令和 元(2019)年 6月~令和 元(2019)年 7月

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令和 元年 7月31日(水)新幹線の歴史は時間短縮の戦い

 ブログには色々と書かれており、感心しています。よくご存じ(調べるのかな)ですね。件名に書きましたが、いま岡井君から電話がありました。お盆頃に「伊丹行燈祭り」があり、伊丹にある酒蔵剣菱に料理店があり、お酒も飲めて、行ってみたらとです。まだ調べてませんが、伊丹で降りたら良いそうです。岡井君は、変わりなく元気にしているようです。先日は、見舞いに来てくれ有り難うと言ってたよ。永田新吾



 いつも閲覧していただき、ありがとうございます。岡井君の元気な声が聞けて、ひとまず安心ですね。ところで、伊丹行燈(あんどん)祭りはともかく「岡ちゃん散歩⑲・京都&伊丹散策」に、神戸特派員・岡井君からの「伊丹の祭り」に関する詳しい報告をアップしています。暑い夏が過ぎて、秋ともなれば各店先や街角で虫の音を楽しむ幻想的なイベント「鳴く虫と郷町」が兵庫県伊丹市内で始まるそうです。約15種3千匹の虫を竹かごやつぼに入れ、中心市街地などの100以上の店舗や施設に並べられるそうです。私は何度も観ているので、行ったつもりになっています(笑)。久野



 ところで、1959(昭和34)年7月31日は「特急こだま」が、狭軌鉄道での世界最高速記録である時速163Kmを樹立し、世界に「シンカンセン」としてその名を馳せた日です。この実験は、新幹線の実現のために行われたものだそうです。我が国の大動脈、東海道新幹線が実際に開通したのは、1964(昭和39)年、東京オリンピックの開催された年です。新幹線の「こだま」は、夢の超特急として登場した当初から、速達タイプの「ひかり」に対して、始発駅から終着駅まで全ての駅に停車する列車として運行を開始しました。「こだま」の特徴はなんといっても、親しみのあるその丸い顔でした。今では、高速走行重視の流線型の尖った顔の列車や奇抜な顔が主流となっていますが、この丸みのある顔も、現れた当時はいかにも速そうな頼もしい印象でした。そして軌道鉄道は、今や時速600Kmを越すリニアモーターカー実用化を目前にして、飛行機を相手にしてスピード競争をする時代になっています。

新幹線の区間・路線   現在の最高速度
東北新幹線(宇都宮~盛岡)   時速320Km
山陽新幹線(姫路~博多)   時速300Km
東海道新幹線(東京~新大阪)   時速285Km

新幹線の勢揃い

 このように、東京~新大阪を結ぶ東海道新幹線は最高速度が時速285Kmにとどまっており、300Kmを出せません。これは、東北新幹線や山陽新幹線と比べると、急なカーブが比較的多いことが原因です。ちなみに、最近の北海道新幹線・東北新幹線の盛岡以北・北陸新幹線・九州新幹線などはなんと時速260Kmしか出せません。それは、260Km以上を出したときの騒音対策にかかるコストなどを考えると、260Kmくらいが丁度いいのではとの考えが「整備新幹線法」という法律に盛り込まれているからだそうです。

幻の東京五輪
  東京五輪と言えば、1936(昭和11)年7月31日にIOC(国際オリンピック委員会)は、4年後の第11回オリンピック大会の開催地を「東京」に決定しました。しかし、その翌年に日中戦争が勃発しました。戦争が激化する中、2年後の1938年になって、やむを得ず政府は中止を決定し返上を申し出ました。当時の安井誠一郎都知事らの誘致が功を奏し、23年後の1959(昭和34)年に東京での開催が再度決定されました。それが、川端眞砂子さんの「スペイン語通訳」デビューとなったそうです。そして、来年の開会式まで1年を切った「2020東京五輪」に引き継がれました。久野 勲
令和 元年 7月30日(火)「盆が早う過ぎりゃ、早う戻る」
 「思い立ったが吉日」・「善は急げ」、さらにその上に1週間ぶりと言うことも相まって、夕べは早速「暑気払い」をしてきました(笑)。少路さんが、今日に限ってあまり飲まないので「体調でも悪いんですか?」「いえ、明日福岡へ帰りますので」「そうですか、結構時間がかかるんでしょうね」「ええ、車で陸路ですので朝5時に出ます。盆過ぎには戻ってきます」とのことでした。やがてこの日も一人去り二人去り、お母ちゃんとの漫才風ボヤキも終わって、この日のラストソングは「♪マッチを擦ればおろしが吹いて~やけに線香がつきにくい~サラサラゆれる吾亦紅~ふとあなたの吐息のようで~」すぎもとまさとの「吾亦紅(われもこう)」を歌って帰ってきました。

 さて一夜明け、今日も暑くなりそうな予感がしました。ところで「善は急げ」は良いんですが「早とちり」はいけませんね。昨日、北海道を除いて全国的に梅雨が明けたと、早とちりしてしまいました。正確には、今日東北南部が梅雨明けで、東北北部がまで開けていないそうです。それにしても、なぜ北海道には梅雨がないのでしょうか?それは、梅雨前線は微妙に移動しながら長く日本列島上空に居座り続けます。 ところが、北海道はオホーツク海高気圧の勢力下にあるので、梅雨前線がのびてこないのだそうです。

 今朝も日が高くなる前にと、早々に朝食を済ませて出かけました。私が以前、時折り腰を下ろして小休憩していたベンチには、野良ネコの「ノラちゃん」が気持ちよさそうに日向ぼっこをしていました。このベンチは、私が勝手に「指定席」にしていましたが、昨年の暴風台風により「木もれ陽の小径」が、すっかり「ダダもれの小径」と化してしまって以来、腰を下ろすことはなくなり、今では惜しげも無く「ノラちゃん」に明け渡しています(笑)。なお、残念ながら捉えきれていませんが、ベンチの周りの野草に朝露が着いて、ピカピカと朝陽に輝いていました。久野 勲
令和 元年 7月29日(月)「おへんさんなひとどすえ?」
 今から6年前になりますが、2013(平成25)年初夏に「変人会」一行で京都へ出かけました。西本願寺御影堂 (ごえいどう) 正面の左右ニ箇所にある約150cm 四方の雨水を受ける「天水受け」を、四方四隅の下で各4体・計8体の「天の邪鬼(あまのじゃく)」が支えていました。その天の邪鬼は、身長が約38cm なのに比べて、顔の大きさが縦15cm、横17cm という、ほぼ二頭身のずんぐりとした姿が特徴でした。御影堂が再建された1636(寛永13)年から、ずっと天水受けを支え続けてきました。仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼(あっき)と呼ぶそうです。「ひねくれた性格でへそ曲がり」「つむじ曲がりの人」を指して言うことが多いようですが、大阪弁では単刀直入に「へんこ」で片づけてしまいます。それにしても同じ関西でも、京ことばでは雅(みやび)やかに「お変さんな人」と言うそうです。さすが京都の人は、はんなり(上品)さんどすえ(笑)。ちなみに奇しくも、この京都行きのグループが下世話な「変人会」だったので、雅やかさには縁のない「天の邪鬼」には妙に親近感を覚えたものです(笑)。




 ところで、今日の天気予報の見出しは、大きく「たいへんお待たせしました。関東甲信梅雨明けです」となっていましした。梅雨のない北海道を除いて全国的に梅雨が明けた今日は、東日本から西日本にかけて各地で気温が上がり、64地点で35℃以上の猛暑日を観測しました。岩手県の37℃を筆頭に猛暑日を記録した地点数としては、今年最多となりました。ちなみに、堺では34℃でした。こう暑くなれば、週に一度の「暑気払い」が待ち遠しくなってきます。そしてウォーキングも帰り道の8時頃になると、少し陽射しが気になり出しました。そろそろサマータイムを取り入れて、1時間早く出かけるようにする必要がありそうです。久野 勲
令和 元年 7月28日(日)「奈良・飛鳥時代の首都・難波(なにわ)
 今日7月28日は、単なる語呂合わせから「なにわの日」だそうです。大阪市浪速区が「未来わがまちビジョン」に基づいて、浪速区がもつ多彩な魅力の再発見とその認知度を高めるため、平成19年度に制定したそうです。この日は浪速区の様々な場所で、市民・商店街・企業・NPO(非営利団体)などがイベントを行っています。ちなみに、goo(グー:ネット検索及びメールサービス)ランキングの行ったの調査によれば「大阪と言えば思い浮かぶことランキング」は、次のようになっています。

  
1位   たこ焼き/たこ焼き器
2位   関 西 弁/大 阪 弁
3位   吉本興業/吉 本 芸 人

 ところで、大阪には「浪速・浪花・浪華・難波」などの地名があって、非常にややこしいように思います。

「浪速」
初代・神武天皇が吉備の国から東征された際に『難波碕付近に着こうとした時、速い潮流だったのでここを浪速(なみはや→なにわ)国と名付けた(日本書紀より)』とあるそうです。ナンバというのは、それが訛っ(なま)たもので、「難儀な波」から難波となった説もあります。現在、ナンバ周辺が浪速区として地名に残り、なみはやドーム、なみはや大橋、なみはや高校、等もあります。


「浪花・浪華」江戸時代になってから使われた表記。当時日本一栄えた上方の、はんなり(上品)したイメージでこうした字が使われ出したようです。近松・西鶴・他の町人文化が繁栄した時代で、歌舞伎の夏祭浪華鑑(なつまつりなにわかがみ)を始め、俳諧浪花杖、浪華名所図、浪花百景など上方物が多く出版さたそうです。

「難波」古代、難波津(なにわづ)を中心として発達した上町台地(大阪市天王寺区・中央区)の事を言い、4世紀に難波大隈宮(なにわおおすみのみや)、5世紀に難波高津宮(なにわたかつのみや)、7世紀に難波長柄豊崎宮(なにわながらとよさきのみや)と、首都が置かれました。日本書記、古事記、風土記など古代の書物では「難波」という文字が最も多く用いられています。現在の難波(ナンバ)駅周辺は、昔は海の底でしたので場所が違うようです。なお一説によると、次のような伝説があるそうです。
五世紀の前半、第16代・仁徳天皇は難波の都高津宮にお住まいでした。ある時、民家の竃から立ち上る煙が少ないことに気づかれ、天皇は「民の暮らしが貧しいからだ」とその後三年間租税を免除されご自身も質素倹約につとめられました

遷都の年表
遷都年 天皇
643 飛鳥板葺宮 35代 皇極天皇
645 難波長柄豊崎宮 36代 孝徳天皇
655 飛鳥宮 37代 斉明天皇
667 近江大津宮 38代 天智天皇
672 飛鳥浄御原宮 40代 天武天皇
694 藤原京 41代 持統天皇
710 平城京 43代 元明天皇
740 難波宮 45代 聖武天皇
784  長岡京 50代 桓武天皇
794  平安京 50代 桓武天皇

遷都(せんと:都を移す)

難波宮跡公園
 なお「難波宮」は孝徳天皇の前期難波宮(難波長柄豊碕宮)と聖武天皇の後期難波宮が確認されています。このように古い都を壊し、そこに新しい都を作った事実から見ても、時代を更にさかのぼり、この地に「高津宮」が在った説もうなずけるそうです。前期難波宮:650年(白雉元年)頃造営開始~686年(朱雀元年)失火により宮殿全焼。藤原京へ遷都。後期難波宮:728年(神亀3年)造営開始~793年(延暦12年)頃、難波宮廃止。


 ところで、明治維新後、明治天皇が京都から東京(江戸)への旅立ちに際して「ちょっと、行ってきます」と京の民に言葉を発っせられてから、150年も経って未だにお帰りになりませんね。今上天皇が退位された時は、東宮でなく京に帰ってきていただきたいものです。京都の年配者の中には、こんな思いを持っている人が少なくないそうです。これは、幕末維新の動乱の中、京都から東京への「遷都」に際して、ある手続きがなされなかったからなのだそうです。それは、時の天皇が「何時、に都を遷す」と宣言するもので、いわゆる「遷都の詔勅(しょうちょく:天皇の意思表示)」と呼ばれるものです。この「遷都の詔勅」は、奈良時代の平城京遷都、平安時代の平安京遷都の際、時の天皇から発せられました。しかし「東京遷都」に際して、明治天皇は「遷都の詔勅」を発してはいないそうです。事実上「東京遷都(都を移す)」ではなく「東京奠都(てんと:都を定める)」だったようです。結局は法的にはともかく、実績から考えても「誰が何と言おうと、政府の所在地で政治・経済の中心地は東京なのだから、東京が首都である事に変わりが無いでしょう」と言うのが一般的な世論なのでしょう。久野 勲
令和 元年 7月27日(土)「夢は心の中に持ち続けよう!」
 今日のメールをすぐに拝見しました。熱波、お見舞い、ありがとうございました。先日、スペイン便りを載せていただいてすぐにお返事しようと思いつつ、全国民が夏休み中ということで私の頭も働かなくなってしまっていました。今日こそ、今日こその毎日で失礼していたところでした。

 
カラオケでの「おかあちゃん」とのやり取り、漫才のようで笑いながら読みました。私たちより年上の方にもかかわらず、毎日カラオケ店で頑張っていらっしゃる「おかあちゃん」のことはブログで何回もお目にかかりましたが、元気をいただいています。ところで、先日のライン川下りで「ローレライ」を通りかかった時は、目印も銅像もなくて、確かに危険そうな崖でした。しかし、船内アナウンスがなければ見過ごしていたと思います。小・中学校の旧友たちと、もっと若ければヨーロッパでもアメリカでもスペインでも一緒に楽しく旅行できたのに・・・と思うばかりですが、夢は夢として大切に心にしまっておきましょう。さて、こちらでは7月初めから38℃に上がったままの水銀が、やっと今朝は28℃まで下がりました。外出をひかえるほどの午後4時頃から、日没の9時ごろまでの酷暑日は今日から少なくなると思います。

 今は、町には海や山の避暑を終えて焼いた肌を自慢気に闊歩する人たちが増えて来ました。私は散歩とバーゲン漁りを目的に近所のデパートへ出向いては欲しかったものを安く買ってほくそ笑む、という趣味?を見出しました。今年はこのデパートも混雑しないのでゆっくりお買い物が出来ます。昔、大阪の叔母ちゃんが近所の松坂屋まで歩いて行って買ってくれたバーゲンの草履とバッグをスペインの首相の娘の結婚式に出た友人の作家の日本人の奥さんに貸して上げてファッション雑誌に写真が載ったことがあるのを思い出しています。母がサンパウロへ行く前に新調した花や御所車がほどこされた着物と帯も、その日とお茶をたしなむ日本人の友人と一緒に我が家で着つけて上げて喜ばれました。母や親戚、お友達などから頂いた着物や帯などはこちらへ来た時に茶箱に入れて持って来て大事に仕舞ってありますが、おそらくもう着ることがないであろう思い出がつまったその着物たちをどうするべきか、迷っています。川端眞砂子


 さて、夕べは「当ブログもどき」をアップ(転送)してから、スペインからの第二報到着に気かつきました。まさか即、返信が届くとは思いませんでした。ありがとうございました。追加転送できましたが、温存して今日に持ち越しました。ところで私は、ネットではいろんな国を訪問していますが、実際に海外へ行ったのは「台湾旅行」の1回だけです(笑)。国内にもたくさんの観光地がありますが、実際に行って見て意外に思ったのは「高知のはりまや橋」と「札幌の時計台」です。奇しくも、どちらも「日本ガッカリ観光地」の中でも上位を占めています(笑)。ところで「つつみ」のお母ちゃんとは、歳も近く何となく気が合うようです。いつも最後の方になると、ついつい「カラオケ居酒屋」であることを忘れてしまい、ボヤキ漫才よろしく世の中の理不尽なことなどをボヤキ合っています。これが結構、気分転換に役立っているようです(笑)。もちろん帰りには、ラストソングを忘れることはありません。久野 勲

令和 元年 7月26日(金)「声はすれども、姿は見えず」
 『奥の細道』で松尾芭蕉が出羽の国(山形県)の立石寺(りっしゃくじ)を訪れた時に詠んだ句「閑(しずか)さや 岩にしみいる 蝉の声」があります。この句を詠んだとされる場所に「せみ塚」が建てられているそうです。そして、この句に関して、昔から芭蕉が聴いた蝉の種類は何だったのかという論争があるそうです。地元山形県出身の歌人。斉藤茂吉は「アブラゼミだ!」と主張したそうです。一方、東北大学の教授であり、夏目漱石の弟子の芭蕉研究家・小宮豊隆は「ニイニイゼミだ!」と主張したそうです。この二人の論争は、1929(昭和4)年の『河北新報』に寄稿されましたが、科学的問題も孕(はら)んでいたため決着はつかず、持越しとなったそうです。その後の茂吉の検証ぶりは「執念深い」としか言いようがなかったそうですが、最後の段階では山寺の麓の小学校に頼み、小学生を動員して山寺に登ってもらい、蝉をつかまえてもらうという有様だったとのこと。結果、茂吉は現地調査まで試みて真相究明に当たりましたが、1932(昭和7)年6月に「あれはニイニイゼミだった!」と負けを認めたそうです。詠まれた時の記録が、1689(元禄2)年5月27日で、今の暦では7月中旬ということになります。その時期に当地で鳴くのはニイニイゼミ、ヒグラシ、アブラゼミ、エゾハルゼミなどだそうです。当時から、虫の専門家はニイニイゼミ説派が多いようです。ちなみに、私はただ漠然と「ミンミンゼミ」だと思っていました。

斉藤茂吉   小宮豊隆
    


 ところで一昨日のニュースでは、仏ボルドーで41.2℃を記録 欧州で今年2度目の熱波に見舞われたそうです。サハラ砂漠からの熱波をまともに受けるスペインでは、先月壊滅的な山火事に見舞われたサラゴサ地方に、警戒レベル「赤色」を発令したとのことです。欧州委員会のコペルニクス気候変動サービスは、スペインとポルトガルでの山火事の発生リスクが高まっているとしています。先日「スペイン特派員便り」にありましたが、ドイツのライン下りの際には特に影響は無かったんでしょうか。久野 勲

令和 元年 7月25日(木)「いつの世もかき氷はいと涼し」
 「梅雨明けを 待ってましたと 蝉しぐれ」。そのまんまの一句になってしまいましが、私も梅雨明けと同時にウォーキングのシフトを朝方に戻しました。心なしか朝は陽射しも柔らかく、蝉しぐれの中でしたが清々(すがすが)しく感じました。しかし、わが地元の堺市西区では、午後3時頃に猛暑日(35℃以上)に迫る33℃になったようです。そして奇しくも、今日は「かき氷の日」だそうです。その由来は二通りあります。まず一つは、かき氷は別名「夏氷」とも呼ばれています。そこで「な(7)つ(2)ご(5)おり」 の語呂合わせになるそうです。もう一つの由来は気温の記録からです。1933(昭和8)年7月25日、山形県で当時の日本の最高気温である40.8℃が観測されています。山形県は国内では気温が高くなりやすい地域ですが、それにしても40℃度越えは相当な気温です。こんなに暑い日は、かき氷が食べたくなります。そこで「日本かき氷協会」が記念日に制定したそうです。

 そもそも、かき氷は平安時代の頃から食べられており、紫式部と並び称される清少納言の「枕草子」四十二段には「あてなるもの、薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷にあまづら入れて 新しきかなまりにいれたる」とかき氷について綴られているそうです。清少納言が食べたかき氷は「かなまり」という美しい金属製のお椀に削った氷を盛り、ツタの樹液を煮詰めて作った「あまづら」をかけたシンプルなかき氷だったそうで、清少納言はかき氷を雅やかで上品な意味を表す「あてなるもの」と表現しているそうです。清少納言も「いと涼し」とか言いながら、傍(かたわ)らにかき氷を置いて執筆していたのかも知れませんね(笑)。久野 勲
令和 元年 7月24日(水)「ドイツの父なるラインの流れ」
 先日届いた、川端さんからの「スペイン特派員便り」で、昔口ずさんだことのある「ローレライ」を思い出しました。「ローレライ」は、中学のときに音楽の授業で習ったことがあります。早速、YouTubeで聴いてみました。このどことなく哀しげなメロディーを聴くと、多感だった少年時代の頃を思い出して懐かしくなりました。当時は知りませんでしたが、次のような伝説が語り継がれているそうです。ライン川のほとりの町に、美しい娘が住んでいました。娘の恋人が旅を終えてライン川を下る途中、ローレライ(岩山)のあたりで難破してしまいます。恋人の死を悲しんだ娘は、岩から身を投げてしまい、それから水の精となった娘が岩の上で歌う、美しい歌声が聞かれるようになりました


 そして、夕べ「つつみ」へ顔を出しました。「盆年会」の日程と、いつものメンバーも決まりました。やがて1人去り2人去り静かになったところで、しばし、7回忌を迎える北野幸次さんの思い出話になりました。そこで、お母ちゃんが「オリンピックまで後1年になりましたね」「そうやね」「ところで、前の東京大会は何年頃だったんですか?」「えっ、夕べの晩飯も覚えてないのに分かるわけないがな。ちょっと待てよ、えっと、同い年のメル友が当時通訳してたんや。二十歳の時として、55、6前やな」。お母ちゃんは指で数えながら、過ぎ去った遠い昔を振り返り、懐かしそうに「もう、そんなになるんですね」。「その人は、スペイン在住のメル友で、先日スペイン便りを送ってくれたんや」「そうですか、良いですね」「うん、それによると、この夏は日本から姉さん始め兄弟が訪ねてくれて、ご主人も一緒に上が83歳、下が69歳の身内5人でドイツ旅行でバカンスを楽しんだそうやよ」「そうですか、それは凄いことですね。良かったですね」「そうやね、ヨーロッパではドナウ川に次いで2番目に長いライン川を3時間かけてクルージングしたそうで、写真も送ってくれたよ」「ライン川と言えば、ローレライという歌がありましたね。1回かけてみます」、と言うことでデンモク(電子目次)で探してかけてくれました。急なことだったので、2人でそれぞれ途切れ途切れに歌いましたが、上手く歌えませんでした(笑)。久野 勲
令和 元年 7月23日(火)「元は、日出(ひい)ずる国が始まり」
 「こちらは堺市危機管理室です。***警報が出ました***」近くの防災スピーカーからの大きな声で、びっくりして目が覚めました。まさに心地よい白河夜船真っ最中の静寂(しじま)を破られてしまいました。3度ほど繰り返し流れましたが、ボリユームが大きすぎて肝心の何の警報なのか聞き取れません。時計を見ると4時半頃でした。雨や風の音が、まったく聞こえていません、夢だったのかな?そのまま眠りについて、7時頃に目ざめましたが穏やかな天気でした。一体、あれは何だったのでしょうか?念のために調べてみると、堺市には4時32分に「洪水警報」が出ていました。

 さて、台風5号の影響で遅れていた梅雨明けも間近なようで、そろそろ日本列島は夏まっ盛りになるんでしょうか?ところで「にほん、にっぽん」?普段何気なく使っている「日本」の読み方は、どっちが正しいのでしょうか?元々は、大和時代に国名として「日の出の国/日ノ本」として「日本(ひのもと・やまと)」が決まったそうです。それはそれとして、1934(昭和9)年に当時の文部省臨時国語調査会が呼称統一案として「ニッポン」にすることを決議しましたが、政府で採択されず、正式な決定がないまま現在に至っています。

 現状に目を向けるとNHK放送文化研究所が「日本」をどう読むか、過去に何度か調査しているそうです。最も古い調査では1963(昭和38)年、東京オリンピックの前に「ニホン」か「ニッポン」かが話題となり、調べた結果。国の名前は「ニホン」がいいか「ニッポン」がいいか、尋ねたところ、「ニホン」が45.5%、「ニッポン」が41.8%とほとんど差がなかったとのこと。次に調査したのは1993(平成5)年で、同じ質問に対し、今度は「ニホン」が58%、「ニッポン」が39%とニホン優勢となりました。さらに2003(平成15)年の調査では、「ニホン」が61%、「ニッポン」が37%と、ニホン優勢の流れがそのまま続いていることが判明したそうで、それ以降は調査は行っていないとのことです。また、次のような統計もあります。久野 勲

令和 元年 7月22日(月)「月の夜二の字二の字の下駄の跡」
 「五十、六十は洟垂(はなた)れ小僧(花なら(つぼみ))、七十、八十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ」。昔は、突拍子もない戯(ざ)れ言でしたが、人生100年時代と言われる今は、確実に現実性を帯びてきています。かく言う私は「還暦(60)」「古希(70)」を過ぎ「喜寿(77)」を目前にしています。「♪人生旅の途上~」などと歌いながら幸い幸運にも、未だに飽きることなく長い旅を続けています。旅と言っても、さすがに普段でも草鞋(わらじ)とやらを履(は)いたことも、家で見かけたこともありません(笑)。しかし子供の頃は、よく下駄やゴム草履(ぞうり)を履いていました。昭和30年ごろの子供の家庭での履き物は下駄とセンニチが主流であった。というのは雪駄草履の形に作ったゴム草履で、畳のような模様に凸凹模様がついていました。壊れにくく、長持ちしたので「千日(せんにち)」も長持ちするということで、この呼び名がついたそうです。水陸両用だから川でぬれても大丈夫で下駄のように流れて行く心配がなく、安心して地元の石津川を歩き回ったものです。

 ところで、全国木製はきもの業組合連合会が7月22日を「下駄の日」に制定しています。昔は、男物の下駄は7寸7分(約23.3Cm)、女物の下駄は7寸2分(約21.8Cm)と決まっていたそうで、7月の7は下駄の寸法から。また22日は下駄の歯形が漢数字の「二」とよく似ていることにちなんでいるそうです。私は和服に縁がありませんが、温泉に行った時に浴衣に下駄履きで出かけるくらいです。以前何度となく、スキーで野沢温泉に出かけたことがあります。もっぱらアフタースキーが主体で、早々にゲレンデを切り上げて夕食前に「ソバで、ちょっと一杯」と「外湯巡り」目的で夜の町へ繰り出したものです。特に月明かりの中でカチカチになったタオルをグルグル振り回しながら、二の字二の字の下駄の跡を残しながら何度も行き来しましたが、さすが天下の名湯野沢温泉です、中から温めていたからか誰一人湯冷めすることはありませんでした(笑)。久野 勲
令和 元年 7月21日(日)「心に熱さ忘れず晩年も楽しく」
  暑中お見舞い申し上げます。ご無沙汰しましたが、ブログでお元気でお過ごしのこと、拝見しています。特派員便り」は、その後さぼったままお休みさせていただいているのですが、先日は「牛追い祭り」のことを記事にして下さってましたね。7月に入り、国民の半分が2週間から2ヵ月の夏季休暇に入りました。休暇のために残りの一年を働くのが当然と考える国民です。今楽しまなきゃ何時楽しむ?とうことですからどこにも行かない人がいれば、怪訝な顔で見られます。

<中略>

 当地は2ヵ月も雨なしの日々が続いていますが、貯水池やダムが多数あるせいか水不足にはならず、海から離れた大地に位置するこのマドリードでは市営、州営、個人宅など沢山のプールで夏を謳歌している若者たちの姿があります。ところで、今年の日本は日照時間が少ない夏だと聞いております。どうぞ健康に留意されてお過ごし下さい。川端眞砂子


 約2ヶ月のご無沙汰ですがお元気との由、まずは安否確認ができて良かったです(笑)。また、いつもご覧いただき、ありがとうございます。今回の「特派員便り」は編集上、佳境に入る大切なところで中断しています。本題は「まさこの部屋・その4」に追加アップの予定です。この夏は、日本から川端さんの兄弟と姉が揃って訪問してくれたそうです。そして、川端さんのご主人も一緒に5人でドイツ旅行を楽しまれたとのことです。まさに、あっという間の出来事だったそうですが、83歳を筆頭に69歳までの高齢者が揃って、おそらく一生に一度の「兄弟姉妹旅行」を無事成し遂げました。とのことでした。日本では晩年を迎えてなお、近くに住んでいてもお互いとかく思うに任せない日々に追われます。川端さんにとって、この夏は「感無量」の最良の思い出の夏になることでしょう。久野 勲

令和 元年 7月20日(土)(いにしえ)の商都・堺・黄金の日々」
 堺カルタの中に「ルソンへは男度胸の助左衛門」というカードがあります。1594(文禄3)年7月20日、堺の商人・納屋助左衛門がルソンから帰国して千利休の橋渡しにより、豊臣秀吉に、唐傘・麝香(じゃこう)猫二匹などを献上したそうです。秀吉は大層喜び、一緒に献上された50もの壺を諸大名に買い取らせたそうです。この「ルソンの壺」に目をつけた助左衛門には、先見の明があったことになります。秀吉の庇護を受けて富と名誉を手にした彼は、華美な生活を好んだそうです。そうしてあまりに贅沢をしたため、1598(慶長3)年には堺奉行だった石田三成から、ありもしないことを悪しざまに告げ口され秀吉の怒りを買って、邸宅没収などの処分を受けることとなったそうです。ところで、一説には秀吉に献上した「ルソン壺」は、実は宝物などではなく、あろうことか便器だったとも言われています。とすれば、このことが秀吉の心底の怒りをかった本当の理由かも知れません。

 
この呂宋助左衛門は、1978(昭和53)年に放送されたNHK大河ドラマ「黄金の日々」で一躍有名になりました。堺の物語だったので、興味があり私も観ていました。安土桃山時代にスペイン領・ルソン(フィリピン)に渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得た豪商・呂宋助左衛門と泉州・堺の町の栄枯盛衰、堺の茶人今井宗久の子・今井宗薫(そうくん)の妻・美緒をめぐる今井宗薫と助左衛門らの争いを描いた作品でした。

助左衛門ゆかりの
大安寺
  利休ゆかりの
南宗寺
 

 ところで少し前、当ブログに「二十歳頃でしたか、阪堺線の御陵前駅東側の、堺を守っていた環濠の名残である土居川のほとりに小さな質屋さんがありました。その店の道路沿いの陳列台に、いろんな質流れ品が並べられていました」と、二十歳頃に初めてカメラを買った質屋さんの事を書いています。実はこの質屋さんのほど近くに「大安寺」や「南宗寺」があります。この二つの寺院は、今でこそ間に何軒かの家屋がありますが、当時は隣り合っていたそうです。この近辺、特に阪堺線(チンチン電車)沿線には、数多くの歴史的史跡が点在しています。さらに今回、新たに「百舌鳥古市古墳群」が記念すべき大阪初の「世界遺産」に登録されました。久野 勲
令和 元年 7月19日(金)「忍び寄る加齢という名の諦め」
 ダメージを受けていても、自覚症状がなかなか出ない臓器のことを「沈黙の臓器」と言います。その臓器の役割とは、食べものから摂った栄養を貯蔵し、必要な時にエネルギーの元として供給する「代謝」と、アルコールや老廃物などの有害物質を分解する「解毒」ですが、長年のお酒の飲み過ぎや不摂生が原因で深くダメージを受けていることが多いそうです。その臓器こそが「肝臓」です。そもそも「肝腎要(かんじんかなめ)」とは、江戸時代の名医・藪井玄亥翁が名付けたとされているそうです。この言葉の語源は「肝臓」と「腎臓」が人体にとって最も大切な臓器であることから来ています。この臓器の働きが弱ると、様々な慢性病、難病を起こすきっかけとなってしまいます。

 このように昔から、一番重要な所を「肝(腎)心要(かんじんかなめ)」と表現されています。これは、敗戦直後の昭和21年に「当用漢字表」が制定され「腎」が掲げられなかったために、昭和31年の「同音の漢字による書きかえ」で、初めて「肝腎→肝心」と書きかえられるようになったとのことです。しかし、平成22年の「常用漢字表」の改定によって、新たに「腎」が追加されました。そこで、これを機に「肝腎」と書くことができるようになりました。その上で、これまでの「肝心」も並行して使われています。また、
肝腎要の「要」は「腰」のことだとも言われています。言うまでもなく、腰は上体と下体を結ぶ文字通りの要です。腰が悪いと上下の連携がスムーズにいかなくなり、不調の原因になります。いずれにしても加齢という名の下に、あっちこっちにガタが来るのはやむを言えないことです。しかし、諦めずに今のところ足だけは丈夫なので、叶わぬまでも細やかな抗(あらが)いは続けて行こうと思っている今日この頃です。久野 勲
令和 元年 7月18日(木)「あまり知られていない先住民」
 日本歴史新聞によると、1669(寛文9)年7月18日、アイヌの首長・シャクシャインの呼びかけに応え、全蝦夷(えぞ:北海道)地でアイヌが一斉に蜂起した。蜂起軍の勢いは盛んで、和人の商船などを襲い、各地で数百名にのぼる和人が殺害されている。松前藩の収奪と、和人の不正交易に抗議した蜂起とみられる。驚いた松前藩は幕府に急報、幕府は津軽藩兵を派遣するとしている。 この画像は、1878(明治11)年に、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性です。結果的に今後、アイヌは屈し松前藩およびその商人たちによる弾圧と独占が強まるものとみられている。

 なお、公益社団法人「北海道アイヌ協会」によると、次のように述べられています。
 日本の公教育では、アイヌ民族の認識が教科書記述に端的に表れています。19世紀当初から20世紀後半まで、日本の中央政権は、アイヌ民族に対し同化政策を押しつけました。それでも明治期から第二次世界大戦敗戦前まで使用された国定教科書にはアイヌを「土人」と表し(行政用語では明治11年から「旧土人」)、基本的にはアイヌは先住民族との認識 の下で公教育を進めてきました。戦後は、一転して国籍を持つ者「国民」としてだけで把握し、その民族的属性やそれら集団に対する配慮を欠くこととなりました。アイヌ民族については、戦後2~30年、行政サイドでは無施策のまま過ぎ、追って生活格差是正の一環としての施策が現在まで続いています。わずか20年程前まで、ほとんどの日本国民がアイヌ民族は同化されたあるいはその誤ちにも気づかない「単一民族国家」幻想を蔓延していました。和人とアイヌの不幸な過去の歴史を乗り越え、それぞれの民族の歴史や文化を相互に尊重する多文化主義の実践や人種主義の根絶は、人権思想を根付かせ発展させようとする国連システムの取り組みに符合します。日本のアイヌ民族についても、これからの取り組みが大切です

 私は半世紀ほど前の夏、つまり二十歳半ばに友人と旅行で初めて北海道の地を踏みました。今と違って青函連絡船で津軽海峡を越え、とてつもなく遠い所へ来てしまった、それが率直な感想でした。1週間の道内周遊券と時刻表と寝袋を持った、移動の手段はほとんど車中泊という、いわゆる絵に描いたような無計画な貧乏旅行でした(笑)。そんな旅行の中で、ほとんど知識の持ち合わせのないまま白老(しらおい)のアイヌ民族博物館を訪ねました。当時、北海道の田舎にはこんな村があったのか?としか思いませんでした。まさに、戦後の「単一民族国家」教育を受けてきた私たちには、昔の不幸な歴史を感じさせないほど、完全に観光事業の一環といった感じでした。ちなみに、1994(平成6)年に参議院で社会党議員の死去にともない、アイヌ民族の萱野(かや)茂氏が繰り上げ当選となっています。アイヌ民族出身では初めての国会議員となりました。萱野氏はアイヌの文化復興に尽くしていて、国会ではアイヌ新法制定に向けて取り組みたいと語っていたそうです。久野 勲
令和 元年 7月17日(水)「今夏も絶えることなき蝉の声」
 ここ三日ほど前から、遠くで鳴くセミの声が聞こえ始めていました。今日もまだ弱々しく鳴いていましたが、本格的なセミ時雨になるのは梅雨明け頃になるんでしょうか。今日も梅雨明けのような天気でしたが、来週早々には週とともに梅雨も明けそうだとの予報が出ています。ちなみに「セミ時雨」とは、多くのセミが一斉に鳴きしきる声のことです。よく知られているように、セミは幼虫として地中で生活する期間が長く、種類にもよりますが3~13年(アブラゼミは6年)に達し、羽化して成虫となった後は数週間ほどでその一生を終えます。その間、雄のセミは自分の居場所を主張し、雌への求愛行動として連日鳴き続けます。自然界において大きな声で鳴く蝉にはたくさんの雌が群がり、やがて子孫繁栄へと繋がっていきます。

 ところで今日も今日とて目映(まばゆ)い陽射しの中、公園を歩いていると白いモノが点在している一角が目にとまりました。近づいてみると、ここでは時折り見かける松露(しょうろ)キノコでした。強い陽射しを受けて茶色くなったり、萎(しぼ)み始めていることが多く、そんな中で珍しいことに一つだけきれいに開いているのを見つけました。そこで思わず、テーブル珊瑚になぞらえて「テーブル・キノコ」と名付けて一枚写してきました(笑)。久野 勲
令和 元年 7月16日(火)「♪盆がはよ来りゃ~はよ戻る」
 夕べは「つつみ」で、来月に迫った「盆年会」の日程を決めてきました。振り返れば、カラオケ居酒屋の指定席から姿を消して6年の歳月が流れました。「つつみ」では常連中の常連だった「故・北野幸次」さんが、今年「七回忌」に当たるそうです。そこで誰言うとなく、せめて「盆年会」の時間内にお花と写真を飾って、賑やかな雰囲気が好きだった北野さんを偲ぼうと言うことになっています。私が、当ブログの中から良い写真を選んで用意することにしています。



 ところで仏教では、1月16日と7月16日を「閻魔参り」または「閻魔賽日(えんまさいじつ)」と言うそうです。地獄の釜の蓋が開いて、鬼も亡者も責め苦から免れ、休む日とされています。この日に寺院の閻魔堂にお参りをする人が多いそうです。また奉公人のある家では、この日に「後(のち)の薮(やぶ)入り」といって休暇を与えていました。今でこそ週休二日制が当たり前ですが、かつて町屋(商家)などに住み込んで奉公していた丁稚や女中などの奉公人が、主家から休暇をもらい実家へ帰ることのできた日。正月の「藪入り」(1月16日)に対して、お盆の休暇を「後の薮入り」と言います。江戸時代、奉公人たちは毎年1月16日と7月16日の2日しか休みがもらえないのが一般的でだったそうです。なお、藪入りの語源は諸説ありますが、はっきりしません。 実家へ帰るという意味の「宿入り」という言葉が訛ったという説、藪の深い田舎に帰るからという説などがあります。いずれにしても辛く苦しい日常の中、さぞかし待ちわびたことでしょう。

 ちなみに、子供の頃「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる」とよく言われたものです。「舌を抜かれたらどうなるんやろう?痛いやろうなぁ。ご飯食べられるんかなぁ」。また「嘘つきは泥棒(大臣)の始まり」など、嘘をついてはいけない!と徹底的に教え込まれてきました。今では考えられないことですが、こんな子供じみた脅(おど)し文句が抑止効果を発揮していた素朴で良き時代でした。
久野 勲
令和 元年 7月15日(月)「この時期ならではの風物詩」
 夕べ、いつものように気分転換すべくPCからテレビ画面に切り替えました。画面では、田舎で幼い女の子が母親と身を潜めるように暮らしている、そんな暗い雰囲気の映画でした。あれっ、観たことがあると思いリモコンで番組表を見ると実話に基づく「八日目の蝉(せみ)」でした。これは、愛人との間に出来た子供を誘拐し逃避行する母親の物語です。その田舎での伝統行事に参加したことがキッカケで全国紙に掲載され、逮捕されて母子が離ればなれになってしまいます。その伝統行事が小豆島の「虫送り(虫追い)」です。この「虫送り(虫追い)」については、この2月に「当ブログ」で紹介しています。蝉は地上に出てから7日で死んでしまうそうです。しかし、雌は産卵の為に八日以上生きると言われています。

 そして、今朝のニュースによると、毎年恒例のスペインの「牛追い祭り」が、最終日を迎えました。スペイン北部・パンプローナで今月7日から行われていた「牛追い祭り」が14日、最終日を迎えましたとのことです。この伝統行事には世界中から毎年約100万人が訪れていて、闘牛場までの875mのコースを牛や人たちが駆け抜けます。時には死者が出る過激なこのお祭り。今年は死者は出ませんでしたが、8人が牛の角に突かれるなどしてけがをしたそうです。

 さらに今朝と言えば、今朝5時から大谷翔平と菊池雄星の、いわゆる岩手県「花巻東高校出身者対決」でした。目覚まし無しで4時半には目が覚めました。テレビをつけると複数のBS局で、暗い内から博多の夏を彩る「博多祇園山笠」の中継です。今朝はフィナーレを飾る「追い山」の中継です。約1トンもある七つの流(ながれ)の「舁(か)き山」が、福岡市博多区の約5キロのコースを疾走。沿道から勢(きお)い水が飛び交い、締め込み姿の男たちの「オイサッ、オイサッ」のかけ声が響いていました。野球が始まるまでの間しばらく観ていましたが、初めて観るなかなか勇壮な祭りでした。

 ところで野球の方はと言うと、「菊池が勝ち投手の権利を得て降板した後、大谷が15号を放ち結局菊池が5勝目をあげる」。これが理想の展開ですが、現実はそう上手く問屋が卸してくれないのが世の常です。やはり理想のように行きませんでした。菊池は4失点で4回途中で降板して勝ち負け無し。大谷は四球などで2打数1安打1打点で打率は3割復帰でした。試合は6ー3でエンゼルスが勝ちました。

 さて、今日は全国的な国民の祝日の一つ「海の日(7月の第3月曜日)」です。この日に合わせて浜寺プールでも賑々しく「プール開き」になりました。つい先日までは、賑やかなBGMの中で疎(まば)らだった人影も、見違えるような賑わいを見せていました。そして日本列島各地ではプール開きをはじめ、この時期ならではの風物詩が、それぞれ特色のある伝統的な行事として繰り広げられているようです。
久野 勲
令和 元年 7月14日(日)「ペリー、日本の夜明けを演出」
 1853年7月14日(旧暦:嘉永6年6月9日)、マシュー・ペリー提督率いる黒船艦隊4隻が江戸湾の浦賀に来航しました。蒸気船をお茶の銘柄の上喜撰にかけて「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」と狂歌に詠まれるほど、江戸の街は大混乱となったそうです。ペリーはアメリカ大統領の国書を江戸幕府に渡し、その返事を聞くため1年後に再来航すると告げました。幕府は、翌年のペリー再来に備えて品川沖に6基の砲台(台場)を完成させました。しかし翌年1854年、再来したペリーとの間で不平等条約との悪名高き「日米和親条約」が結ばれ、日本の鎖国は終わりました。いずれにしても、これを機に大きな痛みを伴いながらも、結果として日本国は開国への歴史的に大きな第一歩を踏み出しました。下図は、嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航時、ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフです。

 我々が小学校の図工の時間に習った「木版画」は彫刻刀で木を彫って版木をつくり、紙に刷るものです。木版画の版面は凸版(とっぱん)になります。ちなみにリトグラフとは、石版画(せきはんが)とも言われています。石版の上に油性のチョークで図柄を描き、紙へ刷るのだそうです。


 ところで、人は誰しも体調が思わしくないなどの場合、まず体温を測ります。個人差はありますが、37℃くらいが正常とされています。身体の細胞は、34℃以下または40℃以上になると機能に重大な変化をきたして、40~42℃が数時間続くと死に至ることもあるそうです。とくに中枢神経系の細胞は、40℃を超えると正常に機能できないといわれています。また、人の体温は、たとえ環境条件や生体の活動が著しく変化しても、狭い一定の範囲でしか変動を示しません。その理由は、視床下部にある体温調節中枢が、常に化学的な熱産生量と物理的な熱放散量とのバランスを保つようにして、生体の体温を37℃ぐらいに調節しているのだそうです。

 ちなみに、私は入院中に日課のように体温を測定しました。あまり高いと、注射や座薬など熱を下げる必要があります。私の場合はそう言うことはありませんでしたが、ただ、体温計が発する計測終了の音が聞こえなくて困ったものです。なお、何事にも個人差があるものです。日射病で30日間高熱を出した男性が、最高体温46.5℃にまで達しギネス記録に認定されたそうです。その人は高熱にもかかわらず、驚くべき事に後遺症もなく無事に生還できたとのことです。音と言えば以前、夏休みにコンビニで屯(たむろ)する青少年に対して、若者にしか聞こえない周波数の不快音を流して退散させたことがありました。なぜ高齢者に聞こえにくい音の出る体温計が存在するのか、疑問に思ったものです。
久野 勲

令和 元年 7月13日(土)「今や結果オーライ至難の業に」

 はい、3通届きました。井野さんからも返信あったけど、コピーから送ってるとありました。どうなんですか。しばらく使ってると、分かってくるのかな。永田新吾


 実は、昨日帰り着いてから「このメール以外にも、昭和小HPから2通送ったけど届いているかな?要するに、計3通届きましたか?久野」とのメールを送っておきました。これに対する上記の返信で、昨日最後に手がけた昭和小HP上の「Eメール」の移行がうまく出来ていたことが分かりました。昨日は、何とか「結果(半分)オーライ」だったようで、辛うじて出向いた甲斐があったようです(笑)。ちなみに、今朝電話を掛けておきましたが、その時の第一声は「オー大丈夫か、寝込んでなかったか?」「うん何とか。昨日はありがとう」でした。とりあえず最悪の共倒れにならなくて、良かったよかった吉永小百合でした(笑)。



 ところで私は以前から、よく「J:COM堺」へネットの件で電話をしていました。それが何年前だったか、いきなり「ただ今、遠隔操作(リモートコントロール)サービスをしております」「遠隔操作、それ何ですか?」「お客様のPCの中身を見ながら調査・修復を行います」「え、勝手に私のPCに入り込むんですか?」「いえ、お客様の了承を得た上で、こちらの指示通り設定していただいてからです」「それは必要ないです。今まで通りこちらの質問に答えてもらえれば、それで良いです」「この操作は1回目は無料ですので」「そうですか、でも結構です」。それでも勧誘ノルマでもあるんでしょうか、執拗に勧められました。が、知らない人に自分のPC内に入り込まれるのがイヤなのでキッパリ断りました。

 なるほど、特に高齢者にはPC初心者が多いと思います。問い合わせ電話には、長時間の説明が必要でしょう。それが、多くの人達が電話を掛けても、なかなか繋がらない原因にもなっているでしょう。ある意味「遠隔操作サービス」は、「PCの事は分からなくてもいい、そっちで修復してくれれば助かる」そう割り切れれば、良い制度でしょう。そういう初心者が多いと思います。ただ、そうで無いユーザーもいるのだから、誰彼無しに執拗に勧めるのはNG(ダメ)ですね。例えは良くないかも知れませんが、携帯電話で善良な高齢者が、言葉巧みに銀行へ誘導されてATMを操作させられる。「遠隔操作」とは、私にはそんな悪いイメージしかありません。さらに勘ぐれば、初心者からの問い合わせは有料になるし、我々少し慣れた者は「遠隔操作」の勧誘がうるさいので問い合わせなくなります。どちらも契約者なのに、業者にはこれぞ一石二鳥の戦略なのでしょうか?

 なお、思えば当時、遠くにいてSOSの連発で困っている仲間がいました。そこで短絡的に「遠隔操作」が出来ればと思い、フリーソフトを手に入れたことがありました。そして予備のPCを使って試してみたところ、意外に上手く操作することができました。しかし、自分がイヤなことを仲間に勧めるとは何たることだ!と実行前に気がつき、直ちに実践することを取りやめたことがありました。そこは、営利と非営利の違いなのでしょうか。今はどの業者も、この制度を取り入れているようです。



 さてオールスター戦明けの今日から、MLBの後半戦が始まりしました。今日のエンゼルスは、今月1日に急死した今季これまでの勝ち頭(7勝)タイラー・スキャッグス投手(享年27)の「追悼試合」でした。遠征先のダラスで亡くなり、その後も遠征が続いたエンゼルスは、スキャッグスの死後、本拠地で迎えた初めての試合です。球場外には多くの花が並べられ、試合前には思い出のビデオが流され、両チームのナインが並んで黙とうもささげられました。エンゼルスクラブハウスには、スキャッグスのユニホームやグラブが、これまでと変わらぬように並べられ、エンゼルスの全選手がスキャッグスの背番号「45」をつけて試合に臨みました。そしてスキャッグス夫人の始球式で始まりました。そんな、いろんな思いを形に表すかのようなノーヒットノーラン試合結果となりました。今日の大谷翔平は1安打でしたが、チームは13ー0で快勝しました。久野 勲
令和 元年 7月12日(金)「今後結果オーライは至難の業」
 今日は「ウオーク」を中止して、トライアスロンならぬ「バイク」に切り替えて南へ走りました。今日の目的はメールソフト「Outlook」の設定で、気になっている「もう一つしっくりきません」の解決です。まず「Outlook」を開けてみると、なるほど、初期設定の段階で、何やらややこしいことになっていました。手慣れた作業だったので軽く考えていましたが、「Outlook2013」でバージョンが新しかったこともあって、なかなか思うようには事が運びませんでした。仕方なくJ:COMへ問い合わせました。メールサーバー欄に打ち込む項目を訊きたかっただけなのに、係が遠隔操作の事ばかり執拗に勧めるので、遠隔操作は結構なので質問にだけ応えて下さい、と言うと「ご本人様に代わって下さい」とのこと。永田君が応対していましたが、何とか設定出来たようです。私が出来なかった「結果オーラ」だから、まぁいいか(笑)。確認してみましたが、今度は私の方が「もう一つしっくりきません」でした(笑)。あと、HP上の「Eメール」移行をしておきましたが、上手く行ったかどうか帰ってから私から送信してみないと分かりません。結局、時間がかかった割には「結果オーライ」とは行きませんでした。が、共にパニクりそうなので池乃めだか風に「今日のとこは、この辺で置いといたりました(笑)」。



 ところで東京都千代田区三番町に事務局を置き、学術大会の開催、学会誌の発刊などを行う公益社団法人・日本人間ドック学会が、7月12日を「人間ドッグの日」に制定しています。日付は1954(昭和29)年7月12日に、国立東京第一病院(現:国立国際医療研究センター)で初めて「人間ドック」が行われたことから。より多くの人に「人間ドック」の受診を促すことで病気の早期発見につなげ、国民の健康増進に寄与することが目的だそうです。ちなみに私は1980(昭和55)年頃に、同僚のタラちゃん(永田さん)と一緒に一泊人間ドッグでw診察を受けました。当時共済組合の補助があって、なかなかの競争率でした。タラちゃんが何度か申し込んでくれて、それに当選したというわけです。この時に「痛風予備軍」との結果が出ました。書いて字の如く、足の指に風が当たってだけでも痛くて歩けなくなる。とのことでした。その対策としては禁酒するか、飲酒する場合は尿酸値の高い「ビール・日本酒」はやめて「焼酎・ワイン」にするべきである。との診断でした。もちろん「ビール」は最初の乾杯だけで、即「焼酎」に切り替えました。その甲斐あって、その後40年余り「痛風」の痛さを経験することなく過ごせています。ちなみに人間ドック 」の「ドック」は、船を修理・点検するための設備)を意味する 英語: dockに由来するため、犬に関係は無く「人間ドッグ」は誤表記です(念のため)。久野 勲
令和 元年 7月11日(木)「大切にしたい仲間の和(輪)」
 昨日は有り難うございました。今パソコンを触って、昨日説明してもらったように、さらにブログの説明も参考して設定したつもりですが、もう一つしっくりきません。これが届けば、少し進んだのかな?
 <追伸>
ありがとうございます。加藤さんにも有り難う。アウトルックでの左端にOCNが残ったままです。消すにはどうするのかな。また教えてください。 永田新吾


昨日は、どうもお疲れさまでした。早速頑張ったようで、今朝J:COMメールが届きました。「もう一つしっくりきません」とのことですが、とりあえずOutlookの設定は成功したようです。私の「連絡先」にも入って、そこからこのメールを送信しています。もちろん届いているでしょう。まずは良かったですね。あっ、いま加藤さんからの返信が入りました。夕べの内に、岡井君の近況を「ブログ」を抜粋して報告しておきました。
 <追伸>ややこしいOCNの残党については、今度行った時に引導を渡すことにしましょう(笑)。久野



 昨日はメールありがとうございました。岡井君のお見舞いお疲れ様でした。新吾さんと久野君の道中記や岡井君の状態詳しくお知らせくださり、ありがとうございます。本当、声かけほど難しいものはありません。一時期がんばれの言葉狩りのような事がありましたが、今は自然体任せで使っています。自宅に帰れると、リハビリがんばれですね。詳細ありがとうございました。かとう



今のところは、まだ
バーチャル(仮想)診察です。
 昨日の岡井君の話しによると、前に一度外出許可が下りて帰宅したことがあったそうです。その際、以前から楽しみにしていた「加藤さんの朗読劇」や「私のブログ等HP」それに「フェイスブックの仲間達」の様子を知りたくて、久し振りにパソコンのスイッチを入れたそうです。しかし残念ながら起動せず、長期間放っておいたから壊れてしまったと諦めたそうです。そんなことは無いと思いますが、前からズ~ッと、いずれ機会があれば一度「岡井機」を診察してみたいと思っています(笑)。久野 勲
令和 元年 7月10日(水)「より元気になって欲しい!」
 (かね)てからの予定通り梅雨の合間を縫ようにして、朝から岡井君に会うために永田君と明石市の「兵庫県立リハビリテーション中央病院」へ向かいました。明石城の目の前の明石駅前で、病院行きのバスを待つ間「腹が減っては見舞いに行けん!」とばかり昼食を済ませました。店中所狭しとベタベタ張りめぐらされていた吉野家の夏恒例メニュー「麦とろ牛皿御膳」を見て、これしか無いと思い注文しました。目の前に出されたものの食べ方が分からず隣の人の真似をしながら、麦ご飯に焼き肉とトロロをぶっかけて食べました。結構ボリュームがありました。やがてバスに揺られて10分ほどで病院に到着しました。岡井君はリハビリ中だったので、談話室で待たせてもらいました。待つほどもなく、看護婦さんが呼びに来てくれました。リハビリ直後なので「疲れてないか」と気遣いながらも、つい1時間以上も話し込んでしまいました。以前よりも元気そうにしていました。出来れば9月に退院して家に帰れれば、とのことでした。ただ、それまでに家の改造の進み具合と、もっといろんな事を自分で出来るようにリハビリに励まなければ、この二点が必修条件になるとの自覚を話していました。ちょっとでも早くそうなれば良いね、それを目指して頑張らなければと、病人さんに「ガンバレよ」と言うのは適切ではないかも知れませんが、控え目にエールを送っておきました。いつものように「それじゃ又来るよ、お大事に!」とそれぞれ握手を交わして病院を後にしました。いつもより、強い力で握り返してくれました。



 ところで、私もそうですが、多くの「Windowsユーザー」が利用している「Windows10」は、Microsoftの最新オペレーティングシステム(OS:基本ソフト)です。これは、パソコンだけでなくタブレットなど様々なデバイスにも対応しています。毎月10日を「Windows10の日」に制定されているのは、その進化した魅力的な機能を多くの人に知ってもらうことが目的だそうです。そもそも「Windows10」は、2015(平成27)年7月29日に一般リリースされ、翌2016(平成28)年7月28日までの1年間、Windows7、8からの無償アップグレードが提供されました。これで「Windows10」は、Windowsの最後のバージョンとされています。

 その無償アップグレードが提供開始の初日、つまり平成27年7月29日に、次のようなメールが届きました。
久野くんのブログで「Windows10」の話題がありました。私も、だいぶ前にアップデートの予約をしていましたが、今日連絡に気が付き、こわごわインスト-ルしてみました。5分ほどで完了し、今動かしております。このまま様子見てみます。おかい まさに一番乗りだったようです。

 ちなみに私の場合は、平成27年8月7日(金)のことでした。それは今朝、いきなりやって来ました。思わずウォーキングに出かけるのも忘れて、その対応にかかりっきりになりました。かかりっきりと言っても、手をこまねいて見ているだけです。それが完了するまでには、30分くらいはかかったでしょうか。ダウンロード➡インストール➡アップグレード➡更新の構成と入念な書き替えが進むにつれて、最初は「始まってしもうた。もう後戻りはできない」と後悔のような思いでいっぱいでした。その後悔が、次第に不安に変っていきました。そして、そういう思いが交錯する中で、やがて我が家でも「Windows10」が起動してきました。

 さらに、キリンのように首を長くして待ちこがれていた永田君に、やっとこさ平成27年11月24日に「Windows10」がやって来ました。「10(天)は我を見放したか」と落ち込んでいて、かける言葉を失いつつありましたが、まさに「10の助け」があり、お互いにホット一息ついたと言う次第でした。
久野 勲
令和 元年 7月 9日(火)「仲間同士お互い励まし合って」
 2018年6月26日(火)に、岡井・永田・久野の3人が、岡井君の案内で「神戸しあわせの村」へ行ってきました。レンタサイクルで日本庭園などをまわって、ランチタイムでは夏限定の「淡路産はも天・ざるそば」に舌鼓を打ちました。そして、この日の日程を終え三宮駅まで戻った我々は、岡井君推奨の日本一有名な「一蘭」というラーメン店とやらに行って見ました。トントントンと階段を降りると、何やら投票場のようなところに出ました。場所を間違えたかなと思っていると「ここで良い」とのこと。女性1人でも来やすいような造りだそうです。この仕切りは、人数に合わせて格納できるようです。私はここで、岡井君のスマホを借りて自撮りに挑戦してみました。
   

 そして、この約1週間後の2018.7.4、岡井君の娘さんから、岡井君が緊急入院されたとの連絡が入りました。そして「神戸しあわせの村・リハビリ病院」に約半年、さらに転院先の、明石の「兵庫県立リハビリテーション中央病院」に約半年間の入院中です。つまり、入院生活が1年間にも及んでいます。中尾君も、度々病室を訪ねられているそうです。仲間同士がお互いに、励まし合えれば良いですね。私は気になりながらも、何かと雑用にかまけて少し間が開いてしまいました。明日、明石には二度目になりますが岡井君の元気な顔に会うべく、永田君と訪ねることにしています。久野 勲
令和 元年 7月 8日(月)「♪過ぎ去った昔が~鮮やかに」
  今は見かけなくなりましたが、以前はどこの町でもありました。通称「一六銀行」と呼ばれていた質屋さん。あまり堂々と胸を張って出入りしている人の姿を見たことはありません。どんな店なのかは知りませんが、中学生時代にカメラや時計、それに携帯ラジオなどが並べられている陳列棚をよく見ていました。もちろん欲しくても買えませんが、小遣いを貯めれば何とかなりそうな品物もありました。ところで子供の頃は、よく日向ぼっこをしながらオモチャの「日光写真」で遊びました。ネガのような原画と感光紙を重ねて紙の額に挟んで太陽に向けるだけの単純な遊びでした。時代が代わって、今は100均で日光写真が写せる「箱カメラ」が出ているそうです。

 さてカメラと言えば、私が最初に本物のカメラを手にしたのは、質屋さんでした。二十歳頃でしたか、阪堺線の御陵前駅東側の、土居川のほとりに小さな質屋さんがありました。その店の道路沿いの陳列台に、いろんな質流れ品が並べられていました。その中にご覧のような「ミノルタ・ハイマチック7」が、私を待っていたように所在なげにポツンと一台並べられていました(笑)。その愛機「ミノルタ・ハイマチック7」で石津川をバックに写した今は亡き同級生・股野の写真が残っていました。スポーツ万能の彼は、まるで日活アクションスターのようなカッコいいスナップです。私が当時その業界に明るければ、この写真を使って「ニューフェイス募集」に応募していたことでしょう。股ったんは、晩年になって私の勧めもありパソコンを始めました。まず手始めに渡した苦手な「ローマ字表」と睨めっこしながら頑張りました。驚くほど早く、マスター寸前まで漕ぎ着けましたが・・・。今日は、7月8日と言うことで「質屋さん」を思い出した次第です。久野 勲
令和 元年 7月 7日(日)「本格的な夏本番に突入か?」

 パソコンのメールアドレスが変わりましたので、連絡します。***@***.zaq.ne.jp」に変わりました。面倒をおかけしますが、よろしくお願いします。自分が混乱しそうです。ゆっくりやっていくつもりです。永田新吾


 
 いずれ、その内に「昭和小HP」に記載分を変更することにしましょう。明石行きの件、よろしくお願いします。<追伸>井野さんからも問い合わせがありましたが、Outlookでの新しいアドレスの設定が出来ていないようで送信できません。設定方法は、Outlook画面のツールバー(左上)➜ファイル➜情報➜アカウント設定です。そこの「新規」か「変更」で行いますが、設定に必要な項目は、J com から送られてくる書類にあります。一度確認してみて下さい。ややこしいようなら、今週岡井君の見舞いに行った翌日にでも、そちらへ行って確認してみます。ちなみに、OCNは解約しましたか?線を抜いただけではダメですよ(笑)。久野



 ところで今日は「梅雨が明けたのかな?」と錯覚しそうな好天でした。七夕であり「小暑」でもあります。小暑には、暑さがどんどん強くなっていくという意味があり、この頃から暑さが本格的になってきます。今年は梅雨入りが遅れていますが、例年なら梅雨の終わる頃で、各地で集中豪雨が多く発生する時期でもあります。そして、この日から暑中見舞いを出し始める習慣があります。これからが梅雨が明け、強い日差しと共に気温が一気に上がるため、熱中症など体調を崩しやすくなる頃でもあります。天気予報やニュースで「小暑」という言葉を耳にしたら、本格的な夏を迎える合図です。暑さを乗り切るために、しっかり食べて 体力をつけておきたいですね。この時期になると蓮の花が咲き始める頃でもあります。少し風流に蓮観賞に出掛けてみるのもいいですね。午後には花がしぼんでしまいますので、行かれる時は朝の早い時間が良いでしょう。

 ちなみに、7月7日に降る雨の事を、催涙雨(さいるいう)と言って、織姫と彦星が会えなかったのを悲しんで流す涙といわれています。ロマンチックな話しですが、雲の上はいつも晴れなので我々の見えない天ノ川で会えるはずですね。しかし、残念ながら日本の場合は、会えないと言うことになっているようです。その理由は七夕の日に雨が降ると、天の川の水かさが増す為に織姫は橋を渡ることができないんだそうです。なお、一年の中で最も暑い時期とされている「大暑(7月23日頃)」の日に合わせて、各地で行われる「打ち水」のイベントも、もう恒例行事となりました。昔はこの時期の「打ち水」は夏を代表する風物詩でした。これは、道路や庭に水をまいて土埃を防いだり涼を得たりすることで、昔からの伝わる生活の知恵です。もともとは神様が通る道を清めるためのものだったそうですが、江戸時代には主に涼を得ることが目的となったそうです。久野 勲
令和 元年 7月 6日(土)「♪人恋しさに飲んだ酒が~」
 今から8年前の12月に、急きょ入院を余儀なくされたのは同窓会(石津小・1組)直前のことでした。その後、何度かパスしていました。そして今日、久しぶりに振りの「同窓会」に出席することになりました。振り返れば、なんと9年振りの出席になります。何人かは同窓会以外にも会っているので、意外でした。とにかく、多くは久しぶりに顔を合わせることになるので楽しみです。

 と言うことで今週の天気予報は大きく外れ、昼食前のウォーキングはいつもの反対方向に進路をとりました。堺東までは約1時間の道のりです。今日の「祝・喜寿同窓会」会場は釜中が時々利用していると言う、堺東のやや北の方にある「新月」でした。「みんな変わってないなぁ」。男女それぞれ14名が元気な顔で再会しました。そのまま二次会カラオケ居酒屋「和花」へ移動してそれぞれ自慢のノドを披露しました。そこで釜中との打ち合わせ通り、私が次期幹事の指名を受け、川崎さんと二人に決まりました。お開きの時間が早かったので、いつものように「つつみ」に寄ってみました。誰も居なかったので、お母ちゃんを話し相手にして飲みました。今日はもう1杯飲んで帰るわと言いながら二杯目を飲み始めると、次から次へと馴染みの常連さん、そうで無い人たちが入ってきて、つい盛り上がってしまいました。気がつけば12時を過ぎてしまい、あわててタクシーに乗り込みました。久野 勲
令和 元年 7月 5日(金)「どの分野にも偉大な先駆者が」
 コンピューターを稼働させるためには、空調付きの専用の部屋を一室用意しなければならない時代に、小さな机の上でもディスプレイまで含めて置け、電源を入れるだけですぐさまプログラムが書けるようにしたのが「パーソナルコンピューター」の先駆け「AppleⅡ」でした。ご覧の「AppleⅡ」は、パソコンショップからワンセット買って来て電源を入れればすぐにBasicというプログラミング言語が使えるようになっていました。しかし、いかに取っつきやすくなったとは言え、1行1行プログラムを書き、でき上がったプログラムは音楽録音用の「カセットテープ」に保存して、次回利用時にはそこからまたプログラムを読み込まなければなりませんでした。しばらくして円板状の磁気媒体(フロッピーディスク)に読み書きできるデバイスが登場し、飛躍的に効率は向上したものの、やはりすべての操作はキーボードからのコマンド入力が必要でした。ちなみに、今でこそ知ったか振りしてパソコンを語っている私ですが、この当時はBasicやC言語などチンプンカンプンでパソコンなど無縁の存在でした(笑)。

 そんな難しい呪文のようなコマンドを打たなければ使えないコンピューターなんて「パソコン」とは到底言えない。アップルコンピューター創設者の一人である、スティーブ・ジョブズはそう考えました。そして、画面上に示されたアイコン(図形)を見れば、それが何をするものかすぐに分かり、そのシンボルを矢印で指し示してクリックするだけで高度な処理ができるGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)を備えた「Lisa」を完成させ、発売にまでこぎ着けました。しかし、当時としてはあまりに高機能・高性能過ぎて高価で売れ行きは芳しくなかったようです。やがて試行錯誤の末1984(昭和59)年、Macintosh(マッキントッシュ)が発売開始となった時、パンフレットの大見出しに掲げられたのは「取り残されし人たちのためのコンピューター」。つまり、専門家だけにしか使えなかったコンピューターを誰でもが扱えるようにする!画面を見たら5歳のチコちゃんにでも使い方が分かり、自然に使えるコンピューター。という「ジョブズの言葉」でした。そこで「すごいデスクトップコンピューターの構想があるんだ。クパチーノ(カリフォルニア)に来てそのすごいヤツを見てくれ。そして、そいつのためにすごいアプリを作ってくれ」。スティーブ・ジョブズは、シアトルのビル・ゲイツ(マイクロソフトの共同創業者兼元会長兼顧問)を訪問し、新しいアプリの開発を依頼しました。かくして「Excel」は「Macintosh用」として生まれました。つまり、このような優れた先駆者たちの努力と日本語ソフトの開発などのお陰で、パソコンにはズブの素人だった私でも比較的容易に付き合えるようになりました。久野 勲

令和 元年 7月 4日(木)「♪たどり着くやら着けぬやら」

 都合により、今利用しているOCN(NTT系インターネット接続業者)を止めることにします。ついては、以前利用していた「J:COM」に連絡をし、単独でつなぐことにしました。7日午後に来てくれます。いろいろ説明を聞いて、メールアドレスやらを質問しないといけません。もう「J:COM」のことは、すっかり忘れてしまっています。決まりましたら、連絡します。アドレスの連絡先はどこどことか、ややこしそうです。ちょっと報告です。永田新吾


 そうですか。この歳になると、ややこしい話しは出来るだけパスするのが健康のために良いでしょう(笑)。私は長年「J:COMユーザー」を続けているので、万事ドロ舟に乗ったつもりでお任せあれ!イザと言う時には一緒に沈みましょう(笑)。そうと決まれば、とりあえず、来週にでも梅雨の合間を見計らって駆けつけようと思っています。梅雨の合間と言えば大きく予想が外れ、岡井君に会いに行くのが来週以降になってしまいました。久野



 今日は「な(7)お(0)し(4)」(直し)の語呂合わせから、壊れたものを直す「修理の日」との考え方もるようです。以前は、よく「修繕」という言葉を使ったようです。これらは同じ意味だと思っていましたが、厳密には違うようです。つまり修繕」とは、繕(つくろ)うだけです。機械などが故障した時は、応急措置だけを施してすぐに動かしてしまうことです。故障の原因を取り除いていないから、すぐに再発する可能性があります。そして「修理」とは、故障の原因を取り除いて、二度と同じ故障が起こらないようにすることです。

 ちなみに、私は子供の頃から。好奇心が強く「つぶし屋」と呼ばれていました(笑)。オモチャなど動かなくなったら、中がどうなっているのか知りたくて、まずバラバラにする癖がありました。もちろん、バラすだけで元に戻せません。当時、よく兄貴に「バラす前に持って来い」と怒られたものです。それが次第に、元に戻せるようなバラし方に変わっていきました。さらに時たま、動くようになった時の満足感と喜びを感じるようになりました。やがて家電にまで広がり、時には直ることもありました。テレビや洗濯機などが故障した時「勲に見てもらおう」と言われるまでになりました。それが、今の「パソコン救急隊」に受け継がれています(笑)。しかし、私が一貫してやって来た、やっていることは「結果オーライ」の「修繕(応急手当)」に過ぎないことがわかりました。久野 勲
令和 元年 7月 3日(水)「誰が呼んだか?ゴリラカラス」
 今日も今日とて、梅雨の合間を縫ってウォーキングみ出かけました。浜寺水路の畔(ほとり)に人待ち顔と言うか、エサ待ち顔の鳥たちが屯(たむろ)していました。その中に、ボスらしきカラスを一羽見かけました。こんな光景を目の当たりにして、まったく恐怖心を抱かなかったのはヒッチコックの「鳥」にほど遠く、その数もさることながら、ほとんどがおとなしいハトたちだったからです。もし、これらがすべてカラスだったら、全然雰囲気が変わっていたことでしょう。カメラを向けるどころか、足早にダッシュで走り抜けていたでしょう(笑)。ちなみに、カラスは知恵のある鳥として知られていますが、その見かけで損をしているようです。例えば、この二羽のカラスは仲良く語り合っているのかも知れませんが、どうも何やら悪だくみをしているようにしか見えません。

 ところで、カラスと言えば、最近ネットでこんな画像が投稿されて話題になっています。どう見ても顔はカラスで、体はゴリラの置物のように見えます。合成画像で無ければ、ゴリラが腕を使って歩く姿のように見えます。果たしてその実態は、このカラスは羽根で立っているのではなく足が羽根で見えなかったのだそうです。これは、投稿者が通勤時に不思議なカラスを見かけて、スマホで動画を撮ったそうです。久野 勲

 ちなみに私が観た時は、1136万5596回目になっていました。
令和 元年 7月 2日(火)「梅雨明け待ち遠しい日本列島」

 最近、タスクバーにおいてあるメールソフト「Outlook」のアイコンに、ご覧のような×印が出ていますので、このメールが届くかどうか分かりません。永田新吾

タスクバー   ツールバー
 

 なるほど、これは何かの拍子で「
Outlook」がオフラインになっているようです。オンラインに戻す方法は、「Outlook」画面でツールバーの「送受信」をクリックし、画面右端に出る「オフライン作業」をクリックすると解決する、はずです。さて、ただ今梅雨まっ盛りです。この梅雨が明ければ、いよいよ夏本番を迎えます。夏の風物詩と言えば、たくさんあります。そんな中でも、とりあえずはよく冷えた「冷やしそうめん」などで涼を味わうのも良いですね。久野



 ところで「半夏生(はんげしょう)」は、「半夏(はんげ)」という生薬のもとになるサトイモ科のカラスビシャク(烏柄杓)が生える頃。また、一説にはカタシログサ(片白草)とも呼ばれるドクダミ科のハンゲショウ(半夏生・半化粧)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているように見える頃ともされています。雑節の1つである「半夏生」=「1年の真ん中」1年の、真ん中。つまり「7月1日」のこともありますが「7月2日」になることが多いようです。また、他の雑節では、節分には「豆」。土用の丑の日には「うなぎ」といった行事食があります。半夏生の時期、関西はこの日にタコを食べる日、で知られているそうです。「植えた稲の根がタコの足のように、四方八方にしっかり根付いて育ってほしい」という願いをこめて食べられるようになったそうです。なお、歳時記の「二十四節気」には耳慣れた「立夏」「夏至」などがあり、さらに3分割した「七十二候」があります。その中に一般的に余り聞き慣れない、田植えを終える目安とされる「半夏生(はんげしょう)」があります。久野 勲
令和 元年 7月 1日(月)「いよいよ夏本番を迎えます」
 1979(昭和54)年7月1日、ソニーが携帯式ヘッドホン・ステレオ「ウォークマン」の第1号を発売しました。定価は当時で3万3000円と高額でした。世界最小のウォークマンは、ヘッドホンで音楽を聴くという、それまでになかった文化を世界に広げた小型カセットプレーヤーです。カップルで音楽を楽しめるようにヘッドホン・ジャックを2つ備えていました。発売前には「録音機能なしでは売れない」という社内外の声があったようですが、それを覆(くつがえ)して大ヒットしました。ウォークマンは、今や知らない人はいないというほどに有名な携帯型音楽プレーヤーですが、その歴史は古く、カセットをヘッドホンと組み合わせて音楽をどこでも聞くことができるという革新的なイノベーションは「音楽を携帯し、気軽に楽しむ」という文化や新しい価値を創造し、そして世界中にそれを浸透させていきました。その後、30年の歴史に幕じカセットテープタイプは姿を消し、CDやMDタイプへと移行していきました。さらに、アップル社の共同設立者の一人故スティーブ・ジョブズは、小型軽量で大容量の「iPod」という革命的なイノベーション(技術革新)により、当時一強だったウォークマンを一瞬で追い抜いてしまいました。

 ところで、関西では今日から「海開き」する海水浴場が多いようです。ちなみに、1週間ほど前から準備していましたが、浜寺プールでの「プール開き」は

営業期間 7月15日(土)から8月31日(木)

プレオープン(試験的な開店営業)は 7月1日(土)、2日(日)、8日(土)、9日(日)

営業時間 9:30~18:00 になっています。

 なお、併設されている浜寺水練学校(ハマスイ)は7月22日から8月21日まで堺市西区の大阪府営浜寺公園プールでお盆や週末を除いて、毎日朝早く授業があるそうです。久野 勲

令和 元年 6月30日(日)「各国の面目立てて無事閉幕」
 1944(昭和19)年6月30日日、東条英機内閣によって都市の学童を地方へ学校単位で集団疎開させること(学童疎開促進要綱)が閣議決定されました。アメリカ軍がサイパン島に上陸して、本土への空襲も回避できないと判断したもので、7月17日に学童疎開実施要綱が決まり、即日実施されました。京浜・名古屋・阪神・北九州の12の重要都市の国民学校初等科第3学年~第6学年の児童が対象となりました。1945(昭和20)年の春には全国で約40万人を超える児童が疎開したと言われています。疎開と言えば「つつみ」のお母ちゃん(80)は子供の頃に、生まれ故郷の青森で田舎の方へ疎開しいた時の記憶が鮮明に残っているそうです。



うちエコ!ごはんの日
 エコとは『エコロジー』の略で「自然環境を大切にしましょう」という意識を高める言葉です。エコ・クッキングとは、環境に配慮した料理をすることだけでなく「買い物」「調理」「片づけ」の一連の流れを通して、環境にやさしい食生活を送ることです。そして、今日は「うちエコ!ごはんの日」でもあります。日付は「環境月間」である6月の最終日であり、藩政時代に加賀藩(現:石川県)から将軍家に氷を献上するために氷室(ひむろ)を開いた日(氷室開き)に由来します。つまり、氷室の氷が溶けないように、地球温暖化をストップさせようとの願いが込められています。そもそも氷室とは、天然の雪や氷を夏まで貯蔵しておくための専用施設のことです。日本において、製氷する技術が無かった時代には、冬にできた雪や氷を溶けないように保管する必要がありました。1月の最終日曜日に氷室小屋に雪が詰められる伝統行事の「氷室の仕込み(雪詰め)」が行われ、6月30日に雪を取り出す「氷室開き」が行われました。石川県金沢市とその周辺では、7月1日に氷を模したとされる氷室饅頭を食べて一年の健康を願う習慣が残っています。



 ところで「G20大阪サミット」は何事も無く終わり、大阪はやっと明日から平常を取り戻すようです。そして週が明ければ、選挙モード一色になりそうです。選挙モードと言えば日本ばかりではなく、早くも来年の自身の選挙を見据えて、サミットに来たついでに、サプライズ的(?)な派手なパフォーマンスを演出する首脳も現れたようです。久野 勲
令和 元年 6月29日(土)「いずれも私には無縁な音楽」
 今日は、あの「ビートルズの記念日」だそうです。1966(昭和41)年6月29日に、人気絶頂のイギリスのロック・グループ「ビートルズ」が初来日しました。翌日から東京・日本武道館で3日間5回の公演を行いました。学校をサボってかけつけた、高校生ら6520人が警察に補導されるなど大騒ぎになりました。

 そして、イギリスのロックバンド「クイーン」が初来日の日本武道館公演は、1975(昭和50)年5月1日。その10年後の、1985(昭和60)年5月に開催したのが、フレディ・マーキュリー生前最後の日本ツアーだったそうです。実は「クイーン」は、デビュー当時はイギリスの批評家たちから酷評されていたが、日本の音楽誌の特集がきっかけで日本の若い女性の間でブレイクし、初来日した時には本国イギリスと対照的に熱狂的な日本のファンに迎えられました。公演は大成功に終わり、バンドはスターとして迎えてくれた日本を愛するようになり、特にフレディはプライベートで何度も来日するほど日本や日本文化に傾倒していったそうです。

 また日本では、私が中学校を卒業した1958(昭和33)年に「ロカビリー」なるものが流行(はやり)出しました。カントリー・ミュージックのバンド「オールスターズ・ワゴン」に在籍していた平尾昌晃がソロ・デビューし、ミッキー・カーチス、山下敬二郎と共に「ロカビリー三人男」と称され「日劇ウエスタンカーニバル」などに出演し「ロカビリー・ブーム」に発展しました。当時、和製プレスリーと称した佐々木功らも、この時期に登場しています。しかし、60年代後半にはグループサウンズ・ブームに押され、ロカビリーは退潮傾向となりました。ちなみに、ロカビリーとは、初期のカントリーミュージック(ヒルビリー)とロックンロールが融合して、ロカビリーとなったのだそうです。ちなみに、私は「ビートルズ」「クイーン」「ロカビリー」「グループサウンズ」「ラップ」などには、まったく関心はありませんでした。
久野 勲
令和 元年 6月28日(金)「労多くして益少なしなのか?」
 1859年6月28日(旧暦:安政6年5月28日)に徳川幕府が鎖国政策を改め、*ロシア*イギリス*フランス*オランダ*アメリカの五か国に「横浜」「長崎」「函館」の三港で自由貿易を許可する布告を出しました。当時、輸出品は茶やニンジン、昆布、石炭など1次産品や原材料が中心でした。一方、輸入品は幕府や各藩が求めた火器や艦船が上位を占めました。これでは貿易赤字は一目瞭然です。列強五カ国は自国製品を売り込みやすいよう、日本に低い関税率を半ば強制的にのませていました。なお、孝明天皇の勅許を得ぬままこの通商条約を結んだ大老井伊直弼は、尊王攘夷派ら反対派を徹底的に弾圧しました。後の世で「安政の大獄」と呼ばれる粛清の嵐が吹き荒れ、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されます。日本は大きな痛みを伴って、いよいよ「開国」に踏み切りました。

 ところで、19世紀末の東アジアで欧米の植民地化されていないのは「日本とタイ」だけだったそうです。日本が植民地化されなかったのはまず交易の要衝にならなかったという立地上の幸運があったようです。列強のの的になるような輸出品を産出しないという、自然資源や産業上の幸運もありました。さらに歴史をさかのぼれば、中国や朝鮮半島経由で、大陸の進んだ文化を容易に入手できるという幸運がありました。それにもかかわらず、大陸から侵略を受けるには離れすぎていました。

 そして忘れてはならないのは、とくに幕末~明治初期の、いわゆる明治維新を成し遂げた「坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎」たちに代表される日本の指導者たちの的確な判断にあるでしょう。そして現在、開国してからの155年間で、日本はすっかり変わりました。当時3200万人ほどだった人口は、1億2千万人を越えるまでになりました。ごく普通に生きているだけで、仕事も食べ物も日用品も、その多くを輸入に頼るまでになりました。これから日本の人口は、増えたときと同じくらいの早さで減少する見込みです。まさに今、日本が議長国となって「G20大阪サミット」が開催されています。重要な課題として「貿易問題」も話し合われることでしょう。おお騒がせだけで終わらずに、明確な成果をあげて欲しいものですが、内情は日程的にも顔見せ程度で「労多くして成果少なし」と言ったところなんでしょうか。米中会談では、以前トランプ大統領が触れていたように、注目の日本への厳しい注文は参議院選後になるんでしょうか。久野 勲
令和 元年 6月27日(木)「余計なものは脱ぎ捨てよう」
 昨夜8時半頃、奈良の加藤さんから電話をもらいました。加藤さんとは、昨年11月に永田君と三人で「神戸しあわせの村」へ岡井君を見舞いました。そして、今年3月に明石へ転院した岡井君の病院から電話で話をして以来3ヶ月ぶりのことでした。この間、特派員報告の催促になってはとの思いで、こちらからの連絡は控えていました。来週になれば岡井君の顔を見に行くので、その報告がてらにご機嫌伺いをと思っている矢先のことでした。やはり体調がすぐれず、その上長年続けている事を引き続いて熟(こな)しているそうです。しかしどうしても加齢とともに負担に感じられるようになってきているとのこと。以前から言っていることですが、釈迦に説法調に「お互いに何事においても、心身共に健康あっての物種です」つまり、まずは何事も健康があってこそ初めてできるもです。そんな話しを織りまぜながらの意見交換になりました。ワザワザ電話を掛けてくれて、少しでも気分転換の役に立てれば幸いです。画像は、今年の年賀にあった加藤さんのアニメ風自画像です。

 同じ時代を生きる仲間同士、話していてもたくさん共有できる話題があります。お互い現役時代は、人それぞれ好むと好まざるとにかかわらず「打算」「見栄」「ハッタリ」などという目に見えない重い「鎧(よろい)」を身につけ、生きて行くために日夜必死に頑張ってきました。だからこそ、リタイヤ後は重い鎧を脱ぎ捨てて自由に過ごしたいと思うものです。そうは思っても、急に生き方を変えられない現状もあります。私の場合は、少々脱ぎすぎの感は否(いな)めません。もし、十二単(ひとえ)でも着込んでいるのなら、出来る限り思い切って脱ぎ捨てましょう。なお、恥ずかしいので画像クリックで私の鎧を脱がさないようにして下さい(笑)。ちなみに、この話題は、1991(平成3)年8月の石津小学校同窓会新聞「かいらんばん第3号」に「よろいを外して」というタイトルで書いています。



 ところで昨日、近畿地方で観測史上もっとも遅い「梅雨入り」が発表されました。そんな中で、いよいよ明日から何かとおお騒がせな「G20大阪サミット」が始まることになりました。その前に大阪城ではご覧のような、何かとお騒がせな二人が仲良く顔を揃えたそうです(笑)。さすがそっくりさん、まさにそっくりですね。なお、今日のこの前線による大雨には為すすべもなく、今年初めてウォーキングを中止してしまいました。明日はさらに台風に発達するとの予報が出ています。久野 勲
令和 元年 6月26日(水)「歌には人それぞれの思いが」
 夕べの「つつみ」は珍しく、早い時間から賑わっていました。4月以来のジュンちゃん姉妹に木下さん、それに少路さんも居ました。仕事の関係で、今は堺と福岡を半々に行き来しているそうです。堺に居る時は、ほぼ毎日のように「つつみ」に顔を出しているようです。福岡へ帰る予定でしたが、大阪サミットが終わってからにしますとのことでした。「今日は何か予感でもありましたか」「え、なんで?」。木下さんが、今日は私が顔を出すと予言していたそうです。なるほど、雨が降る前日に来ることが多いと言う、私のパターンを読まれていたようです(笑)。そこへ、お母ちゃんの弟さん夫妻も合流し大いに盛り上がりました。少路さんが余り聴き慣れない曲を歌いましたが、作詞・作曲が杉本真人でした。この人は、作曲家としては「杉本眞人」、歌手としては「すぎもとまさと」と表記されることが多いシンガーソング・ライターです。私は、彼の亡き母を偲ぶ「吾亦紅」が好きでレパートリーに加えています。「この歌を聴くと泣いてしまう」と言う人がいましたが、久しぶりに歌ってみました。


 ところで、昔から「地震・雷・火事・親父」が恐れられていたようです。ちなみに、930(延長8)年6月26日、平安京の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貴が亡くなっています。この事件は、政治的な策略によって太宰府に左遷された菅原道真公の祟(たた)りであると信じられたため、道真(みちざね)の学者として名誉を回復し、学問の天神様として祭られるようになったと伝えられています。菅原道真公は、左遷された太宰府でこの世を去りました。その悲しさと虚しさと怨みは、都に異変を起こしました。都では落雷などにより、亡くなる貴族もでてきました。都では菅原道真公の祟りだと恐れましたが、道真公の所領地であった「桑原」には落雷がなかったそうです。さらに昔話として、雷さまが空から足を踏み外し、農家の井戸に落ちてしまいました。驚いた農家の人が、雷さまが二度と出てこれないように、井戸にフタをしてしまいました。驚いた雷さまが言いました。「私は桑の木が大嫌いなので「桑原桑原」ととなえたら、その場所には雷を落とさないから、井戸から出してくれ」。この昔話から、雷を避ける、災難を避ける言葉として「くわばらくわばら」というようになったという言い伝えもあるそうです。久野 勲
令和 元年 6月25日(火)「人生いろいろ、人それぞれ」
 【人間の脳は、日常を楽しむことで、老化が遅れる!】こんな見出しが目にとまったので読んでみると、次のように出ていました。
 「あ~っ、あの人誰だっけ。顔は分かるのに名前が全然出てこない」「えーっと、なんだっけ。アレだよ、アレ」そんなもどかしい思いをすることが、年齢とともに増えていませんか?実はそれ「脳の認知機能の衰え」が関係しているかもしれません。「うっかり」や「もの忘れ」のための対策として、メモをとったり、家のなかで物の置き場所を決めたりするのは大変有効ですが、根本的に認知機能を維持するために大切なのは、運動や食事をはじめとした生活習慣を見直すことです。

 といっても、ハードな運動や緻密な栄養計算をしましょうということではありません。運動は簡単なストレッチやウオーキングで構いませんし、食事は好きなものを食べ匂いや舌触りを楽しみながら味わうだけでも十分。脳機能の維持や低下を予防するために重要なのは「なんでも趣味のように楽しんで取り組むこと」です。誰かと楽しく会話をしたり、お気に入りの散歩コースを歩いたり、夢中になれる趣味を見つけたり、1日の中で笑う機会を増やしたり。そうすることで脳に良い効果がもたらされると考えられています。

 読み進んでいくと、要するに、ある「サプリメント(健康食品)」の説明に入っていきました。その手には乗らずに、ホドホドに抜け出しました(笑)。ところで「酒飲みは酒に金を掛けるのと同じように、健康オタクはサプリメントやプロテイン(タンパク質)に金を掛ける」同窓会などで、そう言っていた同窓生がいました。なるほど、人それぞれだなぁと感心したものです。



 ところで、2009(平成21)年の今日6月25日、何かと話題の多かったアメリカポップ界の帝王・マイケル・ジャクソンが50歳の若さでこの世を去りました。マイケル・ジャクソンは、ギネス記録で人類史上最も成功したエンターテイナーとして認定されている他、CDやビデオなどの世界総売上げは7億5000万枚以上にのぼり、未だに売上は伸びて続けているそうです。ちなみに、先日「つつみ」で遅くに入ってきた人が、気を使いながら英語の歌を原語で歌いました。私は聴いたことも無い歌です。しかも3曲も。それはクイーンというバンドのボーカル・フレディ・マーキュリーの歌で熱狂的なファンでだそうです。ビートルズを超える世界的人気バンドだそうで、マイケルジャクソンも影響を受けたそうです。しかしフレディは、同性愛であること告白し、HIV(エイズ)に感染して45歳でこの世を去ったそうです。そこで何よりも驚いたのは、映画好きの「お母ちゃん」がフレディの映画「ボヘミアンラプソディー」を観て感動したことがあるとのことでした。なお、私はマイケル・ジャクソンやビートルズは、テレビで観たことはあります。しかしクイーンは、日本武道館でも公演しているそうですが、その存在すら知りませんでした。
久野 勲
令和 元年 6月24日(月)「たかが百均、されど百均!」
 さて、岡井君の面会のことを調べないとと思いだしたのですが、ボケてきたかな、姫路?明石?とややこしくなりました。そこで、最近訪ねたと聴いている中尾君に電話をしたところ「明石やで」と言われました。梅雨明けかな、いつ頃が良いかな。暑くなってくるし、何も決める要素はないのですが、7月5日頃かな。良い日を探してください(7月6、8日は予定あり)。で、サンサン会の春の散策会はパスするつもりに思っています。でも一応考えはあります。京都へ行くのに京阪で行ってたのですが、八幡市駅にケーブルカーあり、何かなと思い調べると石清水八幡宮へ上る乗り物でした。八幡宮も全国にあるらしいですね。散策にならないようですが、良いかなと思っています。秋の旅行前の紅葉狩りかな。と思っています。夏の食事会があるな。辻さんと相談かな(何か打診があるかな)。以上、よろしくお願いします。永田新吾

雨の日もまた楽し
 

 いつも、ありがとうございます。今週中には、近畿が取り残されている感のある「梅雨入り」がありそうですね。さし当たっては明石行きの件、私も6日は予定が入っています。5日でも良いんですが、永田君さえ良ければ1日空けて4日はどうでしょうか。いずれにしても「ピッチピッチ、チャップチャップ、ランランラン」になりそうですね(笑)。それもまた良いか!いつもの事ながら、お任せしますのでよろしくお願いします。久野



 堺市の週間天気予報を見ると、やはり今日・明日が梅雨入り間近の貴重な晴れ日になるようです。歩いていても、今日は紫外線が強かったようです。ところで、私が現役の頃の同僚で飲み仲間だった「角(かど)さん」という人が居ました。地元では「角一」という屋号で旧家だそうです。私たちは「1個、2個、サンコんさん」のように「角1、角2、角さん」と呼んでいました。その人が地元を歩いていると、友人の伊藤君に出会いました。そこで「伊藤~」と声をかけると彼は「よ~角~」と応えたそうです。ちなみに今日、女房の買い物に付き合わされました。そのついでに眼鏡屋さんでサングラスを物色しました。いろいろありましたが、ありふれた品物でも5~6000円もしました。そこで、物色を続けていると、格好の良い「CanDo」という看板がかかった店舗がありました。そこには、ご覧のようなサングラスがありました。かけてみるとピッタリです。デザインと言うよりも、その値段が気に入りました(笑)。その店舗は知る人ぞ知る、イトーヨーカ堂内のいわゆる「百均専門店」でした。女房は「え~、これにするのォ」と言っていましたが、ひと言「これがエエ」で決めました。性懲りも無く、昔とった「安物買いの銭失い」根性、未だ健在!と言ったところでしょうか(笑)。久野 勲
令和 元年 6月23日(日)「またしても老いの繰り言が」
 今日、6月23日「慰霊の日」は沖縄県の人たちににとって、忘れることのできない特別な一日です一般住民を巻き込み、20万人あまりの尊い命と財産や、沖縄の文化財、自然がことごとく奪われた沖縄戦は、太平洋戦争で唯一、日本国内の一般住民が地上戦を体験したという、まさに地獄そのものだったでしょう。沖縄戦における20万人を越す戦死者のうち、約半数に近い、実に9万4000人余りの戦死者が、兵隊以外の一般県民や子供たちです。この沖縄戦で、沖縄防衛第三十二軍司令官・牛島満中将と同参謀長の長勇中将が糸満の摩文仁(まぶに)で自決した日が昭和20年6月23日の未明とされています。そしてこの日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目としてとらえ「沖縄慰霊の日」が制定されました。
 この写真は、2017年の東京写真記者協会賞グランプリに選ばれた東京新聞・沢田将人記者撮影の「沖縄の視線」です。東京写真記者協会(新聞、通信、放送など33社加盟)は2017年11月24日、2017年の優れた報道写真に贈る各賞を発表し、東京新聞の「沖縄の視線」が協会賞グランプリを受賞しました。「沖縄全戦没者追悼式」で献花に向かう安倍晋三首相に対して、当時の今は亡き翁長知事の怒りのこもった目。不審者を見るような女学生の眼差し。この険しい眼差しが沖縄県民の怒りと苦しみを物語っているように思われます。知事が替わった今もなお、日本国内で、こんな不幸な実態が続いています。

 そして今日、74回目の沖縄の戦後を迎えました。報道によると、1945(昭和20)年4月1日
米軍はに沖縄本島に上陸しました。「鉄の暴風」といわれる激しい地上戦が展開され、日本軍が本土防衛の時間稼ぎのために持久戦に持ち込んだ結果、多くの住民が巻き込まれた。約3カ月に及ぶ戦闘で日米の計約20万人が犠牲となり、県民の4人に1人が亡くなったとされています。今日、平和祈念公園で県と県議会主催の「沖縄全戦没者追悼式」が営まれ、玉城デニー知事が就任後初の「平和宣言」を読み上げました。安倍晋三首相も参列し、挨拶にたちました。そして沖縄戦などの戦没者の氏名を国籍や民間人、軍人の区別なく刻んだ「平和の礎(いしずえ)」には今年、新たに韓国籍2人を含む42人の名前が刻銘されました。二重刻銘による削除者も1人いて、総刻銘数は24万1566人となりました。
平和の礎

 ちなみに、安倍首相は今年の1月に開かれた国会での施政方針演説の中で「20年以上に及ぶ沖縄県や市町村との対話の積み重ねの上に、辺野古移設を進め、世界で最も危険と言われる普天間飛行場の一日も早い全面返還を実現する」と述べています。一方、昨年の施政方針演説で使い、これまで多用してきた、沖縄に「寄り添う」という言葉は消えてしまいました。これは口先だけで「沖縄に寄り添っていない」と批判されることが増えたことを踏まえ、敢えて避けたとみられています。なぜ口先だけでなく、もっと寄り添うようにしなかったのか大多数の支持を受けて選ばれた玉城知事の「せめて1ヶ月工事を中止して話し合いに応じて欲しい」との要望を無視しました。私には、詳しい事情は知る由もありません。しかしその上で思うのは、1ヶ月が無理なら、せめて1週間でも十日でも妥協の余地は無かったのでしょうか?沖縄県の人たちの民意を尊重した上で、我々国民(世論)にも、ある程度理解出来るような話し合いが出来ないものなのでしょうか?常識的に考えれば「圧倒的な権力を持つ政権が謙虚な気持で、出来る限り少数意見にも耳を傾ける」。何事もその上で採決で政策を決定する。最終的には「数は力なり」。これが民主主義の基本だと思います。数にモノを言わせて、最初から結論ありきで押し切るなどは論外です。久野 勲
令和 元年 6月22日(土)「慰謝料200億円?ワシなら」
PCで検索しようとしたら、なにを検索したかったのか思い出せない。
さっきあったはずの書類を、どこに置いたのか思い出せない。
話している時に、何を言うとしていたのかを忘れてしまった。
昨日の晩ご飯を思い出せない。
知り合いだった人の名前が思い出せない。

 気がつけばいつの頃からか、こんな症状が枚挙に暇が無いくらい自覚するようになってきています。ただ今のところ頻度が少ないので、単なる加齢による物忘れなのかなと思うようにしています(笑)。自覚している内は、まだ良いのかも知れません。いずれ当「ブログ」にそんな兆候が表れる、いやっ「同じ内容を何度も繰り返す」「訳の分からないことを書き出す」など、すでに出はじめているのかも知れません(笑)。例えそうであっても、遠慮して誰も指摘してくれないでしょう。そんなことを思いながらも、現在発信しているHPは全て勝手に発信しているだけのプライベートサイトなので、その実態は「ケセラセラ」で深刻に考えずに楽しんでいます。ところで、今日テレビを観ていると、ある番組で街頭インタビューの画面が出ていました。200億円の慰謝料のこと、どう思いますか?と問いかけられた老夫婦の旦那さんが、咄嗟に躊躇無く「え、200億円?ワシなら200円置くだけやな」。これを観て、思わず「うまい!座布団三枚!」と呟きました。以前、私がダジャレというか親父ギャグの師匠と崇(あが)める岡井君と、メ-ルで座布団の進呈合戦をしたことを思い出しました(笑)。なお、岡井君が入院して1年が経とうとしています。永田君と梅雨明け頃にでも、岡井君を訪ねるべく相談しています。ちなみに岡井君からのメール便ですが、今か今かと首を長くして届くのを待っています。しかし、指の調子の回復が今イチ思うように行かないのかも知れません。



アッと驚く大どんでん返し!
 さて、誰もが日課にしている中に、朝の歯磨きがあります。ある人が歯磨きをしている最中に、歯みがき粉で鏡に絵を描いてみたそうです。その歯磨き粉で描くアートの動画がネットに投稿され、最後のどんでん返しが凄い!と絶賛されています。観ていると、動画は男性が歯磨きをしているところから始まります。ふと鏡についた歯磨き粉を指で伸ばします。どんどん伸ばし、絵を描き始めました。その内に筆まで登場します。と、言ってもこの時点では特に驚きはなしです。やがて、人の顔が完成します。正直、期待外れでさほど凄くようなことはありません。しかし電気を消したとたん、え~っ!何てこった!その顔が、オードリー・ヘップバーンになりました。これは物凄いどんでん返しです。ちょうど歯磨き粉をつけたところが光を反射せず、黒くなっているようです。こんな絵の仕上がりを想像して描くのは特殊な技術が必要であり、相当な練習をしての結果だそうです。誰にでも出来る技ではないので、良い子は真似をして歯みがき粉を無駄にしないようにしましょう(笑)。久野 勲
令和 元年 6月21日(金)「目からウロコのウロコ落とし」
 「がまかつ」と言えば知る人ぞ知る釣り具メーカーです。私も釣りをやっていた頃は、よく「がまかつの釣り針」の世話になった者です。釣りの醍醐味は釣り人によって違いますが、釣り上げた魚は料理して食べてあげることが魚の供養になる、そんな身勝手な理屈もあるようです(笑)。ちなみに、私は釣った魚を食べたことがありません。料理は出来ないし、第一食べられるような魚を釣ったことがありません。一度、堺臨海地の先端で手の平サイズのチヌを釣ったことがあります。しかし魚拓にして捨てるという、供養もせず罰当たりなことをしてしまいました。

従来のウロコ取り   最新のウロコ取り
   

 ところで魚料理に欠かせないのがウロコ落としです。ウロコが飛び散って台所が大変な事になるようです。そこで、こんな柄のついたシャモジのような調理器具が「がまかつ」から発売されているようです。ネーミングが「ウロコの飛ばないウロコ取り」で、話題になっているそうです。「百聞は一見にしかず」です。見れば一目瞭然です。こんな便利なモノがあっタラ(あレバ)、私も自分で釣った魚ぐらいは料理していたかも知れません(笑)。久野 勲

令和 元年 6月20日(木)「夕べは久しぶりに手に汗して」
 プロボクシング井岡ジムの、井岡一翔と宮崎 亮が同級生世界チャンピオンの偉業を達成したのは、今から7年前のことでした。井岡は、その後も順調に勝ち進み、毎年のように大晦日の顔としてリングに立ち勝ち進みました。そして、2015年4月に見事に3階級制覇を達成しました。しかし、自身の結婚等で恵まれていた環境に見切りを告げ、2017年大みそかに引退表明しました。さらに、2018年9月に復帰して勝利しました。同年末のWBOスーパーフライ級王座決定戦では、惜しくも敗れています。


 そして昨日6月19日千葉・幕張メッセで、WBO世界スーパーフライ級王座決定戦が行われました。4階級制覇を目指す2位の井岡一翔(30)が、同級1位のアストン・パリクテ(28=フィリピン)と対戦。井岡にとって、2年2ヶ月ぶりの日本試合となりました。中継を観ていましたが、この日の井岡のそばには、父親の井岡会長も、叔父でかつての世界チャンピオン井岡弘樹も居ませんでした。拠点をアメリカに移し引退をかけて背水の陣で臨んだ井岡、かつてのアイドル的ボクサーの姿は消え、逞しい勝負師の顔つきでした。KO率75%を誇る相手が7ラウンドに攻勢に出てきたときには、正直これはダメだと思いました。しかし、勇敢にも井岡は下がらず迎え打ちました。そして、左右の強いパンチを当て10ラウンドTKO勝ちで締めくくりました。その瞬間、まさに日本人初の世界四階級制覇を成し遂げました。



 一夜明けると、あれっ、今日の朝刊には日本人初が「日本人男子初」となっていました。調べてみると、日本の女子プロボクサーに「藤岡奈穂子」と言う凄い女性がいました。藤岡は、宮城県古川市(現・大崎市)出身。初代OPBF東洋太平洋女子ミニフライ級王者。元WBC女子世界ミニフライ級王者、元WBA女子世界スーパーフライ級王者。元WBO女子世界バンタム級王者。現WBA女子世界フライ級王者。元WBO女子世界ライトフライ級王者。2017年12月1日に、男女を通じて日本人初の世界5階級制覇王者達成。さて今日は堺市立総合医療センターで、幸い「異常なし」の検査結果が出ました。さて次回は、12月の腹部と胸部の「CTスキャン検査」です。今日はとりあえず、気分良く「つつみ」へ出かけることにしました(笑)。
久野 勲
令和 元年 6月19日(水)「災害は覚えてる内にやって来る」

 6月18日に起こった大阪北部地震から、ちょうど1年が経ちました。この地震で大阪府高槻市では、子どもたちが最も守られるべき場所であるはずの小学校でブロック塀が倒壊し、小学生の命が奪われた自然災害は記憶に新しいところです。その後、小学校自体のブロック塀の撤去は急速に進みました。ところが、通学路はどうでしょうか。大阪北部地震では、通学の見守りをされていた方もブロック塀の倒壊で命を落としています。「個人のものだから撤去をお願いしにくい」「助成金があっても、半額しか補助されないなど条件があるので撤去に踏み出せない」等の理由で、個人宅のブロック塀の撤去は、学校ほど進んでいないのが実情のようです。

 そして奇しくも、昨日夜半6月18日22時22分頃、山形県沖を震源とするM6.8(暫定値)の地震が発生し、新潟県村上市で震度6強、山形県鶴岡市で震度6弱を観測しました。この地震により、気象庁は同日22時24分に 山形県、新潟県上中下越、佐渡、石川県能登に津波注意報を発表。新潟で最大波0.1mの高さの津波を観測するなどしましたが、今朝早くに、津波注意報は全て解除されたそうです。やはり、迫りつつある巨大地震に備えて、日頃から可能な限りの準備は必要不可欠のようです。



 ところで振り返れば、2011年12月に胃(2/3)の摘出手術を受けました。と言うことは、今日は術後7.5年になります。そこで今朝、半年ぶりに「堺市立総合医療センター」へ7.5年目の精密検診を受けに行ってきました。今日は、血液検査と内視鏡による検査です。受信した友人の経験談として「鼻からの胃カメラは、とても楽だった」と聞いていました。ヒョッとしたら鼻からかも?と思いながら合成画像を編集してから出かけましたが・・・。

  経鼻内視鏡検査 経口内視鏡検査
挿入経路 経鼻(鼻から)挿入   経口(口から)挿入
内視鏡の外径 5~6mm
5~6mm程度
8~9mm
8~9mm程度
 
内視鏡の画質 通常検査用画質 精密検査用高画質
検査中は 嘔吐反射がない 嘔吐反射がある

 実は前回(半年前)に、今日の検査に関する書類をもらっていました。夕べ、それに目を通していた女房が「明日の内視鏡は、鼻からかも知れないね」とのことでした。そのようなことが書いてあったそうです。まぁどちらでも良いけど、精密検診なので高画質の方が良いかな、そんな思いで出かけました。結局、いつものように口からでした。検査結果は、明日になるとのことでした。明日の結果を聞く時もそうだと思いますが、今日の検査を受ける時も人知れず結構緊張しました。久野 勲
令和 元年 6月18日(火)「数奇な運命をたどった笠戸丸」

 時折りですが、カラオケで「石狩挽歌」という曲を聴くことがあります。なかにし礼作詞で、その昔ニシン漁で賑わった小樽漁港が舞台になっているそうです。その中に「
♪あれからニシンはどこへ行ったやら破れた網は問い刺し網か今じゃ浜辺でオンボロロ~オンボロボロロ~沖を通るは笠戸丸~」と言う歌詞があります。笠戸(かさと)丸とは、確か「ブラジル移民船」です。1908(明治41)年4月28日、神戸港は穏やかな夕暮れだったそうです。ブラジルへの第1回契約移民781名を乗せた「笠戸丸」は、壮行の花火が打ち上げられる中一路ブラジルのサンパウロ州にある港湾都市「サントス」へ向け出港しました。船酔いと暑さを、食事と余興で紛らわしながらの50余日、およそ2万Kmの航跡を印し、6月18日朝「笠戸丸」はサントス港に接岸しました。この日をブラジルでは「日本人移民の日」、日本では「海外移住の日」として記念日になっています。

 その後「笠戸丸」は、昭和5年になると老朽化したため転売され、イワシ工船に改造されています。朝鮮半島沿岸でイワシを獲り、船内で油や肥料を作ってアメリカのオレンジ農園に輸出するも計画は、肝心のイワシがとれないので失敗に終わっています。そして、北海道周辺に活路をもとめ、昭和8年にはカニ工船に改造されて北洋に活躍の場を求めています。漁業工船に改造され、漁業会社を転々とします。「石狩挽歌」に歌われているのは、この頃の「笠戸丸」だそうです。やがて最後は、終戦直前の昭和20年8月9日、ロシアから変わっていたソビエトが太平洋戦争に参戦し、満州国や日本領樺太に侵入を開始しています。貨客船としてカムチャッカ半島西海岸にいた「笠戸丸」は、ソビエト空軍の爆撃で沈没し、日本の近代史とからんだ45年の一生を終えています。この「笠戸丸」の大きさは、約6000トンだったそうです。私が二十歳代に北海道旅行で乗った青函連絡船「八甲田丸」「摩周丸」と同じくらいだったようです。久野 勲
令和 元年 6月17日(月)「今さら、見えすぎちゃっても」
 今朝になって、吹田市の拳銃強奪犯が身柄を確保されたようです。後は重体の、古瀬鈴之佑巡査の一日も早い回復を願うのみです。ところで子どものなりたい職業で、常に上位に入る「お巡りさん(警察官)」は、1874(明治7)年6月17日、日本で初めて巡査制度と共に誕生しました。 同じ年に東京では交番制度も生まれましたが、当時は交番の建物がなく、雨の日や風の日は大変だったといいます。世界に誇る日本の交番制度で、長年「身近なお巡りさん」で地域に根付いてきました。しかし、今や凶悪犯罪の最前線になりつつあるようです。付け焼き刃的な改善ではなく、大きな時代の流れに対応出来るように根本的に制度そのものを見直す時期が来ているのかも知れません。



 ところで、終活の一環として引き出しを整理していると、何やら見覚えのある黒いケースが出てきました。開けてみると何のために置いていたのか、昔使っていた懐かしいデジカメ「OLYMPUS D-460 ZOOM」でした。今使っているのより3倍くらいの大きさです。画素数は125万画素です。私の1号機は50万画素だったのに比べると、これは画期的な解像度でした。ちなみに、今使っている「Canon IXY 150」は、ありふれたデジカメですが1500万画素です。なお、最近のスマホカメラは2000万画素を超えているそうです。

 画素数と言えば、ハイビジョンテレビは、200万画素。これからの8Kテレビは、3300万画素。CMによると、最新のキャノンデジカメで5000万画素まで出ているそうです。それでは人間の網膜は換算値で、およその画素数はいくら位なのか興味のあるところです。一概に比較することは難しいようです。それを踏まえた上で「5億7600万画素」と換算した人がいるようです。人間の目の解像度は、Ameba News によると、人間の眼は視野の特性もあるため「画素数」という単位で表すことは正確ではありませんが、視野全体をデジタルカメラに換算すると約5億7600万画素となるようです。つまり、もし人間の視野いっぱいに広がる5億7600万画素のディスプレイがあれば、それは人間が見ている実体の像と同じ解像度になると言う理論だそうです。ただ、人間が実際にはっきり見ている視界は中心2度程度なので、実際にはっきり見ている範囲は700~800万画素程度になるそうです。しかし、私は白内障にかかっていると言われているので、どのくらいの画素数で見えているのか心許ない限りです(笑)。手術をすれば目からウロコがとれると聞きますが、別段不自由はしていないので今のところは「まぁいイカ」。久野 勲
令和 元年 6月16日(日)「突然朝の静寂(しじま)を破る凶悪犯罪」
 今朝早く、大阪府吹田市千里山霧が丘の吹田警察署千里山交番前の路上で、阪急千里線千里山駅の駅員から「警察官が血を流して倒れている」と110番通報があったとのニュースが飛び込んできました。倒れていたのは吹田署地域課の若い男性巡査で、病院に搬送され、胸などを複数箇所刺されており重傷とのこと。30代ぐらいの男が巡査を刺したとみられ、実弾5発入りの回転式拳銃1丁を奪って逃走しているとのことでした。そして、午後からのウォーキング中に園内放送で高石警察署から、吹田市の拳銃強奪事件を知らせると共に、園内で不審者を見つけ次第警察への通報を繰り返し呼びかけていました。園内は日曜日とあって大勢の家族連れなどで賑わっていましたが、犯人が犯行を重ねないうちに一刻も早い身柄確保を願うのみです。



 ところで、今日は「ケーブルテレビの日」です。郵政省(総務省)とケーブルテレビ(CATV)事業者などが、1991(平成3)年に制定しています。その由来は、1972(昭和47)年「有線テレビジョン放送法」が設立したことを記念しています。この放送法は、全国へのサービス提供や外資規制の緩和など、CATV普及に向けたさまざまな内容が盛り込まれています。ちなみに、我が家は「堺ケーブルテレビ」に加入しています。「堺ケーブルテレビ」は2000(平成12)年1月1日よりJーCOMグループの一員となり「JーCOM堺」になっています。なお加入したキッカケは、近くに高層の建物が建つので電波障害を受ける可能性があるとのことで、無料でケーブルを引いてくれました。以来、JーCOMの「テレビ・電話・インターネット」の三点セットを利用しています。「ZAQ」とは、ケーブルインターネット接続サービスのブランド名です。「ざっくぅ」は、そのイメージキャラクターです。これは、
「ずっと、安心のクオリティ(Zutto、Anshin、Quality:品質)」の頭文字が由来となっています。久野 勲
令和 元年 6月15日(土)「今さら訊けないことだらけ」

 昨日は天気の悪い中付き合っていただき、有り難うございました。あれから娘を呼び出し、渡す物を渡して、私も帰ってきました。後で聞くとあれからが本番だったようで、再度行列があったようです。そこで住吉踊りをしながら歩いたのかな?当日の写真送ります。永田新吾

 
     



 こちらこそ貴重な儀式を観ることができ、有意義な経験になりました。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。久野



 神社と言えば波自加彌(はじかみ)神社は、日本で唯一香辛料の神様をお祀りする神社だそうです。石川県金沢市花園八幡町にあり
一千三百年の歴史を誇る古社です。社名の由来は、歯で噛んで辛いものすなわち、ショウガ・ワサビ・サンショウなどの古語で『薑・椒(はじかみ)』を語源としており、香辛料の神をまつる神社です。若葉の繁る毎年6月15日に行われる「はじかみ大祭」(通称・しょうが祭り)には、清められた生姜湯が参拝者に振る舞われます。ちなみに、日本全国各地には数多くの神社が存在しています。近所にある小さな神社から、国内外から観光客の訪れる有名な神社まで、多種多様な神社が存在しています。

 そもそも神社とは、神の(やしろ)と書くように神様のお家のような扱いをされています。宗教的には神道(しんとう)にあたり、境内に入る前に大きな鳥居があるのが特徴です。神社は何かしらの神様を祀っており、それを信仰する人が足繁く参拝を行っています。神道の方の宗教的な施設にあたりますが、神道を入信していなくとも初詣や七五三、結婚式などで神社を訪れる人は多いようです。日本に住んでいて神社に行ったことがないという人は、ほとんどいないでしょう。それ以外にも家内安全や合格祈願など、人はさまざまな願いを持って神社を訪れます。このように、神社は神様のお家でありなが、人々の心の拠り所にもなっていると考えられます。なお、神道とは、日本に古来から伝わっていた八百万の神様への信仰に、仏教、道教、儒教などが影響して展開した宗教です。日本独特のもので、一つの神様だけを信じる信仰とは異なります。

 ところで「はじかみ生姜」は、焼き魚や煮魚のお膳の上で見ることが多いと思いますが、鮮やかな色でお料理の見た目をよくするだけでなく、食べる人のことを考えた、ちゃんとした役割があるようです。「はじか、魚料理によく添えられています。食べ方は、白っぽくやわらかい部分だけをかじり、固い茎の部分はお皿に残します。「はじかみ生姜」は、お口直しを主な目的とします。例えば、懐石料理の焼き物の膳に「はじかみ生姜」が添えられているのは、その後のお料理の味をより楽しめるようにするためと言われています。「はじかみ生姜」を食べることで、次の料理の前に口の中の魚臭さを取りのぞき、味覚をリセットすることができるそうです。そんな説明を聞いたことが無いし、今さら訊けないので長い間飾り物だと思って口にしませんでした(笑)。久野 勲
令和 元年 6月14日(金)「もうどうにも止まらない大谷」
 今日は住吉大社行きなので、大谷の試合(対レイズ戦)は観られないと思っていました。ところが、ここのところ試合開始が11時でしたが、幸いなことに今朝は8時でした。初っぱなから、1番ラステラがヒット、2番トラウトが四球で、3番大谷です。左腕投手から大谷しては珍しいライナー性の、先制8号3ランホームランです。2打席目は二塁打です。その後、これも珍しいことに突然映像・音声共に消えてしまいました。いきなり停電で球場が真っ暗になったとのこと。この状況が長い時間続き、4回途中なので没収試合になる可能性の出てきたようです。まさか、まぼろしの8号になるかも。しかし、40分近く中断後球場の自家発電を利用して再開されることになりました。その直後、大谷の3打席目は見事な三塁打です。こうなれば、大谷初の「サイクル安打」の可能性が高まってきました。そして4打席目はシングルヒットを放って、大谷初どころか日本人大リーガー初となる「サイクル安打」を達成しました。


一大歴史絵巻
住吉大社御田植祭


 大谷の大活躍に気を良くして、足どりも軽く出かけました。永田君が入場券を用意してくれていたので、良い席で見学することが出来ました。御田植えの前に、武者行列など各種の行列が御田の周りを練り歩きました。その行列の中に、永田君のお孫さんが住吉踊りの衣装で参加していました。そんな行列を観ていてあれっと思ったのは、武者行列の中の甲冑に「一文字三つ星」の家紋が、一際(ひときわ)目立っていたことです。ご覧の「一文字三つ星」と言えば、長州(山口県」毛利家の家紋です。住吉大社と毛利家は、何か関係があるのでしょうか?今日初めて目の当たりにしたことなので興味が尽きず、つまり興味津々で帰り着くなり調べてみました。

 あるサイト「先祖と家族の歴史伝承」によると(難しい話しは端折って)、毛利家のルーツ(祖先)は、天下人となった豊臣秀吉に臣従した毛利輝元は五大老となり、豊臣秀頼の補佐を託され「関ヶ原合戦」では西軍総大将に担がれることになります。「関ヶ原合戦」で敗れた後、輝元の隠居と長門・周防2カ国の減封処分で改易(かいえき:所領や居城・屋敷を没収。その後、幕命で三方を山に囲まれ、日本海に面した僻地・萩へ移り、外様大名長州藩が成立します。そしてルーツをたどれば、難しい曰く因縁故事来歴が存在するようです。要するに、山口県の神社長門国一之宮は下関市に鎮座する住吉神社だそうです。主祭神は住吉三神・応神天皇・武内宿禰命・神功皇后・建御名方命で、大阪と博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の一つに数えられているそうです。

 今日は暑からず寒からず曇り空で風が涼しく、ちょうど絶好の「御田植祭」日和になりました。終わり頃になって一雨来ましたが、態勢に影響は無かったようです。いわゆる1等席で、初めて観る歴史と伝統の格調高い「御田植祭」でした。厳かな儀式の進行を興味深く見学することができ、貴重な経験になりました。小さな頃から米には毎日のように世話になっていながら、田植えを目の当たりにしたことはほとんど無く、思えばはなはだ罰当たりなことでした。そんな思いで見学しました。画像は、住吉踊りの衣装を身につけた可愛い子供達です。久野 勲
令和 元年 6月13日(木)「♪昔の友には~やさしくて~」
 あっ、1週間ぶりについ盛り上がってしまい「つつみ」から帰り着いた今、ほんのちょっとのところで日付が変わってしまいました。実は、夕べ出かける前に「柏木勝子 様 以前のアドレスのままメールも、晩酌も続けていますか?長い間ご無沙汰していまが、お元気そうで何よりです。今回の同窓会の件、釜中から電話をもらいました。「今回で最後になるかも」との殺し文句に、ぜひ参加しなければと思っています。思えば、柏木さんは出席出来なかったようですが、平成22年7月の石津太神社内「長寿荘」での同窓会に出たのが最後になっています。その後、長期入院とかいろいろあって今回9年振りに出席させてもらうことになりました。幹事ご苦労さまです。楽しみにしていますので、よろしくお願いします。久野 勲」。もし届かなくても、来月会えるから良いか、そんな気持で久しぶりにメールを送信しておきました。今帰り着いてメールを確認すると、ラッキーなことに次のような返信が届いていました。

 Me-ru有難うございました。本当にお久しぶりです。晩酌は相変わらず、今晩も地元広島カープの試合を見ながら飲んでいました。同窓会の時にはいつも久野さんにお会いできたのに、いつのころからか同窓会に来られなくなって寂しく思っていました。私は幹事とは名ばかりで、播野さんにご迷惑ばかりかけています。今回は久野さん始め、お久しぶりにお会いできる方たちに来ていただけるそうで楽しみにしています。柏木勝子

 とりあえず今日のところは、気分良く「♪やがて男は~静かに眠るのでしょう~」。


 さて、気分良く一夜が明けました。夕べ返信のあった、広島の柏木さんとの最後になっているメール交信を「かいらんばん」で紐解いて見ました。それは、今から6年前の2013(平成25)年ことでした。 

 お疲れ様で~す。久野さん、お酒は程々に^^。私の主人もお酒が大好きな人でした。お酒を控えていれば、もっと長生きできたかも・・・かくいう私も今、コークハイを飲みながらメールしています(笑)。久野さんのホームページを拝見して、いろいろ懐かしく思い出しました。同時にこのようなホームページを作成できる久野さんを尊敬します。素晴らしいことです(拍手)。

 PCは私の宝物です。中でもユーチューブ、政治、音楽、世界の出来事等々。先日、ヤギを救った子豚にとても感動して涙が出ました。最近自分の子供を(理由はともあれ)自らの手で殺すという残念なニュースが多すぎますね、子供のいじめ問題や若者が事故や事件で命を落とすことは心痛の極みです。自分たちの孫が成人したとき、この世はどうなっているのか心配です(老婆心)まだまだ言いたいことがありますが、次の機会に・・・。ごめんなさいね、またメールします。柏木


 柏木さん、パソコン続けていてよかったですね。僕は今、何人かのメル友たちとよく交信していますが、そのほとんどが昭和小学校の出身者です。肝心の石津は誰もいないので、ちょっぴり寂しい思いをしていました。以前は、石津の何人かの人たちと交信したことがありますが、短い期間だけで今は途絶えています。石津の柏木さんがメル友に返り咲いてくれて、これからが楽しみです。メル友の輪を拡げていけたらいいですね。

 ホームページは趣味で、早くから手がけていました。まだまだ拙いHPですが、ほめていただき、ありがとうございます。秋の夜長をコークハイを飲みながらとは、また趣がありますね。早速「ヤギを救った豚」の動画を観ました。多くの人に観てもらいたいですね。◯◯さんからのメールとともに、明日の「ブログもどき」に掲載しようと思っていますが、いいですか?

 ところで、昔は考えられなかった様な事件が、日常茶飯事の様に起こっています。これらの諸悪の根源は教育にあると思っています。恐ろしいことに、人々はそれに慣れっこになってしまって「またか」ぐらいにしか思わなくなってきているようです。そんなこと、あんなことを織り交ぜながら、徒然なるままに毎日ブログを更新しています。またコークハイでも飲みながら、ゆっくりご覧下さい。ただし、お互いに飲み過ぎない様にほどほどに。昨日、5日から石津の秋祭りが始まっています。外は今、あいにく冷たい雨が降っています。それではまた。久野


 さて、明日は格調高い住吉大社の「御田植祭(おたうえまつり)」の日です。心配されていた天気の方は何とかもちそうです。ブログのネタにでもなればと、誘ってくれた永田君からは、くれぐれも熱中症対策の「帽子と水分」は忘れないようにとのお達しが出ています(笑)。全国的にもよく知られている住吉大社での行事だけに、一見の価値はあると思います。久野 勲

令和 元年 6月12日(水)「近畿の梅雨入りは遅れそう」
 先日のエンゼルスの大谷は、岩手県花巻東高校の3年先輩のマリナーズの菊池雄星との対戦では、大谷の6号本塁打などで菊池を打ち崩しました。そして今日は、絶好調のドジャースの前田健太との直接対戦でした。今日も大谷の7号本塁打などで前田を打ち崩してしまいました。後は、ヤンキースの田中将大とカブスのダルビッシュとの対戦はあるのかな?それにしても、早くも大谷は「日本人投手キラー」との複雑な思いの呼び声も出ているとか。それにしても東北の小さな町出身の二人が日本で大活躍して、さらに大リーグでの第一線で対決して注目されるのは凄いことです。



 ところで1942(昭和17)年6月12日日、ユダヤ人の少女アンネ・フランクが日記を書き始めました。これが、あの有名な「アンネの日記」の始まりです。この日記帳は彼女がアムステルダムの隠れ家に入る少し前、13歳の誕生日に父から贈られたものでした。彼女は、隠れ家の日々の出来事、母や父や姉の話、食料が不足していること、一緒に隠れ家に住んでいた同居人たちのこと、ナチスへの思いなどを自らの感性で書き連ねました。制限も多く、外出もできない暮らしでしたが、当時のユダヤ人たちがどのような暮らしをしてきたかが垣間見える、貴重な資料にもなっています。しかし、この日記は2年と少しで終わってしまいます。隠れ家がゲシュタポ(ユダヤ人を取り締まる機関)に見つかってしまい、フランク一家をはじめ、隠れ家の住人たちは強制収容所に連れて行かれてしまいました。必要最低限の荷物だけといわれ、この日記は隠れ家に残されることとなりました。その後、かくまっていたオランダ人、ミープ・ヒースが散乱していた荷物から日記を回収し、保管。そして唯一生き残った父、オットー・フランクによってこの日記は書籍化されました。当初はごく少数配られたのみでしたが、徐々に評判を呼び、世界中で多く出版されることとなったそうです。久野 勲
令和 元年 6月11日(火)「それそれ、お国事情が鮮明に」
 この歳になると時には、ちょっとしたことが大騒ぎになってしまうことがあります。今日も今日とて朝から姉がやって来て、何やら大きな声で笑いながら女房と話していたようです。やがて話が終わったらしく、姉が帰ると女房が買い物に出かけたようです。それからしばらくして、その姉から電話がかかってきました。忘れ物でもしたのかと思いましたが、帰りがけに近所にいる義姉(兄嫁)の家に寄ってみたとのこと。義姉は最近体調が悪く、短期の入退院を繰り返していて、いつもよく姉や女房が様子を見に行っています。今日は駐車場の扉を開けて入っていくと、留守の時はカーテンが閉まっているはずのガラス戸のカーテンが開いていたそうです。居るのかなと思いながら戸に手をかけると開いたので声をかけたそうです。応答が無く電気も消えていたので、上がり込んでみたが誰も居なかったとのこと。様子がおかしいと思い、家に帰って女房に電話をしてきたそうです。姉は、いろんなケースを想像しながら「何でやろう、どうしたんやろう」を繰り返します。ちょうど買い物から帰った女房と駆けつけました。そして、すぐ近くに住む姪(兄の娘)の勤務中に電話をして、事の真相が分かりました。結局「なんや人騒がせな、それにしても分かって良かったなぁ」と言うことで一件落着しました。



 ところで巷を歩いていても、いわゆる懐古主義に陥っているのかも知れませんが、古き良き時代の光景や風物詩などが次第に見かけなくなっています。と同時に、犬のフンやポイ捨ての吸い殻なども、ほとんど見かけなくなりました。そんな中、今日珍しくポイ捨てられた吸い殻を見かけました。ポイは捨ては、絶滅していなかったようです。しかし、ポイ捨て防止の標識を見たことが無いほど、日本では見かけなくなっているようです。

 ちなみに今ではほとんど見かけませんが、以前は日本でもポイ捨てと同じように立ち小便が横行していた時代がありました。私も子供の頃は「カエルもミミズも、みなごめん」と言いながら飛ばしたものです(笑)。その後、あちこちのやりそうな場所に赤い鳥居を飾ったりしていました。犬には効果が無かったものの、酔っぱらいや子供達には効果があったようです。しかし、そんな生易しいことではダメな国もあるそうです。例えばチェコでは、こんな分かりやすい「1)立ちションをすると。2)監視カメラで撮って。3)YouTubeで公開しますよ」。標識が立てられて効果を上げているそうです。さらにインドでは、こんな生易しいことではダメで政府をあげて「目には目を、放尿には放水を」を合言葉に、次のようなエグい対策が講じられているようです(笑)。黄色の「立ちション撲滅隊のトラック」が、日夜パトロールをしているそうです。そして見つけたら・・・。久野 勲
令和 元年 6月10日(月)「鮮やか過ぎる手の平返し?」
 昨日の堺市長選挙は、投票率40・83%(前回44・31)とかなり低調だったようです。大阪維新の会公認の永藤英機氏(42)が下馬評通り当選しましたが、意外に接戦でした。維新が目の上のたんこぶ視してきた竹山前市長の、いわゆる敵失(背信行為)に助けられたようです。永藤氏は選挙中「堺市での大阪都構想議論は時期尚早で将来的な選択肢の一つ」と述べ、堺市民の不安解消に努めました。そして、地方議員や国会議員らが多数応援入りし、野村氏を僅差でかわしました。

 大阪都構想を全面的に打ち出して、大阪府知事・市長ダブル選挙に勝利した大阪維新の会。永藤堺市長との「大阪都構想」に関する意識のギャップはないのでしょうか。それにしても大阪ダブル選挙まで、あれだけ声高に反対していた天下の公党が脅されたのか、コロッと賛成に回たのには驚きました。参議院選での議席確保のためとしか思えない「堺市民の民意を尊重する」との美辞の名の下に手の平を返す姿勢は、今イチ肯(うなづ)けません。私自身「都構想」に関しては、今イチよく理解できていません。いずれにしても今後の、メリット・デメリットなど「都構想」の必要性についての具体的な議論に注目したいところです。



 「釣りはへらで始まって、へらで終わる」昔からそう言われているようです。私は半世紀ほど前に、釣り堀でのへらぶり釣りに連れて行ってもらったことがあります。その時のエサはうどんにサナギ粉を、まぶせたものでした。初体験でしたが結構釣れて面白かったんですが、終わりに魚籠(びく)に入れたへら鮒を数えに来たオジサンに「エライ怪我してるな」と恐い顔で言われました。一匹だけでしたが合わすタイミングが遅く針を飲み込まれていて、外すときに出血させてしまいました。以来、へら釣りには行かなくなりました。とにかく、海・川・池のどこででも無料のミミズは万能のエサでした。エサと言えば、今ではへら釣り以外は、ルアーが使われています。それで、ミミズやゴカイなど生きエサを触るのが苦手な女性の釣りファン「釣り女子」が大幅に増えたそうです。

 ところで子供のころ、蒸し暑い夏の夜に窓を開けるとジィジィと何かの鳴き声のような音が聞こえました。お婆ちゃんが、よく「あれはメメズが鳴いてるんや」と教えてくれました。ちなみに、メメズとは石津の方言でミミズのことです(笑)。お婆ちゃんは小さい頃に、そう聞いてそう信じていたようです。が、それはミミズでは無く友だちの「オケラ」の鳴き声だったようです。それは、福助足袋のテーマ・ソングで分かりました。
ゆうべみみずの 泣く声きいた
あれはけらだよ おけらだよ
おけらなぜ泣くあんよがさむい
足袋がないから 泣くんだよ
おけらにあげよか 福助足袋を
こはぜが光るよ ちょいとごらん

 なお、童謡「手のひらを太陽に」の中で「♪ミミズだーってオケラだーって~アメンボだーって~みんなみんな生きているんだ友だちなーんだ~」と歌われています。久野 勲
令和 元年 6月 9日(日)「夢とロマン溢れるUMA伝説」
 イギリス・スコットランドのネス湖に巨大な怪獣が棲むという記事が写真とともに新聞に掲載されました。それが、1933(昭和8)年6月9日日です。この怪獣は、ネス湖にちなんでネッシーと名付けられました。今まで大がかりなソナー(魚群探知機)探索が何度も行われ「謎の物体」の水中写真が撮影されています。
ロマンを打ち砕く捏造(ねつぞう)報道
 1933(昭和8)年11月、最も有名なネッシー写真といわれた通称「外科医の写真」が、実は捏造だった、と報道されました。ネッシーがこれだけ有名になったのも、この写真があったからこそでしたので、それが崩れたとなると、やはりネッシーは存在しなかった、という結論になってしまうのでしょう。 捏造だったと告白したクリスチャン・スパーリング氏によれば、首謀者は彼の養父で、社会的信用のある医師のロバート・ケネス・ウイルソン氏に依頼して、写真を発表してもらったとのことです。ロンドンの外科医といわれたウイルソン氏ですが、実際は産婦人科医だったということで、そうしたほうが、写真に対する評価が高まると思ったのでしょう。ちなみに、この写真は「潜水艦の改造ネッシーを作り、水に浮かべて撮って医者に発表させた」と思わぬところで医師の知人・スパーリングさんが告白。亡くなられる寸前のことでした。



 ところで、日本各地にも様々な伝説が語り継がれているようです。その昔、巨大魚伝説ではありませんが、ネス湖のネッシーならぬ北海道・屈斜路湖のクッシーは日本では有名な未確認生物「UMA(ユーマ)」です。ネッシーにあやかって付けられたネーミングもさることながら、鹿児島県指宿市・池田湖のイッシーと並んで日本では数少ない水棲の未確認生物です。

 もともと、戦前から湖面を泳ぐ巨大な怪物が目撃されていたそうです。それが、1978(昭和53)年に集団目撃事件があり、マスコミにも報道されて全国的にメジャーになったそうです。その池田湖の「怪獣イッシー現る!」のニュースが話題になりブームになったことがあります。早速、当時「和会」というグループの旅行でイッシーを訪ねたことがありました。幹事の粋な計らいで、あわよくば鹿児島県指宿市の池田湖に棲むと言われる巨大水棲生物・イッシーをひと目見たいと思いましたが、やはり会えずじまいでした。会えるどころか池田湖畔で我々のバスが軽い交通事故に遭ってしまい、しばしの間足止めをくらうという苦い思い出が残ってしまいました。しかし、こういう話題にはロマンがあって良いですね。元来、男という者は寂しがり屋で、叶わぬまでも夢と希望を追い続ける、いわゆるロマンチストが多いようです。日本ではこの他、昔からUMAとして有名なのは「河童」「ツチノコ」「人魚」「ヒバゴン」などがあります。久野 勲
令和 元年 6月 8日(土)「すべて生物の原点は海だった」
平成22年8月23日、石津太神社境内「長寿莊」
この時、すでにサトちゃんの姿はありません。


 今日は、先日「つつみ」に顔を見せたという同級生の釜中の清ちゃんから電話がありました。石津小(1組)の同窓会の件でした。私にとって、石津小の同窓会と言えば長期入院等諸事が重なって平成22年の夏、股野の幹事で石津太神社境内に建つ「長寿荘」での集いが最後になっています。釜中の話では、同窓会も今回が最後になるのではとのことで打診してくれたようです。日程は来月初旬で、会場が未定のまま二次会はカラオケ居酒屋「和花」に決めてあるとのことでした。ママに訊かれたので久野も参加すると言ってあるとのこと。私にとっては、9年振りの同窓会出席になります。ところで「和花」は、私が紹介して石津小同窓会二次会の定番になっている店です。釜中が昨年久しぶりに「和花」を思い出して電話したところ、ママに私と間違われたとのこと。私が以前「和花」に電話をした時に、釜中の携帯を言っておいたので間違えたようです。そんな関係で去年、釜中が間違われたついでに私が呼び出されて、急きょ駆けつけたことがありました。ちなみに5年前に抗ガン治療中の私が、トラウマの悪夢の中で幹事として浜中九期生「祝・古希同窓会」を実施しました。それは、石津小が当番幹事だったからです。無事にその役目を果たした石津の仲間達との打ち上げをして以来、去年は5年振りとなる「和花」でした。釜中に電話で訊いたところ、当時とは場所が変わっていました。



 海は、地球上の7割もの面積を占めています。その環境や、そこに暮らす生物を守ろうと国連が定めたのが世界海洋デー「6月8日」です。2015(平成27)年には、持続可能な開発目標に目標14「海の豊かさを守ろう」が盛り込まれ、海の環境と海洋資源の確保は、世界が取り組む共通の課題となりました。海と人間との繊細なバランスは今、気候変動や汚染、乱獲、魚の生息環境の悪化など、様々な脅威によって大きく揺らいでいます。日本内外の漁業、海の生態系に詳しい東京海洋大学名誉博士のさかなクンを迎え、国連大学の研究者たちと共に、豊かな海を守るために私たちがここ日本からできることを考えてくれてます。

 そもそも、地球が誕生したのは今から約46億年前のことだそうです。そして、最初の生命が誕生したのは約 38億年前だったそうです。そして、生命誕生の場は海の中でだったそうで、この頃は地上には強い紫外線が降り注ぎ、火山活動は活発で、陸上は生物が生存するには厳しい環境だったたからです。生物の材料となったのはアミノ酸、核酸塩基、糖などの有機物で、これらは原始大気中の二酸化炭素や窒素、水などの無 機物に雷の放電、紫外線などのエネルギーが加えられて作られたようです。このような生物の進化は海の中で起こっていたようです。陸上で生物が生活するには、紫外線が大きな障壁となって いたためです。この問題を解決したのがオ ゾン層です。藻類の活発な光合成により大気中の酸素量が増えていくと、紫外線の作用を受けて酸素からオゾンが生成されました。高度約 20~50Kmの領域でオゾン層が形成され、生物にとって有害な紫外線はそこに吸収されるようになりました。こうして生物が地上でも安全に生活できる環境が長い年月をかけて作られ、現在に至っています。久野 勲

令和 元年 6月 7日(金)「鳥肌もの!見せた大谷の意地」
四球を選び雄叫(おたけ) どうだ! ベットを放り投げ一塁へ 

  昨日の大谷(24)は、4打数5号逆転3ランを含む2安打4打点と言うことは、後の1打点がまた凄かった!それは、2死満塁での四球の打点でした。このとき、大谷は珍しく雄叫びをあげてバットを放り投げました。この場面は2死1・2塁で2番トラウトが申告敬遠され満塁で3番大谷の出番です。試合後のインタビューで、大谷は「塁が埋まっている場面で、前の打者が敬遠されるのは初めてのことだったので新鮮な感じがしました。ある意味、ホームランよりうれしかった」と冷静に答えています。初めて見せた大谷の闘志むき出しの姿に、思わず鳥肌が立ちました。ちなみに同僚とは言え、トラウト(27)は今や全米プロスポーツ史上最高の年俸を誇るスーパースターです。今年のシーズン前に「12年総額479億円」の契約で話題になりました。年俸にすると約40億円です。一方、昨年新人王に輝いた2年目の大谷は、年俸調停の対象になる3年目まで低く抑えられるため、今季の契約を年俸約7200万円で結んでいます。ともに主軸を打っていますが、年俸では約55倍の格差となっています。



 さて、テレビドラマ「必殺・仕事人」では、単なるメンバーの一人として登場、家や職場ではからっきしダメ人間ですが、裏では凄腕の殺し屋という二面性がサラリーマン世代に支持され、前作「仕事人」以降爆発的なブームを呼ぶこととなった「中村主水」。ところで、新聞連載小説『新版大岡政談』の一登場人物でしかなかった、隻眼隻手(せきがんせきしゅ)の異様なな容姿が人気となり、各社による映画化作品もヒットして、大衆文学、時代劇の代表的なヒーローとなった「丹下左膳」。私は子供心に、片手でどうして刀を抜くんやろうと思いながら恐い物見たさで、大河内傳次郎の映画「丹下左膳」を観たことがあります。後によくモノマネされていたように、名セリフ「姓は丹下、名は左膳」も早口で何を言っているのかサッパリ聞き取れませんでした(笑)。

 そんな傳次郎が34歳の時、長期にわたり保存することが難しかった映画のフィルムと違い、永く消えることのない美を求め傅次郎自ら設計し「大河内山荘」の造営を始めたそうです。映画の出演料の大半を使い、亡くなるまで、30年あまりの歳月をかけて地道に作り上げたそうです。京都嵯峨にある広大な日本庭園を持つ国指定文化財「大河内山荘」は、嵯峨野観光の定番になっています。トロッコ嵐山駅下車すぐで、有名な竹林の道のすぐそばという立地条件です。まさに「左膳御殿」と呼ばれるほど立派な建物だそうです。ところで、1933(昭和8)年6月7日に大阪毎日新聞・東京日日新聞で林 不忘(ふぼう)の新作「丹下左膳」の連載が始まったそうです。久野 勲
令和 元年 6月 6日(木)「カエルの歌が聞こえてこない」
 夕べは、久しぶりに福岡の少路さんと出会いました。妹さんに頼んでいるお母さんの介護と、自分の仕事の関係もあり堺での生活が多くなると聞いていました。ここのところ扁桃腺が腫れて熱が出るなどのトラブルで「つつみ」も久しぶりだったそうです。まだ喉が痛むとか言いながら、持ち前の美声を聴かせてくれました。ところで、日曜日に同級生の釜中の清っちゃんが顔を見せたそうです。すぐ近くの割烹「蛸壺」での会合の前に寄ったとのことでした。もう少し早い時間に話してくれていたら、彼に電話を入れるところでした。そして、この日のラストソングは「♪元気でいるか~変わりはないか~遠き昭和の~まぶしい時代~」を歌いました。加齢とともに、いずれ疎遠になっていくのが「この人の世の常」なのです。これも私のレパートリーに入っている、島崎藤村作「惜別の歌」です。

別れといえば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな



  さて国内では、プロ野球のセ・パ交流戦が行われています。一方、海の向こうの日本人大リーガーの活躍ですが、今年の主役は投手陣です。しかし、田中将大・ダルビッシュ有・菊池雄星たちは、今イチ勝ち星が上がっていないようです。そんな中で、前田健太がすでに7勝をあげて、今のところ1人気を吐いています。そして、今年は打者に専念している大谷翔平は今日、4打数5号逆転スリーランを含む2安打4打点とチームの勝利に大きく貢献しました。
 

 ところで、かえるの鳴き声「けろ(6)けろ(6)」の語呂合わせから、今日は「かえるの日」になっているそうです。カエルと言えば、日本の原風景が残っている場所ではともかく、堺界隈では久しく「カエルの歌」が聞こえてくる気配がありません。鳴くと言えば、そろそろスズムシの出番なのでしょうか。ちなみに、梅雨入りを目前にした今の季節には、雨模様にカエルがよく似合います。なお、かれこれ今から20年前になりますが「雨やどり」というタイトルで拙文を書いています。久野 勲
令和 元年 6月 5日(水)「いよいよ夏の対策も本格的に」
 こんばんは。先日、6/2の日曜日に「第一回小猿道場ジャガイモ掘り大会」を開催しました。子供達に土を触って、自分で掘ったジャガイモを持って帰ってもらおうと思いまして、年末から準備してました。ジャガイモの量は予想より少なく小さかったので、子供達の顔程のジャガイモにビックリしてもらうというのは叶わなかったのですが、お天気ももちまして、少しですが自分達で掘ったジャガイモを持って帰ってもらえて楽しんで頂けたと思います。道場の練習以外で、こういった遊びをまたできましたら、と考えています。今回は第一回目の試みでしたが、また第2回、第3回と何か出来ましたら、その時は先生方もお誘いさせていただきます。また、よろしくお願い申し上げます。押忍 小猿



 自然と親しむ機会の少ない子供達には、有意義な体験になったことでしょう。声をかけてもらえれば、我々も老体にムチ打ちながらでも参加できればと思っています(笑)。ところで、小猿からのメール便を開けたところ、次のような添付表示がありました。
 私はこれを見て、3枚の画像を読み込んで編集しました。写真はこれしか無いのかと小猿に訊いてみようと思いながら、何度かこのメールを見ているうちに「あ、そうか。まだ下にあるんや」と、画像の右端に気がつきました。結局7枚ありました。これまで他の人たちから何度も送ってもらいましたが、ひょっとしたら折角送ってもらった写真を、こんな調子で見落としてしまっていたのかも知れません。しかし、受信トレイの空き容量を確保するためにアップ後は速やかに削除していて残念ながら確認できません。以後気をつけたいと思っています。久野




 ところで今日は、よほど紫外線が強かったらしく、歩いていると目がチカチカして遠くの方が見え難くなったりしました。太陽がある限り、紫外線は私たちのもとに1年中降り注いでいます。特に日差しが強まるこれからの季節には、以前は気にも掛けなかったことですが日常的な紫外線対策は欠かせないようです。最近は高齢者だけで無く、子どもたちの目を紫外線から守るために屋外ではサングラスをかけさせている幼稚園もあるそうです。通常、人間の目は角膜や水晶体で紫外線から守られています。しかし、多量の紫外線を浴びると、角膜や水晶体が炎症を起こして(日焼けして)さまざまなトラブルが現れます。目が充血する、チカチカする、まぶしい、異物感がある、涙が出るなどの症状が現れたら要注意。目が日焼けしている証拠だそうです。ちなみに、私もサングラスをかけようと思っています。ただし、色の濃いサングラスをかけると瞳孔が大きく開き(視界が暗くなるため)、裸眼より多くの紫外線を取り込んでしまうので逆効果だそうです。久野 勲
令和 元年 6月 4日(火)「やっぱり早い者勝ちなの?」
 私は特技かのように、若い頃から寝付きが良かったようです。幸か不幸か本人には分かりませんが、横になったと思ったら、すぐにイビキをかいていたそうです。旅行での朝食時には決まってイビキが話題になりましたが、必ず私の名前もあがりました。特に酒を飲んだ日は、一段と激しかったようです。もちろん、本人は知る由もありません。そんな私が、イビキの凄さを目の当たりにしたのは二十歳の中頃でした。それは、同僚たちと北海道のニセコへスキーに行ったときのことでした。上には上があるものです(笑)。リフト乗り場の真ん前のホテルでしたが、寝床に入ってすぐに同室の相棒がイビキをかき始めました。しまった、しまった・・・寝遅れてしまったようです(笑)。それはそれは、けたたましいほどの凄さでした。何度か鳴り止んだときに何とか寝てしまおうとしましたが、無駄な抵抗でした。マンジリとも出来ないまま、白々と夜が明けてしまいました。いつ寝たのか、目が覚めたら誰も居なくなっていました。慌てて着替えてゲレンデに着いたときは、ちょうど昼食時でした。

 そして結婚してからも、イビキのことは女房から遠慮気味に言われていましたが、聞き流していました。しかし、子供が生まれて女房の大変さが分かってからは、家庭内別居に踏み切り二階へ引っ越して現在に至っています(笑)。そして、今から8年前に1ヶ月半入院したときに、女房の勧めで「フリーズライト」という「イビキ留めテープ」を使い始めました。寝る前に小さな絆創膏のようなものを、鼻に貼るだけという簡単なものです。同室者は何も言っていなかったので、一定効果はあったのかなと思っています。

 ちなみに、私は「サンサン会」の宿泊旅行に2回とも参加しています。一昨年の「昼神温泉」の時は、旅館での部屋割りは「イビキ組」と、そうで無い組が半々だったので特に問題は無かったようです。そして昨年の「エクシブ京都八瀬離宮」でも、イビキ留め「フリーズライト」を使いました。朝起きて部屋で談笑しているときに、大仲が「久野よ、お前イビキかいてたな」「え、ほんまいかいな。そういう大仲も人のことは言えんぞ、お前もかいてたで」。そこでタイミング良く、横から吉田のターサンが「まぁまぁ2人とも、横向いて寝るようにしたらイビキかけへんで」とのアドバイスが出ました(笑)。イビキと言えば、旅行の時には必ず自分の布団を押し入れに移して戸を閉めて寝る同級生がいます。意外にイビキで悩んでいる人は多いらしく、イビキ留めグッズがたくさん売り出されています。まぁ、イビキ・寝言・歯ぎしりの有無にかかわらず、少しでも人より早く寝つくことですね(笑)。久野 勲
令和 元年 6月 3日(月)「アルパカさんもクールビズ」
 今、浜寺公園ではプール開きを前にして、その準備に追われています。プールは、南北に細長い地形の公園の北詰めに位置しています。この時期は主に、赤線で示したコースを歩いています。思えば、歴史と伝統を誇る「浜寺水練学校」は、1906(明治39)年に浜寺海水浴場に開設されました。その後、海が埋め立てられ浜寺公園プールが完成した1963(昭和38)年からプールへと会場を移しました。そして、北の端の方でプールが開園されるまでの早朝から活動しているようです。昭和30年代が最盛期だったんでしょうか。カナヅチだった私は、沖の方を漁船に付き添われながら大勢の生徒たちが遠泳しているのを羨望の眼差しで見ていました。なお、2006(平成18)年には、公園正面を入った右側に開設100周年の立派な記念碑が建てられています。



 ところで、アルパカには、基本的に年に一度の毛刈りが必要だそうです。当然ですが毛刈りをしなければ毛は伸び続け夏は暑さに耐えきれず、アルパカの健康に支障を及ぼす恐れがあるそうです。とくに熱中症などになれば、命にかかわる恐れもあるので予防は欠かせません。つまり毛を利用する人間だけでなく、アルパカ自身の健康を守るためにも、年に一度の毛刈りは欠かせないというわけです。各地のアルパカ牧場や動物園では、毛刈りは毎年初夏のころに行われるそうです。これが同じアルパカなのかと、見違えるほどの変身ぶりです。久野 勲
令和 元年 6月 2日(日)「因縁浅からぬ堺と織田信長」
 「天正10年6月2日(新暦1582年6月21日)」この日、 家臣だった明智光秀の謀反で織田信長が本能寺にて最期を迎えました。信長の本廟所となっている京都・阿弥陀寺や最期を迎えた本能寺では、例年「信長公忌」が開催されております。また、6月の第1日曜には信長の居城だった安土城下(現:滋賀県近江八幡市)で「あづち信長まつり」なども開催されております。京都新聞によると、織田信長の命日にあたる6月2日、京都市上京区の阿弥陀寺で法要「信長忌」が営まれた。大勢の歴史ファンらが訪れ、乱世を駆け抜けた風雲児に思いをはせた。1582年に本能寺の変が起こると、織田家とつながりがある阿弥陀寺開山の僧侶清玉(せいぎょく)は、いち早く本能寺に駆け付け、自害した信長や息子の信忠、家臣らの遺骨を持ち帰り、供養した、と寺には伝わる。法要では、僧侶が信長の足跡を振り返りながら読経し、参拝者は次々に焼香した。兵庫県宝塚市から訪れた会社員中西徹朗さん(44)は「比叡山を焼き打ちするなど信長の気性の荒さが自分と似ていて好き。安らかに眠ってくださいと思いながら焼香しました」と話していた。

 織田信長は本能寺で、小姓の森蘭丸らと共に自害したとされます。しかし、結局その遺体は発見されていません。そのことが、日本史におけるミステリーの一つになっています。諸説あるうちの一つに「阿弥陀寺の住職、清玉上人が本能寺へ駆けつけ、信長の遺骸をいち早く発見するとともに、その場で火葬にして遺骨を寺へ持ち帰り供養した」というのがあるそうです。ちなみに通説では、戦国時代の覇王織田信長の小姓であった「森蘭丸」は、寛永14(1637)年に勃発した『島原の乱』の一揆軍の将である「天草四郎時貞」と並ぶ、日本史上の美少年の代表的存在だと言われています。この「森蘭丸」の美少年伝説については、幕末の舘林(たてばやし)藩士・岡谷繁美(おかのや しげざね)が、明治2年に完成させた『名将言行録』に、次のように書かれているそうです。
『三左衛門可成の子、蘭丸と稱す。岩村五萬石に封ぜらる。天正十年六月二日戰死、年十八。天正五年、長康、弟坊丸〈長隆)力丸(長氏)と共に、初めて信長に仕ふ。長康時に年十三、容姿美にして、才知武勇あり、而て廉直阿らず、・・・』これにより「蘭丸」の美童さが後世に語り継がれているようです。画像のようなイメージだったんでしょうか。

 ところで、日本史の教科書で習ったように、堺と織田信長とは因縁浅からぬ歴史的関係があります。ちなみに堺には妙國寺という、由緒あるなかなか立派な寺院があります。今は鉄筋建てですが、畿内を支配した三好氏が寺領を寄進した壮大な敷地を有した日蓮宗の寺院で、樹齢1000年を誇る大蘇鉄は見応えあります。妙國寺は信長の堺の宿所であったので、家康が信長の招きで堺へ行った時の滞在場所でした。滞在中に本能寺の変が起こり、ここから伊賀越えして三河に逃げ帰ることになります。大阪冬の陣の時に、小堀遠州が蘇鉄の枯山水の庭に富士山、大井川の景観を取り入れ駿府の国を再現し、家康が妙國寺に心安らかに滞在できるようにしたと伝わっています。その庭も当時の雰囲気のように造園してあります。


夜泣きのソテツ

 さて時は戦国時代、遠い南の国から運ばれてきたという妙國寺のソテツは当時大変珍しがられ、天下統一を果たした織田信長も羨望の的にしたそうです。そして、その権力をもって安土城へ移植させてしまいました。ところが、そのソテツは毎夜毎夜「堺へ帰ろう」とすすり泣くのです。激怒した信長が家臣に命じてソテツを切らせたところ、切り口より鮮血が流れ、大蛇のごとく悶絶したそうです。さすがの信長も気味悪がり、ソテツを妙國寺に返し届けさせました。痛めつけられたソテツは今にも枯れそうになりましたが、日珖上人(にっこうしょうにん)が読経したところ回復しました。ここから「蘇鉄」という名がついたと言い伝えられています。久野 勲

令和 元年 6月 1日(土)「失われ行く昭和の夏の風物詩」
 いよいよ、恋ならぬ「蚊の季節」です。蚊取り線香は、その昔「蚊遣(やり)火」として、カヤ・スギ・マツなどの蚊遣り木、タチバナ(柑橘類)の皮・麻・ヨモギ・ツバキの落花・オガクズなどを燻(いぶ)していたそうです。カヤ(榧)という樹名は蚊遣りが語源だという説があるそうです。ところで、夏の風物詩の一つとして「蚊遣り豚」があります。以前「なんで豚なんやろうか?」と、素朴な疑問を持って調べてみたことがあります。それによると、江戸時代から存在していたようです。元宿場町、内藤新宿(東京都新宿区)の武家屋敷跡から当時の蚊取り豚が発掘されていました。当時は、枯葉やおがくずなど嵩張(かさば)るものを燻していたため、現在のものよりもだいぶ大きいものでした。また、現在では広くあいている鼻の部分が、ビンの口のように細くなっています。ちょうど徳利を横にしたような形だったようです。

 新聞報道によると、
夏本番を前に、三重県菰野町の萬古(ばんこ)焼の窯元「松尾製陶所」で、蚊取り線香を入れる「蚊やり豚」の生産が最盛期を迎えている。作業場では所狭しと素焼きの蚊やり豚が並ぶ。大小の2種類があり、草花やトンボが絵付けされる。今月中旬までに約2500個を生産する予定だが、かつての半数程度という。松尾徹也社長は「住環境が整備され、家の中で蚊が少なくなってきている」と話す。最近はインテリアやアウトドア用に需要があり、全国の小売店や専門店で販売される

 我々の子供の頃は「マッチ一本火事のもと」と言った時代です。もっぱら殺虫スプレーを使っていました。と言っても、今のような便利なワンタッチのスプレーではなく、ご覧のようなハエ・蚊退治の「噴霧器」でした。こんなさびた品物でもプレミア(付加価値)がついて高値を呼んでいるようです。ちなみに、ここ何年も見かけませんがハエは絶滅してしまったんでしょうか?以前は噴霧器とともに「ハエ取り紙」もよく見かけたものです。魚屋さんの店先には、何本ものハエ取り紙がぶら下げられていました。近所の魚屋さんの店先で、ハエが紙に引っ付くのが面白くて「お客さんの邪魔になるよってに、あっちに行きや」と怒られるまで見入っていたものです。



 ところで、資源の乏しい日本のお家芸である「物作り」において、欠かす事のできないのは「ねじ」です。「ねじ」の重要性を多くの方に知ってもらおうと、日本のねじ製造・販売業者で構成する唯一の全国団体である「ねじ商工連盟」が、1975年に6月1日を「ねじの日」として制定しています。「ねじの日」が、この日に制定された理由は、1949年6月1日に工業標準化法が制定され、JIS(日本工業規格)にねじ製品類が指定されたことに因(ちな)んでのことです。翌年1976年6月1日には「ねじの日」制定の宣言文が発表され「ねじ」の重要性について業界内外への周知を図るとともに、ねじ産業界の社会的地位の向上に努めてきました。毎年「ねじの日」の前後には、これまで商(商社)・工(メーカー)が参加してのパネル討論会や「全日本ファスナーショー」の開催、展示会への出展や、一般・消費者にも呼び掛けて「ねじの標語」を募ったり、記念グッズの制作・販売などを通して、PRに努めてきています。

 ところで「STAP細胞はあります」「200回以上の作製にも成功しました」などの迷セリフで一世を風靡してから5年が過ぎました。小保方晴子研究員は、2014(平成26)年に筆頭著者として投稿した論文がネイチャー誌に掲載され「リケジョ(理系女子)の星」として注目を集めました。しかし、自身の博士論文も含めて論文不正や研究実態の疑義が問題となり、STAP細胞の論文は撤回されました。さらに12月に理化学研究所を退職しています。「○○女」と言えば、鉄道ファン「鉄子」、山好きな「山ガール」、土木系女子「ドボジョ」、歴史好きな「歴女」等など枚挙に暇がありません。そんな中で今、物作り業界にとっては女性ねじ職人「ねじ女子」の台頭に期待が高まっているそうです。久野 勲

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