明治38(1905)年当時の
「戦役濱寺捕虜収容所全景」
 1904年からの日露戦争時、捕虜となったロシア人たちが日本に移送され、濱寺公園にも2万8千人あまりが収容されていました。日曜日には外出を許されたロシア人捕虜と地元の子供たちが、凧揚げやボール遊びをして楽しんだり、パンの製造方法や西洋式泳法も教えてもらうなどの交流が行われていたとの記録が残されています。2002(平成14)年に、これらを記念して当時の小泉純一郎首相の揮毫(きごう)による碑名文と、ロシア大統領プーチン氏による寄文が刻まれた「記念碑」と「日露友好之像」が園内に建てられました。



明治39(1906)年当時の「濱寺海水浴場」
 当時は海水浴場も閑散としていたようですね。手前の女性の水着は当時ハイカラだったんでしょう。中央の柵のような仕切りは、男子遊泳場と、女子遊泳場を分けていたんでしょうか。手前の方が女子遊泳場のようです。





明治39(1906)年当時の「濱寺海水浴場」
 この写真は、開設されたばかりの濱寺海水浴場だそうです。人影はまばらで、やたらにテントが多いのが目立っています。



明治40年 当時の「浜寺停車場」
 [近代大阪の建築]より、いきなり時代が飛んでますね。1907(明治40)年、当時の写真でしょうか。当時は浜寺停車場でした。停車場前にはタクシーならぬ人力車が停車してます。結構賑わっているのは、当時は浜寺水泳場は高級リゾート地だったからでしょうか。


inserted by FC2 system
inserted by FC2 system