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在りし日の「大浜海岸・公園」
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江戸時代の堺港
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堺燈台の見える風景 |
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堺大浜公園
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大浜公園・海水浴場 |
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昭和13年・近畿大風水害
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堺水族館 |
明治36年(1903)、第5回内国勧業博覧会が閉幕したあと、堺市は水族館の払い下げを受け、あらためて市営の「堺水族館」としてオープンさせました。堺水族館はその当時としては最高水準の施設内容を誇り、自然観察・生物教育・水産奨励のためのすぐれた文化施設として声価も高く、市内外から多くの来館者を迎えました。
しかし、昭和9年(1934)の室戸台風による高潮におそわれ水族館は大破、さらに修繕中に火事にみまわれ全焼してしまいました。再建は多くの困難を乗り越え、昭和12年に実現し、「東洋一」のキャッチフレーズで、以前をこえる人気を博しました。
第二次大戦後、昭和28年には水族館の大規模な改装を行い、かつてのにぎわいを取り戻しましたが、臨海工業地帯造成により、大浜海岸がなくなると次第に客足は遠のき、昭和36年に水族館は閉鎖されました。
なお、開設時から水族館の守護神として「乙姫さま」の名で市民に親しまれてきた龍神像は、高村光雲とならび近代彫刻史上に名を留める竹内久一(たけのうちひさかず)の作によります。「ワッショイ!2000」にあわせ堺旧港北波止突堤に建てられた「龍女神像」はこれを再現したものです。
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大浜公会堂 |
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大浜潮湯・歌劇場
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大浜潮湯は、明治・大正時代から昭和の戦前にかけて、泉州地区で庶民に絶大な人気を誇った娯楽施設で、大浜公園内にあった観光レジャーセンターです。海水を沸かした温泉が売り物で、冬は体が温まり、夏は汗疹あせもに効くと評判を呼んでいました。訪れる客の多くは「チンチン電車」の愛称で今も親しまれている阪堺線の宿院駅で支線(現在はない)に乗り換え、終点の大浜海岸駅へ。横長の木造二階建てのシャレた洋館が潮湯でした。すぐ裏には海水浴場がありました。開業は大正2年1月。1階は大浴場と喫茶室、2階にはビリヤード場と食堂がありました。その後、大浴場と海水場を結ぶ桟橋や家族風呂、テニスコートなどが次々に増設され、昭和3年7月に少女歌劇の劇場がオープンすると、シーズン中の利用客は1日数万人にも上りました。
この大浜潮湯を経営していたのは、明治43年3月に設立された阪堺電気軌道です。現在は南海電気鉄道の子会社になっていますが、当時は南海と運賃の割引などで、激しい競争を繰り広げたライバル会社でした。沿線に娯楽施設を造る事でレジャー客を呼び込もうという思惑があり、デベロッパーとして沿線開発に力を入れていました。大浜潮湯は昭和19年2月、第二次世界大戦の戦況が悪化する中で営業を停止し、海軍に施設を譲り渡し、その役割を終えました。しかし大浴場に少女歌劇、食堂というレジャー施設のコンセプトは、戦後、日本中に普及していったヘルスセンターの原点でもありました。公園内には市立水族館もあり、一日ゆっくり過ごせるので大変な人気を博し、当時のリゾート地として繁栄しました。潮湯のあった場所は今では、公園内の市民広場となり、当時の面影はどこにもありません。現在ここでは、毎年夏になると泉州の風物詩「堺大魚夜市」が開かれちます。
『潮湯』とは、当時、銭湯を兼ね、娯楽設備を有した施設で、辰野金吾氏が、堺大浜潮湯を1912に手がけています。なお、これは洋館の建物で太平洋戦争時の大阪空襲で焼失しました。当館「南天苑本館」は、この『潮湯』の付属建物とされている「堺大浜潮湯拡張建物」で、辰野氏が手がけた数少い和風建築です。潮湯においては、おもに家族向けに建設され、この潮湯・家族湯は、本館焼失をさかのぼる1934年に室戸台風で倒壊し、その翌年に、ここ天見(河内長野)に移築されたことが、伝承として残っていたのですが、2002年9月、当時、この建物の移築を行った資料が南海電鉄本社から発見され、今までの「伝承」が事実として裏付けられました。
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南天苑本館
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昭和20年代・ダンスフロア |
昭和20年代・大広間 |
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昭和20年代・玄 関 |
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料亭「一力楼」本店 |
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大濱海岸通 |
料亭「一力楼」 |
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当時の宣伝ポスター
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潮湯および歌劇場
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潮湯正面
潮湯より見た海岸 |
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潮湯内・男子海水浴場 |
家族浴室 |
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脱 衣 室 |
男子浴室 |
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大濱少女歌劇団 |
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大濱菊人形館
堺市立図書館だより「ゆづりは」33号に「菊人形と言うと枚方が有名ですが、堺の大浜公園にも、かつては菊人形館が存在していたと言うことをご存じでしょうか?」という話題が出ていました。私は、堺で生まれ育ちましたが恥ずかしながら、未だかつて「大浜菊人形館」は観たことも聞いたこともありませんでした。そこで調べてみると、ご覧のような絵はがきが見つかりました。よく見ると下の方に、右からですが 堺大濱 司馬温公かめ破 菊人形館發行 と書かれています。 |
「堺大濱 司馬温公かめ破」?司馬温公甕破とは、中国・宗時代(日本の平安時代末期)の儒学者であり政治家であった司馬温公が、高価だった甕を割って中に落ちた子どもを救い出したという、命の尊さを説いた逸話「破甕救児(はようきゅうじ)」のようすを再現した、命よりも大切なものはないという教えを説いた菊人形だったようです。 |
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大濱海岸から離発着していた水上飛行機 |
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