平成25(2013)1月 ~ 平成25(2013)2月

34



 平成25年 2月28日(木)「春が、すぐそこまで」
 インターネットをするためのソフト(ブラウザ)として最新版である、昨年夏に公開された「Internet Explorer10」をインストールしました。それまではVer8でしたが、動作が速くなったように感じました。それよりも、この上の数字が並んでいる目次の枠が、太い黒の縁取りになってしまいました。縁起でもないと思ったので、すべてのページを縁なしに変えました。

 ところで、早いものですねぇ。今年も残すところ10ヶ月になってしまいました(笑)。弥生3月の声が聞こえてくる頃になりました。今朝など、歩いていて汗ばむほどの陽気でした。帰宅して久しぶりに肌着を着替えました。ニュースによると、やはり今年一番の暖かさだったそうです。そろそろ、ウオーキングウエアーも春用に衣替えの時期が来たようです。とは言うものの、このまま春に突入となれば良いですが、なかなかそうは問屋が卸してくれないでしょうね。ところで先日、約1ヶ月ぶりに石津のカラオケ居酒屋「仁」へ、井野総代長・押部さんと三人で顔を出しました。堺東の「つつみ」もそうですが、アベノミクスの効果が末端まで届くのは、まだまだ先のことなんでしょうか。商店街ではホットペッパーや、それとよく似たサービス紙などに加盟するなどして、水面下では生き残りをかけた熱い闘いが繰り広げられているようです。立ち飲み屋さんでも若い店主などは、今風のいろんなアイディアを凝らして頑張っているようです。しかし、私が行くような店では為す術もなく、そんな流れについても行けず不景気が通り過ぎるのを、ただ手をこまねいて「ジッと我慢の子」を決め込んでいるように思われます。今後とも、微力ながらそんな店を応援したいと思っています。

 <追伸> 今日「浜中九期生」のHPが消えているとの、問い合わせが寄せられました。そのページに書いていますが、サーバー(容量)の都合でやむを得ず閉鎖することになりました。プライベート・サイトですので、予告なしで閉鎖しました。これまでご訪問いただきました皆さん、どうもありがとうございました。
久野 勲
 平成25年 2月27日(水)「新聞今昔物語」
 新聞のルーツをさかのぼると「瓦版」に行き着くと言われています。「瓦版」とは、江戸時代、天災地変・火事・心中などの事件を速報記事にして街頭で売り歩いた印刷物。ふつう半紙一枚刷り。原版として木版が残るが、もとは粘土に文字や絵を彫り、瓦のように焼いて作ったと言われています。そして、現存する最古の瓦版は大坂の陣を記事としたものだとされています。瓦版の語源は以下のように諸説がありますが、はっきりしていないようです。

*粘土板を用いて刷ったような粗悪な出来栄えである
*紙の大きさが瓦と同じくらいである
*河原者が作った

 ところで、平成20年のNHK「その時歴史は動いた」で放送されましたが、大坂夏の陣の際に、ある町人が残した記録として「見しかよの物かたり」(下図)が残されているそうですが、当時の瓦版に載ったのでしょうか。

                  その内容は、
          ・・・男、女のへだてなく
          老ひたるも、みどりごも
          目の当たりにて刺し殺し
          あるいは親を失ひ子を捕られ
          夫婦の中も離ればなれに
          なりゆくことの哀れさ
          その数を知らず・・・

 と、その悲惨さが語られているそうです。ちなみに、 柔道で、互いに自由に技をかけ合って練習することを「乱取り」といいます。大坂夏の陣当時の「乱取り(乱捕り)」とは、戦に勝利した側による掠奪・強姦・人狩りのことだったそうです。戦に負けた戦国大名の領地では、食料は根こそぎ強奪されて、武将は皆殺し、身分の高い女性は略奪婚の対象。そして悲惨だったのは、それ以外の婦女子や農民で、女は強姦された上、性奴隷として、男は捕獲された後、肉体奴隷として人身売買市場で売りさばかれました。しかも、戦国時代の後期になると、捕獲された性奴隷や肉体奴隷たちは、鉄砲や弾薬と引き換えに南蛮人に引き渡されました。さらに、はるか遠い欧州の地で、悲惨な姿をさらす日本人奴隷の姿が、天正10年(1582年)にローマへ派遣された天正遣欧少年使節の記録に残されています。さすがに、日本人を外国人に奴隷として売ることは豊臣秀吉には耐えがたかったらしく、彼は天下を取るとこれを即座にこれを禁止しています。


 そして、その「瓦版」を引き継いだのが「♪とん、とん、とんからりと隣組。格子を開ければ顔なじみ、廻して頂戴回覧版、知らせられたり知らせたり」で一世を風靡した「回覧板」でしょうか。これは、明治末から昭和の初めごろに登場したそうです。今でも近所の人が「回覧板で~す」と言って届けてくれます。ちなみに、私が小学校の同窓会新聞「かいらんばん」を編集・発行していた時には、女房によく「かわらばん」と言い間違われていました。



 新聞と言えば、ジョーク系Webサイトに新聞記事スタイルのジョークを掲載する「虚構新聞」なるものが存在します。掲載されている『記事』は全て嘘・冗談なので、うっかり本当のニュースだと信じないように注意することが必要です。私も恐い物見たさ(笑)から訪ねてみました。これは「嘘・冗談だ」との先入観があっての閲覧だから良いようなものの、そうでなければ本当のWebニュースだと信じ込んでしまうでしょう。それほど巧妙に作られています。ちなみに、各記事のタイトルの横には、背景色と同じ色で「これは嘘ニュースです」と書かれています。もちろん、読者には見えません。ただ、ご覧のようにタイトルの横をマウスでなぞると表れます。まさに、毎日が4月1日のような世界です。
 まぁ割り切って読めば結構楽しめますが、まかり間違ってもまじめを絵に描いたような人には勧められません。「たかが虚構新聞ごときが・・・」と、誰とは言いませんが怒り出すかも知れませんからね(笑)。それよりも、日本でもっともマイナーだけど、読めば元気になってくる新聞を目指します。発信源は日本の西の果て、そして異国情緒の街「長崎」長崎からあなたの心に向けて、元気に「前向きの素」をお届けします。と言うキャッチフレーズの「日本前向き新聞」の方が安心して読めるかも知れませんね。 久野 勲
 平成25年 2月26日(火)「タンスにゴッツン!」
 ただいま拝見しています。昨日の話、妻に読んで聞かせています。大笑いしています(座布団三枚いただきました)。ありがとうございました。昨晩、高野山の秘仏をTVで拝見していました。すごく感激していました。しばらく昔、母が購入した小学館の原色日本の美術20巻を思い出し開けてみようかと思っています。ほとんど開いていません(笑)。

 ところで「ぬれ落ち葉」てありますよね。ご存知でしょうが、今まさにその心境ですね。三省堂のス-パ-大辞典に出ていました。濡れた落ち葉は、地面やほうきにまとわりつくことから、定年後の夫が妻から離れられず、わびしく生活をすることから言われているようです。それを避けるためには、いろいろありますが、何事も自分で行う。新しい人脈作り。糸の切れた凧にならない。体力の低下に気を付ける。時々月光仮面になる。さすがと、言わせるところを示す。まだありましたが書き忘れてしまいました。「変人会」の集まりは、いい薬になりそうです。

 さて、此の秘仏の名前は、じんじゃたいしょう?首に髑髏(どくろ)、腕は蛇が巻き付き、あしは二匹の象の首、お腹にはのう面のこおもてがついていました。快慶作。ゴビの砂漠で西行法師がであったと言われています。いろいろ見てみます。岡井特派員



 思えば、ちょうど去年の今頃でした。我が家で一番狭い部屋で腰掛けて、朝の日課である新聞を開いていました。その紙面で、なかなか面白いなぁと思いながらも聞き捨て(読み捨て)ならない記事を発見しました。それは次のような、私と同年代の主婦の投稿文でした。「家族のため、企業のために働き続けた男性も退職すれば<粗大ごみ>と呼ばれた時代がありました。捨てられてはかなわないと、<ぬれ落ち葉>になって、へばりつきました。でも、乾けば元のもくあみ。夫たちは次に<核兵器>となり、捨てるに捨てられない存在として、妻に寄り添いました。妻たちは<核兵器>と化した夫をそっとしておきました。そう、無視したのです。自分は、友達とモーニングやランチでおしゃべりして発散。地域社会とのつながりが少ない夫は、ついに<ミノムシ>族になっていきました。自分の殼に閉じこもり、ひっそり家という木にへばりついています。あげくの果てに<亭主在宅症候群>という病名まで付けられてしまいました。主人らはさぞ、不本意なことでしょう。少々、可哀想な気がします。これらの呼称はすべて、妻側から付けられたものですが、夫たちはどう受けとめているのでしょう。そして<ミノムシ>の次は、何と呼ばれるのでしょうか」。だってさぁ。

 ちなみに、ミノムシ族とは「モノトーン色の寝巻きがわりのジャージやスウェットを、そのまま一日中着替えもせずに、家から一歩もでずに、一日中テレビに張り付いて、食事をしてはゴロゴロして、奥さんの行動だけは把握して、やたら奥さんの行動にケチを言い、奥さんを束縛したがる」こういう、オヤジのことを言うのだそうです。まぁ早い話が「亭主元気で留守が良い」ということでしょうか。言い得て妙だ、なんちゃって感心している場合ではなさそうですね。ここが、そんな哀れな宿六たちの「たまり場」なのでしょうか!

 <追伸> 深沙大将(じんじゃだいしょう)は、仏教の守護神の一人で、大般若経の十六善神とともに描かれることが多いようです。また深沙神、深沙大王とも呼ばています。玄奘(げんじょう)三蔵(三蔵法師のモデル)がインドへ行く途中、砂の中から現れ、玄奘を守護したと伝えられています。姿は、1面2臂(ひ)で髑髏の瓔珞(ようらく:きらびやかな装飾品)をつけ、象革の袴を履く、持物については一定しないが、蛇や戟(げき・ほこ:中国の古い武器)を持つものがあるそうです。
久野 勲
 平成25年 2月25日(月)「当たらずといえど・・・」
 かの西遊記に、孫悟空がお釈迦の掌の上から逃げ出す場面があります。きんとん雲に乗って一気に掌から飛び出します。飛んで飛んで飛んだ先に大きな柱にぶつかって、これが天上の終着点と思い込み、落書きをして戻って来ると、お釈迦様は笑いながら孫悟空に指を見せます。その指には孫悟空が書いた落書きがありました。悟空の頭には「緊箍児」(きんこじ、または、金剛圏)という金色の鉢巻きのようなものが巻かれています。これは、悟空が悪いことをすると三蔵法師が「緊箍呪」を唱えて、輪が収縮し、頭を締めつけて懲らしめるのです。さすがの暴れん坊の悟空も、結局三蔵法師の掌の中で踊らされていたようです。これが現代における「究極の夫婦円満の秘訣」であると考えられます。と言うことは自分にも、目に見えない「緊箍児」が、どこかにはめられているのかも知れませんね(笑)。

 そんな私も、現役で絶好調の頃には「文句があるなら、表の表札を見て来い!」と、もちろん言ったことはありませんが、一回言ってやろうと思ったことがありました。しかし、すぐに「帰り着いて、もし表札が変わっていたらどうしよう」という、情けない不安に変わってしまいました。当時、良くない考えを起こしかけた時には、決まって女房の顔が浮かんできました。今思えば、あれは「緊箍児」の成せる技だったのかも知れませんね(笑)。ちなみに、三蔵法師とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のことだそうです。

 ところで先日、サラリーマン川柳が発表されました。その中で、とくに目に付いたのは

すぐキレる 女房見習え LED
家族割り あるのに 妻と会話なし
父に聞き その後 必ず母に聞く
領土権 我が家は みんな妻のもの

 う~む、これらは端的に世相を表しているとは言え、枚挙にいとまがありません。少なからず、意識的に集めた感は否めません。まぁ、いずれにしても、所詮我が家には縁のないことですので?取りあえずは、まぁいいか!ということにしておきましょうか。久野 勲
 平成25年 2月24日(日)「一徹者(いってつもん)」
 昨日は濱ちゃんと飲んで以来、10日ぶりに寒風をついて堺東まで出かけました。最近は行く回数が減っているので、すれ違いが多くて馴染みの顔ぶれと顔を合わすことが少なくなってなっています。たとえ会えなくても、彼らの最近の様子を聞くのもまた良いものです。昨日は、少々酩酊気味のフナエモンが顔を見せました。そして、ジュンちゃん母娘と会うのも久しぶりでした。彼女は、私の女房と同い年で、旦那さんが私と同い年です。ただ違うのは、去年その最愛の旦那さんをガンで亡くされていることです。何曲かデュエットなどしながら、夜はしんしんと更けて行きました。ちなみに、10日前は濱ちゃんからの報告によると、な、なんと!歌いも歌いまくったり、二人で46曲だったそうです。これは、おそらく「つつみ」の新記録ではないかと思います。ちなみに夕べは、5~6曲でしたが、これが私の普段のアベレージなのです。


 ところで今日は、べーやんが石津太神社役員親睦旅行なので、ウオーキングは中止でした。朝から「男の料理7」を編集していると、南の方から「ひねくれ者」というタイトルで一通のメールが飛び込んできました。

 
また、要らないこと書いてみます。普通の説、初めての説、どれも気になると本当かと考えたくなります、ひねくれ者ですね(特に動物に関してかな)、[私はと書かないとだめか]でも、これは好奇心の持ちすぎかな。奈良公園の芝刈りが要らないのは、鹿が刈ってくれてるから。ある草(イラクサ)の棘は他にある物より多い、これも鹿のため、と言われるのを確かめたいと思っています。他のことに、余り好かれてないセイタカアワダチソウは、どんな草にも負けないで繁茂するが、ススキには勝てない。いろいろ気になることがあります。(ひねくれ者ですね)で、入院するによい本が見つかりました。「わからない」から始まる。目次を見ると少しひねくれてるかなと思い、買った本が「気になる科学」です。ウシはどうして北を向くのか。Eメールと牛のゲップとCO2の地球温暖化な関係とは?等々です。入院中に少しは読めるかなと思います。要するに科学者も好奇心を持って(ひねくれ者ですね)いると、研究が進むと言うことですね。私もひねくれ者つまり、好奇心が旺盛なのかな。ひねくれた考えかな。永田新吾


 入院を前にした永田君からのメールでした。ちなみに、ひねくれ者とは「性質がねじけて素直でない者」という意味だそうです。この年代になると素直な者はいないでしょう。我々のように、それを自覚したり声高に言いふらしている内はともかく、自覚しなくなったら終わりでしょう。河島英五が「一徹者」で歌っていました。

一徹者でいい、そのままでいい
幸せなんて、心が決めるもの
呑んでも呑まれず、惚れても騒がず
激しい思いを、微笑みにできればいい
一徹者は直りゃしないねと
女房が言えば、お袋うなづく
生きているから、生きているから
ぬくもりが恋しい

 ところで、永田君は1週間ほどで退院されるそうです。一日も早く元気になって、また、元みさき公園・園長(現シニアアドバイザー・獣医師)ならではの面白い話や、珍しい話を聞かせてもらうのを楽しみにしています。どうぞお大事に!久野 勲

 平成25年 2月23日(土)「やがて歴史の闇の中へ」
 この富士山は、確かにどこかで見たことがある絵柄です。まじまじと見つめたことはありませんが、千円札の裏側に描かれている本栖湖から観た富士山です。ちなみに、単なる語呂合わせに過ぎませんが、今日は「富士山の日」ということなので、急きょネットで探して、あるサイトから拝借してきました。 



 ところで、今日も今日とて機嫌良くパソコンの前に座っていると、階下からインターフォンのブザーが鳴りました。電話なら「○○さんから、お電話ですよ」と言って切り替えてくれますが、今回はただブザーを鳴らすだけでした。何やら用事があるようです。階下に降りていくと、女房がネットで確定申告中でした。女房曰く。そのサイトに入ると「AdobeRrader9推奨」という画面が出たとのことでした。女房のパソコン「HITACHIーPriuz」を調べてみると「Ver7」でした。そこで「Ver9」をインストールしようとしましたが、何度やってもうまくいきません。それではと、WindowsUpdateを試みましたが、これもうまくいきません。あれっ何でやろう?

 不思議に思いながら、よくよく調べてみると「XP」ですが、すでにサポートが切れてしまっていたようです。ちなみに、新しいソフトやセキュリティソフトもインストール出来ません。マニュアルを見ると、2004年になっていました。もう9年も使っているようで、そろそろ暇を出さなければいけないようです。私としたことが、不覚にも「XP」でも古いバージョンからサポート停止になって行くとは知りませんでした。そこで、私が「7」と併用している「FujitsuーFMV」(XP)を調べてみると、まだサポートされていたので、急きょ女房仕様に変えて払い下げました(笑)。すでに「8」が出た今、慣れ親しんだ「WindowsXP」もまた時代の流れとは言え、古いものから順に歴史の闇の中に消えて行く運命のようです。万事、これが誰しも抗うことの出来ない「人の世の常」という仕組みなのでしょう。

 <追伸> お待たせ致しました、大好評の(多分)岡ちゃんシリーズ「男の料理・7」は、ただ今、鋭意編集中です。乞うご期待!
久野 勲
 平成25年 2月22日(金)「届いて欲しい、日米の遺品」
 管理人様へ
 私は、テキサス親父日本事務局の事務局長の○○と申します。実は、大東亜戦争へ出征されたと思われる、ある方のご家族(ご遺族)を探しております。現在アメリカ在住の大東亜戦争で日本軍と戦ったアメリカ人兵士のご遺族が、日の丸に書かれた寄せ書きを28年前に相続で手にされたのですが、その時点では、その「日の丸への寄せ書き」の意味がわからなかったのですが、最近、ある事をきっかけに意味を理解して、是非ご家族の元へお返ししたいとのお申し出がありました。その寄せ書きは「○○○○」様と仰る方へ宛てた物で、その寄せ書きの中にご親族か、ご兄弟ではないかと思われる方のお名前がありました。その方のお名前は「○○□○」様と仰る方です。あまり多くないと思われるお名前だったために、このお名前で検索しましたところ、御会のサイトへたどり着きました。もし、この○○□○様にご連絡がつくようでしたら、ご確認頂きたくお願いいたします。尚、同姓同名の全くの別人の可能性もあります。(ただ、その他の寄せ書きのお名前を検索しましたところ、大阪周辺である、南海電鉄に関係ある等の共通点がありました)誠に恐れ入りますが、もし、○○□○様とご連絡が獲れるようでしたら、当事務局へご連絡頂きたくお願い申し上げます。
テキサス親父日本事務局

 昨日、私がボランティアで管理しているサイト「雪陵会」の掲示板に、このような書き込みがありました。確かに○○□○さんという方は、お年は八〇半ばで雪陵会のサイトに掲載されています。卒業生名簿等で調べた結果、その方の5年前の住所が判明しました。電話案内で電話番号も分かりました。しかし、何度かかけてみましたが、お留守のようでした。雪陵会事務局として、メールの内容から、ほぼ尋ね人に間違いと判断しました。その上で、テキサス親父日本事務局の○○氏に、取り急ぎその旨をお伝えしました。

 偶然とは言え、つい先日「軍歌」に関して書いた矢先のことだったので、少なからず驚きました。一種の美談として素直に受け止めたいと思う気持ちと、戦争はまだ完全には終わっていないんだなぁと思わずそんな複雑な思いが交錯してしまいました。
久野 勲
 平成25年 2月21日(木)「デビュー間近!」
 平成25年度に営業運転開始を予定している阪堺線の低床式車両(愛称:堺トラム、カラーデザインを示す呼称:茶ちゃ)の報道機関向けの内覧会を開催しました。

      堺トラム(茶ちゃ)の特徴

 外観は、阪堺線の緑と千利休の「わび」をイメージした白茶をベースに、アクセントとしてシャンパンメタリックを配色し、車体前後部に「堺刃物」をイメージした黒のラインをレイアウトしています。また、3連節車両により走行性能等が向上するとともにブレーキ、モーター等の静音化により、乗り心地が向上しています。車内は、木材を随所に使うとともに、木目柄・和紙柄の化粧板、すだれカーテン、電球色ダウンライトを用い落ち着いた和のイメージを、また「堺更紗」をモチーフにしたシート柄で華やかさも演出しています。

 また、窓が大きいため、車内からの眺望が非常に優れていることや、車内の移動をしやすくするよう通路幅を最大限確保していることによって、車内の快適性が向上しています。さらに、車内に設置された液晶画面には運賃や次の停留場を表示するとともに、堺の観光映像を放送することで阪堺線を利用された方に堺の観光をPRする予定です。これまでの車両では停留場との段差が約40センチあったのに対して、堺トラムでは段差が約5センチと乗り降りする際の段差がなく、高齢の方や障害のある方、ベビーカーの方など、誰もが利用しやすい車両となっています。

           <営業運転開始までの予定>

 *2月下旬から6月
 浜寺駅前から我孫子道間の試験走行

 *7月、8月
 堺市公共交通活性化促進基金にご寄付いただいた方を招待した試乗会など

 *初秋 
 浜寺駅前から我孫子道間の営業運転(臨時)開始

 ※なお、大阪市内方面(天王寺駅前)へは、平成25年度内の営業運行開始を予定しています。同社では18年ぶりの新型車両で、平成26年度末までに、さらに2編成を導入する方針です。堺市の竹山修身市長は「路面電車は堺の文化。堺トラムは、堺らしさの象徴として活躍してほしい」と期待を語っています。
 平成25年 2月20日(水)「おくに、つながり」
 我々の年代になるとカラオケで軍歌を歌う人が多いようです。というか、我々の年代の人しか歌わないと言った方が良いようです。ここ数年は、ご一緒することがなくなりましたが「つつみ」を舞台にした「我ら熊さんチーム」で一時期共に活躍(笑)していた主要メンバーである、ゴローちゃんはよく軍歌を歌っていました。「加藤ハヤブサ戦闘機」「荒鷲の歌」「露営の歌」など、必ず歌っていました。軍歌は、兵隊さんのみならず一般国民の戦意高揚が目的なので、ほとんどが勇ましいテンポの曲でした。私も断り切れずに、たまに歌ったのが、軍歌には珍しいテンポのゆっくりした「♪ここはお国を何百里~離れて遠き満州の~」。で知られる「戦友」でした。この曲はカラオケでは3番までしかありませんが、原曲は14番までありました。

   9.思へば去年船出して、お国が見えずなった時
           玄界灘で手を握り、名を名乘つたが始めにて

  10.それより後は一本の、煙草も二人で分けてのみ
           着いた手紙も見せ合って、身の上話繰り返し

  11.肩を抱いては口癖に、どうせ命はないものよ
          死んだら骨を頼むぞと、言い交わしたる二人仲

  12.思いもよらず我一人、不思議に命永らえて
             赤い夕陽の満州に、友の塚穴掘ろうとは

  13.くま無く晴れた月今宵、心染み染み筆執って
             友の最期を細々と、親御へ送る此の手紙

  14.筆の運びは拙いが、行燈の陰で親たちの
          読まるる心思いやり、思わず落とすひとしずく

 ところで、上の絵は東京都渋谷区、日本画の専門美術館「山種美術館」所蔵の森田曠平作「出雲阿国」です。二曲一双の屏風で男装の阿国(右)と、一座4人(左)の舞姿が描かれています。阿国の服装は有職故実の確かな知識に基づいているので、江戸のはじめごろ一世を風靡した出雲阿国の「かぶき踊り」はこの絵のようなものだったのだろうと想像されます。そして、あるサイトには次のような感想が述べられています。「金地に映える濃い紫の袖なし胴服とその下の豪奢な衣装に釘付けになる。とにかく尋常でない異様な格好をするのが「かぶき者」の心意気だから、男装した阿国は思いっきりファッショナブルにきめている。首から下げてるロザリオは信仰とは関係なく、かぶき者が身につける定番のアクセサリー。帯にはひょうたんや南蛮人蒔絵が施された印籠をさげる。「さあ、阿国さんやりましょうか」と一座の者が紅白の蛭巻の大小(刀)を渡せば、かぶき踊りがはじまる。じっとみていると、1603年の頃にタイムスリップし、阿国一座が踊りを披露している北野天満宮境内に駆けつけたくなった」。

 1607(慶長12)年の2月20日、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露しました日で「歌舞伎の日」に制定されているそうです。これを4年さかのぼる1603(慶長8)年、京都四条河原で出雲の阿国が歌舞伎踊りを始めたのが歌舞伎の発祥とされています。四条河原では、それ以後女歌舞伎が評判となったそうです。久野 勲

 平成25年 2月19日(火)「親分は・・・!」
 もう14年も前に亡くなりましたが、同級生にその筋に身を置いていた人がいました。同窓会は時々出席していましたが、自身のことはあまり語らなかったので、どのような生活をしていたのか知りませんでした。当時、私が編集・発行していた同窓会新聞「かいらんばん」を読んでくれていたということで、彼の奥さんが電話で訃報を伝えてくれました。病気だったとのことでしたが、その世界をよく知るというある同級生は「殺されたんと違うか」と言っていました。真偽のほどは分かりませんが、そんな世界なんかなぁと思いました。そんな彼は以前、車の中に日本刀を隠し持っていて、銃刀法違反で捕まったことがあったそうです。彼は言いませんでしたが、ある同級生は「出入りがあって、行けば命のヤリトリになるからワザと警察に捕まるようにしたんと違うか」と言っていました。

 ところで、私が現役の頃、よく研修会とか研究会に参加する機会がありました。そんな中で、突っ張り少年たちの更正に携わっているという牧師さんの講演会に2度ほど参加したことがありました。その牧師さんというのは、当時「親分はイエス様」という映画もあったそうですが、そのメンバーの刺青牧師・金沢泰裕牧師(写真前列右)でした。18才から10年間、義理と人情の世界に身を置いてきた、といえば聞こえが良いかも知れませんが、早い話が、酒・女・喧嘩・博打・覚醒剤・等々、ありとあらゆる悪の道に明け暮れてきて、今は立派に更正している。そんな人物の話に興味があったわけです。一度目は奈良での宿泊研修会でした。なかなか話が面白く、いろいろ参考になりました。講演会が終わって大広間での食事の時も、気さくに話を聞かせてくれました。それでも物足りず、就寝前にも少人数で飲んでいる部屋にも来てくれて、酒を酌み交わしながら夜が更けるのも忘れて話を聞かせてもらいました。私はクリスチャンではありませんが、その魅力ある人柄には胸を打たれるものがありました。

 振り返れば、あれからすでに何十年経ったでしょうか。今では、もうすっかり忘れてしまっていました。といろが、昨日ネット界を彷徨っているうちに、たまたまですが懐かしい金沢牧師の映像に遭遇しました。当時を思い出しながら、思わず見入ってしまいました。久野 勲
 平成25年 2月18日(月)「盛年よ夢を語ろう」
 夕べ遅く、友人に紹介された暗闇から女性がバァ~と出てくるという、バー風の店へ行ってみました。ママはどこかで見たことある人でした。よく見ると鬼奴とかいうお笑い芸人さんでした。カウンター席に座って飾り棚を見上げると、1種類の缶ビールばかりが所狭しと並べられていました。ちょっとユニークなお店のようでした。店に入ると、ママが勝手にビールを飲んだり、歌ったり、カウンターの電話が鳴って受話器を取ったママがいきなり怒鳴り出したりしていました。私がカウンター席に座ると、おもむろにママから「あなたの夢を聞かせて下さい」といわれ躊躇しました。グズグズしていると語るまで、ママは缶ビールをいくつも飲み干しながら待っていました。仕方なく何かを語ろうとしますが、初めての店なのでなかなかうまく語れません。その内にママは飲み疲れたのか居眠りを始めてしまいました。ひょっとして、暗闇から恐いお兄さんが出てくる暴力バーかもしれません。君子危うきに近寄らず!結局、ママが居眠りしているうちに一杯も飲むことなく、逃げるようにして逃げ帰ってきました(笑)。いえっ、これは決して夢物語ではありません。かといって、現実の物語でもありません。ただ言えることは現実には存在しない「バーチャルの世界」だったことだけは確かなようです。
 その、お酒が飲めないという友人が紹介してくれた、お代のいらなかったバー風のお店はここです。たしか、スナック「夢狩人」という看板が出ていました。表示された画面左側の「夢を語る」からお入り下さい。ご用とお急ぎでない方は、ぜひ一度お立ち寄りしてみてはいかがでしょうか。もちろん、飲めない人も歌えない人も。飲める人は、パソコンの前で自腹で一杯やりながら、チャットで大いに夢を語って下さい。ただし、30文字以内です。バーチャルの世界で、あなたの夢が叶えられるかも知れません。久野 勲
 平成25年 2月17日(日)「土佐のハチキンさん」
 今日、Webニュースで「小5男児2人を逮捕、同級生女児殺害計画」という見出しが目にとまりました。驚いて詳しく見てみると、それはアメリカでの事件でしたので、取りあえずホッとしました。記事によると「米西部ワシントン州コルビルの小学校で、クラスメートの女子児童を殺害するため拳銃とナイフを持って登校した11歳と10歳の5年の男子児童2人が、殺人未遂などの容疑で逮捕されました。銃犯罪の多い米国でも、ここまで低年齢の児童による事件は珍しく、地域社会に衝撃を与えているようです。裁判所で近く、2人の責任能力を調べる審理が開かれます。事件があったのは、今月の7日です。2人は女子児童が「生意気だ」などと考え、男子児童の1人が女子児童をナイフで殺し、もう1人はほかの児童らが邪魔しないよう拳銃で脅す計画だったそうです。登校するスクールバスの中で、男子児童の1人がナイフを持っているのに気付いた別の児童が学校関係者に話し、計画が発覚しました。拳銃は、10歳の男子児童の兄が祖父の家から無断で持ち出して自宅に隠し持っていたものを、こっそり持ち出したものです」。とにかく、未然に防げて良かったです。銃による凶悪犯罪の絶え間のないアメリカでは、これを機になお一層銃規制の議論が高まることでしょう。

 ところで、小学5年生と言えば、我々の頃は女子は強かったですね。まさに同級生ながら姉のような存在でした。さすがの、いわゆる悪さ坊主たちも頭が上がりませんでした。それが今もなお続いています。同窓会の時など、定職に就かず義理と人情の世界に身を置いている同級生をつかまえて「あんた、まだそんなことをしてるんか。ええ加減にしとかなあかんで!」と叱りつけます。しかられた方は、へ・へ・へ・とごまかし笑いをしながら頭をかいています。私は彼女たちのことを、畏敬の念を込めて「石津のハチキンさん」と呼んでいます。

 ちなみに、泣く子もだまる『ハチキン』という土佐弁はどこからきちゅうか?今までいろんなことが言われてきました。諸説ある中で、最も説得力を持つ説は「キ○タマを八個持つほど、強くてたくましい」という説だそうです。すなわち、これは男性の4人分に相当するほどの女性という意味だそうです。高知県人の中でも「そりゃそうじゃ」と納得するような説です。それほど土佐のハチキンはすごいそうです。その代表的なのは、龍馬の乙女姉さんだと言われています。これに関しては。以前「雑文帳」に書いています。
久野 勲
 平成25年 2月16日(土)「賑やかなる天体」
 ロシア・ウラル地方チェリャビンスク州上空で15日、落下・爆発した隕石(いんせき)について、ロシア科学アカデミーは重量10トン前後で、非常に硬い物質でできていたとの見方を明らかにしたと、タス通信が伝えています。アカデミーによると、今回と同じような規模の隕石は年に数回の割合で宇宙空間から落下しているが、通常は高度30~50キロの上空で燃え尽きているそうです。今回比較的低高度まで落下したのは、鉄のような硬い物質でできていたためとみられるといいます。写真は、ロシアのチェリャビンスク州で隕石の落下地点とされる、凍ったチェバルクリ湖の湖面にできた穴で直径は約6mだそうです。NASAの発表では、大気圏突入前は、直径12m、重さは7000t(その後、直径17メートル、重さは1万トンだったと数字を上方修正)もあったそうです。今回多数の負傷者が出ているようですが、落下地点が湖ということで、不幸中の幸いだったようです。それにしても、なぜ事前に察知して有効な対策がとれなかったのでしょうか?不思議な気がします。隕石の速度が秒速30Kmだったそうで、速すぎて発見できなかったんでしょうか?それとも、これまでのように大気圏突入時にすべて燃え尽きると、その程度を安易に予測する、つまり「高を括って」いたんでしょうか。

 なお、かねてから予測されていた小惑星(直径45メートル、重さ推定13万トン、秒速8Km)地球最接近に関しては、未明に無事通過したそうです。米航空宇宙局(NASA)は15日、直径約45メートルの小惑星「2012DA14」が日本時間の16日午前4時25分ごろ、地球に最接近し、インドネシアの約2万8000キロ上空を通過したと発表しました。NASAによれば、この小惑星と、ロシアに落下した隕石は、軌道が異なるため完全に無関係だということです。小惑星は静止衛星がある高度約3万5800キロより低い位置を通り、各地で観察されたそうです。快晴に恵まれた山梨県富士河口湖町では、気温が氷点下5度と冷え込む中、午前5時前から、西の空の獅子座付近を通過する小惑星の姿を、望遠レンズ越しに確認できたそうです。

 ちなみに今日、大の天体ファンである岡井君から、今朝方2時頃に次のようなメールが届いています。「こんばんわ、今日は疲れて宵寝して(良くないですが)今めをさましブログ拝見記載しています。裏口から静かに抜け出し、夜空を眺めてきました。先日は雨でしたが西の方から雲が切れてきました。もう一度5時ごろに観察してみたいですね。ここまでくると、少しばかり異常かな?変人会の入会資格ありますね。神戸特派員」。そして、その後「早朝4時ごろ起きて夜空を見上げました。心配していた雲もなく星空です。惑星の通過としても方向もわからず、しばらく眺めていましたが凄い寒さでギブアップです。昨日の隕石の映像で、また熱が出てきました。睡眠時間2時間です。ま~いっか!」。



 ところで、次は上がる話です。私の友人で、珍しく膀胱が上がってくる病気だったそうです。病院でも初めての例らしく、泌尿器科の先生5人が珍しがっていたそうです。多分、学会で症例報告しているでしょうとのことでした。そんなわけで、いろんな検査で苦しんだそうです。そして、調べてみると阪大では数例あったそうです。友人は、これも「膀胱も筆の誤り」でしょうか、などと笑っていました。しかし、本人はいいでしょうが、周りは病気の話では笑えませんね。しかし、私も人のことは言えません。私自身、入院中は病院食になじめず、また寝床が変わって寝付かれにくかったりして一日も早くわが家に戻りたいと思っていました。それを、友人との話の中で「胃ガン退院してきました」などと言って、一人で笑ったことがありました。これは、いわゆるブラックユーモアーなるものでしょうか。久野 勲


 平成25年 2月15日(金)「へんじん、つながり」

        玄からの思い出しです。方角、四季、の色です。

        北 玄(黒)玄武  玄冬  玄人(クロウト)

        西 白   白虎  白秋

        南 赤   朱雀  朱夏

        東 青   青龍  青春  青二才

        だったと思います。永田新吾



 世の中には、一風変わった神社(変神)や、おかしな(の)神社がたくさん存在するようです。例えば、東京都杉並区高円寺の氷川神社に祀られている日本で唯一の「気象神社」は、陸軍気象部にあったお天気の神様だそうです。お社の前には「てるてる坊主」がお賽銭の見張り(笑)をしているそうです。また、奈良県は大和郡山市!田舎の田園風景の中に飛行機のプロペラが奉納されている「飛行神社」といって航空機の安全を祈願する神社だそうです。このプロペラは、旧陸軍中島飛行機九一戦闘機のプロペラだそうです。はたまた、
大阪の繁華街、いわゆるミナミにその神社「難波八阪神社」があります。ここは、獅子舞台という大きな獅子の頭の形をした舞台があることで有名です。高さ12m、幅7m、奥行き7mという巨大獅子頭。昭和49年7月本殿落成と共に完成されました。夏祭りや神事の際には、奉納舞などが行われています。学業向上、就職、入試あるいは、 会社発展を祈願するために、全国各地からのご参拝が絶えないそうです。このように日本各地には枚挙にいとまがないくらい、変神がたくさんあるそうです。

 ところで、毎月15日は「お菓子の日」だそうです。特にバレンタインデーの次の日である2月15日は、一番重要視されています。お菓子の日は、全国菓子工業組合連合会が1981(昭和56)年に制定しました。お菓子の神様を祀った例大祭が15日に行われていた故事にちなんでいるそうです。お菓子の神社としては、和歌山県下津町・橘本神社と、兵庫県豊岡市・中嶋神社が有名だそうです。前者は、御祭神の田道間守命は第11代・垂仁天皇のご命令で不老長寿の霊菓(現在のみかんの原種であるタチバナ)常世国(今の中国)から初めて日本に持ち帰ったと古事記・日本書紀に記されています。(西暦71年)その橘が最初に植えられたのが、橘本神社近くの「六本樹の丘」です。その後、持帰った橘(タチバナ)は改良に改良を加えられ、現在のミカンになりました。昔は現在のように、おいしいお菓子がなかったので、橘の実(ミカンの実)を加工してお菓子として食していたというところから、当神社は、お菓子の神様ともいわれています。また後者は、菓子の神様である田道間守(たじまもり)を祀る神社で、毎年4月になると菓子祭が行われて、全国の菓子業者が集まるそうです。

 ちなみに、田道間守命(たじまもりのみこと)は、第11代・垂仁天皇の御代、神社鎮座地の附近に居所を定め農蚕の業を奨励し民生の安定につとめられたそうです。『日本書紀』によると、垂仁天皇の御代に、天皇の命を受けて海を越え神仙秘境である「常世の国」(中国)に渡って、菓子の最上品たる橘を、遙遠の地より持ち帰ったとされる田道間守命を菓子の祖神「菓祖神」として崇敬するに至ったそうです。そう言えば、石津太神社の先代宮司さんは「たじま」さんでしたが・・・。久野 勲
 平成25年 2月14日(木)「初冬から玄冬」
 昨日の濱野君考案の横文字を「Yahoo」で。翻訳してみましたが、うまく訳してくれませんでした。結局、どういう名称なのか?改めて確かめてみる必要がありそうです(笑)。


 おはようございます。朝一番に決まったか拝見しましたが、予想通りまだでした。お酒が入ると物事決まったためしがない、過去経験しています(笑)。玄?再調査しました。添付します。関連した名前でもいいかも。玄を談じ理を折らく(ひらく)。神戸特派員

 玄冬「げんとう・けんとう」とも。五行説で黒色を冬に配することから 冬。五行説とは、中国古来の世界観。木・火・土・金・水の5つの要素によって自然現象・社会現象を解釈する説。五行相勝【相剋】は火・水・土・木・金・の順に、後者が前者に打ち勝つことから環境するとして、戦国時代の鄒衍(すうえん)などが説いた。五行相生(そうしょう)は、木・火・土・金・水・の順に前者が後者を生み出すことで循環するとし、前漢のなどが説いた。

       厳冬 寒さの厳しい冬。―の候、類語では、   

       凍て空(いてぞら)   寒季・寒期(かんき)
       寒檠 (かんけい)   寒天   (かんてん)
         寒灯 (かんとう)   極寒   (ごっかん)
       寒寒 (さむざむ)   寒空   (さむぞら)
       三冬 (さんとう)   初冬   (しょとう)
       冬季 (とうき)    冬期   (とうき)
       冬月 (とうげつ)   冬天   (とうてん)
       初霜月(はつしもつき) 初冬   (はっふゆ)
       避寒 (ひかん)    冬    (ふゆ)
       冬場 (ふゆば)    真冬   (まふゆ)
       孟冬 (もうとう)

   玄の事調査。

  黒い色、黒

  天。「黄に満ち―に満てり/三教指帰」

  老荘思想の根本概念。万物の根源としての道。

  奥深くて微妙な事。深遠な道理。「―を談じ理を折らく(ひらく)/太平記1」

  陰暦9月の異名。

  「多く名に<玄>のつくことからという」

 遊里で、医者の事。また多くの僧は、遊里へ行くときに、医者の姿をしていたことから、僧の事を玄様。「浅草あたりの―いろ里に浮かれ行きけるに/浮世草子・新吉原常々草」。以上特派員しらべ。

          

初 冬

♪・・・痛み知らずに生きてゆける
甘い夢だけ見ていちゃ駄目さ

もうお前の季節は
はじめての冬だから
もう一人で旅立つ
心の準備を

  河島英五は「初冬」という曲の中で、このように歌っています。我が子を思う父親の気持ちが、分かるような気がします。思えば我々も、好き好んで初めから真っ黒(笑)だったわけではありません。私も初冬を迎えた頃は、多分バラ色の人生が拓けていたことでしょう。それが今や、玄冬という名の最後の冬を迎えるに至りました。もう春は来ません。万感胸に迫るものがありますが、よくぞ古希まで来たもんだ!しみじみ、そんな思いをかみしめています。もう一人で旅立つ心の準備を。


 昨日は「つつみ」で190分、46曲お世話になりました。ところで、英語をチェックするのにYahooとは!やはり、辞書でしょ!和英辞典で「変な」は、strange、queer、odd、このうち、queer=「変な・妙な・おかしな」がぴったり。KとQとの語感もいい。AQB75=Assembly Queer Black SeventiesーFive.が、Blackは「黒人」の意味もあるんだがねェ~。お元気で。濱野


 「AQB75」どうやら、これで決まりのようですね。正式には、次回集まった時に決定の運びになるでしょう。まぁ、早い話が「70代5人の変人会」(笑)ということですね。誰ですか!「永久Bクラス」などと訳しているのは。久野 勲



 平成25年 2月13日(水)「マイナーが適正」
 私が最初にワープロソフト「一太郎」(ジャストシステム)を使い始めたのは、まだExcelやWordが出はじめていない頃でした。確かVer5か6で、変換辞書(文字入力を補助するソフトウェア)は「ATOK」でした。Windowsに搭載されているのは「IME」ですが、わざわざ「一太郎」に搭載されている「ATOK」をインストールして、今も使い続けています。「IME」は世界的に使われている、いわばメジャーです。「一太郎」は日本だけのマイナー(小さいこと。少ないこと。あまり重要でないこと)な存在です。私は、ExceやWordをはじめ、すべてに「ATOK」を使っています。やはり、日本人は「一太郎や!」と声高に叫んでいた頃がありました。それが講じて、今や私の弱点にもなっています。官公庁・企業・学校などでは、もちろん「IME」が使われています。「ATOK」とは、順調に打ち込んでいる時は同じですが、打ち間違った時などの変換方法がかなり違うので戸惑ってしまいます。ということで、幸か不幸か(笑)私の息のかかったパソコンの所有者はすべて年配者です。だから、すべて「ATOK」に切り替えられています。まかり間違っても、これは若い人には勧められません。我々仲間内でも、とくに同窓生の永田君は毎年欠かさず更新しているという、年期の入った一方ならぬ「一太郎ユーザー」です。

 ところで、今日は「苗字制定記念日」だそうです。1875(明治8)年、明治政府が「平民苗字必称義務令」という太政官布告を出し、すべての国民に姓を名乗ることを義務づけました。江戸時代、苗字を使っていたのは貴族と武士だけでしたが、1870(明治3)年9月19日に出された「平民苗字許可令」により、平民も苗字を持つことが許されました。しかし、当時国民は明治新政府を信用しておらず、苗字を附けたらそれだけ税金を課せられるのではないかと警戒し、なかなか苗字を名乗ろうとしませんでした。そこで明治政府は、1974(明治7)年の佐賀の乱を力で鎮圧するなど強権政府であることを誇示した上で、この年苗字の義務化を断行しました。

 当時は、急に苗字をつけよと言われて、さぞかし困った困ったこまどり姉妹状態だったと想像されます。ちなみに「久野姓」は全国に約3万3千人いて、662位だそうです。ある説によれば、野と呼ばれる地形は、比較的平らな場所だが水がかりが悪く、特に水田にすることが困難で、雑木林や竹林になっていた所が多いそうです。察するに、久野の祖先は苗字をつけた頃はそのような場所に住んでいたのかも知れません。ちなみに、つい先日の「節分祭」の時に同窓生の中尾君に「昔、石津太神社の真ん前のここに、同級生の神前さんが住んでいたんや」と、その場所を指さしながら話をしました。中尾君も「ほぉ、神前さんはそのまんまやなぁ」と感心していました。このように、分かりやすい一目瞭然の姓も少なくないようです。

 <追伸> 濱野御大と5時に難波で待ち合わせて、飲み歩きました。まず、松竹座裏のお好み焼きの、かつて藤山寛美が通っていたという店に行きました。そこで腹ごしらえをしながら、会の名前を考えました。濱ちゃんは、いろいろ考えてくれていたようです。前提として5人(岡井・中尾・永田・久野・濱野)を念頭に置いていたようです。岡井君の「AKJ70」を土台に、向こう10年間通用するという「AQB-75」(assembly queev boys seventies five=変な少年たちの集まり、70歳代5人)ではどうかとの提案がありました。私は、B(Boys)に抵抗があったので「Black(玄)」ではどうかと提案しました。すると、濱ちゃんは「それで行こう!」とのことでした。我々の年代は「玄冬」、つまり「黒い冬の時代」から来ています。そして、7時には堺東の「つつみ」へ入りました。ここで最後までと思っていましたが、たまたま招かれざるKYの客が入ってきました。それを機会に「つつみ」を出て、石津の「仁」に寄りましたが、生憎閉まっていたので、そのまま帰りました。結局、会の名前は?
久野 勲
 平成25年 2月12日(火)「ストップ、ザ暴走半島」

 昨晩、冷蔵庫の中の整理のため古くなりかけている野菜類や肉の冷凍を処理するための料理を試みました。意外と、美味しくばあちゃんも完食してくれました。美味しかつたので記載しました。結構味付けに便利なものが沢山あり購入を楽しんでいます。完全に久野さんに言われた主夫ですね(笑)。だけど毎日の献立ってたいへんですね主婦の大変さが分かりました。おかい


 今朝、浜寺公園で向かい側を歩いている人が、すれ違いざまにこちらの方に笑顔で手を振ったように感じました。しばらくしてべーやんに、さっきの人知り合いの人か?と尋ねたところ「知らない人でした」とのことでした。要するに向こうが誰かと間違うたんやろう、と言うことにしました。そして、いつもの帰路を歩いていましたが、電柱の上で電気工事している現場にさしかかりました。すると突然「あ、センセや」と声をかけられました。誰かな?と思って声のした方を見ると警備員さんでした。その人は、よく見ると「つつみ」でよく会う常連の○○さんでした。警備員さんだとは聞いていましたが、まさかこんな所で会うとはビックリしました。寒い中で頑張っていました。そう言えば明日は御大の濱野君と「つつみ」には、多分二次会で立ち寄ることになるでしょう。

 ところで今日、北朝鮮が多くの国々が反対する中、三度目の核実験を強行したようです。少し前クリントン国務長官が「北朝鮮が若い指導者のもとで変わると期待したことを後悔している」と述べています。私も含め世界の多くの人たちが、希望的観測をもって、少しでも変わってくれれば「取り付く島」も見い出せるのではないか、そんな淡い希望を持ったと思います。しかし、結果は絶望的な後悔だけが残りました。声高に世界の警察を自負するアメリカを中心として、これを機に何とかしなくては、後世に「取り返しのつかない重大な禍根」を残すことになる、そんな危惧を強く覚えます。
久野 勲

 平成25年 2月11日(月)「建国記念の日」
 もともとは1872年(明治5)に、紀元節という名前ではじまった記念日で「古事記」「日本書紀」の記述にもとづき、初代天皇とされる神武天皇が即位した日といわれています。当初は1月29日が祝日に定められていましたが、翌1873年に、太陽暦の採用にともなう措置として、期日を2月11日に変更されました。

 その後、第二次大戦後に廃止されましたが、1966年(昭和41)に「建国記念の日」という名で復活し、翌年より実施されています。制定当初は、まだ成立したばかりの明治政府首脳が、天皇を中心とした国家支配体制の正当性を内外にしめす必要から制定されたと考えられていますが、現在の建国記念の日は「建国をしのび、国を愛する心を養う日」とされています。久野 勲



 つれずれ草(兼好法師)に興味があり最近検索して楽しんでいます。中学生のころならいましたね、結構おもしろいことが描かれていますが、自分に関係している言葉など抜粋して書き留めています

<157段に出ていました>

 筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。(筆をもてば何か書きたいと思い、楽器を手に取れば音を出したいと思う。盃を持てば酒のことを思い、サイコロを手にすれば博打をしたいと思う。心は必ず、外部の物事に触れて動くものだ。仮であっても、不善を為すことにつながる戯れをしてはいけない)。

私の心境を書き換えると。

 パソコンに向かえば何か書きたい、マイクを持てば一曲歌いたいと思い、盃を持てば飲めないのに、はしご酒が出来るだけしてみたい、お金があれば、パチンコ、マ-ジャン、競馬、心は必ず、外部の物事に触れて動くものだ。仮であっても、不善を為すことにつながる戯れをしてはいけないというわけですよね

<155段 生命について>

 春が終わって夏になり、夏が終わって秋が来るというのではない。春は既に夏の気配を感じさせ、夏は既に秋へと通じており、秋はすぐに寒くなって、十月はの小春日和の肌寒い天気となり、すぐに草は青くなって、梅の蕾も出来てくるのである。枯れ葉が落ちるというのも、葉が落ちてから芽をつけるのではなく、木々で兆している新芽に堪えきれずに葉が落ちるのだ。初春を迎える新芽の気を、内部に蓄えているが故に、枯れ葉はあっという間に落ちてしまう。

 『生・老・病・死』が移り変わることも、この自然の推移と似ている。四季にはそれでも、定まった順序がある。だが、死期は順序を待つということもない。死は、必ずしも前より来るのではなくて、いつも背後に迫っているのだ。人は皆、死ぬ事を知ってはいるが、死は急には来ないものと思い込んでいるものの、死はいつの間にか予期していない時に後ろから迫る。沖の干潟は遥か彼方にあるけれど、潮は磯のほうから満ちてくるのである。

 運命にはさからわず、今日を無駄にしない楽しい生き方をしたいものです。健康で奉仕活動に励みましょう。健康奉仕。岡井宏之


 私の父親は、私が小学校に入学してすぐの5月に他界しました。享年47才で、死因は脳溢血でした。その前夜、私は当時2才だった弟を布団の上で高い高いなどして、あやしている父親の姿を見ながら寝ました。そして、朝になっても父親は起きてきませんでした。時の流れは残酷なもので、今では父親の顔がますますぼやけてきてしまいました。私より先に逝った弟は、まったく父親の顔を知らずに旅立っていきました。父親の死に様は、本人にとっては理想的だったのかも知れません。しかし、遺された者にとっては、この上なく辛く耐えがたいことなのです。

 死を具体的に考える歳になって、私はいつも思っています。何から何まで女房任せなので、絶対に女房に先に逝かれてはやっていけないと。幸い、平均寿命は女性の方が10才ほど長いようです。私が思う私の理想とする死に様は、適度に認知症を患い家族に迷惑をかけ、ある程度疎まれながら旅立つことです。死の直前まで意識がハッキリしていることほど、残酷な別れ方はないと思っています。しかし、そう思うように行かないかも知れませんが、そうありたいと願っています。つい先日、ある友人の文章を読ませてもらう機会がありました。その最後に「脳からの伝達は、老化していく頭と体に均等に同時伝達されていくことを望みたいものである」と結ばれていましたが、私の考えていることは、こう言うことなんだと思いました。これはいかん、加齢とともにかなり涙腺が緩くなってきているようです。
久野 勲

 平成25年 2月10日(日)「カッコいい爺さんたち?」

 こんにちわ、お墓詣りご苦労様でした。一心寺て、私の従兄弟で現在アメリカにいるのですが、ご両親の供養をお願いしているお寺です、私も2度ほど行きました。遺骨でこしらえた仏様がありましたね。弟さんも喜んでられるでしょうね。

 ところで、いよいよ御大濱野さんとのご登場ですか、対決結果楽しみにしています。今日は本当に冷え込みが厳しいでした、野菜の買い出しに電動自転車で3キロ先の農場公園まで野菜の買い出しに行き、手袋をしていましたが感覚がなくなるぐらいの感じで久しぶりに厳しい寒さを感じています。現場で焼き芋を購入これで暖を取っていました。帰りに病院により帰ってきました。いまから聖護院かぶらをスライスして漬けます。2~3日で食べられますよ。料理 あたらしい味見つけました。トキワの酢べんりとミッカン酢を3対1でブレンド、鷹の爪、昆布をはさみ漬け込むだけです。美味しいですよ。赤カブも欲しかつたがあまりいいのがなく残念です。近ければ届けるのですが・・・近所の奥様方にお配りして、点数を稼いでいます(笑)。

 つい料理の話になりましたが、昨日加藤さんより携帯にパステル画送られてきました。そのまま久野さんに転送しましたが、届きましたでしょうか。新しい画伯がおられましたよ。それから変子?のネ-ミングは「メル友会ですか??」濱野さんと今度きめてください。「AKJ-70」(アラかっこいいじいさん70歳)なんていかがでしょう。妻が退院しましたら、お知らせいたします。九度山行き楽しみにしています。どうぞ風邪にお気をつけ下さい。おかい



 パソコンは、あれ以来非常に調子よく動いてくれています。何時ばてるかちょっと心配しながらですが。一太郎も毎年バージョンアップで、そのたび購入して何を使いこなせてるかは非常に疑問です。ところで、濱野君との打ち合わせの件よろしく。

 今、交友録読みました。何でメールするかって?一生かかって飲む酒量が決まってるで、思い出しました。全く分野が違うかな、哺乳類ではどの動物でも、心臓は20億回打つらしいです。心拍のゆっくりのゾウは100年位、早いネズミは数年の寿命と言うことです。びっくりしたり、大慌てで動き回ったりしたら、寿命が短くなる?これは私のひねくれ解釈ですが。そんな話が、本川達雄著「ゾウの時間ネズミの時間」と言う本にあります。要らない話ですが、酒量も飲み方(楽しいか、悔しいか等々)で変わってくるかな、楽しく飲んでたら、増えるかな。お邪魔しました。永田新吾



 今日は取りあえず、メル友ご両名のおかげで久方ぶりに「筆休め」をさせていただきます。久野 勲
 平成25年 2月 9日(土)「画伯つながり?」
 岡井特派員(笑)によると、また一人わが浜中九期生に画伯が発見されました。表谷美亜子(1組)・濱野清士(3組)・中尾良生(9組)の3画伯に次いで、加藤富恵画伯(3組)の登場です(順不同・敬称略)。これで4人になりました。このワンちゃんは、加藤富恵画伯のパステル画です。そう言えば、加藤さんの自画像もありましたね。ちなみに、パステルとは顔料と溶剤を混ぜて「ペースト(半個体)」状にして成型し、水分を蒸発させて造ることから「ペースト」が語源となって『パステル』の名が生れたそうです。まだまだ知られざる、九期生仲間の優れた才能の持ち主が存在されると思います。同窓生として、頼もしい限りです。さらに意気に感じるのは、それぞれ自選ではなく他選なのです。皆さん揃いもそろって謙虚すぎると思います。そこがまた、何とも言えず良いところなんですね。

 ところで先日、当「ブログもどき」を振り返って「01」(平成14年)からランダム(無作為)に見ていましたが、改行がうまくいっていない部分の多いのに気がつきました。その多くは句読点とか「 」( )などが原因のようです。中でも何気なく使っている・・・が、よく悪さをしているようです。それを極力「、」「。」に変えました。さらに気の付いた変換ミスなども直しました。ということは、速読のような格好で目を通しました。そこで以前、いわゆる午前様をしていた時の話が多いのに、恥ずかしながら改めて気がつきました。今思えば、当時飲み過ぎた時など「朝起きて、昨夜の後半部分を覚えていない」とか、絵を描くのは苦手ですが「久野が吐く(笑)」状態になったことがありました。結局、この見直し作業が原因で正しく表示されないページが出たのかも知れませんね?

 ちなみに、ある同窓生は、若い頃は浴びるほど酒を飲んでいたそうです。ところがある日、急に酒がいらなくなって、以来一滴も飲んでいないそうです。きっと「一生かかって飲む量を、早々と飲み干してしまったようだ」と、しみじみ九度山で述懐していました。あれっ、誰のことだかバレタかな?(笑)。意味はよく分かりませんが?終了を告げる時に「白い煙が出る」とか「赤い玉が出る」と言うような話を聞いたことがありますが。もちろん「一生かかって飲む量」には個人差があるんでしょうが、私にはもう少し残されているようです(笑)。まぁそれを大切に、少しずつ楽しみながら味わっていきたいものです。
久野 勲
 平成25年 2月 8日(金)「まさに早春賦」
 先日立春の日、九州南部と奄美で「春一番」が吹いたそうです。これは、ここ30年余りで最も早い記録だそうです。ちなみに、春一番とは立春から春分にかけて吹く南よりの暖かく強い風のことです。今年は東日本を中心に広い地域で昨年の2~3倍の花粉の飛散量が予想されているようです。さらに、中国からの大気汚染もあり、風邪予防や花粉対策等々も相まってマスクが手放せない時期がしばらく続きそうですね。なお、近畿地方で最も早かった春一番は 1993年(平成5年)『2月7日』で、最も遅かった春一番は 1969年(昭和44年)『3月21日』だそうです。逆に春一番が吹かなかったのは

平成 4年(1992年)
平成 6年(1994年)
平成11年(1999年)
平成12年(2000年)
平成14年(2002年)
平成15年(2003年)
平成18年(2006年)
平成20年(2008年)
平成23年(2011年)
平成24年(2012年)
             
 だそうで、意外に多いんですね。果たして今年はどうなんでしょうか?

 「♪春は名のみの風の寒さや~」。春一番どころか、今日はこの冬一番の寒さだったようです。ウオーキングをお休みして、先に逝ってしまった弟の法要で朝から粉雪舞い散る中、天王寺の一心寺へ行ってきました。未だかつて入ってみたことはありませんが、まるで冷蔵庫の中に居るような寒さでした。頬に寒風が突き刺さるようで痛く感じました。

 ところで「ほぼ全快おめでとうございました。この日を待っておりまして、例えば・・・」。何かと忙しい濱野君から、うれしいメールでの果たし状(笑)が届きました。濱ちゃんとは、メールでのヤリトリこそ続いていますが、昨年末に見舞いに来てもらって以来、まだ一度も顔を合わせる機会がありませんでした。そんな中で急転直下、ここに来てやっと来週あたりには久しぶりに会って、今年初めてとなる「つつみの決闘」、つまり代理戦争とでも言うんでしょうか(笑)。そんな楽しい闘いが、堺東で繰り広げられることになる可能性が出てきました。その結果や如何に!
久野 勲


 平成25年 2月 7日(木)「おかげさまで」
 今日は午後から、通い慣れた堺市立病院へ行ってきました。術後1年の検診結果の報告を受けるためです。これは一つの大きな区切りになるので、女房同伴で出かけました。どんな結果が出るんだろう。たとえ良くない結果であっても、素直に受け止めて治療に専念するしかありません。そんなことを考えながら、待合室ではいつになく心臓がドキドキするほど緊張しました。その結果は、おかげさまですべて異常なしでした。女房と共にホット胸をなぜ下ろしました。これで、毎月だった検診が6ヶ月毎になり、抗ガン治療が取りやめになります。

 しかし、決してこれで無罪放免になったわけではありません。ただ、一つ目の大きなハードルを何とかクリアすることができた。正直なところ、今はそんな心境でいます。今後とも初心を忘れることなく、毎年一つずつ立ちはだかるハードルをクリアしていかなければなりません。もちろん格好良く言えば、ガンと正面から向き合って、体力に自信がなくなりつつある今、叶わぬまでもせめて気力で闘うしかありません。それが自分に科せられた使命だと思っています。あと何年くらい、寿命が残されているのか知る由もありませんが、いつまでも、いつもと変わらない生活ができることに、一日一日幸せを感じつつ過ごせたら最高です。

 <追伸> あるメル友から、当「ブログもどき」の29・31・33の三ページの表示がおかしい、との報告をいただきました。早速確認しましたが、当方では正常に表示されていました。さらに、いまや飾り物になりつつある「XP」でも確認してみましたが、やはり正常に表示されていました。近くならすぐにでも駆けつけたいところですが、そうもいきません。この世界では、訳の分からないことがしょっちゅう起こりますが、今回のケースは初めてです。もう少し様子を見てもらうと、いずれ知らぬ間に直っていたりして。そんなことも、よくあることなのです。再起動をかけてもダメなのかな?
久野 勲
 平成25年 2月 6日(水)「超豪華ハリュッド映画」
 「エクスペンダブルズ」という映画を観て、あのアーノルド・シュワルツェネッガーが、ちょい役で出ていたのには驚きました。さらに「エクスペンダブルズ3」では、主演の、シルヴェスター・スタローンとジェイソン・ステイサムの二人の他に、な、なんと「ニコラス・ケイジ」「クリント・イーストウッド」「ハリソン・フォード」「スティーヴン・セガール」「ショーン・コネリー」「ジャッキー・チェン」「ジョン・トラボルタ」「アントニオ・バンデラス」私が知る範囲でも、これだけの主演級の役者が出ているそうです。洋画ファンならずとも観てみたい超豪華キャストです。久野 勲
 平成25年 2月 5日(火)「生きてりゃこそ」
 今日で術後1年の検診が終わり、後は結果待ちです。不安はありますが、今さらジタバタしてもはじまりません。今は人事を尽くしたかどうかは少々心許ないですが、とにかく天命を待つといった心境です。ところで、私は歌舞伎を観たことはありませんが、市川團十郎氏が66才の若さで亡くなられたとの報が全国を駆け巡っているようです。報道では生前口にされていたという「無間地獄」という言葉が印象的でした。初めて耳にする言葉なので調べてみました。地獄の中で、いちばん恐ろしい地獄が、八番目の「無間(むげん)地獄」だそうです。お経の中では「阿鼻(あび)地獄」と書かれています。これは梵語の当て字で、意味は「無間地獄」、すなわち「間断のない苦しみに責め苛まれる地獄」です。『正法念処経』によりますと、これまでの七つの地獄の苦しみを合計したものの千倍の苦しみを味合わされるとのことで、ここに堕ちて苦しむことに比べれば、これまでの地獄は天国みたいなものだとさえ記されているそうです。

 私も1年間、一応抗ガン治療を続けています。一口に抗ガン治療と言っても、ガンの種類やその進行状況などによって千差万別だそうです。私の場合は、不幸中の幸いとでも言うんでしょうか、今のところ、顕著な副作用はありません。まだ見ぬ地獄の恐ろしさには畏敬の念を抱いていますが、その地獄の一番深いところの地獄など想像だにできません。そんな、痛く辛く苦しい状態になれば余程の強い信念がなければ耐えきれないと思います。血液検査時、血管が見えにくくて2度3度と注射されるだけでも、口にこそ出しませんが、その痛さにイライラする私など凡人は、ただただ、氏の極限状態における責任感の強さというか忍耐力には感服するばかりです。氏は生前「宇宙の星は二千億個があるが、人間は六十兆個の細胞がいつも生まれ変わって生きていられるのだから、生命の世界とはいかに凄い世界であるか」と話されていたそうです。

 ところで「
こんにちは。今日はたまたま下の家へ赴きまして、父と話しておりましたら、昨晩、久野さんから電話をいただいたと聞きまして、私も実は、久野さんにメールをさせていただこうかと思っておりました。お元気ですか。体調のほうはいかがですか。また是非お会いしたいですね。実は何を聞こうかとしておりましたのは、先日サイトで、耳コピークラブというのを見つけまして・・・」との、久しぶりに九度山の大祐君からメールが入りました。こんばんは。質問の件ですが、僕は音楽のことは分かりません。ただ、金額的に言えば決して安くないと思います。「耳コピクラブ」を調べましたが、料金体系も明記しているし、それを承知の上で利用する場合は特に問題は無いと思います。詳しくは「耳コピクラブ」で検索して調べてみると良いと思います。と返信しておきました。久野 勲
 平成25年 2月 4日(月)「たかが同窓生されど同窓生」
 さすが、仕事が早い。どこやらの工務店も真っ青でしょう。早速、昨日の「石津太神社・節分祭」の写真集をDVDに入れて届けてくれました。ありがとうございます。昨日はどうもお疲れさまでした。そして、永田君は自身が所属する浜中九期生の親睦会「サンサン会」で、桜の咲く頃に九度山の「季節の味処・鳴神」を訪ねてくれることになったとの知らせが入りました。頼まれて、私はメンバーではありませんが、二つ返事で永田君の手伝いを引き受けることになりました。その前になると思いますが、私たちのグループも九度山行きを計画しています。ちなみに「高野下駅」までの送迎ですが、前もって分かっていれば、6人と4人が乗れる2台、つまり10人までは一度に運んでくれるそうです。

 さらに、さすが股野一家です。なかなか礼儀正しく気配りが出来ています。その若い衆「欽ちゃん」から、丁重なお礼の電話がありました。パソコン教室については、彼もいろいろ問題を感じているようです。地元の町会が市役所から委託を受けているそうです。私が行った時の、主担が事務局長さんとのことでした。欽ちゃんは町会の役員として頼まれて参加しているそうです。当日私が指摘したようなことは、欽ちゃんも問題意識を持っていたようです。ただ、立場上言い出せないまま続けているとのことでした。もし私が講師を引き受けたら、相談しながらよりよい講習会が出来ると考えていたんでしょう。しかし、講習途中だし、よそ者の私の出る幕ではないと言っておきました。ただ、相談やテキスト作りについては何時でも相談に乗ることにしました。やはり、何でもそうですが「講師たる者は相手(講習生)の立場になって物事を考える」そうすれば、自ずからやるべき事が分かってきます。

 ということで、イザと言う時のために、以前使っていた自作のテキストを取り出してチェックしてみました。アッチャー、遅れてるなぁ!すべてがデスクトップ用だし、WindowsXPを対象にしたものばかりで使い物になりません。講習で使っていたのは、NEC「Lavie」のノートで、OSは「Windows7」でした。もし、頼まれれば作り直さなければなりません。講習会では、10回をワンクールとして講習生を入れ替えているそうです。先日はツークール目の2回目とのこと。次の入れ替えまで時間があるので、自分の勉強のためにも今風に合わせたテキスト作りに挑戦してみようかなと思っています。
久野 勲
 平成25年 2月 3日(日)「捨てる神あれば」
 今日も良い天気です。9時に石津太神社へ行きましたが、すでに午前中の豆まきが始まっていました。中尾君はすでに来ていてカメラマンとして飛び回っていました。私も負けじとばかり(笑)デジカメで写しまくりました。その結果、肝心の豆は一つも手に入りませんでした。今度は、午後1時からの行事なので一度帰って昼食後出直すことにしました。昼までに時間があったので、中尾君に石津の町を案内(石津太神社の御旅所・石津漁港など)しながら帰りました。午後1時から短い神事があり、その後3時から「湯神楽神事」、4時から第二弾の豆まきが予定されています。3時まで1時間半の待ち時間があったので、二人で近くの股野家を訪ねました。ちょうど彼が居たので、上がり込んで昔話に花を咲かせました。

 3時からの、湯立神楽(ゆだてかぐら)は、ウィキペディアによると<日本の伝統的な神楽の形式のひとつ。釜で湯を煮えたぎらせ、その湯をもちいて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占う神事の総称である。別名を「湯神楽(ゆかぐら)」とも言う>とあります。珍しい神事だそうで、私は初めて観ました。そして、4時からの豆まきに臨みました。これは豆だけでなく餅もまくとのこと。折角なので、餅でも豆でも一つくらいはもらって帰らなければ、との気持ちでした。ところが、これもカラ振りに終わってしまいました。「あ~ぁ、ついに神は我を見放した」とばかり、しょげていると(笑)中尾君が「どうしたん」と言いながら近づいてきました。実は一つもとれなかった事を告げると、僕は二つとれたので一つあげると言って分けてくれました。あぁ、やっぱり持つべきものは友やなぁ!と思いました。とにかく、日曜ですごい人出でした。井野総代長をはじめ、役員の皆さんどうもお疲れさまでした。
久野 勲
 平成25年 2月 2日(土)「パソコン教室」
 今日は久しぶりに、一足飛びに春がやって来たような気候になりました。以前頼まれていた、股野の若い衆(石津の風習)の一人「キンちゃん」のボランティアぶりを見に行くことになっています。場所は上石津小学校前の老人ホームです。上石津と言えば同級生の大仲の地元です。上石津小学校出身校です。しかも、その前の老人ホームは大仲が建てたそうです。何か因縁があるのかも知れませんね。6時から2時間ほど、堺市の支援を受けて週に一度パソコン教室の講師をしているそうです。出来れば助けて欲しいとのことですが、とりあえず、どんな内容で講習しているのか興味があるので見学がてらに訪問してみることにしました。

 午後7時から約1時間あまり、講習会を見学させていただきました。講習生を高齢者が中心に10人ほどで、スタッフ4人で対応していました。今日はハガキソフト「筆ぐるめ」の2回目の講習だったようです。スタッフの一人が教壇の大型テレビをモニターとして説明していきます。後の3名はそれを補助する形で動いていました。1時間ほど見学して、ほぼ分かったのでスタッフに丁重に挨拶をして会館を後にしました。もちろん、講習会についての意見等は述べませんでした。ただ、キンちゃん(坂口欽一)が出口まで送ってくれたので感想を言っておきました。

 まず、テキスト(自作)の無いのが気になりました。確かに、主担者の説明は良かったと思います。しかし、週に一度の講習では「復習」と「予習」が不可欠です。そのためにも、一般的なテキストではなく要点をついた自作のテキストが必要です。その時は理解していても、家に帰って復習しなければすぐに忘れてしまいます。それと、スタッフ同士のコミニュケーションが、あまり計られているようには感じられませんでした。さらに敢えて言えば、次回までにスタッフにメ-ル等で質問できるような配慮が必要だと思いました。とは言うものの、大変なボランティアだと思います。キンちゃんにしてみれば、私に講師をと考えているようですが、講習途中からでは無理だと思いました。キンちゃんには、アドバイスなどで協力をするので、必要なら何時でも連絡するように伝えておきました。

 ところで、明日は全国的に「節分祭」です。中尾君が朝9時頃に首からカメラをぶら下げて(笑)わざわざ石津太神社まで出かけて来てくれるそうです。今年は日曜日なので人でも多いことでしょう。もちろん、私も行くつもりです。
久野 勲
 平成25年 2月 1日(金)「三種の神器」
 「あれっ?」、これは日常的によく耳にしたり、口にしたりする言葉です。しかし、病院で検査中の医師からこの言葉が発せられたら、ドキッとして少なからず動揺するものです。今日は朝から1年検診で、退院後初めてとなる胃の内視鏡検査を受けてきました。まさに、その検査中に先生が小さく「あれっ?」と言われたのでドキッとしました。先生は、少し赤くなっているところがあります。再発とかではなくカメラが擦った跡だと思いますが、念のために組織をつまんで検査をしておきます。とのことでした。とは言うものの、気休めに言ってくれているのでは、などと勘ぐったりして手放しでは喜べませんでした。この後、日をおいて「腹部・胸部のCT検査」「血液検査」「検便・検尿」などの検査があります。7日にはそれらの検査結果を受けて診察があり、そこで今後の治療法が決まることになります。

 1953(昭和28)年2月1日、NHK東京放送局が日本初のテレビの本放送を開始しました。午後2時、東京・内幸町の東京放送会館から「JOAKーTV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第一声が放送されました。当時の受信契約数は866台、受信料は月200円だったそうです。そして、その年の8月には日本テレビ、翌1954(昭和29)年3月にNHK大阪と名古屋、1960(昭和30)年4月にラジオ東京(現在の東京放送・TBS)でもテレビ放送が開始されました。

 昭和28年というと、私が10才で紅顔可憐な美少年だった時代です。小学校4年生でした。当時裕福な家庭には、いち早くテレビがありました。特に力道山のプロレスがある時には街頭テレビではなく、普段あまり付き合いのない近所の裕福な子供の家にまで押しかけて、まさに形振り構わず、人の迷惑考えず観戦させてもらいました。我が家にテレビが来たのは中学生の頃だったと記憶しています。当時は、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』として喧伝された時代でもありました。

 この少し前の我が家では、もちろんテレビはなく洗濯はタライに洗濯板でした。冷蔵庫は氷の塊を入れるシンプルなヤツでした。これらは何とか努力すれば手に入る、つまり高嶺の花ではなかったようです。それが何より証拠には(笑)何年か経って我が家でも一応揃うようになりました。そして、一息つく間もなく、1960年代半ばの「いざなぎ景気時代」には、カラーテレビ・クーラー・自動車 の3種類の耐久消費財が新・三種の神器として喧伝されることになりました。これら3種類の耐久消費財の頭文字が総てCであることから、3Cとも呼ばれました。これは当時、我が家にとっては高嶺の花で、これらにお目にかかれたのは随分経ってからのことでした。これらが何とか手に入った頃だったでしょうか「1億総中流意識」時代に入ったのは。そして今は、急速に普及したデジタル家電のデジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビがデジタル三種の神器と呼ばれる時代になりました。
久野 勲
 平成25年 1月31日(木)「まぁ、いいかっ!」
 早速、善は急げとばかりに「軌跡」に10編ほど追加しました。突然ですが、河島英五作品の中に「帰郷」という佳作があります。その2番に「♪駅に降りて、あたり前のことすっかり忘れてました。この街のそよ風は、昔からしょう油味。おふくろお嫁に来た時、気づいたと自慢そうに、聞きあきた話笑い泣きくり返し、その度はじめて聞いたようにうなづきました」と言う詩があります。ゆったりと落ち着いたバラード(物語風・ドラマチック)です。私には、いわゆる故郷と呼べるものはありませんが、この曲は大好きです。ただ、不思議なことにカラオケにはありません。

 ところで、私が好んでよく行く店は、常連さんたちが「年金生活者の店」とか「高齢者割引の店」など、自嘲気味に公言するような店です。飲むほどに、酔うほどに何度も同じ話を繰り返す客は珍しくありません。「人の振り見て我が振り直せ」とはよく言いますが、少し前までは「俺に限ってそんなことはない」と思い込んでいました。が、今や私も決して例外ではありません。しかし、お互いに気を遣い合って「それ、さっきも聞いたぞ」などと無粋なことは言いません。まさに、初めて聞いたような振りをして頷いています。「同病相憐れむ」と言うんでしょうか。それが何より平和な時なのです。それが時には招かれざる客(KY)が入ってきたりすると、和やかな雰囲気もぶち壊しになるわけです。ユダヤ格言曰く「良い客は入ったとたんに喜ばれ、悪い客は出たとたんに喜ばれます」。

 私は長く「かいらんばん」・「雑文帳」・「ブログ」等を書きまくっていると、いつも「これは前に書いたことがあるかも?」常にそんな不安につきまとわれています。知るのが恐いので敢えて検証はしていませんが、多分ダブっている部分は少なくないのではと思っています。今回手がけた70編足らずの「軌跡」の追加でさえ、そんな不安がつきまといました。しかし、とはいうものの、そんなことを気にしていたら何も発信できません。ということで、もっぱら「まぁ、いいか!」とばかり開き直るようにしています。
久野 勲
 平成25年 1月30日(水)「ありがとうございます」
 「軌跡」拝見いたし、あらためて素晴らしい友達がおられたと思っています。酒井サト子さんの素晴らしさが彼女の自分史の中に強く感じ、こんな女性と親しくなれたらと思いました。彼女は自分の旅立ちをすでに、早くから感じてられていたようですね。

 股野さんの紹介で、車の中でサト子は「股ったん、お医者さんがな女性の平均寿命までは無理かも知れんけど、この調子でいけば八十歳まで生きさせてやるて言うてくれてるねん」と言ってました。「そらエエがな、俺なんか到底八十歳まで生きられへんがな」「そやけど今度の宿泊同窓会にはよう行かんかも分からんで」「何でや」「そうかて、足があかんねん」「俺のおふくろの車椅子バスに積んでいくよ。それにサト子を乗せて、俺が面倒見させてもらうで」「股ったんありがとう」「とにかく生きる事や、サト子」。友達のやさしさが・・・いい生涯だったと思いました。(股野さん文学的才能あるのでは)・・・胸が熱くなりました。

 「足の裏にちょうちょ」・・・前にちょうちょの事書いていたのでドッキリでした。サト子さん「今すぐからだを鍛えようで」、はくさいとの戦い欲と二人ずれ白菜を手放す気持地蔵さんに何を懺悔したのかまで伝わりましたね(笑)すばらしい女性ですね。電話でのまったんとの話も最高ですよ。彼女の句をノ-トにかきとめました。

●つかれみを柿とみかんに助けられ仏の宿に導かれたり

●玉砂利のさきにおわする観世音

●小雨ふる奈良のちまたに人あふれ
      まだかまだかと待つおたいまつ

●しんどさも半分なりきおらが秋

 上手く表現されているのには驚きです

 ある所、堺という町に足腰の弱い、口の達者な一人のおっさん(K)が住んでいたそうじゃ。そして、駒ヶ岳で雪に足を取られて転びよったおっさんがいたそうな。さらに、5年前の奥飛騨で、これまた雪の中に足を突っ込んでひっくり返りよったおっさんが居たそうじゃ。世の中は広いようで狭いもんじゃ。偶然かどうか、これらはみんな同じおっさんだったというから、おったまげたもんじゃった。この人・・・(笑)最高!

 沢山のすばらしい友達に見送られ66歳の生涯を駆け足で過ごされましたが、皆様の胸の中には永遠に残るでしょうね。酒井サト子さんの素晴らしいお話ありがとうございました。合掌おかい 



 素晴らしい「読書感想文」ありがとうございました。ちなみに、私は学生時代に宿題などで書かされた読書感想文が大の苦手でした。ろくに読みもせずに、いつもある部分を丸写しして提出したものです。この度「軌跡」を、3年間共に過ごした同窓生の岡井さんに読んでもらったことは、サトちゃんの良い供養になったと喜んでいます。ありがとうございます。これを機会にもう一度、サトちゃん関係の文章がないかどうか、今一度丁寧に調べてみようと思っています。久野 勲
 平成25年 1月29日(火)「♪いつもの居酒屋へ下駄を鳴らせば~」
 いや~夕べは寒かったですねぇ。たまらず、スキーウエアーを着込んで出かけました。今日もまた楽しいひと時を過ごして家路につきました。そして、どのぐらい寝ていたんでしょうか?階下からインターホーンで「押部さんが見えてますよ」との声に飛び起きました。あたりはまだ真っ暗でした。それもそのはず、雨戸が閉まったままです。昨夜は上着を脱いだだけで、そのまま眠ったようです。急いで上着を着て顔も洗わずに飛び出しました。そして朝食もとらず、まさに何食わぬ顔でウオーキングに出かけました。

 歩きながらの話で、ジャパンネット銀行に入金したものの、まだ買い物が出来ないとのことでした。ウオーキング終了後、べーやん宅を訪ねました。軽く昼飯前に片付けるつもりが、意に反して午後までかかってしまいました。要するに、ログインするためのパスワードが認識されず、何度試しても買い物サイトにログイン出来ません。ジャパンネット銀行側の設定を確認してみたり、パスワードを変更してみたりいろんな事を試してみましたが、すべて徒労に終わってしまいます。「あかん、ちょっと頭を休めよう。昼飯食べてからまた来るわ」ということで一旦中断しました。そして、午後からジャパンネット銀行へ電話で問い合わせました。こちらの方は完全に手続きは完了していました。となると、Yahoo側の問題です。もう一度、Yahooメールアドレスを取得した時点に戻って、一つ一つ検証してみました。その結果、やっとの事で解決しました。手こずった原因は、二日酔いなんかではなく(笑)こちらの思い込みが強かったということでした。

 一件落着したところで、休むことなくもう一つの課題に取り組みました。大型テレビをノートパソコンのモニターとして使えるようにすることです。早速、近くのエディオンへ行って必要なケーブルを買い求めました。彼のテレビが私と同じAQUOSなら簡単に設定できたんですが、あいにくそうではなかったのでマニュアルと睨めっこしながらの作業になってしまいました。こちらの方も結構手間取ってしまいました。それでも何とかご期待に添うことが出来ました。これで、無料映画「GYAO」を大画面で観ることが出来ますと、大層喜んでもらえました。これやから、やめられません。

 今日は、本当に手こずりまくりましたが、それでも夕食時には帰り着きました。帰って着替えていると何かメモのようなものが落ちました。何やろうと思って拾い上げてみると「おんねんがおんねん」と書いていました。堺東で「小猿は霊感が強い」という話をしている時に、誰かが「それは怨念が居んねん」と言ったのが面白くて、忘れないうちにと思って書きとめておいたメモでした。
久野 勲
 平成25年 1月28日(月)「愉快な仲間たち」
 毎年のように風邪を引いていますが、今年もまた見舞われてしまいました。いつもは、布団に入るって体が温まってくると咳が出るという症状で、お医者の世話になることもなく1週間ほどで治っていました。今回は、まず声が出にくくなることから始まったようです。その内にいつもの症状が出てきました。熱はなく食欲もあるので、のど飴とのどヌールで対応していました。それが1週間経ち2週間経っても治りません。この間私を除いて家族はみんなお医者に通いました。先生から「お父さんにも、一度来るように言っておきなさい」と強く言われたそうですが、先生に怒られるのが怖くて(笑)結局行きませんでした。おかげで今日、同じように風邪で休んでいたべーやんと、3週間ぶりにウオーキングに出かけることができるようになりました。自分で、ことある度に「風邪は万病の元」と言いながら、この不摂生ぶりには困ったものです。これまで1週間で治っていた風邪が、3週間もかかってしまいました。よる年波には勝てません。以後、転ばぬ先の杖です。早め早めの対応を心がけようと猛反省しているところです。

 ところで、私がネットで買い物をしたのは1回こっきりです。それは、もう随分前のことですが私の作詞による、あの幻の名曲?「青春のころ」が、あるアマチュアバンドのアルバムに入ったCDーRを買った時です。この時のことをどこかに書いた記憶があります。たしか、着払いにしましたが、送料などで定価の倍以上の値段になりました。そんな私に「ネットで買い物がしたいんですけど・・・」という相談が入ったのは去年の年末のことでした。依頼主はべーやんです。何を買いたいのか、殺鼠くべーやん宅を訪問しました。そして、その買い物のシュミレーションをしてみました。最終的は支払い方法です。クレジットカードかネット銀行を使うかの二者択一です。クレジットカードは使いたくないと言うことで、ジャパンネット銀行に口座を作ることにしました。そのための必要書類一式をダウンロードし、必要書類を添えて郵送することにしました。

 その後、地元グループの新年会がありましたが、井野総代長と会った時にその話が出ました。どうやら未だに買い物が出来ていないらしいとのことでした。ネット銀行から口座番号が送られてきて、買い物のサイトで最終的にその口座番号を打ち込んだようです。本来ならこれでOKのはずです。それが何度やっても元の画面に戻ってしまうらしい。私に相談すると言っていたそうですが、連絡がないので電話を入れてみました。そこで、今朝からのウオーキング再開が決まりました。歩きながら、何回ぐらい試したのかと聞いたところ10回ぐらいとのこと。もしかして、10回買い物したことになっているのではとの心配も出てきました。そこでおもむろに、その口座にいくらぐらい入金してるねん?と聞くと、彼はえっと言ってからおもむろに「まだ入れてません」。おいおいべーやんよ、冗談は顔だけにしとけよ!とまでは言いませんでしたが・・・結局、空の財布で買い物をしようとしていたようです。とりあえず、近くのコンビニから入金をしてから試してみて、それでもダメなら連絡してくるように言って別れました。

 こう言うことに手を染めていると、プリンターが使えないとのSOSで駆けつけて、いろいろ調べてみた結果ネズミの糞が紙送りを邪魔していたとか、パソコンがつぶれたとのSOSで駆けつけて、いろいろ診断の結果ケーブルが外れていたなど面白い話がたくさんあります。正攻法ではどうしても解決しない時には、頭を抱え込んでしまいます。そんな時に、やけくそ半分で「まさか」と思うことを試してみると、意に反してあっさり解決してみたりすることがあります。そんなイライラした思いを相手にぶつけるわけにもいかず「結果オーライで、まぁいいか!」とばかり笑い飛ばしています。まぁ、いずれにしても解決すると言うことは気持ちが良いものです。必要とされる限りは、可能な限りそれに応えていきます。ただし、目の黒いうちは(笑)

 <追伸> 帰り着いたところ、小猿から何やら画像が送られてきていますが、眠いので無視して更新のみしておきます。とにかく、小猿も間違いなく愉快な仲間の一員です。久野 勲
 平成25年 1月27日(日)「♪生きてりゃいいさ」
 う~む、早いものですね。小・中学校を通じて同級生だった、酒井(坂部)サト子(浜中では6組)さんが、この世を去ってからもうすぐ5年になります。当時、私は同窓会や同窓会新聞「かいらんばん」等で、彼女には一方ならぬお世話になりました。そんなこともあって、石津小学校のホームペジに追悼の意味を込めて「かいらんばん」に残したサトちゃんの「軌跡」と題した小冊子を掲載しています。

 ところで、私のように一台のパソコンで複数のサイトを同時管理していると、時として各サイトがお祭り騒ぎを起こすことがあります。今でも時々ファイル名が重なり画像が入れ替わっていたりして、驚くことがあります。そんな中で、久しぶりに石津小学校のサイト内の「軌跡」を訪ねてみました。ページ数にして60ページ足らずですが、多くのページで画像や改行等の不都合な箇所が見つかりました。サトちゃんの死後、残されたご家族とのお付き合いがなかったため、残念ながら墓参りなど出来る状況ではありませんでした。今回「軌跡」の各ページを順にきれいに直しながら、サトちゃんのお墓の周りを掃除しているような、そんな不思議な気持ちになりました。
久野 勲

「生きてりゃいいさ」
作詞/作曲:河島英五

きみが悲しみに 心を閉ざしたとき
思い出してほしい歌がある
人を信じれず 眠れない夜にも
きっと忘れないでほしい

生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
そうさ 生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも 立ちどまりはしない
めぐり めぐって行くのさ

手の掌を合わせよう ほら温りが
君の胸に届くだろう
 平成25年 1月26日(土)「玄冬を謳歌!」
 また背後霊の写真がでていますね(笑)だけどうまく構成されていますね。会の名前の件、何かでましたでしょうか?皆さんに宿題としてお願いをしましょうね。今度お会いするときは決定しましょう。我々は早い行動がモットーですよね。昨日朝一番の手術後、集中治療室に一晩お世話になった妻が無事昼に、普通の入院ベッドにもどりました。良く頑張りました。少しいつもの元気がないようです、尿管には管が入り、両足はガンダムのような大きな白い包帯すがた、手には点滴、沢山のパイプが付いています。エア-マツサージが時々振動していました。しばらく動けないので血液の流れをよくするためのものらしい。昼に面会し、ベッドから軽くハイタッチ。笑顔が戻ります。

 昨晩は寝不足と少し熱もあり心配していたが、夜中に、同じ集中治療室にいる、隣の患者さん心拍停止したらしく数名の人影がせわしなく動く、電気ショックを掛ける医師の声離れて!鈍い音、2~3度繰り返されていたらしい。夢の中の出来事では?自分の事を忘れ、そう願っていたらしい。やがて静寂が訪れうつらうつら、翌朝ニッコリ微笑む看護婦さんに聞くと一命を取り留めた様子とのこと。よかったとホットしたとの話でした。今この時間にも、幾人かの人が生死をさまよっていおられ、それを救う人たちもおられることを忘れてはならないと思いました。感謝!おかい


  いつも、お付き合いありがとうございます。岡井さん家の婦唱夫随ぶりには、拝読していて自然と心が温まります。えっ、4文字熟語が変ですか?少なくとも、岡井君がなかなか立派な主夫ぶりを発揮している期間は「逆もまた真なりで」ではないでしょうか。何やかやと偉そうなことを言っていても、かく言う私めがそうなんですが、結局「女房殿の手の平の上で踊っている」これが、夫婦円満の最大の秘訣だと思います。ところで、真偽のほどは知る由もありませんが「人は年老いると赤ちゃんに還る」と言われています。そして、生涯を終えると二通りの方法で天国に召されるとも言われています。「三途の川」は、まさか泳いで渡るわけではないと思いますが、渡し船に乗るとすれば渡し賃が必要になってきます。私は仲間内で、よく冗談半分に「あの世に金は持って行かれへんど」と言っています。閻魔様に舌を抜かれるのもイヤだし・・・そう言うこともあって、出来ればもう一方の「幽体離脱で天空に昇る」方法を選べればと願っています(笑)。いつの間にか、死を笑いで語れる年頃になったんですね。漠然とそんなことを考えながら、自分の顔をあしらった画像で遊んでいると、このような作品ができあがりました。真剣な表情が、さらに笑いを誘いそうですね。誰ですか、プッと吹き出しているのは。まぁいずれ近いうちに、何かと忙しい濱野君も参加しての初代メンバー5人揃った編集なしの集合写真が撮れることでしょう。もちろん、その時は「変人会」ではなく、それ相応の名前がついているはずです。今さら事ここに至って、世間に媚びたりなびいてもしかたがない。これから先は、気の置けない者同士が手を携えて楽しく我が道を行く!出来れば、そうありたいものです。

 <追伸> 蛇足ながら、30代前半までを「青春」といい、60代後半からは「玄冬」と言うそうです。ちなみに、玄とは黒という意味です。う~む、やっぱり黒い冬ですか・・・「まぁ、いいかっ!人生旅の途上!」
久野 勲

 平成25年 1月25日(金)「8のその後」
 我々仲間内では、いち早く「Windows8」に手を出した8マンこと中尾君ですが、今ではすっかり石津太神社の井野総代長とメル友になっています。そんな関係で、私も行きますが2月3日の「節分祭」には、首から愛機をぶら下げて駆けつけてくれるそうです。ありがたいことに、今後とも何かと石津太神社のホームページの運営に協力してもらえそうです。

 ところで、マイクロソフトの最新OS「Windows8」の日本発売が、昨年10月26日0時に始まりました。スマートフォン・タブレット時代の到来に対応し、タッチパネルでの操作に最適化されたのが大きな特徴で、公式サイトなどでもこの点を前面に押し出したPRが行われています。ところが、それが「裏目」に出たのかも知れませんが、思わぬ勘違いが広がっているとの指摘がネット上で出ています。いわく「パソコンにウィンドウズ8をインストールすれば、普通のモニタもタッチパネルになる」と思っている人が続出しているようです。PCショップではクレームも出ているそうです。もちろん、そんなことは不可能です。ウィンドウズ8をモニタから操作したければ、タッチパネル対応の機種を購入する必要があります。しかし、あるテレビ番組などでは「今日ウィンドウズ8発売。パソコンがタブレットに・・・」といった調子で、このニュースを伝えるところも少なくなく、Twitterでも「PCショップ行ったら既に店員さんが<Windows8>を入れたのに、タッチパネルにならんというクレームに対応している・・・」という目撃証言が1000回以上もリツイートされています。この騒動に、さすがのNHKも、ニュースでご覧のような注意を呼びかけていました。ちなみに「返信」と「リツイート」の違いは「返信」は、つぶやいた人に対してつぶやき返す機能で「リツイート」は、あるつぶやきを皆に知らせる機能だそうです。
久野 勲



 平成25年 1月24日(木)「なんか変かな?」
 私はいつの頃からか、短い文章を書くようになりました。思えば20年ほど前に、ある同級生から「久野さんの文章おもしろいね」と言われたのが、きっかけだったように思います。そして、「♪てなこっと言われて、その気になって」なんでしょうか(笑)、それが今も「ブログもどき」と言う形で続いています。世間では「筆無精」と言う人が多いようですが、さしづめ私の場合は「口無精」になるのかも知れません。性懲りも無く今も書いていますが、タイトルをつけたり画像を挿入するのも楽しみの一つになっています。

 ところで、最近数人で「変人会(仮称)」なるものを結成して、正月早々あちこちに出かけています。それは良いんですが、ネーミングがどうも気になっています。あまり声高に言えないし、仲間を増やしにくい名称です。そんな中、あるメンバーから30ほどの名称が送られてきました。そのどれもが「なるほど」と思えるものです。私も考えてみましたが、なかなか難しいですね。この会の基本は「メル友」です。普段はメールのヤリトリで情報交換などで親睦を深めます。そして、各自がそれぞれ「これは」と思うことがあれば、その都度幹事となって日程等決めて実行に移します。とくに会則、会費などはなく、年齢・性別にも関係ありません。そんな出入り自由な気楽な会になればと思っています。何か良いネーミングがあればお寄せください。ちなみに、次回は私が幹事で九度山の「季節の味処・鳴神」で食事会をと思っています。また、岡井君の幹事で、加藤富恵さんの「影絵」鑑賞会になるかも知れません。さらに、濱野君の幹事で京都・梅小路蒸気機関車館の見学もあるでしょう。楽しみです。とにかく、この会は思い立ったら即行動に移します。そのうちに、などと悠長なことは言ってはおれません。
久野 勲
 平成25年 1月23日(水)「頑張ってるなぁ!」
 愛のテ-マ、ゴッドファ-ザ-拝見しました。感動しました。やはり曲が入ると画面が引き立ちますね、音の取り込みはソフトが必要ですかね。久野さんの構成やはりすごいです。ここでお願いをいたします。今日朝一番に手術があり、病院に行ってきました。無事に終了です。3時間でした。此れから1ヶ月の入院です。私は毎日の献立で頭が痛くなりそうですね。それと、いただいた英五さんの曲よく聞いています。ありがとうございました。「病院で待つ間、先日加藤さんからいただいた影絵がすごくよかったので投稿をお願いしましたら、快く引き受けていただきましたのでお送りします。ご足労様ですが久野さんのみごとな構成で皆様にご紹介くださいますでしょうか、決してああせい、こうせいなど言いませんのでよろしくお願いをいたします。妻が退院しましたら、九度山行き楽しみにしています。おかい



 昨年11月17日、浜中九期生の同窓会がありました。その時の返信ハガキの近況報告覧に、次のようなコメントがありました。「地球規模での天災・人災、心が痛みます。その中にあって、ボランティアの一つとして人形劇(影絵)活動を、まだしていますよ~。子供たちやお年寄りの拍手・手拍子が私の胸を「キュン」とさせてくれます。それが35年続けてこられている原動力です。ところが、スクリーンに手や頭が写って失敗することも多々あり、年々老いを感じているこの頃です。皆様にお会い出来ますこと楽しみにしています」。3組の加藤(大原)富恵さんです。残念ながら、私は存じ上げなかったので同窓会では話をする機会はありませんでした。その後、同じ3組の岡井君よりメールで紹介していただきました。35年間ボランティアを続けられているということは素晴らしいですね。同窓生として尊敬に値します。そして今回、岡井君を通じて「影絵」の画像を送ってくれましたので、ご紹介させていただきます。いやぁ、同窓生が頑張っているのを見聞きするのは嬉しいことですね。それに引き換え「おいらは一体何をしているんやろうか?」それにつけても、岡井君の奥様のご病気が順調に運んでいるそうで何よりです。一日も早いご退院をお祈りしています。久野 勲



 MNSニュースによると
▽「国賊そのものだ」(広島の61歳男性)
▽「座敷牢に入れられないか」(東京、60代男性)
▽「そのまま中国人になれば」(福岡、90代女性)
▽「国家反逆罪で取り締まれ」(愛知、30代男性)
▽「動物園のオリに入れるしかない」(男性)
▽「打ち首か、武士の情けで切腹を」(東京男性)など、鳩山とかいう希有な恥知らずでバカボンの名をほしいままにした元総理に、日本各地から皮肉を込めたユニークな「征伐法」が提案されているそうです。選挙という名のもとに、本性を見抜けずに首相という座にまであげてしまった我々大多数の国民の責任は大きいでしょう。政権交代で何とかなるのでは、そんな願いも空しく藁をつかまされてしまった、怒りを込めたそんな思いだったでしょう。
久野 勲
 平成25年 1月22日(火)「♪広い世界の片隅に・・・」
 Sagaとは、英雄伝・武勇伝・冒険談、ひいては一家一門の物語を壮大に描く長編の叙事小説のことを指すそうです。今私の手元に「ゴッドファーザーサガ」というタイトルの貼ったビデオテープが2本あります。20年ほど前にろくがしたVHSビデオテープです。この2本には「ゴッドファーザーPARTⅠ・Ⅱ・Ⅲ」の3話を収録しています。これまで何度も再生していましたが、今の今まで「サガ」の意味を知りませんでした。どういう意味かなと思ったことはありましたが、知らなくても別に不都合がなかったので調べようとも思いませんでした。今改めてDVDにダビングする際に調べてみると、本編未使用部分を加えて再編集し、年代順に並べたTV用作品のことだそうです。三部作で約8時間の長編です。フランシス・コッポラ監督の代表作で、なかなか見応えのある作品です。主演のゴッドファーザー(ビトー・コルレオーネ)を演じたマーロン・ブランドの渋い演技と、三男のマイケル・コルレオーネ役のアル・パチーノ、それにゴッドファーザーの若い頃を演じたロバート・デ・ニーロが良いですね。また、この映画の主題歌(愛のテーマ)も有名です。これは、イタリアの作曲家で、クラシック音楽と映画音楽で活躍したニーノ・ロータです。ニーノ・ロータは、私が知っているだけでも「道」「世にも奇妙な物語」「戦争と平和」「カサノバ」「太陽がいっぱい」「ロミオとジュリエット」「ハリケーン」など、たくさんの映画音楽を手がけています。何度目になりますか、今回も一気に観てしまいました。

 そして今、先日友人と会った時の会話の中で話題になった「昔の8ミリフィルムをDVDにダビングできないか」について調べています。もちろん、プロに任せば簡単です。1本や2本ならそれも良いでしょうが、数が多くなると費用がかさみます。この作業を「テレシネ化」と言うそうです。この機械も特殊なので結構高価なものだそうです。そこで「簡易テレシネ化」という方法もあるそうです。早い話がスクリーンに映写して、その映像を今のビデオカメラで写すんだそうです。ただし、昔の8ミリテープと今のビデオ機ではコマ送りのスピードが違うので、フリッカー(チラつき)などの障害が出てしまい、うまく撮影できないそうです。残念ながら、私は両方とも持っていないので試すことは出来ませんが、その場合の対処方法もあるようです。
久野 勲
 平成25年 1月21日(月)「♪凄い男が居たもんだ!」
 昔から、三拍子揃っていることを「飲む・打つ・買う」?ではなく「守る・打つ・走る」と讃(たたえ)えられています。まさに、これにピッタリなのは去年シーズン途中でニューヨーク・ヤンキースに電撃移籍をした「イチロー」でしょう。まず打つ方は、シアトル・マリナーズで10年連続200安打突破という輝かしい大記録を残しました。走る方では、2001年に56盗塁で盗塁王と首位打者を同時獲得をしています。マリナーズ時代の12年間は毎年30盗塁以上を記録しています。そして、守る方でもゴールドグラブ賞を、毎年のように10回も獲得しています。オールマイティー・プレーヤーそのものです。もちろん、大リーグではそれ相応の待遇を受けています。マリナーズでの後半は、5年契約で年俸が約18億円でした。それが、やはり年齢的な影響でしょうか成績も落ちて、ヤンキースでは今季から2年契約の年俸6億5千万円になったそうです。

 私は、そんなオールマイティー・プレーヤーのイチロー技の中でも、レーザ-・ビームと畏れられている強肩を生かした、スリリングな封殺プレーには度肝を抜かれました。いや、並み居る大リーガのスパースターたちも驚いているでしょう。まさに、凄い男が居たもんです。いずれ、日本人初となる大リーグ殿堂入りは間違いないでしょう。その前に、今やイチローに無いのはチャンピオン・リングだけです。今季は何とか優勝してチャンピオン・リングを獲得して欲しいものです。ちなみに、日本人で獲得しているのは、伊良部、松井秀、井口、高津、田口、松坂、岡島の7人で、オリックスで共にプレーした無冠の田口 壮は2個ももらっています。イチローの「レーザー・ビーム
久野 勲
 平成25年 1月20日(日)「勿忘草(ワスレナグサ)」
 今日も今日とて朝も早うからカンテラは提げませんでしたが(笑)、何とかテープが劣化する前にとの思いから「嵐寛寿郎の鞍馬天狗」・「黒澤 明・三船敏郎の用心棒」・「フランス映画の禁じられた遊び」など、相変わらずバラバラですがダビングしました。なお「松本清張の砂の器」は、時すでに遅くテープが劣化していてダメでした。

 ところで、2006年11月に創刊されたEX(SANKEI EXPRESS)という、若者向けの新聞があります。その紙面の中に「勿忘草(わすれなぐさ)」というタイトルのコラム欄がありますが、この文字が読めませんでした。この語源は、中世ドイツの悲恋伝説に登場する主人公の言葉に因むそうです。昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲くこの花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りましたが、誤って川の流れに飲まれてしまいます。ルドルフは最後の力を尽くして花を岸に投げ「僕を忘れないで」という言葉を残して死んでしまいました。残されたベルタはルドルフの墓にその花を供え、彼の最期の言葉を花の名前にしました。日本では、1905年(明治38年)に植物学者の川上滝弥によって初めて「勿忘草」「忘れな草」と訳されました。花言葉の「真実の愛」「私を忘れないで下さい」というのも、この伝説に由来するそうです。久野 勲
 平成25年 1月19日(土)「親孝行したい時には・・・」
 今朝の河口湖には、ご覧のように氷が張っていました(画像左下)。それにしても、今日もまた「逆さ富士」が美しいですね。

 午後から、井野総代長が当ブログを見て心配して電話をくれました。実は井野さんも私と同じような症状で、今夜の新年会に参加できるかどうか心配されていたようです。さらに言えば押部さんも風邪を引いたということで、共に今週はウオーキングを控えています。まさに「類は友を呼ぶ」とでも言うんでしょうか。結局、井野さんとはどちらもほぼ快復しているということで一緒に参加することにしました。

 突然ですが「ベサメムーチョ」とは、もっとキスしてというスペイン語だそうです。そんな意味も知らずに、何度か歌っている女性と居合わせたのでリクエストしてしまいました。「♪目立たぬように、はしゃがぬように」をモットーにしている私ですが、時として「♪俺がそんなにモテルわきゃないさ」と、自嘲気味に自戒することがあります。もちろん、飲んでいるからと言って、誰かのように女性を口説いたり、お世辞を言ったりするようなことは皆無です。しかし、世の中とは面白いものですね。たまには、そんな時代遅れな男をからかってみようとする、その場限りの風変わりで時代おくれ的な女性もいるようです。「♪この町には不似合いな時代遅れのこの酒場に今夜もやって来るのは、ちょっと疲れた男たち・・・」。今夜は、風邪気味仲間で変人仲間(笑)の井野総代長と行ってきました。堺東広しといえども、今や私の唯一のホームグランドになっている「つつみ」は、そんな時代おくれ的な居酒屋なのかも知れませんね。不思議ですねぇ、なぜかここに来てお母ちゃんの顔を見ていると心が安らぎます。なぜか?そのわけはハッキリしています。この店のお母ちゃんとは歳は四つしか違いませんが、その風貌と言い気性といい肝っ玉母さん的なところが、21年前に他界した私のお母ちゃんによく似ているからです。時には、そんなお母ちゃんの前で、しみじみ昔を思い出しながら「無縁坂」を歌うこともあります。まさに「至福の時」といったところでしょうか。

 <追伸> いつものことですが、帰り着いてメールをチェックすると、次のような便りが入っていました。「先日はお忙しいところ、私たちの写真展にお出で戴きまして有り難うございました。作品群はいかがでしたか、少しは感じられるところのものがありま したでしょうか。写真撮影に参考になれば幸いでしたが、我々プロの写真家はもっと精進せねばと常々思っています。またの機会にも、宜しくお出で下さいますようお願い致します。高橋ナンショウ」。先日、濱野君から「美術館も富士フォトサロンもご一緒できず、失礼しました・・・」とのメールもありました。岡井・永田・中尾・濱野・高橋、思えばみんな中学時代は口もきいたこともない同窓生たちです。そして、当時石津とは対照的なライバルで(笑)誰が言ったか揃いもそろって勉強はよく出来て、ええとこの子という別世界に住む同窓生たちでした。まさに、今思えば暗い青春時代を送った私(笑)にとっては、いわれなきコンプレックスを抱き続けていた昭和小学校の出身者です。思いもよらず半世紀以上も経った今、なぜか妙に馬が合っているようです。久野 勲
 平成25年 1月18日(金)「丑三つ時」
 突然声が出にくくなってから、今日でもう五日になるでしょうか、カラオケで歌い過ぎたためだったようです。しかし、声は次の日には出ましたが、原因はどうやら風邪気味でもあったようです。昨夜は布団に入ると咳が出て仕方がなかったので、起きていることにしました。時計を見ると、草木も眠ると言われている夜中の3時でした。椅子に座ると咳が出なくなるので、パソコンを起動してみましたが今イチ気が進みませんでした。それではと思って、ビデオを観ることにしました。古いビデオテープから、イタリア映画「鉄道員」を選びました。ピエトロ・ジェルミ監督の代表作であり、自ら主演もしています。そして、末っ子のサンドロ少年の演技も印象的です。さらに、この映画音楽も、なかなか良い曲でよく聴いています。久しぶりに観ましたが、何度観ても飽きの来ない良い映画です。

 ところで、昨日で抗ガン剤の服用が一応終わったので、やっと今日咳止めの薬を飲みました。今月末の1年検診の結果がよければ、治療は次の段階に入るようです。あす、地元グループの新年会がありますが、参加できるかどうか微妙な状況です。そんな中、食欲があり熱はなく咳だけなので「DVDレコーダー」と格闘の末(笑)何度も失敗を繰り返しながらも、何とかの操作が理解できるようになりました。とりあえず「NHK二人のビッグショー、河島英五&堀内孝雄」・「黒澤明・三船敏郎の椿三十郎」・「ピエトロ・ジェルミの鉄道員」ジャンルがバラバラですが、この3本をDVDーRにダビングすることに成功しました。早送りダビングが出来ないので時間がかかりますが、良いおもちゃが手に入ったことで、また一つ楽しみが増えました。
久野 勲
 平成25年 1月17日(木)「時の流れは速いもの」
 6434人が犠牲となった阪神・淡路大震災から、今日で丸18年となりました。兵庫・神戸市では追悼集会が開かれ、鎮魂の祈りがささげられています。神戸市中央区の東遊園地では、およそ7000本の竹灯籠で「1.17」の文字を形作り、地震発生時刻の午前5時46分にあわせて、黙とうがささげられました。追悼の集いには、東日本大震災で被災した東北の人たちも参列し、2つの大震災の犠牲者に祈りをささげています。会場では、東日本大震災が起きた午後2時46分にも黙とうがささげられます。あれから18年、早いものですね。1955年1月17日に発生した阪神・淡路大震災後の阪神地区にて「復興神戸に明かりを灯そう」という意図で同年に、鎮魂と追悼、街の復興を祈念して震災で激減した神戸への観光客を呼び戻す目的で「ルミナリエ」が毎年開催されています。初年度は、1994年7月~9月にかけて和歌山で開催された「世界リゾート博」で使用した後、倉庫に保管していた部材を使用し、経営企画センターにより運営されました。私はその初年度に行ってきましたが、平日ながらもあのすごい人出に驚きました。神戸の人たちをはじめとして、日本中が鎮魂と追悼の思いを強く抱いているような、そんな感動的な思いを持ちました。それが今では、ラブラブカップルのデートコースだったり、若者たちが集まって大騒ぎしていたりもするそうです。あれから18年経った今、地元でもあの震災を経験していない人が約4割を占めているそうです。それはそれで時代の流れなんでしょうか。ちなみに、地元の岡井君は布団に座って、5時45分に黙とうをささげられたそうです。

 当時、灘駅近くに住んでいた同級生の安否を、新聞・ラジオ・テレビ、および兵庫県警や各避難所へ片っ端から電話をかけまくっての問い合わせ等での確認に奔走しました。その情報をいち早く、逐一私が主催している同窓会新聞「かいらんばん」の号外でみんなに知らせました。その結果、2月4日に恩師はじめ同級生たちから寄せられたカンパを届けるために、同級生の釜中君と二人で灘駅近くの避難所を訪ねました。その時の、傾いたビルや壊れた家々の中を歩きながら、何度も目まいを起こしそうになりました。リュックやたくさんの荷物を持った、おびただしいほどの人の群れに流されながら歩きました。経験はありませんが、話で聞いている戦時中のヤミ市の買い出しのような気がしました。そして、神戸市立稗田小学校で真似事のようなボランティア活動をさせてもらいました。それを通じて、プライバシーのない苛酷な避難所で、お互いに助け合い励まし合いながら頑張っている姿、さらに逆に我々の労をねぎらってくれる等、被災された方々のその秩序正しい言動に「人は逆境においてさえ、こんなに優しくなれるんだ!」という実態をことごとく目の当たりにして深く感動を覚えました。当時、支援の双璧は何と言っても学生と自衛隊でした。その献身的な活躍ぶりには目を見張るものがありました。あれから、もう18年という長い年月が流れたんですね。なお当時、普段滅多に見ることのない自衛隊員の活躍ぶりを身近に見て、駄作ながら一句詠みました。「自衛隊 被災地救い 市民権」
久野 勲
 平成25年 1月16日(水)「今日は藪入りの日」
 今日は「藪入りの日」(1月16日・7月16日)です。藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代だそうです。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされますが、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じました。関西地方や鹿児島地方ではオヤゲンゾ(親見参)などと呼ぶところもあるそうです。六のつく日に行われることから、関西では六入りとの呼び名も残されています。藪入りの日がこの二日となったのは、1月15日(小正月)と7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされています。そのうちに、地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる賽日であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになりました。

 藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出しました。実家では両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しんだものです。また、遠方から出てきたものや、成人したものには実家へ帰ることができないものも多く、彼らは芝居見物や買い物などをして休日を楽しみました。明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われると、藪入りは正月と盆の付随行事であったため、正月の新暦移行に伴いそのまま新暦へと移行しました。文明開化後も商家の労働スタイルにはそれほどの変化はなく、さらに産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となりました。藪入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわい、なかでも活動写真(映画)などはこれによって大きく発展しました。第二次世界大戦後、労働基準法の強化などにより労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになると藪入りはすたれ、正月休み・盆休みに統合されるようになりました。藪入りの伝統は正月や盆の帰省として名残を残しています。


 ところで今、VHSテープからDVDにダビングすることに凝っています。DVD-Rを何枚もダメにしながら何とか「DVDレコーダー」で再生することが出来、見事に成功したかに思いました。しかし、イザ、パソコンで再生しようとしましたが、出来ませんでした。何でやろ?思わず頭を抱え込みました。そこでマニュアルをよく読んでみると、他の機器で再生する場合は、ダビングしたDVDに「ファイナライズ」を実行する必要があることが分かりました。マニュアルに従って「ファイナライズ」を行って完成しました。何でもそうですが、初めてのものは難しいですね。久野 勲

 平成25年 1月15日(火)「トロイの木馬」
 これは、ギリシア神話に登場する装置でトロイア戦争において、トロイア(イーリオス)を陥落させる決め手となったものです。それは木でできており、中に人が隠れることができるようになっていました。転じて、内通者や巧妙に相手を陥れる罠を指してこう呼ぶことがあります。昨日、危うくそんな罠にはめられそうになりました。私が利用しているセキュリティ・ソフトは、ZAQユーザ専用の「McAfee」です。今朝パソコンを起動させると画面右下に「トロイの木馬が自動的に削除されました。これ以上の対応は必要ありません」との通知が表示されました。そして、しばらくすると「怪しいプログラムをブロックしました」とのマカフィーからの通知がありました。ネット界に身を置いていると、いつも悪意を持った輩に狙われているということ自覚しておく必要があるでしょう。

 ところで、以前からVHSに録画したテープがたくさんあります。本来ならアナログビデオデッキでは観ることが出来ませんが、我が家ではケーブルテレビなので、あと1年ぐらいは使えます。しかし、いずれ観られなくなるので何とかDVDにダビングできないかと思っていました。ところが、その探していたものが見つかりました。先日の朝刊の「ジャパネットたかた」のCM欄にVHS、DVD双方向のダビング可能で地デジのテレビからも録画でき、両方の再生も出来るという「DVDレコーダー」が掲載されていました。こういうのが欲しかったので、躊躇なくすぐに購入しました。まさに衝動買いでした。ちなみに、価格は24.800円でした。



 2001年の今日(1月15日)に、私がいつもお世話になっているインターネットの百科事典サイト「ウィキペディア」が公開開始されたそうです。ウィキペディアは、ウィキメディア財団が運営するインターネット百科事典です。コピーレフトなライセンスの下、誰もが無料で自由に編集に参加できます。世界の各言語で展開されています。「ウィキペディア」という名前は、ウェブブラウザ上でウェブページを編集することができる「ウィキ」(wiki)というシステムを使用した「百科事典」(英: encyclopedia) であることに由来する造語だそうです。久野 勲



 平成25年 1月14日(月)「要注意!Java7」
 昔は「こしょうがつ」という言葉をよく聞きました。特に知る必要もなかったためか、この歳になってもその意味が解りません。今日がその「小正月」に当たるそうなので調べてみました。「小正月」とは、そもそも元日を大正月(おおしょうがつ)というのに対して呼んだ名だそうです。松の内に忙しく働いた主婦をねぎらう意味で「女正月」とも呼ばれているそうです。そう言えば「正月の家事は男がするものだ」とも聞いたことがあります。関西では、小正月までを松の内としています。年神様や先祖を迎える行事を行う大正月に対して、小正月は家庭的な行事を行う正月で、盆と同様に大切な節目でした。大正月には門松を飾りますが、小正月には餅花(もちばな)をなどを飾ります。これは、豊作の予祝の大切の行事でした。そのため「花正月」ともいいます。また、この日はどんど焼きといって、神社で正月飾りや古いお札などを燃やします。つまり、今ではあまり聞きませんが「小正月」とは、1月15日を中心とした数日間のことを指すそうです。

 ところで、パソコンやスマートフォンで動画やゲームなどを利用するため幅広く普及している、米オラクル社製のプログラム言語「Java(ジャバ)」に情報セキュリティー上の弱点があることが分かりました。いち早く、米国土安全保障省などが使用を控えるよう警告を出しました。Javaを組み込んだ閲覧ソフトで、悪意のあるプログラムが埋め込まれたウェブサイトを閲覧すると、パソコンがウイルスに感染して遠隔操作されたり、パスワードなどが盗まれたりする危険があるそうです。米政府が使用を控えるよう求めているのは最新版の「7」ですが、セキュリティー大手トレンドマイクロは「6」以前が安全かどうかを確認中ということです。ソフトに弱点が指摘されるのは珍しくありませんが、トレンドマイクロは「実際に攻撃に利用されることが証明されたのに修正ソフトが公開されておらず、今回は緊急度が高い」としており、米政府の警告にもそうした事情があるとみられています。オラクルは公式フェイスブックで「近く修正ソフトを出す」としています。ちなみに、私の場合、調べてみると警告の出ている「7」でした。Javaを削除するとどのような影響があるのかよく分かりませんが、またいつでもインストールできるので、取りあえず念のため「スタート」→「コントロールパネル」→「プログラムのアンインストール」で削除しておきました。
久野 勲
 平成25年 1月13日(日)「広がる仲間の輪(和)」
 今日早速、岡井カメラマンから高橋君の作品を送ってくれました。ところで、昨日のメールを受けて、午後1時に井野総代長が迎えに来てくれる手はずになっていました。1時に表に出ると、南の方から見覚えのある人がやって来ました。それは中尾君でした。わざわざ昨日のお釣りを持ってきてくれたそうです。そこへ総代長の車が停まりました。二人は、昨年の「やっさいほっさい」の時に紹介してあるので、この際一緒に総代長宅へ行くことにしました。総代長宅では、パソコン・カメラ等々、多岐にわたって話が弾みました。その結果、今年の「やっさいほっさい」では、石津太神社の腕章を着けてカメラマンをお願いすることになりました。腕章と言えば小猿カメラマンも居ます。私も一応仲間入りをすることになるでしょう。ちなみに、気が合って話が弾む!それもそのはずです、総代長は自身のメールアドレスに「henko」と、つけているほど(実は、ここだけの話ですが娘さんにつけられました)の自他共に許す年期の入った○○です。つまり「へんこ=変人」ということですね(笑)帰りは、それぞれ総代長に送ってもらいました。いずれ「浜中九期生4変人+濱野君」の名称を改めて、井野さんや、押部さん、股野君を外したら怒られるので、歩くのが大変ですがイベントによって誘うことになるでしょう。もちろん、小猿画伯も引っ張り込みたいと思っています。まさに、みんながみんな、選りすぐりの良すぎるほどの良い人たちばかりです。私の自慢の仲間たちです。

 <追伸> 「
3組の加藤富恵さんと連絡がとれました。彼女のマンションは9階で生駒山が見えろ景色のいい所らしく、早速携帯に写真1枚テスト送信が出来ました。5月の九度山の話はしています。彼女は足が少し不自由のため参加されるかはどうかわかりませんが、情報を伝えてあげたいと思います。おかい」。久野 勲
 平成25年 1月12日(土)「酒は楽しく飲むべかりける」
 今日は例の4人(中尾・岡井・永田・久野)で、本町の富士フイルム・フォトサロン大阪で開催されている「JPS関西メンバーズ展」関西のプロ写真家ー心のメッセージーに行ってきました。待ち合わせの際に少しトラブルらしき出来事がありましたが、4人揃って会場に入りました。我々のために高橋南勝君がつきっきりで、全作品のガイド役をしてくれました。高橋君の出展作品は「伝承の曳山狂言(子供歌舞伎)」というタイトルでした。ストロボ禁止で写しましたが、会場の照明が入ってしまいました。そんなわけで、中尾・岡井カメラマンの写真をメールで送ってもらって紹介したいと思っています。作品の前で高橋君も入って5人の記念写真も撮ってもらいました。今日の昼食は、本町の地下街で「キノコご飯と肉うどん」という、ちょっと変わった取り合わせの定食に舌鼓を打ちました。今後とも、積極的に浜中九期生がらみのイベントに参加しようということになりました。えっ、俺が幹事?これは言い出しっぺです。「季節の味処・鳴神」へ行こうと言ったからです。5月5日の「真田祭り」に合わせてはどうかと言う意見も出ました。う~む、4月後半になりそうです。結局、帰りに四天王寺に寄るという中尾君と別れて、永田君と堺の町を散策しながら帰りました。そうそう、堺幕府のあったという顕本寺も訪ねてきました。



 ところで、私たちが三十路の頃だったでしょうか「♪ハチノムサシガシンダノサ」という歌が、よく聞こえてきたものです。あの頃は、我が子と一緒に「みなしごハッチ」を見ていました。そして、この歌は殺虫剤のコマーシャルにもなりました。さらに、紅白歌合戦でも歌われました。ハチの六刺し?たしかハチは一度刺したら死ぬと聞きますが?

 1981年10月ロッキード裁判で、榎本敏夫被告の夫人・榎本三恵子さんが田中元首相の5億円受領を裏附ける証言をしました。後に「ハチのひと刺し」が流行語になりました。東京地裁で開かれたロッキード事件丸紅ルート公判で元首相秘書官夫人の榎本三恵子さんが出廷して元秘書官・榎本敏夫が5億円受領を認める発言をしていたことを証言。その後に「ハチは一度刺したら死ぬというが自分も同じ気持ち」と心境を語っていました。榎本三恵子さん(当時33歳)は、記者会見で「真実を述べるのは私の国民としての義務だと思います。夫(ロッキード事件被告)は『どうしようか』と言いますので、お金は受け取ったのかと訊き返しますと、瞬時迷っておりましたが、顔を上げる際に軽くうなずいておりました。ハチは一度刺したら命を失うと申しますが、人を刺すという行為で私も失うものが大きいと思います」と語りました。その後は死にはしなかったものの、決して幸せな人生とは言えなかったそうです。



 ・・・。永田君と別れて⒋時頃だったでしょうか家に帰り着きました。それを待ち構えていたように電話が入りました。石津からの飲み会への誘いでした。もちろん、参加しました。そして、二次会三次会は地元で済ませました。一人去り二人去り、三次会では4人になりました。4人と言えばタクシーの定員内です。石津川駅ロータリーから4人タクシーに乗り込んで一路堺東へ向かいました。そして、いつもの店で歌いまくった後、少しばかり日付が変わっていましたが帰り着きました。そして、メールをチェックしたところ2通が届いていました。一通は「本日はお疲れ様でした。ただいま帰宅しました。ただ、昼食の後、450円つり銭をお返しするはずが、何を思ってか100円だけお渡ししたように記憶します。申し訳ありません。明日差額をお届けしたいと思いますFrom:中尾良生」。これが変人会の変人会たる実態です(笑)。もう一通は井野総代長から「やっと戎さんも終わり少し落ち着きましたが、15日の注連縄焼きが残っています。少し時間が出来ましたので、PCドクタ-の予定がなければ、13日午後から往診をお願いしたいと思っています。いかがでしょうか?メ-ル便でお願いします。今晩は7時から子供会の審判指導会議があり、帰りが遅くなると思います。宜しくお願いします」。とのことででした。13日と言えば今日です。もちろん、OK牧場の返信を打っておきました。

 今日の飲み会の成果は、同級生の股野君の若い衆でパソコン講習会の講師をすることになった人(金チャン)が居ました。堺市から補助が出ているが人件費は0だそうです。ボランティア精神旺盛な人ですが、無報酬では仲間を頼めないので、そこへ専任講師として来てくれないかとの話がありました。もちろん、報酬などもらえばプレッシャーがかかるだけなので、それは断りました。しかし、まぁ一度その教室を訪ねてみることにしました。できれば、手伝えることがあれば喜んで協力するという前提で。
久野 勲
 平成25年 1月11日(金)「つかの間の夢」
 今、私のメールアドレス帳には約120名の登録があります。その内の約80名が浜中九期生です。10年前に浜中九期生のホームページを開設した頃は、50名の同窓生たちとの交信がありました。今では両手に余るほどになってしまいました。しかし、ありがたいことに今は量より質でとばかり、結構楽しみながら交信させてもらっています。ところで、昨年11月の同窓会の返信はがきが、落ち着く場所がなくて私の手元にあります。何気なくメールアドレス欄の記載を見ていると、15名のアドレス変更の報告がありました。今後とも、私の方から送信することはありませんが、折角なので意味なくアドレス帳の更新をしました。そこで気がつきました。手書きなので、その多くはなかなか判読が難しかったことです。私のアドレを案内状に打ち込んでいたので、アドレスを持っている人に、私のアドレスにテスト送信をお願いすれば良かった、と思ってみても後の祭りでした(笑)。



 ところで、その昔堺に幕府が置かれていたことは、ほとんど知られていないようです。堺地域史研究家の中居正弘氏の「堺意外史」によると

 「
武家が開いた幕府政権は、時代順にいうと鎌倉、室町、江戸の3幕府であったことは、だれでも知っている史実である。ところが、堺幕府が存在したというと、きっとびっくりする人が多いはず。最近の研究によって、群雄割拠する戦国動乱期の真っ直中の大永7年(1527)から享禄5年(1532)までのわずか5年余りの極めて短命だったが、堺に中央政権が置かれていたことが明確になってきた。

 将軍跡目とされた足利義継が「堺公方(さかいくぼう)」といわれ、管領・細川晴元、政権を支える軍事力は阿波国人衆の三好元長らによって担われた。この政権は、京都を掌握し、さらに摂津・丹波・和泉を中心に畿内をほぼ制圧する中央政権だった。足利義継は、将軍位にこそ現任されていなかったが、京都の公家や権門から「堺公方」「堺大樹」と呼ばれ、奉公人・管領代・山城守護代・山城郡代を駆使する管制上の頂点にあり、事実上の将軍跡目として、君臨していた。

 大永7年、室町幕府の管領・細川高国の打倒をめざした細川晴元らは、三好元長をはじめ四国・阿波衆の軍隊を主力に、京都での決戦に勝利。高国方は、12代将軍・足利義晴を奉じて近江に逃亡した。このとき、幕府の奉公人も下向しており、近江朽木谷へ亡命中の義晴・高国方の政権事務を行う機関の存在もなく、室町幕府は、一旦崩壊・中絶したとみられる。朝廷方が政権を握った堺公方に相談しなかった大永から享禄への改元は、公文書から無視され、大永年号が一時継続されたことも資料から明らかになっている。

 幕府の本拠は堺市中にあった顕本寺(宿院に現存)に構えた。ところが、この堺幕府の内部は、三好元長ら阿波国人衆だけでは一統支配することができす、山城後背地を握っていた柳本賢治や茨木長隆ら摂津の有力国人衆との連衡政権であった。このため、はじめに三好元長が柳本賢治と山城守護代をめぐって争い、柳本を追放。次いで、前政権の細川高国ら共通の残敵を滅ぼし、堺幕府が不動の地位を確保したかにみえたが、今度は、摂津国人衆らと阿波国人衆との権力闘争が激化。摂津国人衆は、台頭してきた一向宗門徒10万人の大軍を引き出し、享禄5年6月20日、幕府本拠のあった堺顕本寺に三好元長らを包囲して自刃させた。これによって、5年余にわたって存続した堺幕府が滅亡した」とのことです。久野 勲

 平成25年 1月10日(木)「何か良いことありそうな」
 11日は爺さん(妻の父)の命日で、春日野墓地に妻の代役でお参りします。そのあと柳原蛭子さんに残り福をいただきにゆきます。実は20数年前から蛭子さんにお参りをしていますが、初め一人で行き場所もわからずJR兵庫駅で降り、人ごみの流れに乗っかり着いて手を合わせ見上げると、何か変、俵に乗った仏さん黒光りに輝いています。大黒天でした。すごい間違いですね。沢山の人の波で確認せず神殿まで入り、人ごみの中から、頭越しにお賽銭を投入、ご神体を確認しようと前に出て気が付きました。ま、いっか。七福神の御一人です、えびすさんはお向かいです、出店と人の波で出入り口が確認しにくく、間違いました。これも何かのご縁。それからずっと大黒さんに福をいただきに来ています。えびすさんは、私とおんなじ、耳が遠く裏からお願いをするとよく聞いて下さるそうですよ。うらえびすです。(男性の声は大丈夫かな?)裏工作ならお手のもです???両方にお参りしますが、メインは大黒さんです。柳原の大黒天様は真っ黒の金属の大黒様です。すごい立派ですよ。黄金の大黒様も景気が良くいいのでお出まし願いました。12日(高橋君の写真展)楽しみにしています。明日も出かけます。西神の北にある農協の朝市に野菜や花の買い出しです。おかい



 戎様に大黒様、正月早々なかなか縁起が良いですね。さて今回の「変人会」・・・ではおかしいですね。「歩こう会」、これもすでに存在するようです。何か良いネーミングを考えないと勧誘しにくいですね(笑)。とりあえず、高橋君の写真展鑑賞会の幹事さんは中尾君です。高橋君の居る12日(土)に決まったようです。参加メンバーが増える可能性もあるようで楽しみです。ちなみに、自選他選にかかわらず変人以外の人でも大歓迎です(笑)ので奮ってご参加下さい。

 ところで、いよいよ私にとってカウントダウンが始まりました。今月末で退院後1年になります。そして、1年検診があります。これで特に異常がなければ、これまでの1ヶ月おきの検診から6ヶ月おきになる予定です。さらに、去年の3月から続けている抗ガン治療が終わる予定です。つまり、うまくいけばあと1週間で抗ガン治療が終わることになります。まさに私にとっては、カウントダウンが始まったように思っています。しかし反面、順調すぎる快復傾向に少なからず不安感が付きまとっているのも事実です。まぁここまで来れば、後は野となれ山となれではありませんが、ケ・セラセラと言ったところでしょうか。日本語に訳せば、横浜の島田さんの口癖「まぁ、いいか!」(笑)ですかね。この言葉に何度となく心を癒やされてきました。「ありがとう、良~い言葉です!」久野 勲

午後から石津太神社のえべっさんへ行って
縁起ものの「吉兆」を授かってきました。
 平成25年 1月 9日(水)「怖いもの知らず」
 今朝のウオーキング中、浜寺公園のベンチで小休憩していると、果たして人畜無害を知ってか知らずか(笑)二羽の子雀がすぐ足下まで寄ってきました。(画像下はべーやんの足です)警戒心の強い雀がエサもやっていないのに、人に近づいて来るのは非常に珍しいことです。急いでデジカメを取り出しました。シャッターを切りながら、思わず「われと来て遊べや親のない雀」などと、勝手に一茶の心境を想像してみたりして・・・

 ところで、一茶と言えば江戸時代の俳人・小林一茶(1763~1827年)が、俳句を採点したとみられる帳面「点帖(てんちょう)」が、長野市内の個人宅で見つかったそうです。一茶に詳しい矢羽勝幸・二松学舎大客員教授(俳文学)は「一茶は人の句を採点して収入を得ることを嫌っており、これまで冊子になった点帖は2点しか見つかっていない。貴重な発見だ」と話しています。点帖は長野市の轟謙一さん宅に保管されていたものを、同市の郷土史研究家・岡沢由往さんを通じて矢羽教授が鑑定。筆の軸先に朱色の墨を付けて丸を印鑑のように押し、0~3個の丸の数で採点する方法や筆跡などから、一茶の点帖とみられると判断されたそうです。点帖はA4判ほどの大きさで、題名は「蟋蟀(きりぎりす)」(当時はコオロギの意)。複数の作者が寄せた計321句が採点されている。一茶は尊敬していた松尾芭蕉にならって、不特定多数の人の句を採点してお金を稼ぐことを嫌い、採点をきっぱり断る手紙も残っていますが「親しい人に頼まれ、断り切れなかったのではないか」と矢羽教授は推測しているそうです。久野 勲
 平成25年 1月 8日(火)「老いてますます・・・」

 早速、岡井カメラマンからメール便で写真を送ってくれました。「昨日はありがとうございました。お天気がよくて良かったですね早速の変人仲間入り?ですか。写真添付いたします。濱野さんの絵は久野さんが出されていますのでカットいたします。重いので分けて送ります。高島屋でのお二人の姿が印象的ですね、LouisVuittonに忍び込む怪しき二人の男????母ちゃんに何をかってやろうか迷っている感じにも見れましたね。(笑)それとも他の女性ですかな?おかい

 とにかく、ご覧のように見かけだけはすこぶる元気なお年寄りですね。自分で言うのも何ですが、とても徘徊老人には見えません(笑)。ただ、座る時にはつい口癖のように「どっこいしょっと」、立ち上がる時には「よっこらしょっと」が出ます。そんな私たちですが、うれしいことに遠く離れている同窓生からの賀状の添え書きに「一病息災といいます。70才、これから人生楽しみながら頑張りましょう」とのエールが届いています。そうですね、この歳になるとなかなか無病息災とはいきません。一つや二つの病気は当たり前です。人生旅の途上、お互いに出来る限り楽しく過ごしましょう。そのためにも、当サイトは変人専用ではありませんので、それ以外の人もどんどん参戦してもらって、情報交換したいものです。そう言えば、同窓生の中で、雲の写真を専門に撮っている人がいると岡井君から聞きました。ぜひ参戦してもらいたいと思っています。久野 勲


 平成25年 1月 7日(月)「勢ぞろい!」

 今日切符をいただいたので、神戸の博物館に行って来ました。

 <展示品>
 オランダ・ハーグにある王立のマウリッツハイス美術館の展示品です。オランダ領ブラジルの総督をつとめたナッサウ伯ヨーハン・マウリッツ(1604~79)の邸宅を使い、1822年に開館しました。オランダ黄金時代の絵画の殿堂として世界的に知られ、17世紀オランダ・フランドル絵画の珠玉の名品約800点を所蔵しているようです。同館が改修工事にはいるため、フェルメールの傑作として知られ、美術館の顔として最も人気の高い「真珠の耳飾りの少女」やレンブラントによる感動的な再晩年の「自画像」、オランダ風景画の巨匠ヤーコプ・ファン・ライスダールの「漂白場のあるハールレムの風景」、風刺が利いたヤン・ステーンの風俗画「牡蠣を食べる娘」など約50点の出品が実現しました。の宣伝に興味をもち見学した次第です。マリヤさんが天国に旅立つ姿フランダ-スのパトラッシュの犬と天国に旅立姿が重なりました。この絵は下絵らしいです。1枚1枚に説明が入るのですごく興味をもち見学できました。真珠の耳飾りの少女などは画家の理想の女性を想像して書いたようですね、本人が死ぬまで所持していたらしく競売に出たときは破格の安い値段で落とされたようです。今はオランダのモナリザとも言われているようですね

    
 最近の説明の携帯の機械に納得、スマホのような大きさでヘッドホン付、画像と説明が付き借りるのが500円です。1枚ずつの絵の説明に感激しました。見学者は凄い人の数でした。入口は購入する人が並び入場券のある人が優先で入れるので助かりましたが、10時に入り、12時50分まで約3時間1階から3階まで人・人・人本当に疲れました。明日は大阪の美術館見学です。皆様にお会いできるのを楽しみにしています。おやすみなさい。おかい


 今日は、(かね)てからの予定通り、大阪市立美術館で開催中の「大阪を描こう展」に行ってきました。目的は、ご覧のような我ら浜中九期生の「濱ちゃんの作品」です。他の作品も多数展示されていて、新春早々目の保養をさせていただきました。そのついでと言っては何ですが、浜中九期生同窓生4人(岡井・中尾・永田・久野)で新年会としゃれ込みました。誰かが「焼き肉を食べたい」と言い出したので、それなら鶴橋やろうということで、環状線で鶴橋まで出かけました。11時過ぎだったので飲み屋街や商店街をウロウロしましたが、誰も馴染みの店はありません。そこで、私に直感で良い店を決めてくれとの指令が出ました。どんな感やねん、と言いながら駅前にあった、今日から生中が290円という「牛一」という店に決めました。そこで私が一言、ここで新年会を兼ねて新歓をやろう。新歓?何のや?との疑問に、今日から三変人が四変人になるんやと答えました。白羽の矢に当たった岡ちゃんは観念したようです。しかし、こだわりがあったようです。以前、三変人の中に濱ちゃんが不自然に写っていた件に触れ、あれ(合成写真)ではいかんとばかりに自分のカメラを店員さんに渡して四変人揃い踏みの記念写真を撮りました。冒頭の濱野君の作品も、4人それぞれ撮影していたので四変人の写真とともに楽しみにしています。

 写真と言えば、新年会兼新歓の後、岡井君の思い出のコーヒーの店「丸福」でお茶をしました。その後、法善寺横町や心ブラを楽しみました。そして、誰かが(実は私)ぜんざい食べたいなと言い出しました。なん地下を探し回って、やっと甘党の店を見つけてぜんざいを食べました。ぜんざいを食べる4人のおっさんは、どう見ても場違いな感じでした。そこで、早速4変人の初行事が決まりました。次回は中尾君が幹事になって、やはり同窓生・高橋南勝君の作品が出展されている「JPS関西メンバーズ展」の写真展の鑑賞に決まりました。

 <番外編> いやぁ、変人が4人も勢揃いすれば、いろんな話が飛び出してきます。誰とは言いませんが、私の耳は女性の声しか聞こえません。ただし、奥さんの声には「えー」「なにー」とか言って聞こえない振りをするとか。イヤなことは聞こえないふりをして、悪口などに対しては、きっちり怒ったり・・・昔風に言えば、勝手○○○と言うんですね。そして、高島屋の東店(高級品売り場)で、ルイヴィトンやシャネル等を見て歩きましたが、あまり関心を示さなかった誰かが「私のお腹がディオールや」などと、つぶやいていました。そのほか面白い話や親父ギャグが飛び交いましたが、くだらなかったのか(笑)その大部分は忘れてしまいました。まぁ早い話が、暴走老人ならぬ人畜無害の徘徊老人と言ったところでしょうか(笑)。
久野 勲

 平成25年 1月 6日(日)「消防出初め式」
 今朝7時半ごろ、長い間OFFになっていた河口湖からの富士山のライブカメラを訪ねたところ、いつから復活したのかLIVEになっていていました。そして、ご覧のようにきれいな逆さ富士が現れていました。なお、上空には何本ものケム・トレイル(航空機が化学物質などを空中噴霧することによって生じているといわれている飛行機雲に似た航跡)のような航跡が見えます。



 ところで、毎年のように七色の放水などニュースで観る東京消防の出初め式がこの日に行われます。慣例となったのは、1953(昭和28)年からです。1659(万治2)年、1月4日に旗本の定火消(じょうびけし)が、上野東照宮神前で一年の働きを誓ったことに由来していますが、最近は地域によって出初め式の日が異なっているようです。火消といえば映画などで登場する、はっぴ姿で纏を担いだ町火消が有名ですが、その他にも、大名が担当する「大名火消」、旗本が担当する「定火消」もあったようです。火消は、明暦の大火の翌年の万治元年(1658)9月に設置されました。旗本4名が定火消役を命じられ、御茶ノ水、小石川伝通院前、麹町半蔵門外、飯田町に火消屋敷が設置されていました。そして、万治2年に2組、万治3年に2組、寛文2年(1662)に2組に増加され、合計で10組となりました。さらに、元禄8年(1695)に5組増設され、合計で15組となりました。しかし、宝永元年には、5組減らされ10組となりました。その後、幕末まで10組が維持されました。そのため、定火消は10人火消とも呼ばれていたそうです。

 大阪では、毎年2万人以上が観覧する大阪市消防出初式が、今年は橋本市長も参加してATCのオズパーク一帯で華々しく開催されたそうです。陸・海・空の消防部隊が集まり消防隊員・消防車などのパレードをはじめとして、レスキュー訓練、消防車両や消防艇による一斉放水、大阪市章をかたどった「みおつくし放水」などが実施さたそうです。



 今朝のYahooニュースによると、松井秀喜のバットが米野球殿堂入りするとのこと。記事によると「昨年末に現役引退を表明した松井秀喜氏(38)のバットが、ニューヨーク州クーパーズタウンの野球殿堂で展示されることが決まった。ヤンキースの専門テレビ局YES(電子版)が報じた。YESによると、展示されるのは松井氏が大リーグ移籍1年目の03年4月8日、ヤンキースタジアムでのデビュー戦(対ツインズ)で満塁本塁打を放った際のバットなど。このバットは次の打席でひびが入ったが、ヤ軍の選手がヤンキースタジアムでの初出場試合で満塁本塁打を放った史上初の快挙を称え、直後に殿堂入り。引退を機に再び展示される。野球殿堂のジェフ・アイドルソン館長は日本語で「日米通算20年間、お疲れさまでした。寄付していただいたバットを展示させていただきます。ありがとうございました」とコメント。すでにMVPに輝いた09年のワールドシリーズで使用したバットも展示されることも決まっており、あらためて松井氏の功績が称えられる」。久野 勲
 平成25年 1月 5日(土)「許されざること」
 毎年、今日1月5日には東京都千代田区にある日本武道館で財団法人・日本武道館が主催する書道事業の行事として全日本書初め大会が約4.000人を集めて催され全国的に各種メディアで放映されています。これは今や新年の風物詩の一つとなっています。そもそも書き初めが、宮中と一部の文人の行事から、一般に広まったのは、江戸時代の寺子屋教育の普及と明治以降に学校で習字が必修とされてからです。昭和のはじめ頃までは、神棚や、学問の神様といわれる菅原道真の画像の前で「寿」や「福」などのめでたい文字や漢詩を書いて、神棚へ納めたり、その年の恵方の方角に貼ったりしていたそうです。古来、書道は文化の最高部門の一つとされ、天皇、公家、学者、歌人、憎侶など、書の名人とされていた人が高い位置を占めていたことが、書き始めというめでたい風習にも反映されていたといえます。



 昨日が官公庁の御用始めでした。そんな中、ショッキングなニュ-スが流れました。兵庫県宝塚市は5日、東日本大震災の復興支援のため、岩手県大槌町に派遣されていた同市の男性職員(45)が、宿舎として利用している岩手県宮古市の仮設住宅で首をつった状態で死亡していたと発表しました。自殺とみられるそうです。宝塚市によると、遺体が見つかったのは3日午後7時ごろ。2日から連絡が取れなくなったことを心配した家族が、宮城県南三陸町に派遣されている同僚に確認を依頼。仮設住宅を訪ねた同僚が発見したとのこと。遺書とみられる手紙も見つかり「皆様ありがとうございました。大槌はすばらしい町です。大槌がんばれ!!」と書かれていたそうです。男性の派遣期間は昨年10月から今年3月末までの予定で、土地区画整理事業などを担当していました。宝塚市役所で会見した中川智子市長によると、市長が年末に電話した際「やっていることがどこまで役に立っているのか分からない」と話していたといいます。中川市長は「殉職というような思い。2度と犠牲者が出ないように他の派遣職員とも話し合いたい」と述べています。

 ところで、東日本大震災から3カ月がたった6月18日、過労死弁護団全国連絡会議が行った無料電話相談「過労死110番」には、全国から震災に関連する過重労働のSOSが10件以上相次いだそうです。 被災地に派遣されたある自治体職員の男性は、多忙な業務に追われ、鬱病を発症した末に自殺しました。作業員の健康が問題となっている福島第1原子力発電所の事故も含め、今回の震災は、過労死という新たな犠牲を生む危機に直面しています。 過労死問題に詳しい弁護士、松丸正氏は言います。「復興に向け、極限の状況で働く人々が存在するいまこそ、私たち日本人は過労死と向き合うべきだ」と。日本の過労死は、世界的に知られた社会問題だそうです。しかし、震災で世界が息をのんだ「tsunami」(津波)と同様に「karoshi」(過労死)もまた、ローマ字表記で世界に通じる単語であることは、あまり知られていません。tsunamiは、小泉八雲が1897(明治30)年、村人を避難させた豪商の物語「稲むらの火」の原作を英語で書いた際に使った。1946(昭和21)年には、アリューシャン地震で米ハワイが津波に襲われ、日系人が英語に定着させたとされています。一方、karoshiは2002(平成14)年、オックスフォード英語辞典のオンライン版に掲載されているそうです。

 今回の場合、派遣を自ら志願したのかどうかは知る由もありませんが、半年間家族と離れ慣れない遠く離れた厳寒の地で何があったのでしょう。45歳という若さで、愛する家族を残して自ら命を絶つからには、それなりの理由があったのでしょうが・・・もとより軽々に論ずることは出来ませんが、非常に残酷で哀しい出来事です。しかし、敢えて言わなければなりません「いかなる理由があろうと、自ら命を絶つことは絶対に許されないことです」。
久野 勲
 平成25年 1月 4日(金)「石伝説」
 「い(1)し(4)」の語呂合わせから、今日は「石の日」とされています。この日にお地蔵様・狛犬・墓石など、石でできたものに触れながら願いをかけると、その願いがかなうという言い伝えがあります。昔から石には不思議な力があると信じられており、願掛けの対象になっているようです。石とは何ぞや?それは、岩石が水流などによって小さくなったものであり、砂よりも大きい。石よりも小さく、砂よりも大きい物を砂利または小石と呼ばれています。石は生物ではありません。また、木などに比べ、硬いという性質から変化の少ないものと捉えられています。しかしながら、物語において石は、夜泣き石のように泣いたり、子を産んだり、成長したりと様々な面を持っています。君が代の中にも「さざれいしのいわおとなりて」(さざれ石が大きな岩となって)と石が成長する様が描かれています。日本の神社には、通常の神とは別に石が祀られていることが多いようです。石津太神社も例外ではなく、蛭子の神と一緒に流れ着いたとされる「五色の石」、戎様が腰掛けられたとされる「戎神腰掛石」などが祀られています。まったくの余談ですが、いしと言えば石津の方言でしょうか、昔はよく「あの人は、いしこい」な、という言葉を聞いたことがあります。「男らしい」と言う意味です。

 ちなみに、静岡県掛川市の小夜の中山峠には「夜泣き石」と呼ばれる不思議な石があるそうです。その名のごとく、夜になると石が泣き出すという伝説がある不思議スポットですが、心霊スポットとしても知られています。ウィキペディアによると、夜泣き石とは「小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所である。曲亭馬琴の『石言遺響』(文化2年)によれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里(現・静岡県菊川市菊川)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。そこを通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。その時お石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれた。生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたということである。その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号をきざんでいったという」。久野 勲
 平成25年 1月 3日(木)「ビッグニュース!」
 今日、井野総代長から、次のようなメールが届きました。今年のビッグニュ-スです。12月31日夜 WBAミニマム級王座決定戦宮崎亮(井岡ジム)対ポンサワン.ポ-プラムック(タイ)の世界戦があり、井岡選手と共にチャンピオンに輝いた、宮崎 亮君が、石津太神社に凱旋参拝にきました。その時の写真です。彼は、子供時代私所のお菓子屋によくきてくれ、私からうるさく躾けされたことを覚えてくれていました。これからが大変だと思いますが、チャンピオンという立場で、次回防衛戦も頑張ってくれること大いに期待し、応援していきたい思います。氏子という立場を忘れないで、試合前のインタビュ-は石津太神社前で受けていました。これからも、しっかりと応援していきたいと思います。皆さん、どうぞ宜しくお願いします。頑張れ、宮崎 亮!  

 チャンピオンが石津太神社に現れたのは元旦の夜中の2時頃だったそうです。総代長は最初、また若い連中がたむろしているな、注意しにいかなあかんな。と思っていたそうです。そこへ神社の役員さんから「総代長、チャンピオンが来てはりますよ」と聞いて、初めて知ったそうです。Yahooニュースによると、宮崎選手は中学3年時の担任教諭に井岡ジムを紹介され「父代わりになった」という井岡一法トレーナーに出会った。日本生命に勤めながら3きょうだいを育ててくれた母・恵美子さん(50)に「楽をさせたい」の一心で臨んだ世界挑戦だった。とのことです。私は大晦日のすべてのボクシング世界戦を観ました。もちろん、宮崎選手の試合も観ましたが、まさか浜寺中学校出身で、しかも石津の子だとは知りませんでした。それにしても、浜中から、石津から世界チャンピオンとは、まさにビッグニュースですね。今後、応援したいと思います。まさに、歌舞伎の名セリフにもあります「こいつぁ正月(春)から縁起がいいわぇ」。
久野 勲
 平成25年 1月 2日(水)「今年は縁起が良い!」
  今日もまた穏やかな天候に恵まれて、久しぶりに「清荒神」へ初詣に行ってきました。清荒神と言えば、今年の星回りを占う右の表「九星星回り一覧表」の前には大勢の人が集まり、その人気のほどがうかがえます。この表は数え年で見るそうです。近づけなかったので写してきました。ちなみに、私は昭和18年生まれなので71歳、17年生まれは72歳です。この表で見ると、ご覧のようにどちらもものの見事に「マッシロケノケ!」です。今年は我々「浜中九期生」にとって最良の星回りになっています。私はどちらかというと、占い等の類いは信じない方です。しかし、虫が良すぎるかも知れませんが、良い卦だけは信じたいものです。岡井さんの言われるように、早速、新年早々良い卦が戻ってきたのかも知れませんね。それにしても「悪いことは、良いことの前触れです」とは、けだし名言ですね。

 ところで、堺東のいつもの店が今日が仕事始めだと聞いていたので、景気づけにもなりませんが行ってみました。こんな日に客は居ないだろうと思っていました。ところが、馴染みの顔ぶれが結構集まっていたので、つい盛り上がってしまい、賑やかなうちに気分良く歌い初めをしてきました。この店も正月早々、幸先が良かったのでとにかく喜ばしいことです。
久野 勲
 平成25年 1月 1日(火)「書き初め」


謹んで新年のご挨拶を申し上げます
           
 今朝は幸先良く、今年は何か良いことが起こりそうな、そんなことを暗示しているような穏やかな新年の幕開けを迎えました。旧年中は何かとお付き合いいただき、ありがとうございました。今年も、懲りずにどうぞよろしくお願いいたします。なお、気分良く午前中に、女房とともに親戚まわりを済ませた後、石津太神社で初詣に行ってきました。昨夜から徹夜で詰めていた総代長や押部さんには会えませんでしたが、役員さんたちが頑張っていました。



 ところで、下の写真は小猿からの年賀状です。これは、昨年の大泉緑地での花見の集合写真(小猿一家)です。私は退院して3ヶ月でしたが、股野君と一緒にタクシーで駆けつけました。当日はこれだけの人数を集合させるのはは大変でした。あちこちに散らばった子供達を集めるのに。小猿先生はじめ保護者の皆さんは汗だくで走り回っていました。私たちは、右端に用意してくれた椅子に座っています。こうして見ると私は心なしか、かさが小さくなっていたようです。ちなみに、前で横になっているのは、小猿のお茶目なお姉さんです。確かこの写真を見るのははじめてです。

 元旦早々、少し食べ過ぎてしまったようです。昼食後腹ごなしを兼ねて、初ウオーキング出かけました。朝は風が冷たかったですが、午後からはほとんど風もなく穏やかな気候でした。そのあおりを食って、公園の広場では子供たちが凧を揚げるのに四苦八苦していました。天候のせいか、昨日とは打って変わって公園でくつろぐ親子連れを多く見かけました。

 あけましておめでとうございます。今年もよろしく、お願いいたします。正月は子供のころからお雑煮をこしらえていたので、今年も用意を7時30分ごろから初めて出来下がり全員で朝食です。御神酒もいただき、少し正月らしい雰囲気を味わいました。

 今日は毎年家族でお参りをしていた、平野八幡神社の初もうでです。妻が膝の手術後で歩けないので娘二人をつれお参りをしてきました。丁度御神楽奉納の場に出くわしました。心が清められ3人でお参りをすませ、お札もいただき、おみくじです。次女が大吉を引き当て有頂天、長女は末吉で何かがっかりした感じ、私は昨年が大吉なのでもう一度大吉かと引きましたが小吉です。小吉や!で長女からEXILEの将吉やの話が出て盛り上がりました。長女がスマホで調べてくれました。おみくじの結果を、一般的に運勢がいい順で上から並べると、次のようになります。大吉:中吉:小吉:吉:半吉:末吉:末小吉:凶:小凶:半凶:末凶:大凶。半凶まで来ると半狂乱やなぁなどと冗談を言い合いました。大吉をだいけちに変え姉妹と3人で冗談を言い合いながら帰りました。半吉と末吉を比べて みると、半吉のほうが1段階上らしいも少し順位が変わるようです。

 ところで、私が若い時大凶を引き当てたときのお話。20代に親戚の連中と元旦の夜2台の車で柏原神社に繰り出しました。お参りを済ませ、おみくじを引きました。巫女さんが14の番号をちがえてくれましたが、気が付き換えてもらったのが大凶です。その頃はあまり気にかけませんでした。正月から縁起が悪いのか、わざと巫女さんが変えてくれたようですね。帰り3が日は恒例のマージャン大会、私も参加して見事一人勝ちですごいお正月でした、逆にめったに出ない卦ですのでいいのかもしれませんね。

 悪いことはいいことの前触れです、いい卦を引き戻してください。今年もいい年でありますように。おかい



 幸先良く、元旦早々常連さん(笑)から今年最初となるメールが届きました。ありがとうございます。今年もまた、サーバーの容量が許す限り、当サイトのより充実を願って、皆さんからのお便りを独断で取捨選択しながらも出来るだけ掲載させていただこうと思っています。近況報告・情報交換等の場として、楽しく利用していただければ幸いです。なお、万が一意に反して掲載した場合は、お手数ですがご一報をお願いします。すぐに訂正なり削除をさせていただきます。久野 勲

inserted by FC2 system