人たちが観てくれているのかなと感じるようになりました。

 そんな中で、同窓生の悲しい訃報が相次いで届いています。こういう役目をしていると、どうしても窓口になってしまいます。とくに約20年間同窓会新聞を編集発行していたことがあります。家族の方たちも読んでくれていました。何度、ご家族から訃報が届いて急きょ新聞を発行したことでしょうか。ある時、たまりかねて「もうこんな悲しいことを伝えるのはイヤや。俺は、オールドブラックジョーにはなりたくない!」と紙面で叫んだことがあります。ちなみに、新聞は発行20周年を数ヶ月残して廃刊にしましたが、これが原因ではありません。

 私は新聞もHPについても、皆さんに参加(投稿)を広く粘り強く呼びかけましたが、ことごとく「筆無精」の名の下にうまくいきませんでした。言葉の場合、その多くは「水掛け論」で済んでしまいます。しかし、書くと言うことは証拠として残ります。ある意味、勇気がいるのかも知れません。まさに、キジも鳴かずば何とやらです。そんな事もあって「みんなで書けば恐くない」と行きたかったわけです。それが、ひいては「打てば響く」につながります。つまり、無視されることが、イジメにつながることもあり、結構辛いわけです。早い話が「みんなで、やろうぜ!」。あれっ、かつてどこかの総裁が言っていたセリフと同じになってしまいました。

 あぁ、またまた前触れが長くなって申し訳ありません。実は先日、当サイトのファン?である同級生から便りが届きました。それは、私に対するエールとも取れるし、お叱りとも取れる内容でした。それに関して、いろいろ書こうと思っていましたが、次の機会に譲ることにします。また「男の美学」についての提案も届いていますし、忙しくなりそうです。何はさておいても、いくら趣味が高じても、それが楽しくなければクリープの無いコーヒーと同じです(笑)。久野 勲
 平成24年 9月19日(水)「ウラの権兵衛さん?」
 1870(明治3)年9月19日、この日、戸籍整理のために太政官布告により平民にも苗字を付けるようにと言うおふれが出ました。実はそれ以前から苗字を付けることは許されていましたが、面倒くさがって付けない人や、愛称だけで済ませている人が多かったよぅです。しかし、この布告が出されても生活に支障を来すわけではないので、多くの人々がその命令を無視していた為に、それから5年後、1875(明治8)年2月13日、明治政府が「平民苗字必称義務令」という太政官布告を出し、すべての国民に姓を名乗ることを義務づけました。ということで「9月19日:苗字制度の日・苗字の日」「2月13日:苗字制定記念日」に制定されたそうです。

 「名字由来ネット」・「日本の苗字7000傑」というサイトで調べてみると、久野(ひさの・くの・きゅうの)姓は、全国順位「622位」、全国人数「約33100人」だそうです。また、久野勲の同姓同名は全国で約50人いるそうです。さらに、久野のルーツは現・静岡県西部である遠江国周智郡久野郷が起源である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことにはじまる氏(藤原氏)。藤原南家、子孫に現・愛知県である尾張藩の士族。ほか久努朝臣、平氏などにもみられる。「野」は自然のままの広い地を表す。とありました。ちなみに、全国的には次の表のようになっているそうです。

上位・10  下位・10 
 1 佐 藤 10000 沼 波
 2 鈴 木  9999 秋 原
 3 高 橋  9998 三 股
 4 田 中  9997 黒葛原
 5 渡 辺  9996 広 幡
 6 伊 藤  9995 厚 東
 7 山 本  9994 久木原
 8 中 村  9993 下屋敷
 9 小 林  9992 音 成
10 斎 藤  9991 羽 太

 なお前者は、それぞれ全国で100万人以上存在されるのに対して、後者はそれぞれ約700人だそうです。



 ところで、私はクリスチャンではありませんが、今日のCNNニュースで次のような興味ある記事が出ていました。それによると、米ハーバード大学の研究者が18日イタリア・ローマで開かれた学会で、キリストの妻についての発言を記載した古いパピルス片が見つかったと発表しました。発表を行ったのはハーバード大学神学校のカレンキング教授です。パピルスの紙片は縦3.8センチ横7.6センチほどの大きさでエジプトのキリスト教徒が使うコプト語の文字が書かれています。この中に「キリストは彼らに向かい『私の妻が・・・』と発言した」と記された一節がありました。紙片は個人の収集家が所蔵していたもので、2011年にハーバード大学に持ち込まれキング教授が調べていました。ニューヨーク大学の専門家に鑑定を依頼した結果、本物のパピルスであることが確認されたといいます。キング教授によると、内容はキリストと弟子との対話を記録したものとみられ、2世紀半ばごろに書かれたとみられます。表裏の両面に文字が書かれており、書物の1ページだった可能性もあるといいます。ただしこの紙片は、キリストが結婚していたとする説を裏付ける証拠にはならないとキング氏は指摘しています。一方、キリストが未婚だったことを裏付ける証拠もないといい、キング氏は記者会見で「キリストが結婚していたかどうかは分からないという立場は、以前と変わっていない」と強調しました。聖書には、キリストの結婚について触れたくだりは存在しません。しかし、結婚していたとする説は以前からあり聖書に登場する「マグダラのマリア」が妻だったとする説は、ヒット小説「ダ・ヴィンチ・コード」(ダンブラウン著)でも利用されました。

 また「AFP=時事通信」によると、1997年4月12日未明に発生した火災から、キリストの遺体を包んだと言い伝えられている「聖骸布(せいがいふ)」が奇跡的に消失を免れたとのことです。実は、1931年の一般公開の時、G・エンリエ氏が新しい写真を写すよう任命されたそうです。現在私たちが一般に使っている、ご覧のような白黒写真がその時できたそうです。同氏は全体写真と部分写真や接写写真を撮りましたが、これらは技術的に完璧であり、聖骸布の特徴をよく示しているものです。ただし、当時、カラー写真はまだ実用化されていませんでした。

 さらに、「AFP=時事通信」によると、2005年1月スイス西部スイス西部のロシュに住む飲食店経営者の男性が、ご覧のようなイエスキリストに見えるとされるカキの殻をインターネット競売に出品したとのこと。いったい、いくらで落札されたのでしょうか?このスイス在住のイタリア人男性、マテオ・ブランディ氏が、この牡蠣を発見したのは2002年のクリスマスだったそうです。友人と牡蠣を食べていたところ、手にくっ付いて離れない牡蠣がありました。「まるで彼(キリスト)が僕を呼んでいるように、手から滑り落ちないのです。それをひっくり返したらキリストが見えました」とブランディ氏は回想する。「本当にショックでした。それを友人に見せたところ、彼もすぐに(キリストの)顔が見えると言いました」と語る。彼はバチカンにこの発見を伝えなかったのは、教会も信じないだろうと思ったからだと説明。笑い者になるのが怖かったからだ。そして、この牡蠣は彼のコーヒー店のステレオの上に2年間も飾られることになりました。久野 勲


 平成24年 9月18日(火)「そろそろ旅立つ前の準備を」

 3人に1人はがんで死ぬといわれているが、医者の手にかからずに死ねる人はごくわずか。中でもがんは治療をしなければ痛まないのに医者や家族に治療を勧められ、拷問のような苦しみを味わった挙句、やっと息を引きとれる人が大半だ。現役医師である著者の持論は「死ぬのはがんに限る」。実際に最後まで点滴注射も酸素吸入もいっさいしない数百例の「自然死」を見届けてきた。なぜ子孫を残す役目を終えたら「がん死」がお勧めなのか。自分の死に時を自分で決めることを提案した、画期的な書。これは現役の中村仁一医師の著書「大往生したけりゃ医療とかかわるな・自然死のすすめ」の解説です。私の母親は88歳でガンで亡くなりました。最期は、意識の無いまま一週間集中治療室に入っていましたが、医師が私たち家族を呼び「お母さんは意識はありませんが、痛みと闘い続いています。もうこの辺で個室に移してあげて見守ってあげたらいかがですか」といわれ、家族で相談した結果、医師の言われる通りにしました。それまで強制的に生き長らえさせられていたであろう、母はその二日後に意識が戻らないまま息を引き取りました。

 昔は「両親は息子(特に長男)や親族が面倒をみるもの」という考え方がありました。しかし、少子高齢化や核家族化の進行、医療の進歩に伴い寿命が延びたことにより、介護が「看取り三月」ではなくなったことなどに伴い、介護を行う家族(配偶者や子)もまた高齢者であるという、いわゆる「老老介護」の問題も浮かび上がってきています。それが、家族にとってはより重い負担となっています。1999年に当時の高槻市長・江村利雄氏が、妻の介護と公職の両立が出来ない事を理由に市長を辞任して議論となったことがあります。そして今、老老介護の苦労や負担に耐え切れず、介護する子が親を殺害する、あるいは夫婦間で思いあまって殺人に至るなどの、最も悲惨で残酷な尊属犯罪にも繋がっています。

 「必要以上の延命治療を受けず、人間らしい最後を全うしよう」という考え方にたって、回復の見込みのない時点での人工呼吸装置など機械的な延命工作を、あくまでも本人の意志に基づいて辞退、結果的に死を選ぶことをいう。こうした考え方、つまり「尊厳死」が生まれた背景には、驚異的に発達した現在の医療技術があります。かつてなら死亡していたはずの重症患者が、機械によってただ生かされているに過ぎないという状態もしばしば出現するようになりました。日本では、1976年(昭和51)から日本尊厳死協会(当時の名称は日本安楽死協会。本部は東京都文京区)が、市民運動的な活動を続けてきました。「死期を人工的に引き延ばすための措置の拒否」「植物状態での生命維持措置を拒否」「苦痛を和らげるための麻薬使用などは認める」などを唱えています。ただし、こうした措置を医療側にとってもらうためには、それが間違いなく本人の意志だと知らしめるものが必要になります。そこで考え出されたのが「リビング・ウィル」です。「生前発効の遺言」とでも訳すべきもので、患者本人の意志、判断力が正常なときに、尊厳死を望むことを本人の直筆で署名を添えて同協会へ登録しておくのです。2003年(平成15)時点の登録者は10万3150人だそうです。アメリカでは、ほとんどの州でリビング・ウィルを法制化しているとのことです。

 しかし一方では、生存権を脅かしかねないものとして「尊厳死」を警戒する立場の人たちもいます。森岡正博氏(哲学者・大阪府立大学教授。生と死を総合的に探求する生命学を提唱)は、尊厳死を望む根底は「生産性のある人間のみが生きるに値する」という価値観だと指摘しています。また「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」という市民団体は、尊厳死という名のもとに、殺人や自殺幇助(ほうじょ)が一般化する可能性があると主張しています。そこで、私自身は尊厳死を希望したいと持っています。でも何故か、日本尊厳死協会への登録とまでは思いつきません。間に合わないかも知れませんが、いずれ法制化されたら。

 ≪尊厳死法案の動き≫
  超党派の国会議員でつくる尊厳死法制化を考える議員連盟(増子輝彦会長)は、今年3月22日、終末期の患者が延命措置を望まない場合、措置を始めなくても医師の責任が問われないとする法案を、初めて公表しました。この日の総会では異論も出たため、とりまとめは、次回以降に持ち越されました。法案は、適切な医療を受けても回復の可能性がなく、死期が間近と判断される状態を「終末期」と定義しています。15歳以上の患者の意思が書面などで明らかで、2人以上の医師が終末期と判断すると、生存期間の延長を目的とした人工呼吸器の装着や人工栄養の補給を始めなくても、医師は民事刑事、行政いずれの責任も問われないとする。知的障害がある人や意思表示ができない人などは、対象としない。法案をつくるにあたり、延命措置の中止も含むべきだという意見があったが、治療を開始すると本人が意思を示せなくなることもあるため、最も範囲の狭い「延命措置を始めないこと」に限定したそうです。法案は、国や自治体に終末医療の啓発をすることも盛り込むことになりました。また延命措置を希望するかどうか、運転免許証や保険証に記載できるようにするとしました。久野 勲

 平成24年 9月17日(月)「上海帰りの◯◯?」
 第64回正倉院展(10月27日〜11月12日、奈良国立博物館)の見所を紹介する「正倉院フォーラム2012大阪」(主催・読売新聞社、NHK大阪放送局、後援・同博物館)が、9月15日、大阪市中央区の松下IMPホールで開かれたそうです。宝物にまつわる逸話や、献納した光明皇后についての話題に、約750人が聞き入ったとのことです。杉本一樹・宮内庁正倉院事務所長が64件の出展宝物お中から18年ぶりに公開される色鮮やかなガラス杯「瑠璃坏(るりのつき)」などについて解説。「ガラスは古代ローマ、台脚はアジアの特徴を持ち、とてつもない空間の広がりを凝縮した一品」と説明していたそうです。

 私は、そういった古い宝物には特に興味はありません。しかし 「瑠璃坏(るりのつき)」なる読み方もさることながら、何か懐かしい郷愁を呼び起こさせられるような、そんな響きを感じました。それは、私が小学校6年生だった頃に遡(さかのぼ)ります。当時名探偵・明智小五郎と探偵団の小林少年の大ファンでした。ラジオから流れてくる江戸川乱歩作「少年探偵団」の歌などよく歌っていました。「ぼ、ぼ、僕らは少年探偵団・・・」というあの歌です。その1番の歌詞は、「ぼ ぼ 僕らは少年探偵団 勇気りんりん るりの色 望みに燃える 呼び声は 朝焼け空に こだまする ぼ ぼ 僕らは少年探偵団」でした。この中の 「勇気りんりん るりの色」の意味など、まったく分からないままに歌い続けていました。これが結構、難しい歌詞だったので、1番ばかり歌っていました。それが、つい先日のことですが「瑠璃坏(るりのつき)」の記事を目にした時に、何気なく「るりの色」と結びつけたというわけです。結局、この二つの関係についてはよく分かりませんでした。当時、友達同士で「少年探偵団」を歌っていると、不思議に連帯感のようなものを感じ、勇気が湧いてくるような気がしました。ちなみに、この画像が正倉院に保管されている「瑠璃坏(るりのつき)」と呼ばれている宝物だそうです。

 懐かしさのあまり、つい相当年配の方にしか分からないようなタイトルにしてしまいました。それにしても、この「少年探偵団」のメロディーに合わせて何人の方たちが口ずさんでくれるのでしょうか楽しみです。懐かしいと言えば、つい先日カラオケ居酒屋で見知らぬ人でしたが、ニールセダカの「恋の片道切符」をリクエストしたのには驚きました。まさかと思いましたが、カラオケにあったようです。さらにカラオケ居酒屋と言えば、私の入院などで1年近く会っていませんが、「つつみ」の常連の尾上さんが、私のサイトの中から「つつみ」に関連したページを印刷して持ってきてくれたと、お母ちゃんが喜んで見せてくれました。ちなみに、その店にはなぜか小猿愛用の野球帽が、所在なげにポツンと置かれていましたがまさかと思いますが飾り?それとも担保?(笑)久野 勲    
 平成24年 9月16日(日)「季節は移ろい時は流れても」
 今朝、同窓生の岡井さんから、昨日の岸和田だんじり祭の報告をメール便で送っていただきました。なかなか面白かったので、例によって断りも無く勝手に「岡ちゃん散歩」と題してアップすることにしました。その最中に、井野総代長から電話が入りました。実は今朝方日付が変わった頃に「書き込みが9時50分までかかり、それからコピ−をとりましたが、検証はしていません。どうにか5枚出来ました事を報告しておきます。おやすみなさい!!」という総代長からのメールが届いていました。昨日熊野音頭の映像の編集が終わってDVDに書き込みはじめたのが、お昼過ぎのことでした。それが9時50分までかかったとのこと。私が試作品をDVDに書き込んだ時は、Windows7の方だったので、30分ちょっとくらいで書き込めましたので驚きました。それと、うまく書き込めたかどうか検証をしていないということが気になっていました。それが、総代長からの電話で払拭されました。一枚10分ほどかかって人数分を焼き増ししているとのこと。そいて、DVDの表には、当日私がデジカメで写した集合写真を印刷しようと思っているそうです。映像の編集は初めてのことだったので不安がいっぱいでした。しかし、今回もまた私の得意とする(笑)「結果オーライ」だったので、ひと安心した次第です。

 と言うことで、気分良く「岡ちゃん散歩」の編集を続けました。そして、雰囲気を出すべく音を入れようと思って、YouTubeを検索しました。そこで思いがけず、昔懐かしい光景を目の当たりにしました。それは、9月13日の項に「そのお店は細い路地にあったので目の前でヤリ回しと言われている、狭い場所での細かい方向転換などの醍醐味をつぶさに味わうことが出来ました」と書いています。まさにその光景が偶然見つかりました。残念ながら、映像については「取得失敗」に終わってしまいましたが、何とか画像のキャプチャー(取り込み)に成功しました。私がお邪魔したのは今から30年ほど前のことになります。これは4年前の映像です。まさにここです。間違いありません。

 <追伸> その後、執念を燃やしてながら(笑)このページから「取得成功」することが出来ました。「Craving Explorer」をご利用の方はご参考まで。ちなみに、テストリリース1.4.1をインスト−ルしたところ、うまくいきました。よろしければ、画像をクリックしてみてください。

 <追々伸> 夜になって、総代長が出来たてホヤホヤのDVDを持って自ら届けてくれました。早速見せてもらいました。自分で言うのも何ですが、おおむねよく出来ていました。ただ、画面の切り替わりの際のゆるやかな出入り、つまり「フェードイン」「フェードアウト」と、部分的な音声の未削除等未熟な点があります。それは今後の課題として、より良き編集をめざして行こうと総代長と決意を新たにしました。
久野 勲
 平成24年 9月15日(土)「パソコンはゴロゴロに弱い」
 昨日は、堺では珍しく大雨洪水警報が発令されました。幸い、大きな被害も無く通り過ぎてくれたようなので、ひと安心と言ったところでした。しかし、遠くで雷鳴が轟いたので、パソコンをやめて念のためコンセントを抜きました。先日「備えあれば憂いなし」を書いた手前、憂いでもあればシャレにもならないので、備えだけは準備万端怠りなしでした。そして一夜明けると、昨日の大雨は嘘のように秋晴れに恵まれました。今朝早く目が覚めたので、学生の頃にはほとんど経験したことの無かった、映像編集についての「予習」を済ませて井野総代長宅へ出かけました。結局、それが功を奏したのか、昼ご飯をよばれ終わった頃には完成してしまいました。あとはDVDに書き込むだけです。これがまた結構時間がかかるようで、いろいろ話をしながら1時間ほど待っていましたが、まだ数時間ほどかかるようでした。次の予定もあることだし、仕方なく「結果をメールで知らせてもう」ということにして、後ろ髪を引かれる思いで一度家に戻ってきました。そして、次の約束までに慌ただしくこれを打ち込んでいます。ちなみに、DVDのエンディングの最後は、それぞれの人たちの名前がロールアップした後

              撮 影 / 森 国広
              編 集 / 井野 勉
                    久野 勲

 と言うことでまとめました。ただ、心残りだったのは、ズルズルズルと流れてしまい、ここでピタッと格好良く止められなかったことです。しかし、欲を言ったらキリがありません。今はただ、遠く堺東の空からDVDにうまく書き込まれていることを祈るのみです(笑)。
久野 勲
 平成24年 9月14日(金)「酒と何とかは、2軒まで?」
 夕べは悪戦苦闘の末、久しぶりに知恵熱が出てしまいました(笑)。三日酔いではなかったんですが、いったい、あの悪戦苦闘は何だったんでしょうか。火曜日は体調が良かったとは言え、さすがに少し飲み過ぎてしまいました。久しぶりに小猿と酔い酒を飲みました。いつもは1軒、2軒、3軒くらいで「よっしゃ、今日はこの辺にしとこか」ということになるんですが、あまりにも楽しかったので4軒、5軒、6軒もハシゴをかけてしまいました。最後の店では「この辺でお終いにしましょうか。もう4時ですよ」ということになりました。以前なら、完全に後半の記憶が飛んでいるところですが、この日はよく覚えていました。しかし、さすがに翌日は軽い二日酔いに見舞われました。しかし、昨日は三日酔いも無く気持ちよく目覚めました。

 ところで昨日、同窓生から「
一切の仕事から手を引き遊んでいますが、堺まで出かける気力が湧かなくなってしまいました」との便りが届きました。そう言えば、私も思い当たる節があります。昨日の悪戦苦闘も、最近富に感じられるようになってきた「気力」「根気」の減退によるものが、大いに影響していることに気がつきました。しかし、そんな事に甘んじているわけには行きません。幸い僅かながらも、まだやるべき事が残っています。今後は意識的に気力を絞り出すように心がけたいと思っています。そんな中で、明日も明日とて、井野総代長からのメール連絡で遅まきながら「熊野音頭」の編集の最終段階に入ることになっています。映像の編集は慣れていないので時間がかかるかも知れませんが、鳩首を突き合わせて楽しみながら挑戦してみようと思っています。まだまだ気の置けない仲間たちと、楽しみながら続けられているうちは大丈夫でしょう。今回も捕らぬ狸のなんとやらで、エンディングには映画のように、下から踊り手さん達20名近くの名前をスクロールさせて、最後に、撮影/森国広(小猿)、編集/井野勉でピタッと止められれば良いなぁと思っています。総代長は私の名前も入れるように言いますが、シニアアドバイザーとでも入れますか(笑)。

 石津の井野総代長には15日午後1時開始と言うことで返信した直後に、月に一度堺東で例会をという元同僚のカズちゃんから「残暑厳しい折元気でお過ごしでしょうか?突然ですが次回15日に堺東でいかがですか?」との、まさに突然のメールが飛び込んできました。わざわざ和歌山からのお誘いなのでむげに断るわけにもいかず、急きょ総代長宅には午前中に出かけることにしました。「♪いいかお爺んは、忙しいくらいがちょうど良い。いいかお爺んは小さな夢を持て〜飲むうぞ〜飲むうぞ〜」いやいや、お爺んは酒はほどほどに嗜(たしな)むくらいがちょうど良いのでしょう。(画像は、仮のタイトルです)。
久野 勲
 平成24年 9月13日(木)「初秋の風物詩」
 備えあれば憂いなし、拝読しました。いつもアドバイスありがとうございます。参考にさせていただきます。雷て怖いですね。ところで15日岸和田の北町の親戚から今年もだんじり祭りの誘いがあり、長女と二人で行く予定です。岸和田の自宅で眼科を開業しており、北町の前が昔の紀州街道でだんじりが細い道に入るようになり大変です。看板も何回かつぶれたり家の前は、見物客がたくさん来るのでバリケ−ド、お祭りのたびに自前でするようです、門の前は、見物客が場所取りが座り、入れない状態です。二階まで欄干を作り知り合いを招待するので場所まで作り大変なようです。おかげで最高の見物場所で安心して、みれますので毎年寄せてもらいます。御客の多い時は遠慮していますが、今年は早くからおよびがかかり行きます。なつかし人も来ますので、いい一日になりそうです。写真も撮ってきますので、またご紹介いたします。妻は足が痛く家で今回はお留守番です。祭りが始まると、家までなかなかゆけず、通行手形がないと入れない模様です。駅から連絡して迎えに来てもらう段取りをしています。昔子供のころ、泉大津でもだんじり祭りがありよくゆきました。太鼓や鐘の音を聞くとウキウキしてきますね。おかい



  友人からご覧のような秋の便りが届きました。いつも、当サイトへのご訪問と、お便りありがとうございます。一人でも二人でも訪ねてくれる人がいれば、時にはダメじゃ無く、少しでもタメになるようなことを書いて「訪ねてみて良かったなぁ」と思ってもらえるようになればと思っています。「♪祭りの太鼓がテンテケテンと鳴ッチッチ・・・」とばかりに、爽やかな秋風に乗って太鼓や笛の音が聞こえてくると、心が浮き浮きしてくる人も多いと思います。秋晴れの泉州路を各町内の誇りをかけて勇壮なだんじりが疾走する、今年もまたそんな季節がやって来ました。また勇壮ばかりではなく、夜は夜でたくさんの提灯を着飾って落ち着いた優雅な姿も見応えがあります。以前、同僚に栄町の電気屋さんの息子さんがいて、寄せてもらったことがありました。そのお店は細い路地にあったので、目の前でヤリ回しと言われている、狭い場所での細かい方向転換などの醍醐味をつぶさに味わうことが出来ました。角の家などは毎年のように屋根瓦を壊されるそうです。そんなトラブルに備えて、各だんじりには保険屋さんがついて回っているそうです。またこの季節はワタリガニの最盛期だそうで、カニ祭りとも言われていると聞きました。あの時のだんじりの勇壮さ・優雅さもさることながら、ワタリガニのおいしさも忘れられない想い出となっています。

 ところで「浜中九期生」の「最新情報」に、逐一出欠情報を掲載しています。とくにクラス全体の情報については「一太郎」のみでしたが、今回から「Word」でも閲覧してもらえるようにしようと思って、いろいろやっています。しかし、元は一太郎のデータですが、なかなか思うように行きません。悪戦苦闘の末、何とか出来たようなのですが、アップしてみないと成功したかどうかは分かりません。この「ブログもどき」と一緒に恐る恐るアップしてみることにしますが、まさに「うまくいったらお慰み」と言ったところです。

 <追伸> 結局、私の手には負えませんでした。要するに、HPビルダーとWordは、どうも相性が良くないようです。その代わりと言っては何ですが、PDFファイルで成功しました。一太郎を使っていない方は、PDFの方でご覧になってみてください。ちなみに、PDFファイルとは特定の環境に左右されずに全ての環境でほぼ同様の状態で文章や画像等を閲覧できる特性を持っており、2008年7月には国際標準化機構によってISO 32000-1として標準化されました。
久野 勲
 平成24年 9月12日(水)「備えあれば憂いなし」
 昨日、小猿と会い久しぶりに堺東界隈をあちこち飲み歩きました。その時の話では、先日外出していて帰宅するとパソコンが起動しなくなっていたそうです。どうやら、近くに落ちたカミナリの仕業だったそうです。そう言えば以前、同窓生から、近くで発生した落雷のためパソコンが壊れてしまってエラい目に遭ったという話を聞いたことがあります。ちなみに、私が利用しているCATVの設備には雷による故障を防ぐため、保安器(避雷器)が設置されています。そのため、CATV同軸ケーブルからの進入による雷被害はほとんどありません。ただし「電源コンセント」には、防止する機器 が設置されておりません 。このため、落雷が発生すると電源系統に雷サージ(雷によって発生する異常電流)が発生し通常は流れない大きな電流/電圧が機器に入ることがあります。これがLANケーブルを通じてケーブルモデムだけではなく、一般の加入電話やハブ、ルータなどの機器も破損する場合があるそうです。

◎注意事項
・夕立が発生した場合、雷が鳴っていなくても電源を抜いておきましょう。夕立の発生が予想される場合も、予め、電源を抜いておいてください。
・抜いた電源コードは、コンセントから離れた場所に置いてください。電源コードとコンセントが近い場合、電気が流れる恐れがあります。
久野 勲

 平成24年 9月11日(火)「ついに仲間入り」
 高齢者→自宅で転倒→骨折→寝たきり。こういうケースがよく聞かれます。高齢者は骨が脆くなっているので、骨折しやすく治りにくい。ということはよく理解できます。しかし、皆んながみんな酔っ払っているわけではあるまいし、どうして自宅で転倒するのか不思議に思っていました。

 ところで私は最近、とくに術後は自転車を使うことが多く以前ほど歩かなくなりました。これではいけないと思い、朝夕凌ぎやすくなってきたのを機会に徐々に歩き出すようにしています。昨日、浜寺水路で漁船ではなく艀(はしけ)だったんでしょうか、小さな船が大きな航跡の波紋を描きながら、音もなくゆっくりと石津漁港の方へ進んでいきました。

 この日は1時間ほど歩きました。今のところ以前ほど早歩きは出来ていません。ウオーキングと言うよりは、散歩と言った方がいいでしょう。さらに、ゆっくり歩いているのにもかかわらず、時々地面に靴底が擦(こす)るようになりました。思うように足が上がっていないようです。これでは気がつかなければ、ちょっとした段差でも蹴躓(けつまず)いて転倒することになるでしょう。さらに、今でも急に起き上がったり、立ち上がったりすると軽いめまいに襲われることがあります。そこで遅まきながら「転倒するというのは、こういうことなんや」と思い知らされました。ここに来て、やっと私も立派な高齢者の仲間入りを果たしたようです(笑)。

 その他、術前・術後で変わったことに味覚の変化があります。いろいろありますが、とくに昔から当たり前のように食べていた白いご飯が、おいしく食べられなくなってしまいました。炊き込みご飯や、シソご飯や、ちらし寿司などを好むようになり、白いご飯はの時には「ふりかけ」を使ったり、カレーライスにしたりして誤魔化しながら(笑)食べています。ご飯と言えば、その昔住んでいた石津の家は玄関から裏口まで土間が通り抜けていました。その土間の一角にあった「へっついさん(かまど)」で炊いたものです。燃料はもっぱら藁(わら)や、石津の浜で拾い集めてきた流木などでした。母親はよく「はじめチョロチョロなかパッパ、赤子泣いてもふたとるな」やで、と言っていましたが何のことか分かりませんでした。とにかく、噴きこぼれても絶対蓋を取るなとやかましく言われていた記憶があります。あの頃のご飯は、よく麦や芋が混ざっていましたが、おいしく食べていのを懐かしく思い出されます。ちなみに、正確には「はじめちょろちょろなかぱっぱ、じゅうじゅうふいたら火を引いて、赤子泣いてもふたとるな」だと聞いたことがあります。赤子と言えば「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」これは、徳川家康の家臣・本田重次が長篠の戦いの最中に妻に宛てた手紙です。日本一短い手紙として有名です。しかし、遺されているこの手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」と、したためられていたそうです。
久野 勲
 平成24年 9月10日(月)「さらに4年後に向けて!」
 今日、ロンドンパラリンピックが12日間の熱戦を終え閉幕しました。今大会は、日本選手団にとっては厳しい結果となりました。金メダルの数こそ前回と同じ5個でしたが、総数では前回の27個から16個と大きく減らしました。選手からは世界との差が広がっているという話が聞かれるなど、今後の強化体制を問われる大会となったようです。一方で、ゴールボール女子の金メダル獲得や車いすテニスの国枝慎吾選手が男子シングルスで2連覇を達成するなど、数々の名場面も見られました。

 ところで、今日は 「知的障害者愛護デー」だそうです。日本精神薄弱者福祉連盟(現在の日本知的障害福祉連盟)が1964(昭和39)年に「精神薄弱者愛護デー」として制定しました。私はこの「障害者」という呼称に大いに疑問を持っています。自治体によっては「障がい者」「障碍者」を使っています。あるサイトによると≪そもそも「障害」という言葉は、かつては「障礙」とか「障碍」と書いていた。しかし戦後の漢字制限で「礙」「碍」の漢字が表外漢字になってしまったため、「害」という漢字を宛てて「障害」と書くことが広まったのである。「害」という漢字は障害者が他の人に何か害を与えるみたいで不穏当だと主張する人がいます。電柱の 「碍子(がいし)」(陶製の電気絶縁物)という語から見てわかるように、元もとの字である、「礙」も「碍」も「妨げる」という意味である。しかし「害」と違って、誰かを傷つける、害するという意味はない≫としています。私はこの問題に関して3年前に、次のような短い文章(雑文帳)を書いています。久野 勲
 平成24年 9月 9日(日)「キュウは縁起物」
 私には毎日がそうなので、今さら取りたてて言うほどのことではありませんが、今日は日曜日です。その昔、仕事に疲れた時に城山三郎著「毎日が日曜日」のタイトルを見て、一種の憧れのような感情を抱いたものです。それが現実のものとなった時には、長年背負い続けてきた責任という名の重い荷物を一つ下ろすことが出来たという安堵感と同時に、大いなる寂しさと不安を感じました。しかし、いつまでも少女じみた感傷に浸ってもいられず、好むと好まざるとに関わらず自分なりに第三の人生を歩みはじめて今日に至っています。図らずも、昨年末に三途の川を渡りかけましたが、閻魔様に「お前は、まだ現世での修行が足りん!」とばかり追い返されてしまいました(笑)。そんなわけで、なかなか悠々自適とまではいきません。それなりに好きな趣味を生かしながら、元々そうですが、より一層「♪目立たぬように、はしゃがぬように」それでいて、退屈しない程度に老後を過ごしています。出来ることなら、すべからく「最後良ければすべて良し」といきたいものですね。

 ところで、今朝も今朝(早朝)とて趣味のライブカメラを覗いていました。場所は、今サケの遡上がはじまっているアメリカのセントメアリー川の水中です。総天然色(笑)で、迫力あるきれいな映像が見られます。ご覧のような映像を機嫌良く見ていると、下の方から音も無くスーッと広告が出てきました。これを配信しているのは「USTREAM」という無料動画配信サイトなので広告が出るのは仕方がありません。広告の右上にある×をクリックすると、下の元の場所へスーッと消えてくれます。ところが今日、その×をクリックすべくマウスボタンを持って行くと、あれっ一瞬×が逃げてしまい広告を見てしまう羽目になってしまいました(笑)。敵もサル者エテコの子(笑)、慈善事業ではないので何とか広告を見せようと、あの手この手のテクニックを駆使して頑張っているようです。

 今日9月9日は「重陽の節句」だそうです。中国では、奇数は縁起のよい陽の数とされ、一番大きな陽の数である九が重なる9月9日を「重陽」として節句の一つとしてきました。菊の花は不老長寿の薬とされていて、菊の香りを移した菊酒を飲むなどして邪気を払い長命を願うという風習がありました。これが日本に伝わり、平安時代には「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」として宮中の行事となり、江戸時代には武家の祝日となりました。平安時代、菊の被綿(きせわた)といって、重陽の節句の前夜にまだつぼみの菊の花に綿をかぶせて菊の香りと夜露をしみこませたもので、宮中の女官たちが身体を撫でたりした様子が枕草子や紫式部日記に残っているそうです。余談ですが、菊を浮かべるお酒は、もちろん菊正宗なんでしょうか。

 あっ、今、午後8時過ぎですが突然カミナリが。いや、花火のようです。そう言えば、今夜浜寺公園で花火大会がありますとの街宣車が出ていました。せめてベランダからと思って出てみましたが「音はすれども姿は見えず、ホンにあんたは屁のようだ」のような状況でした。階下へ降りてみると、テーブルの上にポツンと「浜寺公園へ花火を見に行ってきます」との書き置きが乗っていました。ちょっと風呂へ行ったわけではあるまいし、ちょっと花火を見に行ってきます。と言って何年も帰ってこないという話は聞いたことはないし、心配せんでも、まぁいいか(笑)。久野 勲
 平成24年 9月 8日(土)「読み書きそろばん」
 「♪母がまだ若いころ、僕の手を引いて、この坂を登る度いつもため息をついた。ため息つけば、それで済む後ろだけは見ちゃダメと、笑ってた白い手はとても柔らかだった。運が良いとか悪いとか人は時々口にするけど、そういうことって確かにあるとあなたを見ててそう思う。偲ぶ不忍無縁坂、かみしめるような、ささやかな僕の母の人生。いつかしら僕よりも母は小さくなった。知らぬ間に白い手はとても小さくなった」。明治生まれだった私の母は、和歌山の片田舎で生まれ育ちました。小さい頃から子守奉公や丁稚奉公に出され、ほとんど学校には行かなかったそうです。当時は、五木の子守歌のような哀しい出来事が、あちこちの田舎にあったそうです。私が小学校1年から母子家庭だったので、気丈な母は「人様に後ろ指を指されるようなことだけはするな」が口癖でした。そんな母親が晩年になって、やむにやまれぬ事情で、地元に嫁いでいる姉にハガキを出したことがあります。私の鉛筆をなめながら一生懸命に一字一字丁寧に書いていました。私は横でそれを見て、折れた釘みたいな字やなぁなどと揶揄(やゆ:からかう)したものです。もちろん、今では後悔していますが後の祭りです。まさに「親孝行したい時には親はなし」「いつまでもあると思うな親と金」けだし名言だと思います。

 ところで今日は「国際識字デー」だそうです。「識字」とは「文字の読み書きができる」ことです。1965(昭和40)年のこの日、イランのバーレビ国王が軍事費の一部を識字教育に回す提案をしたことを記念しています。1990年に国連が国際デーとして定めました。2000年現在、成人非識字者数は全世界で8億8000万人といわれています。成人非識字者の約3分の2以上がアジア太平洋地域に集中しています。そして、3分の2を女性が占めているそうです。

 日本においては、1443年に朝鮮通信使一行に参加して日本に来た申叔舟(シンスクチュ)は「日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きする」と記録し、また幕末期に来日したヴァーシリー・ゴローニンは「日本には読み書き出来ない人間や祖国の法律を知らない人間は一人もゐないと述べています。これらの記述には誇張があると思われますが、近世の日本の識字率は実際にかなり高く「読み書きそろばん」など江戸時代に培われた高い識字率が、明治期の発展につながったとされています。ちなみに、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が公開した2002年時点の国別の識字率によると、全世界の識字率は約75%ですが、日本は99.8%となっています。成人の非識字が不平等・貧困・犯罪等の温床に結びつくことから、ユネスコでは識字率の向上に向けての取り組みを進めているそうです。久野 勲

 平成24年 9月 7日(金)「掛け替えのない金字塔」
 ロンドンパラリンピックは6日夜(日本時間7日未明)、競泳男子が金と銅のメダルを1個ずつ獲得し、あと3日間を残して日本勢の今大会メダル数は金3、銀3、銅4の計10個となりました。選手団は、オリンピックに比べて、国からの援助が三分の一という状況の中で、多額の個人負担を強いられながら、それぞれの競技に臨み我々に数々の感動を与えてくれています。日常の過酷な環境の中で大きなハンデを乗り越えて、精っぱい頑張っている選手団の皆さんに改めて拍手を送り、その健闘を称えたいと思います。


 ところで、ある同窓生から、次のようなメールが届いています。

 
久野さんお世話様です。少しご無理をされているのではないでしょうか?ブログを拝見して心配しています。どうぞご自愛ください。今日BIGLOBEのホンネ相談のなかに同窓会の文字があり何気なく開いてみました。久野さんもご覧になっているでしょうか。同窓会で女性が言われたくないセリフとは?同窓会では、あこがれの人との再会を期待して、オシャレをして参加する女性も多いようです。そんなのないかな??しかし、いろいろな不安を抱いている女性もいるようです。「自分だけ老けていると思われたらどうしよう」「友人たちがすごくきれいになっていたら」など女性ならではの気になるポイントも多いことでしょう。そこで今回は、557名のマイナビ会員の女性に、同窓会で言われたくない一言についてアンケートをされたのを見てみました。

Q.同窓会で言われたくない一言を教えてください(複数回答)

          1位 誰だっけ?・・・・・・・・24.0%
          2位 老けたね ・・・・・・・・ 16.8%
          3位 太った?・・・・・・・・・11.1%
          4位 名前が思い出せなかったよ・10.4%
          5位 あのころと変わってないね・ 6.9%

  今まで失礼があったのではと反省しています。私の感じでは、男では頭が涼しくなったね、白いものが増えたね、固いもの大丈夫、加齢臭。臭いの問題も気になりますよね、自分ではわからないので。誰だっけが一番らしく、この年になると忘れもひどく、特に女性が美しく変貌などしていたらわかりませんね。これを見ると、あまり親しくお話が出来ないのではと思い悩んでいます。当日は、はみがき、朝ぶろ、白髪染め、そのまえにダイエット問題どうしよう。最近歯医者さんより進められJ&Jのリステリン使用しています。オーデコロンは、娘が良く買ってくれるCalvin KleinChristianDiorにしようかそれより腹もデオ−ル。いまさら何ともなりませんね。普段のままで行きましょうね。よろしくお願いをいたします。おかい

 お気遣い、ありがとうございます。ご心配をおかけしていますが、おかげさまで、体調は今のところ大丈夫のようです。ところで、このアンケート結果は、女性ならずとも気になるところですね。ちなみに、敢えて名前は出しませんが、この人はかなりダンディーなようですね。昔風に言えば、いなせな伊達男といったところでしょうか?女性以上にオシャレかも知れません。結局、普段のままで出席ということになったようです。当日、こんなきれいな胡蝶蘭を胸に飾り、オーデコロンの香りを振りまいてくれる人がいれば、きっとこの人だと思います。しかし、オーデコロンとはどんな香りなんでしょうか?さしずめ私の場合は、頭に黒い粉でも振りかけて行くことになりますかね。すでに、それも手遅れですよ。誰ですか、そんな本当の事を言うのは(笑)。ユダヤ格言の中に、こんな教えがあります。「嘘を口にしてはならない。しかし、真実の中にも口にしてはならぬものがある」そうです(笑)。
久野 勲

 平成24年 9月 6日(木)「みんな頑張ってるなぁ」

 昨日、JR西広島駅近くの塾から帰る途中だった小学校6年生の女児は、バス停で母親の迎えを待っていたようです。そこに、成城大学2年・小玉智裕容疑者が果物ナイフで「静かにしろ」と女児を脅し、カバンに閉じ込めて連れ去るという「広島女児監禁事件」が起こりました。容疑者が逃走のためにタクシーを停めました。それが腕に自信のある正義感の強い、さらに良い耳の持ち主である星山さんの運転するタクシーでした。あたかも、神様があてがってくれた配車かのように。そこで星山さんの機転と勇気で女児は無地助け出され、容疑者は逮捕されました。まさに、不幸中の幸いだったと言えるでしょう。そもそも勝手な推測に過ぎませんが、事の発端は母親の迎えが少し遅くなったからかも知れません。そして、的外れかも知れませんが「神はいつも、どこにでもいられるというわけではない。そこで神は母親をつくった」というユダヤ格言を思い出しました。願わくば、神様にはもう少し早い目にお出ましいただきたいものです。

 面識はありませんが、星山運転手さんの勇気ある行動には感動しました。ただ考えさせられるのは、今回の場合の容疑者はナイフを所持しています。事件に関わった場合、時には腕に自信があり正義感が強いことが、仇(あだ)になるケースも見受けられます。それがまた、見て見ぬ振りを助長しているようです。事件に直面した場合の正義感による本能的に、とっさに体が動き出すのだと思います。しかし、警察も、怪しいと思ったら直接手を下さずに、まず110番通報をと呼びかけています。

 今回の被害者となった女児は何も悪いこともしていないのに、無法極まりない不埒(ふらち)な
輩(やから)によって、極限の恐怖を味わされたことでしょう。とにかく無事に救出されて何よりでした。しかし、今後「トラウマ」となって後遺症が出るかも知れません。長い時間をかけて何よりも心のケアが必要だと思います。ちなみに、広辞苑によるとトラウマとは 「traumaギリシャ語」(傷・けがの意) 精神的外傷だと書かれています。つまり、生きるか死ぬかくらいの心の傷のことです。最近は、トラウマという言葉が安易に乱用されすぎているキライが感じられます。

 ところで今日は、体調不良による理由での「欠席」の返信が多く届きました。これもまた現実とは言え、決して他人事では無く大いに懸念されるところです。そんな中福岡で頑張っている同窓生から、久しぶりに懐かしい便りが届きました。実はこの人は、かつて人の迷惑顧みずに行った、遠距離講習の第一号となってくれた人です。

 
「お久しぶりですね。同窓会のご案内を頂きました。11月17日は空いてますが翌日が大きな講演会を企画していて悩んでいます。ブログ、ついでに開けて拝見しました。幹事会もあって、いろいろお世話になります。病気をされたそうで大変でしたね。近くに居たら何かお手伝いできたかもしれません。パソコンは立場上毎日使っています。ウインドウズ7は使いこなせてませんが、忙しいのでついついXPの方で片付けています。みんな70歳にもなるとあちこち壊れてきます。中には自分が誰だかわからなくなっている人もおられるのかも知れませんね。それでも障害児を抱えていると絶対子どもより長生きしなければ心配で死ねない。ありえないかもしれませんが、そんな気持ちで毎日頑張っています」福岡より

 「♪元気出して行こう声かけ合って行こう、サムライで行こう日本男児で行こう。世の中の人は何とでも、何とでも言うがいい、我がすることは我が思いは我のみぞ知る。武士は食わねど高楊枝、心は五月晴れ、メソメソするなウジウジするな青空に鯉のぼり」坂本龍馬ファンだった河島英五が、龍馬の言葉を引用して「元気出して行こう!」と歌っていました。とくにご同輩諸兄、まだまだ老け込んでなんかいないで、お互い元気を出して頑張りましょう!
久野 勲

 平成24年 9月 5日(水)「人生いろいろ、人それぞれ」
 9月に入って「浜中九期生、9クラス合同同窓会(11月17日)」に向けて、各クラス幹事さんより一斉に案内状を郵送していただきました。私の元にぼちぼちその返信が届いています。こういう役をしていると、いろんな同窓生から問合せなどあります。お互い齢(よわい)70歳ともなると自然の摂理に抗(あらが)えないもので必然的にいろんなところが弱ってくるものでです。思わず首を傾げたくなるような内容だったり、ところどころに思い込み、早とちりが混じったりします。応対していて戸惑ったり微笑ましく思ったりしています。そんな中で「同姓同名の方がおられるのでしょうか。私は同校の卒業生ではありません」との返信がありました。そのクラスの幹事さんに知らせましたが「前回は戻ってなかったように思いますが。例によって同じ組でも良く覚えていません。でも、加藤君はおったように思いますけど。??よろしく」とのことでした。これは、どっちもどっちかなぁ(笑)。失礼ながら、そんな気がしました。ちなみに、私は全然知りませんが、その人は5組の「加藤治樹」君です。どなたか情報があれば、ご一報ください。

 このように、始まるまでが華とばかり楽しみながら役目を遂行しています。言い訳になるかも知れませんが、この役目を引き受けたのは元気な時でした。その後図らずも大病を患い、現在退院後7ヶ月で、いわば病みあがり状態です。幸い術後の経過も良く、一旦引き受けた以上はとの思いから退院後も役目の遂行に当たっています。しかし、周りの人たちもそうですが、自分自身でもつい病みあがりだと言うことを忘れてしまうことがあります。今すぐ、どうこう言うような症状ではありませんが、残念で申し訳ない思いでいっぱいですが、幹事の降板、当日の欠席などを真剣に考えています。もしそうなった場合は、体調不良と言うことでお許し願いたいと思っています。もちろん、極力「幹事会」の皆さん方にはご迷惑をかけないようにしたいと思っています。

 ところで「浜中九期生同窓会」といえばドン的な存在(私はそう思っています)の大仲に久しぶりに電話をかけました。出なかったので携帯の番号を変えたのかなと思いましたが、しばらくして電話をくれました。いきなり「久野すまん、宛名書いてあるんやけど今日出すわ」とのこと。てっきり案内状を出したかとの催促だと思ったようです。私も同じ7組ですが、大仲に任せっきりなので催促なんてとても出来ない立場です。そこで「私は卒業生ではありません」の件で、何でもよく知っている大仲なので、5組の◯◯を知らんかと尋ねました。「あの大柄な◯◯のことか?」「さぁ、俺は全然知らんけど」「その◯◯がどうかしたんか」「実はカクカクシカジカで」「それはちょっとおかしいで」「俺もそう思うんや。この歳になるとお互いに記憶力が」「失礼かも知らんけど、それぞれちょっとずつおかしなってくるで」「そうや、まともな方が異常やで」そんな話でまとまりました(笑)。そこで本題の、久しぶりに会うて話がしたいなと言いましたが、今立て込んでいるので手が空き次第電話するわ。すまんけど、それでもいいかとのことでした。クラス幹事を交代してもらう等の話をしたかったんですが、私自身多少躊躇していることもあったりして、後日会った時にということにしました。

 今日の返信の中に「毎日AM10:00にプールに行き、友達が大勢出来るので食事会・旅行を楽しんでいます」「残念ながら仕事が現役(開業医)のため会議と重なり失礼します。あと10年は現役を続けるつもりです(仕事もgolfも)」「太極拳の段試験に挑戦のため、忙しくしていますので失礼します」など、こちらまで勇気づけられるような、老いてますます元気溌剌(はつらつ)とした嬉しい便りが届いています。頑張っている同窓生たちの勇姿が目に浮かぶようです。見習いたいものです。とくに女性の方がお元気のようでした。久野 勲
 平成24年 9月 4日(火)「ひしひしと忍び寄る恐怖」
 今日ウオーキングに出かける際、家のすぐ近くの電柱に見かけない表示が巻き付いているのに気が付きました。近寄ってみると、それはご覧のような表示でした。長年自分の住んでいる場所が、標高3Mとは初めて知りました。かねてから懸念されている、東海、東南海、南海地震などが同時発生するマグニチュード(M)9クラスの「南海トラフ巨大地震」について、国の二つの有識者会議は29日、被害想定などを公表しました。それによると、死者数は最大で32万3000人。そのうち津波による死者は全体の7割の23万人に達する。有識者会議では、迅速な避難により津波の死者は8割減らせるとして、国や自治体に対し避難施設や避難路の確保を図るよう求めました。驚くべき数字ですがこれは想定外を無くすための最悪の想定だそうです。いじれにしても、巨大地震が足音も無く身に迫っている感じがします。

 そんな緊迫感が漂う中、高額なシェルターから、安価な頭を守る頭巾まで、防災グッズが飛ぶように売れているようです。そんな中、津波による甚大な被害に対処する普段は座布団、イザという時にはライフジャケットになるという「浮くっしょん」なる、ユニークなアイディ商品に注目が集まっているようです。また、携帯電話も被害を減らすアイテムとして、非常事態を素早く早く知らせるための付加価値をつけるなど、その成果に注目を集めています。ちなみに、南海トラフ巨大地震の発生を想定した初の大規模訓練「大阪880万人訓練」が、防災週間中の明日「5日 午前11時」大阪府内全域で行われます。府内にいる人の携帯電話に訓練用の「緊急地震速報」メールを一斉配信し「被災時にどう行動すべきか」を考えてもらうのが狙いです。ただ、マナーモードにしていても着信音が鳴るために、府などは状況によっては携帯電話の電源を切るよう注意を呼びかけています。これによって、メールが配信されるのは、訓練時に大阪府内に存在すると想定される携帯電話で、府は約350万台と想定しています。

 ごく近い将来に、現実のものとなりつつあるとはいえ、四六時中身構えているというわけにはいきません。しかし、何はともあれ少なくともイザという場合の避難する高台だけでも決めておく必要があるでしょう。私は恥ずかしながら阪神淡路大震災の時には、布団を被って、ただひたすら揺れがおさまるのを待っているという、はなはだ情けない状態でした。命が惜しければ、まず行動に移さなければならないことは確かなようです。多分、我々の目の黒いうちにやって来るだろう、そんな気がします。
久野 勲
 平成24年 9月 3日(月)「死ぬ前に、もう一度」
 つい最近、横田めぐみさんの母・早紀江さんの著書「めぐみと私の35年」が新潮社から出版されました。サブタイトルは「死ぬ前にもう一度娘に会いたい」です。その一心で闘ってきた35年。13歳の娘が下校中に忽然と姿を消した35年前、毎日あてもなく探し回った。その娘が北朝鮮に拉致されたと分かった15年前、すぐにも娘に会えると期待した。そして、小泉総理が訪朝し娘の死を告げられた10年前、絶対に取り戻すと決意した。「私に残された時間はもう短い」。日本政府、国民、そして北朝鮮にむけた最後の訴え。との解説がついています。早紀江さんは76歳、父・滋さんは80歳になられるそうです。そんな中、4年ぶりとなる日朝政府間協議の中に、すったもんだの末、拉致問題が取り入れられるようになったとのこと。向こうの常套手段で、どれほどの食料等の援助を約束されられたのでしょうか。しかし、何度卑劣な常套手段に引っかかろうと、拉致被害者家族の方々を思うと、今度こそはと藁にもすがりたい思いでいっぱいです。ただ、残された家族の方々の時間は止まったままです。一方、拉致された方々の時間は、見知らぬ他国で洗脳も含めまさに目まぐるしく変動しているでしょう。ここに、この問題の残酷さがあるのかも知れません。しかし、例え何十年会えなくても、切っても切れない掛け替えの無い尊い「家族の絆」の深さを信じたいと思います。

 ところで、この10月で、故・金正日が日本人拉致を認めて10年目を迎えます。それを前に、拉致被害者の救出を求める「国民大集会」(拉致被害者家族会など主催)が昨日、東京都千代田区の日比谷公会堂で開かれました。出席した野田佳彦首相は、挨拶の中で日朝政府間協議に言及し「拉致被害者の即時帰国を果たすべく最大限の努力をする」と述べています。また首相は「北朝鮮が拉致を認めてから10年が経過したが、残された拉致被害者の帰国を実現できていないことは誠に痛恨の極みだ」と語りました。しかし野田首相の口からは「不退転の覚悟」とか「政治生命を賭ける」という言葉は出なかったようです。いかに難しい問題であるかを物語っています。

 昨日の集会には、約2000人の人たちが参加したそうです。2002年10月に電撃訪朝した、当時の小泉純一郎首相と共に帰国した曽我ひとみさんは、拉致された母・ミヨシさん(行方不明時46歳)について「何の情報もなく影も見えない。被害者家族も高齢化し時間がない」と訴えました。家族会代表の飯塚繁雄さんは「日朝協議は待ちに待ったチャンス。このタイミングを生かしてほしい」と政府に強く求めました。そして、家族会などは被害者救出を求め1000万人を目標に署名活動を展開しているそうです。集会では8月末までに集めた約930万人の署名の目録が、横田めぐみさんの父・滋さんから首相に手渡されたそうです。久野 勲
 平成24年 9月 2日(日)「みがき砂」
 日本では、嵐寛寿郎、市川右太衛門、片岡知恵蔵の鞍馬天狗や新選組・坂本龍馬などの「時代劇」、海の向こうではジョンウエインの正統派西部劇や、クリント・イーストウッドのマカロニウエスタン「荒野のガンマン」などが好きで、よく観たものです。歳が知れますねぇ。今では、池波正太郎作で中村吉右衛門の「鬼平犯科帳」をよく観ています。池波正太郎と言えば、新潮文庫に興味深い「磨き砂」のことを書いています。子供の頃に、煤(すす)で黒くなった鍋の底などを束子(たわし)につけた磨き砂(研磨剤)で、一生懸命にこすってきれいにした記憶があります。そして、競い合いながら、それを布につけて5円玉などを磨いてピッカピカにして遊んだものです。

 ところで、池波氏が新潮文庫に書いたのは「男の作法」というタイトルで、その中のサブタイトル「磨き砂」です。その中身は、

 
男の作法とあるが、これはもちろん女性の作法でもある。我々は、やがては死ぬという事実を忘れて生きている。また、逆に言えば、それを忘れているから、毎日をのんきに生きることができる。戦争や、疫病や、飢えといった、死の恐れがある時代には、人は一生を鮮烈に生きてきた。今の時代にも、世界にはそういった場所は多く存在する。現代人は、史上まれな豊かさの中にあるがゆえに、ぼんやりと生きている。そのおめでたい生き方にガツンと一撃を喰らわせ、目を醒まさせるできごとが「死」だ。「人はいつかは死ぬ」という事実を、常に胸に刻めば、あらゆるできごとが、己を磨く「みがき砂」となるという。病気も、困難も、失敗も、みんな自分を高めてくれる「みがき砂」。どんな難問も自分を磨く「みがき砂」と思い定め、「今ここ」を鮮やかに生き抜きたい。

      「磨き砂」池波正太郎氏の心に響く言葉より・・・

                     男は何で自分を磨くか。

 基本は「人間は死ぬ」という、この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。もう、そのことに尽きるといってもいい。何かにつけてそのことを、ふっと思うだけで違ってくるんだよ。自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、こればかりは神様でなきゃわからない。そう思えばどんなことに対してもおのずから目の色が変わってくる。そうなってくると、自分のまわりのすべてのものが、自分をみがくための「みがき砂」だということがわかる。逆に言えば、人間は死ぬんだということを忘れている限り、その人の一生はいたずらに空転することになる。仕事、金、時間、職場や家庭あるいは男と女のさまざまな人間関係、それから衣食住のすべてについていえることは、「男のみがき砂として役に立たないものはない」ということです。その人に、それらの一つ一つをみがき砂として生かそうという気持さえあればね。


 「人は、必ずいつかは死ぬ」これは当たり前のことですが、特に若い頃には、普通そんな事を考えずに目先のことに対してがむしゃらに生きています。だから無為に過ごす時間が多いのかも知れません。もちろん、人生には適度な無駄も必要でしょう。しかし、我々のように人生70年も生きていると、そうはいきません。馬車馬のように働いてきて無事定年を迎えて、さぁこれから第2、あるいは第3の人生を謳歌しなければと思うわけです。しかし、悲しいかな長年染みついた貧乏性がなかなか抜けきれず、この期に及んでもなお、残されたわずかな人生だと分かっていても謳歌とまでは考えつきません。しかし、座して死を待つ手はありません。せめて、一日一日を自分なりに無駄にすること無く大切に生きることに専念したいものです。考え直そう!我々が人に好かれて良い子になっている時代は、とっくに過ぎ去りました。頭で分かっているつもりでも、良しにつけ悪しきにつけ、長年続けてきた習慣はそう簡単には「♪分かっちゃいるけどやめられねぇ」ですよねぇ。
久野 勲
 平成24年 9月 1日(土)「もの言えば唇寒し」
 今朝は「防災の日」らしくカミナリと共に、まさにバケツをひっくり返したようなもの凄い雨で目が覚めました。幸い起き出した頃には、何事も無かったように穏やかな秋日和になっていました。このように秋は忍び足どころか、ドカドカドカと土足で暴れ込んで来たような感じがしました。こんなゲリラ豪雨が長く続けば、すぐ近くを流れる三光川はもとより、石津川や大和川までが大洪水で大変なことになったでしょう。秋の虫と言えば、まずコオロギが思い浮かびます。そこでエンマコオロギの羽音をあしらってみました。しかし、スズムシの方が耳に優しいので、ここしばらくの間無理を言って(笑)スズムシさんに再登場願うことにしました。

 「♪秋はすれ違う後ろ姿に〜面影しのび手酌酒・・・」これは、私の大好きな河島英五の「旅的(の)途上」の一節です。そう言えば「酒と泪と男と女」・「時代おくれ」・「野風増」・「旅の途上」と、私がよく歌う河島英五の歌は「酒」が出てくる曲ばかりです。だからでしょうか、今だに私がいかにも酒飲みだと誤解されているのは。今日も今日とて、神戸の友人から朝早くと言うより夜中に「現代版・庄助さん」と題するメールが送信されていました。確かに20代の頃は日本酒を好んで飲んでました。酔ってくるとビールで冷まして、また日本酒という飲み方を繰り返していました。それでも、今でもそうですが、家で飲むという習慣はありませんでした。それを端的に表すエピソードがあります。地元・石津を中心とする「和会」というグループがあります。20数年来、毎年宿泊旅行に出かけています。加齢とともに、バスに積み込んだビールなどが余るようになります。そんな時は、強制的に各自のカバンに入れて持って帰らされます。ある夏のことです。風呂上がりに冷蔵庫を開けると見慣れない物が入っていました。手に取ってみると、冬の旅行の時に余ったビールでした。おもむろに、そのよく冷えたビールを冷蔵庫に戻して、横にある麦茶を一気に飲み干しました。酒をおいしいと思ったことはありません。要するに私は、典型的な雰囲気で飲むタイプなのでしょうか。友人達にそれを認めてもらうまでには、随分長い時間を費やしたものです。


 残暑お見舞いもうしあげます。いつまでも暑いですね。毎日久野さんのブログ楽しみにしています。「現代版庄助さん」とまで行きませんが、その後体調いかがですか。庄助さんに興味をもち検索してみました。
 会津漆器の塗り師・久五郎なる人物だったという説です。彼はめっぽう酒が強かったようで晩年は、会津から少し離れた白河の友人宅で客死。そのお墓が白河市の皇徳寺に今も残されているようです。墓石のカタチは猪口と徳利、戒名は『米汁呑了信士』と庄助さんのイメージにはぴったりらしいです。その時世の句がまた『朝によし昼なおよし晩によし飯前飯後その間もよし』結局、何時呑んでも酒は旨いということですね。久野先生も心境解かるのではと思います。この人のお墓の石を削って飲むと下戸も酒が飲めるようになったという言い伝えがあるほどの大酒豪のようです。近ければ行ってみたいです。

 また銘酒は、良い水、良い米、良い技、そして酒を愛する良い飲み手がいて初めて良い酒が生まれるようですね。美味しい酒を育てる飲み手側の代表がまさに小原庄助さん。久野さんもそうですね。堺にもいい酒ありますか?民謡『会津磐梯山』で、♪小原庄助さん、なんで身上つぶした?朝寝朝酒朝湯が大好きでそれで身上つぶした、あ〜もっともだぁ、もっともだぁ♪とありますが、最近朝ぶろに入るとなにか贅沢した心境になりお酒も飲めないのに、この歌をくちずさむことがあります。この唄の中の庄助さんと一致すると証明できるものをブログで検索。無いようですが近いのが、3名出ていました。一番目、唄の中の飲みっぷりがぴったりなのが江戸時代にいました。ご城下にあった「丸正」という屋号の商人が材木で大儲けをして、東山温泉で連夜の豪遊をしたところからモデルとなったという説です。二番目、会津藩の藩祖といわれる保科正之公というお殿様と共に信州の高遠から会津にやって来た人。(1643年)それからおよそ二百年の時が下り、幕末に小原庄助なる人物がいたのです。三番目、冒頭の会津漆器の塗り師・久五郎なる人物だったという説です。

 先日友人の17回忌でビールを一口飲み、後用意してくれたアサヒのノンアルコ−ルの缶入りを私の前においてくれたので飲んでみました。まるでビ−ルと変わりませんね、初めにすこし飲んでいたので赤くなりいかにも飲んでいるようでした。
おかい

 ちなみに、もしも私の記憶に間違いがなければ(笑)、その昔お粥のことを、感謝を込めて「おかいさん」と呼んでいました。とくに、食べる時に自分の顔が映るくらいの「おかいさん」には、何よりにも増してお世話になりました。

 <追伸> 今日一斉に、各クラスの幹事さんから「浜中九期生・同窓会」の案内状(往復ハガキ)366通が郵送される段取りになっています。返信締め切りは10月6日で私宛になっていますが、今日いきなり第一号が舞い込んできました。5組の永田新吾くんからで、もちろん出席です。面白そうなので「浜中九期生」サイトの最新情報に出席状況の速報を掲載して盛り上げようかなと思っています。
久野 勲


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